日本の、そして米国の植民地としての沖縄

日比野 真

 沖縄県全体の面積は227159ha、これは日本全国の全面積の約0.6%に過ぎません。そして、日本国内にある米軍専用施設は31420ha、その面積の75%の23519haが、沖縄県にあります。沖縄本島に限れば、本島の面積の19.4%が米軍基地の面積です。嘉手納基地のある嘉手納町に至っては、町の面積の82.8%が、米軍基地によって占められています。

 14世紀頃の琉球は、中国の明国によって王位を認められるという形式上の支配下で、明国をはじめ、朝鮮や東南アジアの国々の交易の一拠点として独自の文化を持ち大いに栄えていた。しかし1609年、薩摩藩に軍事力をもって侵略され実質的な支配下におかれた。とはいえ完全に薩摩藩に支配されていた訳ではなく、清国と琉球との関係も継続しており、また1854年の日米和親条約を幕府とペリーとが締結した直後には、米琉修好条約がペリーと琉球王府との間でも締結されている。1874年、日本政府は琉球の支配を強めるために那覇に設置していた外務省出張所を内務省出張所に改称し、1879年にはいわゆる琉球処分により沖縄県を設置した。日本政府は臣民化・同化政策を推し進め琉球語を弾圧し、戦争中は「沖縄語ヲ以ッテ談話シタル者ハ間諜(スパイのこと)トミナシ処分」され、敗戦後の1946年の段階においてすら琉球語を話した生徒には「方言札」を下げさせる学校もあった。薩摩藩、そして日本政府による経済的搾取もあり、沖縄で生活できなくなった人たちが職を求めて日本本土(特に大阪・東京・福岡など)に渡ることも多かったが、「琉球人お断り(と同時に『朝鮮人・アイヌお断り』でもあった)」という差別も本土ではあった。また、本土だけでなく東南アジア諸国はもちろん、ハワイ、メキシコ、そしてペルーなどにも多くの人が移民を余儀なくされた。その数は日本からの移民の総数の約11%、7万人以上にものぼった。ちなみに移民は敗戦後も続き、アルゼンチン、ペルー、ブラジル、ハワイ、米国本土、ボリビアなどにも現在もその子孫が生活している。1903年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会では「学術人類館」と題した興行があり、朝鮮人、アイヌ、台湾先住民とともに沖縄人が見せ物として展示され、批判を浴びた。
 1945年3月26日、米軍は日本本土攻略の「踏み台」にするために慶良間列島に上陸し、以来80余日に渡って沖縄戦が行われた。日本軍は、本土防衛の準備が完了するまで敵の攻撃を持ちこたえるという「本土防衛の防波堤」として沖縄を利用し(捨て石作戦)、沖縄住民や日本軍に多数の戦死者を出す原因ともなった。沖縄本島に上陸した米軍は、生き残った住民を着の身着のまま難民収容所に集め、住民のいなくなった町や村をブルドーザーで敷きならして嘉手納飛行場などの基地を作り上げていった。収容所から故郷に戻った住民の中には、かつての自分の村が鉄条網に囲まれた基地に囲い込まれた姿を目にした人もいた。1952年にサンフランシスコ平和条約が締結され日本本土は占領から逃れたが、その条約は同時に沖縄を米国の施政権下におくことを認める条約でもあった。日本が独立し、朝鮮戦争を利用して復興をしつつあるまさにその時期にも、占領下の沖縄では米軍による土地の更なる接収が行われていた。それは、ブルドーザーや武装兵を繰り出して住民を強制的に立ち退かせ、銃剣によって土地を取り上げるものであった。
 米軍に占領されていた沖縄では、米兵による交通事故・殺人事件・暴行事件なども多発していた。公式な記録に残っている大きなものだけでも、枚挙にいとまがない。1955年には6歳の子供が米兵の暴行殺害されたが、犯人は本国送還となりうやむやにされた。1959年には小学校に米軍戦闘機が墜落し死者が17人出た。1963年には中学生が青信号で横断歩道を渡っているところへ信号無視で突っ込んできた米兵の大型トラックにひかれて死亡した。加害者は軍法会議で無罪となった。1965年には米軍のトレーラーが民家近くに落下し、小学生が死亡した。1969年には米軍の弾薬庫で致死性の高い毒ガスが漏れた。弾薬庫には、サリン、マスタードガス、VXガスなど1万3243トンが貯蔵されていた。1970年には、コザ市(現沖縄市)で道路横断中の住民が米軍人の運転する乗用車にひかれた。米憲兵が被害者を放置したまま犯人を逃がそうとし、抗議する住民への威嚇発砲も行ったため、つもり募る怒りを爆発させた住民が暴動を起こした(コザ暴動)。
 1960年には「沖縄県祖国復帰協議会」が結成され、復帰運動が広がっていった。1972年になってやっと沖縄返還協定が結ばれ、沖縄は日本に「復帰」した。しかし、文字どおりブルドーザーと銃剣によって強制的に取り上げられた土地はそのまま米軍の基地として固定化された。日本政府(と国会)は新たな法律(公用地暫定使用法)をわざわざ制定して、「合法的な形で」米軍基地を存続させた。1972年の沖縄の「復帰」以降、日本本土では米軍専用施設の約60%が返還されているが、沖縄県の米軍基地はたった15%しか返還されていない。(また返還された基地、例えば返還された読谷飛行場跡地はそのままでは使い道が無く、滑走路として埋め込まれたコンクリートの除去などをしようにもに膨大な費用と年月が必要なため、返還後も現在まで再利用ができず、野ざらしの状態になっている。返還さえすればいいというものではない)
 ベトナム戦争時はその前線基地として機能した沖縄の基地は、その後も米軍の世界戦略に応じて、インド洋から中東にまで作戦範囲を広げている。湾岸戦争時には沖縄駐留の第三海兵師団が出動した。また米軍人・軍属による刑法犯罪は「復帰」から1996年までに公式な記録の上だけでも4823件起きている。1995年9月の米兵による幼児暴行事件はそのような積年の事件の一つであり、党派を超えて8万5000人が参加した「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起集会」が10月21日(国際反戦デー)に開催された。また、墜落などの米軍航空機事故も127件が公式に報告されている。1996年に行われた県民投票では、日米地位協定の見直しと沖縄の米軍基地の整理縮小を求める意志が、県民有権者の過半数、投票数の89.1%によって示された。
 「本県の米軍基地は、米軍統治下の布告命令により地主の同意も得ずに、米軍の銃剣とブルドーザーによって強権的に接収・構築されてきた」「米軍基地は、本県の振興開発の大きな阻害要因になっている」「政府は、日米安保条約の重要性を強調する反面、米軍基地の整理縮小や事件・事故の再発防止に向けた取り組みが弱く、基地の整理縮小は遅々として進展していない」「本県における広大で過密な米軍基地の存在、訓練に伴う航空機騒音や環境破壊、軍人・軍属による犯罪の多発、最近起こった非人道的な児童暴行事件を契機として県民の幅広い抗議の声」などを理由として、1995年9月に太田知事は、米軍基地の強制使用のための代理署名を拒否した。しかし政府は職務執行命令訴訟を起こし、最高裁も「沖縄県知事の署名代行の拒否は、著しく公益が害される」として政府の主張を追認した。その後も、1997年には日本政府(と国会)は、「駐留軍用地特借法」を一部改定して米軍基地のさらなる強制使用を勝手に(しかもあとから)合法化した。
 現在、本土の住民一人当たりの米軍基地面積は約0.7F、沖縄のそれはその280倍の約198F。
(参考資料、というより元ネタ:「沖縄からのメッセージ」沖縄県知事公室広報課・電話 098-866-2020 FAX 098-866-2467 に申し込めば無料で送ってもらえます)

(私的雑感)
 1986年、私が大学受験のために来た京都の宿でテレビを見ていると、卒業式の会場に掲げられた日の丸を自分の手ではずして持ち去りどぶに捨てて、泣いている生徒の映像が流れていた。その時は「どうしてぼくは学校で日の丸・君が代反対のビラを撒くだけで満足してしまい、その生徒のように実際に行動しなかったんだろう?」と自問しつつショックを受けた記憶がある。しかしこの時点では、わたしには「日本による沖縄支配(そして、その象徴としての日の丸)」という視点はなかった。
 基地がある、ということは、人もいる、ということだ(1996年現在、軍人・軍属・家族などで約5万3500人が沖縄にいる)。実際沖縄の街に出てみればいい。実際クラブに躍りに行ってみればいい。米軍の影響は基地だけでなく、人的な交流(や弾圧・事件なども)を通じて文化的社会的な部分にまで影響は及んでいると私は思う。そしてまた、米兵相手の商売の存在や基地の地代で生活している人の存在を考えれば、経済的にも、基地にもある程度依存した経済構造が作り上げられているし、だからこそ単純に単に基地を返還すればいいというものでもない。また、しばらく沖縄に滞在してみれば分かると思うが、現在でも沖縄は言葉も独自のものを持ち、文化も独自のものを持っている異国という側面も持ち、日本本土の文化圏とは現在でも実際かなりちがいもある。薩摩藩、米軍、そして日本政府の支配の中で、様々な文化が持ち込まれ、また主体的に取り入れていく中で、かなり同化は進んではいるが、それでも様々な文化の交流の地としての沖縄の独自の文化というものはあるように、私には感じられた。こういう、生活全般にわたる構造的な支配下にありながらも独自の文化を持っている沖縄のような場所のことを、植民地と呼ぶのがふさわしいということに気付いたのは、私の場合はほんの1年前だった。それまで沖縄のことを気にとめる必要もなかった私のような位置にいる人のことは、帝国主義本国人と呼ぶのがふさわしい。

( 初出 / ゲイフロント関西発行「ぽこあぽこ12号(1999.3.31)」26ページ )


1つ前に戻る