何が問題だったのか?

プロジェクトP 日比野 真

 実は私は、第3回レズビアン・ゲイ・パレードでの最大の問題は、「パブリック(公)の場を創ることや少数意見の取り扱いに不慣れなこと」、「男のジェンダーの問題・ダメ問題」および、「美味しいとこ取りをしようとするレズビアン・ゲイ・コミュニティーの在り方」の3つだと考えています。詳しくは最後のまとめでふれるとして、まず、パレードでおきた一つ一つの出来事について、考えてみます。
 今回これだけの問題が顕在化したのですから、「次」を創ろうとするときの教訓にしないのはあまりにももったいない!

  1. プロジェクトP排除問題
  2. レズビアン・ゲイ・パレード宣言(案)の採択について
  3. 「レズのくせに......」発言について
  4. 実行委員会が警察の不当な要求に安易に従ったこと
  5. パレード後の誹謗中傷について
  6. パブリック(公)の場を創ることと少数意見の取り扱い

1.プロジェクトP排除問題

 プロジェクトPというグループは、95年に京都で発足した性別・性的指向を問わないグループです。94年に「ゲイの11月祭天国!」と題して浅田彰さんと平野広朗さんとの対談を企画したグループが発展してできた団体です。95年11月には、レズビアンとしてカミングアウトした笹野みちるさん他の出演したトークショーも開催しています。96年のレズビゲイプライドマーチin札幌ではバイセクシュアルの顕在化を訴えました。レズビアンやゲイの参加者もいますが、同性愛者の自助グループではありません。ヘテロの人を含め、様々な立場のものたちで共同してセクシュアリティーについて一緒に考え行動していこうというグループです。また、活動の方法論としては、(例えば「同性愛者としての」)アイデンティティーの確立という手段をとりません。どちらかといえば、「○○としての」というカテゴライズされた枠組みに依拠したアイデンティティーを拒否し、1人1人がそれぞれに強く生き抜くことの方を重視していると言えます。
 このようなアプローチの仕方は、「まず同性愛者の友人に出会いたい」という広範なニーズに基づいてできた他の多くの団体や、例えば「同性愛者としての」アイデンティティーの確立を重視するというやり方を選択したリベレーションになじんでいる人にとっては、わかりにくいものであるのかもしれません。そのため、誤解を避けるため、これまでの活動の様子が分かる様々な資料を添えて実行委員会への参加申し込みをプロジェクトPは行いました。
 例えばバイセクシュアルやヘテロセクシュアルといった、レズビアン・ゲイ以外のセクシュアリティーの人の問題をも対等に重視するといったプロジェクトPのやり方は、私にはしごく納得のいくものです。しかし果たしてそれがレズビアン・ゲイ・パレード参加者全体の、レズビアン・ゲイ・コミュニティーの中での共通の認識であるかというと、それは定かではありません。だからこそ「話し始めること」こそが必要だったのです。同じことは、パレードを「社会的訴えを行うためのデモンストレーション」という位置づけにするかどうかということについてもあてはまります。
 パレード前日の実行委員会の会議の場でも、「もし反対意見があるのであれば、自分たちで他のパレードをすればいい」等という意見をいう人がいました。一見もっともに聞こえますが、そしてある場合には正当な主張でしょうが、今回の場合にはあてはまりません。というのも、一度たりともプロジェクトPの主張内容は、公に議論されていないからです。思い出してください。「パレードにおけるレズビアン・ゲイ以外のセクシュアルマイノリティーの位置づけ」や「パレードをお祭りにするか政治的デモンストレーションにするか」などといったプロジェクトPが4月12日付の意見書で問題にした事項について、意見の異なるものどうしで、ちゃんとお互いが自分の主張の根拠を明らかにしながら、公の場で討論したことがあったでしょうか。先の「他のパレードをすればいい」云々という主張は、ちゃんと議論をし、ちゃんと決裂してからはじめて考えられるべき事項です。今回のプロジェクトP排除問題で「他のパレードをすればいい」と主張することは、一方的な討論の拒否でしかありません。これをパレードの私物化といいます!(実際、プロジェクトPが「継続委員会」に送付した資料は実行委員会で回覧さえされていない様子でした。)
 正直な話をすると、私は、ここしばらく数年間は体制内(実行委員会内)少数派として(つまり、プロジェクトPの主張は必ずしも全てがパレードの実行委員会で受け入れられるわけではないが、にもかかわらずプロジェクトPが実行委員会に参加してパレードを創る側に廻るということ。実行委員会の内部においても相異なる意見が存在することを保証することは必要なことだ。)バイセクシュアルの話などをし続けていくしかないなあ、面倒だけどしかたないなあ、などと考えていました。今年の東京のパレードの名称がいきなり「レズビアン・バイセクシュアル・ゲイ・パレード」や「東京変態大行進(Queer Big March in Tokyo)」になることはあり得ないと考えていましたし、またそれを性急に求めていたわけでもありません。人が自分以外の人のことに関心を持ち、気にかけるようになるには時間がかかるものです。(これは、ヘテロ社会が変わるのには時間がかかるということと同じことです)。そして、少しずつ変わっていくためにも、まず話し始めることが必要だったのです。
 従って問題は、例えばプロジェクトPの主張内容が、バイセクシュアルの主張が、実行委員会に受け入れられなかったことではありません。合意に至らないということは残念なことですが、短期的にはそういうことの方が多いものです。問題は、様々な問題がせっかく提起されたにも関わらず、その提起を皆で話し合っていくという形でいかされなかったことです。そもそもプロジェクトPからの問題提起をパレード参加者に全く知らせずに黙殺しようとし、単にプロジェクトPを実行委員会から排除することによって、その提起すらなかったことにしようとすること、討論の拒否によって問題を隠蔽しようとしたことこそが問題なのです。
 また、プロジェクトP排除問題は、先にも少しふれましたが実行委員会内の少数反対派の位置づけ(もしくは、パレードは誰のものか)を巡る問題でもあります。これについては後述します。

2.レズビアン・ゲイ・パレード宣言(案)の採択について

手続きについて
 あなたは宣言(案)に賛成でしたか、反対でしたか?あなたは自分の意見として宣言(案)の内容とその賛否を人に説明できますか?政府や自治体からあなたが宣言(案)の説明を求められたら自分でちゃんと説明できますか?
 現実に今回実行委員会から提起された宣言(案)が、コミュニティーの中で、少なくともパレード参加者の間で真摯に話し合われ、合意されていたとは私には考えられません。パレード当日に異議申し立てが行われて初めて、ちゃんと読んでみたという人の方が多いのではありませんか?従って、仮に現行ルール上ではレズビアン・ゲイ・パレードの規約にのっとった形で宣言(案)が提起されているとしても、そもそも現行の合意形成のルール自体に問題があるのです。だいたい、パレード当日までに宣言(案)を開かれた形で話し合う場が1回もなかったのです。仮に採択されても、そこに何かの合意があるわけではないのです。実際に合意として成立していないものを形だけ繕って「日本の同性愛者(性的少数者)の総意」として宣言すべきではありません。
 また、今回の宣言(案)は、これまで2回の宣言(案)と異なり、実行委員会名ではなくレズビアン・ゲイ・パレード全体の名前で宣言することを、実行委員会は求めていました。さて、パレードに参加したいったいどれだけの人が、事前にこの宣言(案)に関心を示したでしょうか。この宣言(案)に対してちゃんと賛否を表明したでしょうか。
 「私たち」は、あまりにもないがしろにされることに慣れすぎています。自分の意見が求められたり、意見を言ったらそれがちゃんと反映されるということなどは、なかなか想像できません。例えば、生徒会や自治会、町内会や労働組合の人事や予算・方針はいつのまにか決まっていて私たちは会費を払うだけです。まして市町村や国のレベルになれば、税金をとられるだけで意見の言いようがありません。選挙は金づるや利権人脈で当選する人はあらかじめ決まっているようなものだし、どうせ結論は決まっている形だけの審議会・公聴会は開いても、実際に民意を反映する住民投票はなかなか実現しません。そのような日常生活を送る中では、何かを決める、宣言する、といった場合でも、自分が納得いくまでちゃんと相互に討論して物事を決める、決めたことに責任を持つ、といったことは、非常に希です。しかし本来なら、もし宣言(案)に関心がないのならその採択はあなたが阻止すべきです。
 提起している実行委員会はまじめにコミュニティーやパレード参加者の考えをまとめる作業をやるつもりがなく(異論のあるものは単に実行委員会から排除したり「パレード破壊者」というレッテルを貼って無視しようとする)、パレード参加者は宣言(案)に関心がないので何も言わない、そのような中で宣言(案)は採択されようとしていました。だからこそ、一見暴力的に見えた異議申し立ては、まさに必要なものであったと私は考えます。当日パレードに参加した人は、パレード全体として宣言(案)を採択しようと実行委員会が提案したときに、自分の意見を言う権利があります。自分の意見をまともに取り上げず、無視してないものにしようとする相手に対しては、だれでも「その場で」闘う権利があります。
 また、宣言(案)の採択については傍観者として自分の意見は言わずにおいてパレードの晴れ舞台という美味しいところだけに参加しようという人が、異議申し立てを実力で行った人たちを非難する資格はないと私は考えます。
 というのも、政治的な宣言を採択したいという実行委員会の意向は、実はパレードの中での少数意見だったのではないでしょうか。多くのパレード参加者たちは、その少数意見を話題として取り上げることすらせず、つまり賛成も反対もせず、単に無視して済まそうとしてきました。無視されることを危惧した実行委員会は、だからこそ実行委員会名ではなくパレード全体で宣言しようと提案することによって宣言(案)をパレード参加者全員の問題・議題にしようとしました。ところがそれにも関わらず、パレードに関心を寄せ参加しようとしているコミュニティーの大半の人たちは実行委員会の提案に関心を示そうとはしませんでした。誰かが議論して決めてくれるでしょ!面倒なのはいや!そういう当日だけのパレード参加者に囲まれた実行委員会は、ますます人の意見を聞こうという気がなくなる、という悪循環という側面はなかったでしょうか。自分の考えと違う意見や少数意見を「存在しないもの」として扱い、自分の無関心(つまり意識的にやれば無視)という暴力行使によって少数意見を無視しようとしたのは、何も実行委員会だけではないと私は思います。

内容について
 (分量があまりに多いので、別項目にします。)

3.「レズのくせに......」発言について

 結論からいうと、「レズ」という言葉を発することがとにかくいけない事なのだとは私は思っていません。最大の問題は、発言した磯貝さんが抗議した声に一切応えずに逃げようとしたことです。実際に発言によって不愉快な思いをした人がいるのですから、発言者は自分の行動に責任を持ち、謝るにしろ開き直るにしろ、批判にちゃんと応えるべきです。これができないということは、磯貝さんは自分の行動に責任をとらないということになるのですから、実行委員としての資格はないと断言せざるを得ません。
 また、実行委員会メンバーによるパレードの集会の場での発言であることを考えれば、実行委員会こそが自身の問題として積極的に取り組むべきでした。本来ならば、これをきっかけに「レズ」という言葉がどういう響き・ニュアンスで受け取られるのかについて多くの人が発言しパレード参加者が聞くそんな機会を多く設けるなかで、レズビアンや女性のおかれる状況についてのパレード参加者の共通の認識が深まるようにしていくことこそが実行委員会の仕事であったと思います。
 ただ、OLPのニュースレターNO.21に佐藤悟志さんが書いているように、「○○のくせに」というような言い方で人を罵倒すること自体は多くの人にとって日常的な行為です。口に出して言わなくてもそう思うことはあります。その意味で、「レズのくせに」発言に対する批判は、返す刀で自分自身の日常にも戻ってくることは覚悟すべきでしょう。

4.実行委員会が警察の不当な要求に安易に従ったこと

 今回の実行委員会は、実行委員会の意志として「デモ行進参加者の禁止事項」をパレード参加者に繰り返しアナウンスしていました。内容は、デモ行進中の印刷物配布の禁止、Tバック・女性が胸を露出するなどの全裸に近い格好の禁止、デモ行進中のパフォーマンスで後退するのは禁止、など。「違反した者は排除します」とまで言ってかなり強硬な口調でした。
 さて、なぜ「女性が胸を露出させる」ことがいけないのでしょうか。なぜ男性の胸は露出して良くて女性はダメなのでしょうか。性的なものを隠蔽するのではなく、ちゃんとそれらと向かい合う生き方をこそ私はパレードで訴えたいと思います。だからわざわざ「歩くカムアウト」としてのパレードをしかも派手にやろうとするのです。特に女性の身体はこれまで男によって支配されてきた歴史を考えると、「据え膳食わぬは男の恥」という男の不当なわがままが通用しないことを見せつけるためにも、女の人が自分の身体を使って公然と表現しようとすることは擁護されることはあっても禁止されるいわれは全くないと私は考えます。社会的に「猥褻」というレッテルを張られた女性の胸を、女性自身が自分の意志によって人目にさらすことを禁じる行為は、男が女の身体を管理するという文化に基づいた異性愛中心主義を強化することに他なりません。セクシュアリティーをテーマにしたパレードであるからこそ、女性が胸を露出させることを禁じようとする警察の(とどのつまりは女性蔑視で異性愛中心主義の日本社会の)圧力とちゃんと闘うべきだと私は思います。それをしないということは、女性を蔑視し管理する事にレズビアン・ゲイ・パレードが荷担していることになるということは認めるべきです。
 また、人々が街の中で印刷物を配布したり、拡声器で自分の考えをアピールしたり、様々な形でパフォーマンスをして表現することは、いついかなる時でも全ての人(日本国民だけでなく)の基本的権利です。これをパレードの実行委員会が禁止することなどできないことは、あまりにも自明でしょう。警察はしばしば様々な口実をつけて人々の表現を規制しようとするけれど、これと闘おうとせずにその手先となってしまうのはあまりにも情けない。
 現実には今回の実行委員会には違反した人を排除する力量はなく、多くの人が印刷物を配り、胸を露出し、Tバックを履き、自由にパフォーマンスを行ったようです。実はやりたい放題でした。いついかなる時も、不当な規制には従わずに無視するのが一番!決めるのはあなたよ。
(警察の不当な規制が厳しく、デモの許可条件としてこれらの条項が掲げられることが実はある。毎回裁判をして許可条件の不当性を争っていては裁判だけで10年くらいかかり「今年の」パレードができなくなってしまうので、警察と折衝する係である実行委員会が形式・文書の上でこれらの規制に同意せざるを得ないことがある。こういう場合こそ、パレード参加者は「実行委員会の禁止にも関わらず」勝手に規制を無視することが求められる。実行委員会は警察との関係上「○○禁止」とアナウンスせざるを得ないが、参加者がそれに従わないことは実行委員会の責任ではなく、そのことで実行委員会が責任を問われることはない。法的には、直接の実行行為者のみが責任を問われるのが大原則です。まずあなたが不当な規制を自身の責任で確信を持って無視するところから、自由への一歩が始まるのよ。)

 

5.パレード後の誹謗中傷について

 アドンやLGNのホームページに掲載された南定四郎さんと磯貝宏さんの文章は、悲しくなるくらい本当にひどいものです。彼らはこれまでもずっとこのやり方でやってきたのでしょうか。確かにレズビアン・ゲイのコミュニティーには毎年新しい人が参加してきますから、ウソを百回ついて開き直ってしまえば、何とかなるのかもしれません。しかし、今回はそういう歴史の隠蔽を私(たち)は許しません。だからこそこの資料集をつくったのです。
 ひるがえって、これは典型的な「男のダメ問題」であると私は確信をするに至りました。自分が常に正しくないと不安になること、たった一つでも間違いを指摘されると、謝るのではなく逆に過剰に反応して無茶を押し通そうとすること。私は間違っていない!
 彼らのことを悪く言うなら、自分の関心事以外は無視し欲しいままに権力をふるう専制君主ですが、それよりも私は、彼らのダメさ加減にかわいそうになりました。おそらく彼らはずっと闘い続けてきたのです。少ないパイを分け合うのではなく奪い合い、小さなミスでもしようものならそれを口実に「除名」「排除」されるような場所、つまり「男社会」に彼らは居続けたのではないでしょうか。そう、これこそが「男のジェンダー問題」だと私は思います。強く正しくあることが要請され、お互いが競い合うことになっている社会、これが男にあてがわれたジェンダーです。そういう男達は、他者とまともにコミュニケーションできません。奴は敵なのか味方なのか?奴は役にたつかたたないか?そう考えて生き延びて行くしかなかった男達は、「あっ、ごめん。ちょっと間違っちゃったみたい。」と言えません。間違いを認めることは政治生命を失うことになるのです。そしてこれは、一種の病気であると思います。しかし、あなたは間違える権利があるのです。人間とはそういうものです。(ただやっかいなのは、ダメ男は周りに実害を及ぼす加害者になることが多いということです。そのため彼はますます周りから孤立してしまい、ダメさが加速します)
 例えば日本のフェミニズムの先駆者である上野千鶴子さんだってこれまでにいくつも間違った主張をし批判され、そして自己批判してきました。そのように誠実に他者とコミュニケーションしていく積み重ねによってこそ、人は信頼を獲得していくのではないでしょうか。
 性的指向だけを問題にしていると、このようなジェンダーの視点が全く欠落してしまいます。

6.パブリック(公)の場を創ることと少数意見の取り扱い

 公の、つまり大衆的な表現を創り出すことは、大変なことです。自分の仲良しグループで何かをすることとは決定的な違いがあります。自分の日常の人間関係の中で何かをやるのではないのです。しかしパレードを、仲良しグループのノリで乗り切ろうとしたのが「継続委員会」であり磯貝実行委員であったと思います。
 一体何が違うのでしょうか。
 公の場、大衆的に開かれた場というのは、利害関係の異なる、自分の文脈には決してのらない人がいる場のことです。「皆が同じ」ということはほとんどありません。内部に不一致があることは前提になります。ということはつまり、自分のやりたいことや前提にしていることを、一つ一つ言葉にして他者に説明することが求められるということです。「そんなのあたりまえ」は、通用しません。公の場をつくろうというのであれば、そういう厳しいコミュニケーションに参加する覚悟は必要です。自分の関心事にだけ関わればいいのではなくなります。相手のいっていることを聞き、ちゃんと反応を返さなくてはなりません。討論の拒否は許されないのです。また、一番基本的な事項、パレードの名称や位置づけ等こそは開かれた場で話し合われる必要があります。一部の「選ばれた」人たちだけで決めることは許されません。(だから、面倒だから、そういう公の場をつくろうとはみんななかなかしないのです。)
 そしてまた、実行委員会やパレードの中に相反する意見があることを認め、そのことをあなたが保証しなくてはいけません。現実には多数派の意見によってパレードは運営されることになりますが、その多数派の意見に賛同していない人もパレードに当事者として参加する権利があります。そしてその反対派の人にも十分な発言の機会が与えられ、パレード参加者1人1人が自分でどっちが正しいかを考えるきっかけを与えられるべきです。そう、来年はまた方針が変わるかもしれないのです。
 対外的には「一丸となっている」というふりをすべきではありません。むしろ逆に、「私たち」の中にある不一致を認めるべきです。「みんな一緒でなくてもいいんだ」「少数派も尊重されるんだ」という現実をこそ作り上げるべきでしょう。「不一致があること、皆に公然と異論を出すこと」に対する恐れから解放された「私たち」の姿をこそ、対外的に見せつけていきたいと私は思います。
 それはとても大変なことです。しかしそういった丁寧なコミュニケーションの作風をつくっていくことこそが、自分たちのあり方をなんら問い返すことなくマイノリティーの主張を門前払いのような形で無視し黙殺してきた強制異性愛社会に対して本当に異議を申し立てることになるし、今の社会のあり方とは違ったあり方を具体的に提示していくことになるのだと考えます。
 無理せず、がんばろう!

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