どうして「離婚おめでとう」なのか

日比野 真

 3月1日に、わたしの友人であるもじとゆうきが上京区役所に婚姻届を出して結婚しました。2人はとてもごきげんで、翌日からタイ王国にハネムーンに行ってしまいました。4月になったら京都に帰って来るので、今度はすぐに離婚届を出して離婚し、それだけでなく盛大に離婚式をする予定です。
 2人のこの短い法律上の結婚と予定されている離婚は、実は結構周りの人からの反応を呼んでいます。わざわざ結婚してすぐ離婚することを疑問に思う人、自分もやってみようかという人、ままごとのような結婚に不快感をあらわにする人、悲しむ人、批判をする人、ネタとして面白がろうとする人、おもしろい遊びを考えつくなあと言う人、喜ぶ人?、などなど。しかもそういった反応は、それぞれの人たちの心の底からの想いであることも多く、結婚とそして離婚ということが、やることは単に書類に署名しハンコを押して役所に出すだけなのに、実際には本人たち以外にも多くの人の心に様々な形で響くことなんだということを改めて認識しました。また、実際に2人が婚姻届を書いてみたり書類を取り寄せたりというのを見ていると、いつもは意識していない戸籍というものが実は私たちの生活を結構規定しているということも実感できてきました。
 わたしは基本的には「法律婚なんてナンセンス!結婚なんてアホちゃうか」(**注)と思っており、この話を始めに聞いたときも「好きにすれば。別に結婚しても離婚してもわたしとあなたとの関係は何も変わらないし」と思っていました。結婚式や披露宴は家父長制を支持する政治集会という側面があるにも関わらず、結婚というとそれを無批判に祝わなくてはいけないような雰囲気が周りにあることがわたしは嫌いだったし、無前提に離婚がさも悲しいことや残念なよくないことだという雰囲気があることも、わたしは嫌でした。結婚式ではなく離婚式をしようというこの2人の試みにはわたしはだから共感することができました。そして、この話が広まっていったときのいろんな人の反応を見て、この離婚式は(結婚式が本当はそうであるはずなのと同様に)私たちの人間関係のあり方や社会の仕組みをダイレクトに問い直す機会の一つにできるのではないかと思うようになりました。「個人的なことは政治的なこと」というのはフェミニズムが明らかにした主張の一つで、わたしも賛成です。1人の人間が結婚したり離婚したりすることは単に本人たちの問題だけには留まらず、「私たち」1人1人が誰とどのような関係をつくっていきたいのか、どういう形で1人1人が支え合えるような仕組みを創っていくのか、ということと強く関係しているからこそ、この話がこれだけ関心を集めるのでしょう。
 わたしも「結婚するなら好きな人とがいいなあ」とか「結婚するならセックスもしたいなあ」とかいうあいまいな想いが無い訳ではありません。これって、めちゃくちゃ結婚幻想を信じている人のセリフですよね。結婚というものに実はこだわっている人が、わたし以外にもとてもたくさんいます。また、結婚や家族・戸籍というものを基盤として現存の社会制度がつくられているのも事実です。だからこそ、結婚式や披露宴は人生の節目の一大行事として社会的にも大切にされ、一般的にも周りの人を強引に巻き込む力を持ってしまっているのだと思います。もちろん、今回私たちが行おうとしている離婚式も、そういった人々の意識や社会状況にのっかり、それを利用しているのは間違いありません。もしあなたが今回の離婚式というイベントに何か強引に巻き込まれた感じを持ったとしたら、それはどうしてなのか、考えてみませんか?離婚や離婚式が、単に本人たちだけのことでなくなってしまうのはどうしてなのか。誰のどんな意識が、社会のどんな既存の仕組みが、あなたをして何かを思わせているのかを。
 わたしは、「離婚したの、あっそう、それで?」と言うだけでは済まないこともある社会の中にわたしが生きていることが分かっているからこそ、今回はあえて「離婚、おめでとう!」と言うことにしました。もじもゆうきも、そして私も、いろんな人と結婚や離婚、戸籍や家族制度のことについて、様々な異なる考え方の人とも話をしてもっと考えてみたいと思っています。最終日に行う予定の離婚式までの一週間、戸籍制度についての学習会なども含め、パーティーなどのイベントもたくさんしつつ、様々な角度から結婚と離婚を考え、かつ参加した人が一緒に楽しめる企画を一緒につくっていきたいと思っています。私たちと直接の面識がなくても、もちろん大歓迎ですよ。お待ちしています。


(**注) 
 法律婚やその元となる戸籍については、法律上の異性同士しか法律婚ができないこと、親が法律婚でない子供(婚外子)が差別的取り扱いをされること、ほとんどの場合女性が名字の変更を強いられること、夫が妻に振るう暴力が「家庭内の問題」として黙認されてしまうことがあること、現在の判例では夫婦間では強姦罪が成立しにくいため妻が望まないセックスを強いられやすいこと、法律婚をしたカップルだけがことさら税制上の優遇をうけること、個々人よりも「イエ」を重視する考え方の根拠とされることがあること、出生時の外性器の外観で決められた性別が勝手に記載され本人の性別の自己決定権を侵害していること、などが批判点としてあります。また、戸籍が部落差別を支えていたり、日本国籍を持たない(日本戸籍がない)人を社会的に差別する際の根拠として利用されたりもします。公権力が性別による異なる取り扱いをすることの最終的な根拠となるのも戸籍です。
 ただ現状では、法律婚は必ずしも不当なだけではなく、もともとの制度がつくられた意図とは離れた形で有効に利用できる場合もあります。それは例えば、親などから暴力を受けている未成年者が親の親権の支配から逃れるために行う法律婚です。一般的には20歳以下の未成年者は親権下にあって親の言うことをきかなくてはいけませんが、法律婚をすると成人扱いとなり、未成年者でも親権の支配に服さなくてもよくなります。例えば、暴力を振るわない相手を見つけて法律婚をすれば親元を離れて暮らすことが可能になるのです。そうでないと、例えどこかに未成年者本人が逃げ込もうとしても、親による暴力が対外的にはっきりと立証できない限り、受け入れ先が未成年者略取・誘拐罪になってしまい、親が子供を連れ戻しに来たときに拒否できないのです。
 また、これだけ女性の職が少なく、仕事があっても男性に比べて極めて給料が安いことが多いという社会状況が厳然とあるので、仕事として主婦を選ぶという選択をしている人もたくさんいます。離婚とは何よりもまず生活の困窮を意味することも多いのです。歴史的にも、夫が妻を家事労働で使い捨てたり一方的に利用したりするのを阻止し支払いをさせるために、一方的な離婚ができず相互扶養義務があり遺産相続を権利とする現行の結婚制度がつくられたという側面もあります。その意味で結婚制度について考えることは、社会のあり方全体を問い直すことと不可分一体のものになると思います。
 またゲイリブの中でも、同性婚を認めさせるのか結婚制度を廃止するのかで意見の対立があります(私は後者です)

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リコン・リコン 祝ご離婚