ぽこあぽこ12号 掲載テキスト集 |
今の社会において性について「常識」「当たり前」とされ、何の説明も言葉も必要とせず、当然の前提とされて人々に強いられてきた思い込みの一つに「異性を好きになって当たり前」というのがあります。その事実に対して異議を申し立て、その思い込みの誤りを明らかにしてきたのがゲイやレズビアンの運動であり、表現でした。その際に「同性愛/異性愛」「性的指向」「ホモフォビア」といった言葉が創り出され、使われました。「今の社会はホモフォビアに満ちており、同性を好きになるか異性を好きになるかは単に性的指向が違うだけだ」ということを明らかにしたのが、レズビアン・ゲイの運動です。
しかし、ここで話をストップできるのは、一部の人たちでしかありませんでした。「常識」「当たり前」とされ、何の説明も言葉も必要とせず、当然の前提とされて人々に強いられてきた思い込みは、まだまだ他にもたくさんあったのです。
「男が好きなの?女が好きなの?」または「同性が好きなの?異性が好きなの?」という、一見なんでもないようなよくある問いには、実はいくつもの「当たり前」が隠されています。まず、「人を好きになるときには相手の性別が一番の基準になるのが当たり前だ」という思い込みです。この思い込みは、レズビアン、ゲイ、ヘテロを問わずよく見られます。しかし、相手の性別にはこだわらないというバイセクシュアルの存在や表現は、この思い込みが誤りであることをはっきりと示しています。例えばですが、「イケル」「欲情する」「好きになる」「一緒にいたい」という可能性が高いグループとそうでないグループに人類を(とりあえず人類に限定します)2つに分けようとしたときに、「男/女」というところに線が引かれる人もいることでしょう。しかし全ての人がそうというわけではありません。「背が高い/低い」「太っている/やせている」「若い/年をとっている」「ペニスがついている/ついていない」「日比野
真である/日比野 真でない」など、人類を2つに分けるわけ方は無数にあります。そして、そのわけ方はどれも等価なはずです。「同性間の関係が抑圧されている」ということが問題なのではなく、「ことさら相手の性別が問題にされている」ということが、問題なのです。そしてさらにいうなら、ことさら性別にこだわる人たちの多くは、「人の性別は男と女のどちらかだ」という思い込みも持っていることが多い。それは実に広範にゲイ、レズビアン、ヘテロを問わず信じられていますが、インターセックスや一部のトランスジェンダー、そして性自認に揺れがあるバイセクシュアルなどの存在は、この「常識」の誤りを明らかにしています。この上さらに言うなら、「体の性別と心の性別と、服装の性別と、仕草の性別は全て同じであるのが当たり前」というものもあります。これらはトランスジェンダーや異性装者(トランスヴェスタイト)、「完全な」手術を望まないかもしくはまだ形成途上のトランスセクシュアルなどの存在によって、その誤りが明らかにされています。考えてみて下さい、「ぼくは男が好きなんだ」と言ったときに、オッパイがあってスカートを日常的にはいている男の人のことをあらかじめ想定していますか?想定していないということは、体・心・服装など様々なレベルでの様々な「性別たち(sexes,genders)」がすべて一致していることを前提にしているはずです。もう、ここまで考えた場合には「男が好きか女が好きか」という問題化の仕方で性別指向を考えること自体の限界がはっきりしてきます。
この3つ、(1)人は男か女のどちらかで、(2)体・心・服装など様々なレベルでの様々な「性別たち(sexes,genders)」がすべて一致し、(3)かつ性別には他のことよりも重要な意味がある、という思い込みのことを合わせて、「性別二元論」と言えると思います。
レズビアン・ゲイの運動は、場合によっては、「相手の性別が男か女か」にこそ徹底的にこだわることを、わざわざ言うまでもない前提として振る舞って押しつける運動になり、性指向の領域において性別二元論をわざわざ強化する運動になってしまう危険性がとても大きくあります。例えば、「性的指向」という言葉は一部のゲイリブの影響を受けてしばしば不適切な意味で理解されています。例えばアカーの定義のように「人の性的意識(性欲、恋愛感情など)が同性に向かうのか、異性に向かうのか(あるいはその両方に向かうのか)」という意味で性指向を考えることは「相手の性別こそが基準の中心であるのが当然」「性別は2つしかない」という誤った思い込みを前提にしているいい例です。元となった「sexual
orientation」という言葉が元々どういう意味であったかということには関わらず、日本で日本語として使われる言葉である「性的指向」(または「性指向」)は、より適切な意味で使われるべきです。私は、性指向を「性的な興味の方向性。人によってそれは特定の性別だったり、特定のしぐさだったり特定の体格だったり特定のものだったり特定のシチュエーションだったり様々である。性別以外の要因がより重要である人もいるので、男女のどちらの性別に関心が向かうか、というわけでは必ずしもない」と定義することにしています。先のアカーの定義による言葉は「性別二元論に基づいた場合の性別指向」とでも言うべきものです。
性指向の定義の話は決して単なる言葉の話に留まりません。レズビアン・ゲイの集まりにいったバイセクシュアルが、「あなたは男が好きなの?女が好きなの?」「どっちの性別が好きかがはっきりしないなんて自分がホモフォビアを克服できていないんじゃないの?」などとよけいなことを言われて攻撃され、居づらくさせられてしまう理由の一つでもあるのです。
このように、バイセクシュアルについて徹底的に考えることは、性別に対する過剰な意味の付与や、いかに私たちが性別にこだわっているのか、しかも男女の性別二元論に安易にのっかっているのかということに気付き、考え直すいいきっかけになると言えます。
「男」「女」以外の人なんてほんの少ししかいない例外的な人たちなんだから、その人たちが名乗り出たとき以外は、とりあえずは性別二元論にのっかってもいいんじゃない、という考え方もあります。ほとんどの「フツーの」人は異性愛者なんだから本人が名乗り出ない限り異性愛前提でいいじゃん、というノンケの言いぐさが不当なわがままに見えるかどうかということと、問題は同じことです。自分のことばかり言っては、人に相手にされません。
「バイセクシュアルは、淫乱な人だ」とよくいわれます。でもこれって、ゲイのことがよく社会に理解されていなかった時代に「ホモは淫乱!」と言われていたことと似ていません?
実際には「バイセクシュアルである」ということは、単に、特定の性別の人だけを好きになるわけではない、というだけのことです。実際に複数の、場合によっては外見上男に見える人とも女に見える人とも一時期に両方と、関係を持っている人ももちろんいますし、複数の「同性の」恋人をもつバイセクシュアルもいるし、シングルで生きていくバイセクシュアルもいます。いろんなスタイルがあるというこの辺のことは、別にバイセクシュアルだろうがヘテロだろうがレズビアン・ゲイだろうが大差ありません。だから、問題なのは、「よく分からないもの」「何となく否定的に思えるもの」に対して「淫乱!」というレッテルを貼ることが罵倒したことになってしまう社会の方です。そうです、いま私たちが生きる社会は「淫乱はよくないことだ」と思い込んでいます。それだけのことなのです。
ゲイが市民権を得てしまい、「たくさんの人とセックスをするのはよくないこと」という前提の元で「淫乱でないこと」を押しつけてくる今の社会・文化の在り方に対する異議申し立てという側面が「ゲイ」からは残念なことに失われつつあります(「ゲイだって普通の人だ」という言い方をするゲイリブの影響もあるでしょう)。そんな状況に私は生きているのですから、実際には淫乱ではないバイセクシュアルの人なんていっぱいいるのですが、「バイセクシュアルは淫乱じゃないよ」と言うくらいなら「淫乱で何が悪い」ということをこそ、私は強調していきたいと思っています。
淫乱を、どうしようもない欲求の発露としての淫乱ではなく自分の意志で選択して行動するという意味での淫乱を、肯定的に考えることは、実は大切なことです。セックスワーカーが「淫売」という言葉で貶められたことになる状況がつくられるのも、「恋人でもない、多くの人とセックスすることはよくないことだ」という思い込みによる部分が大きいでしょう。淫乱であることが否定的に感じられる、ということと、セックスをよくないことだと考えている、ということとの間には、関係があるような気がします。自分が性的な欲望を持っているということは恥すべきことで隠すべきことだ、ということになってしまっていて、セックスの話は日常的に喫茶店やファミリーレストランで話すことではないことになってしまっています。また、人前では本人たちが合意していても性的なコミュニケーションをするべきではないということにもなってしまいます。セックスのことはことさら口に出して話し合い、また色々試してみることではなく、ある既存のルールに従って、または押さえられない自然の摂理に従って、当たり前に自然に「そうなるもの」であるからこそ、自分の欲望そのものは決して問われないし、相手と協議しながらするものではないことにされてしまうのです。その結果として、「既存のルール」の外にある同性同士の関係は非難されるし、セックス行為を対価を伴って合意の上でやりとりすることが禁じられ、その一方で、相手の意に反した性的な暴力が「押さえられない自然な欲求」「やむを得ないこと」にされてしまいます。
淫乱の自由、つまり、セックスの自由、セックスの自己決定権の確立が必要です。セックスを、するのかしないのか、どういう条件でするのかしないのか(誰と、どういう性別の人と、何人の人と、いつ、どこで、いくら受け取って、いくら支払って、どんなやり方で)ということは、一人一人が自分の意志によって決定し、選択し、かつその責任を負うべきことなのです。社会が、道徳が、自然が、本能が、そして本人以外が、「あるべきセックス」を決めたり押しつけたりすることこそが問題なのであり、だからこそ、淫乱万歳!と言うことは、とても大切なことだと思います。
バイセクシュアルが当たり前のようにいるということは、異性同士の関係に見える在り方もが、当然のようにそこにあるということになります。そしてこれは、「異性同士が付き合って当たり前」という強制異性愛社会の中で疲れはてて逃げ場所やシェルターとしての役割と機能をコミュニティーに求めてきたレズビアン・ゲイには、大変厳しい光景に見える可能性があります。そしてこのことこそが、レズビアン・ゲイの一部がバイセクシュアルのことをよく思わなかったり無視したりする大きな原因なのではないかと思います。 レズビアンやゲイの中には、異性を好きになって当然!という社会の強烈な刷り込みのせいで、何とかして自分をそのように作り替えようとして無理に異性と付き合ってみる人も実はたくさんいます。付き合うだけではなく、以前では、(偽装)結婚をして(させられて)しまうことも希ではありませんでした。そういう状態の人たちのなかには、「自分は結婚のできないホモやレズとは違ってまだましな、正常に近い存在なんだ」ということを言うために自分のことを「私は同性愛者ではない。バイセクシュアルである」と名乗る人もいたであろうことは、想像に難くありません。現在では一見平気そうにレズビアンやゲイを名乗っている人の中にも、始めのうちは自分のことを「レズビアン」「ゲイ」などと名乗ることができず、便宜的に「バイセクシュアル」を名乗っていたという話も聞きます。「バイセクシュアルって、本当は同性の方が好きなのに、勇気やプライドがなくてレズビアン・ゲイと名乗れない人たち」「バイセクシュアルは結局最後は異性と結婚してしまう」「バイセクシュアルとは同性愛者を名乗ることができるようになるための過程」というイメージができあがったのはそういう理由ではないでしょうか。レズビアン・ゲイの一部には、このようなバイセクシュアルに対する否定的イメージを絶対化・一般化し、「同性愛者ではないが同性にも好きな人がいる」というなバイセクシュアルに実際に出会っても、「性別が関係ないとかごちゃごちゃ言って自分が同性愛者であることを認めたくないだけに違いない」という過去の自分の実感を根拠にした決めつけで、それを認めることができない場合もあります。同性同士の関係に対してはたらく抑圧が存在しないのであれば、そもそもこんな誤解や思い込みも存在しないということを考えれば、この種のバイフォビア(バイセクシュアル嫌悪)の第一の原因を強制異性愛社会に求めることもできます。
しかしながら、だからといってそういったバイ嫌悪をやむを得ないとしていいわけではありません。
一部のレズビアン・ゲイの中には、「同性を好きになる」という自分の在り方に自信を持ちたいがために性別や性別指向にのみ関心を集中させ常に優先したがり、性指向に男女の性別が関係ないかまたはその優先順位が低い人の存在と主張をかえりみない(それどころか時には弾圧する)ことがあるのではないでしょうか。特に性指向に男女の性別が関係ないかまたはその優先順位が低い人の場合、レズビアン・ゲイ・同性愛者・バイセクシュアル、などといった分かり易い(ということはつまり嘘の多い)アイデンティティーを引き受けること自体を拒否し、「バイセクシュアルではない」と言ったり、「若専」とか「贅肉愛者」などという趣味としてのカムアウトしか意図的にしないこともあります。そして又こういうあり方こそが、性別指向にこだわりすべてを性別指向で語ろうという人を刺激するようです。しかし「相手の性別こそが重要」という人は世の中の全体ではなく、たしかに多数派ではあるがしかし一部分でしかありません。同性を指向する人の存在に対し無関心な異性愛者も、性別が性指向に関係ないかあまり重要ではない人の存在に無関心で敬意を払わない同性愛者も、他者の存在に関心を示すことが難しいという点では一緒です。
特にレズビアン・ゲイの場合は、自分たちがある局面ではマイノリティーなのでいつまでもその「被害者」としての位置に安住することもできないわけではありません。しかし、世の中にある問題はホモフォビアだけではないのです。もしもゲイやレズビアンが自分たちが被った不利益を不当であると考えるのであれば、例えば性別二元論といった、自分がマジョリティーの側にたたされることになる問題に対して、どういう態度をとるかが試されていると言えます。これは、例えばホモフォビアとどう向き合うのかを突きつけられた異性愛者がおかれる状況と全く同じなのです。
バイセクシュアルの集まりは、基本的には性別を問わない、性自認も性指向も問わない、ミックスの場になると思います。外見が男に見えようと女に見えようと、同性間の関係に見えようと、異性間の関係に見えようとも、そんなことがことさら問題にされない場をこそ求めることになるからです。参加資格は「バイセクシュアルのみ」ということにはならず、「誰でも歓迎」となるでしょう。だって、カップリングやトリプリング、セックスのためのハントの可能性は、相手の(見かけの、または自認する)性別には依存しない場合が多いからです。この辺は、性別フェチのゲイやレズビアンやヘテロとは根本的に違うところです。はたからはゲイの関係に見えようと、レズビアンの関係に見えようと、そしてヘテロの関係に見えようと、そんなことはどうでもいいのですから。基準は人それぞれなんですもの。フェチや趣味の百花騒乱!
で、特にゲイのコミュニティーにおけるバイセクシュアル嫌悪は、性指向を問わずに多くの男性が抱えている女性蔑視(ミソジニー)の反映であることがあります。「女なんかうっとうしい」というマッチョなゲイのわがままは、常にミックスの場を創ろうとするバイセクシュアルや、オネエのゲイなどに対するコミュニティー内の抑圧を創り出すことがあるのではないでしょうか。「女嫌いのゲイは一番怖い」と言った人がいましたが、的を得ています。ある意味では、男性同性愛者の理想郷には女性は必要ない、とも言えるからです。そういうコミュニティーの中では「女嫌い」であることは何ら問題にされません。実際に嫌いだったりする訳ですから、「女の人」と直接コミュニケーションすることを避けることが何となくできてしまう危険性が、ゲイのコミュニティーにはあります。そしてもちろん、今の社会の中で女性とみなされ女性として扱われる人がどういう目にあっているかなんてことには全く関心を持たないでも済むわけです。女の人にも関心を持っている人の場合は、好きになった女(とされている)人からの突きつけをきっかけとして社会の中の女性蔑視に気がつく可能性があるのですが、ゲイ男性には残念なことにそのきっかけが一つ少ないのです。
そして、この構図の裏返しとして、「男の影を引きずる」バイセクシュアル女性に対するレズビアンのコミュニティーにおける抑圧もまた、あります。社会の中の女性蔑視は半端ではありませんので、その怨念として「男嫌い」の感情を持つことには実はその人なりの理由があったりする場合が多いので、なかなか大変な話なのですが、ここでは詳細には踏み込みません。
ジェンダーミックスになるということは、つまりそこの内部では性役割の非対称性に目をつぶることができなくなる(可能性が高い)ということです。バイセクシュアル中心の集まりでは、「女嫌い」や「男嫌い」の気持ちを持つ人の方が居づらくなるでしょうし、だからこそお互い異なるジェンダーロールを持つもの同士での間でのコミュニケーションの在り方が問われることになるでしょう。というより正確には、バイセクシュアルをキーワードにして集まるんだから、せっかくなんだからちゃんとジェンダーの非対称性や「男嫌い」「女嫌い」の問題、異なるジェンダーロールを持つもの同士での間での
コミュニケーションの在り方などを巡っても、丁寧に話し合って考えていきたいなあと私は考えています。
そう、敵は何も強制異性愛だけではないのよ。
「バイセクシュアル」という言葉は、当事者が自分を表すためにつくった言葉ではありません。それは、性別二元論を前提にして生活している大多数の人たちの都合にあわせて、その人たちの理解しやすい言葉に翻訳して、その人たちの基準で無理矢理つくられた言葉です。従って、「バイセクシュアル」という言葉は、少なくとも私が、自己のアイデンティティーとして使うには、非常に収まりの悪い言葉です。
世界を、人類を、私たちは様々な基準で分類することが可能です。身長で分類する、鼻の高さで分類する、取っている新聞、朝食に納豆を食べるか否か、持っているストーブのメーカー、名字が日比野かどうか、その他様々な基準があります。その基準にのっとって「183cm」「23mm」「朝日新聞」「卵をかけて食べる」「日立製作所」「日比野である」などと人を分類することは可能です。人との関係は一種のレッテルの張り合いでしかありませんので、これらのいずれもが、真実であるのは確かです。しかし、いったい「朝食に納豆を卵をかけて食べる」「日立製作所のストーブを持っている」ということが私を表すために意味があることなんでしょうか?ここで私がいいたいことは、ある基準からみてそれが真実であるということと、私が「朝食に納豆を卵をかけて食べる人間」というアイデンティティーを持っている(もしくは「持つべき」)ということとはまったく別のことだということです。「性的な関心が向く相手の性別」に対して関心を持っている人がたくさんいることは分かっていますが、私がその基準に対して関心があるとは限らないのです。したがって、仮にあなたにとって私のことが「バイセクシュアル」に見えたとしても、私に対してそのあなたの性別を中心とした基準を押しつけないで下さい。仮に、私が男女の両方に欲情するとしても、あなたが私のことを「バイセクシュアル」だと思うのは勝手ですが、私のことを勝手に「バイセクシュアル扱い」しないで下さい。
外見上で男同士、女同士、男女の組み合わせに見える2人がいかにも恋人(!)のように仲良くしていた場合には、それぞれゲイ、レズビアン、ヘテロのカップルに見えるでしょう。では、どういう組み合わせでいたら、その人たちは「バイセクシュアルのカップル」に見えるのでしょうか?実はそれは、原理的に不可能です。その人のことを「バイセクシュアルである」と認識するためには、直接その人と話をするしか方法がありません。しかし逆に考えてみて下さい。外見上例えば男同士に見える人たち、その人たちは本当にゲイのカップルなんでしょうか?実は「バイセクシュアル」なんじゃない?もしかしたらノンケが火遊びしてるのかもしれないよ?もしかしたらパスしているトランスセクシュアルの男女の(つまりへテロの)カップルかもしれない。そうです。ゲイやレズビアン、そしてヘテロに見える場合でも、本当は直接本人に聞いてみないと分からないはずなのです。
アイデンティティーとは、その人がある特定の個性や事実や行動様式を持っているということから自然に決定されるものではありません。外見上の振る舞いからその人のアイデンティティーを決めることはできません。アイデンティティーとは、本人が、その基準が自分にとって大切だと思い、その言葉を使って自分を他者に表現するということこそが自分にとって収まりがいいと判断したときに、自分でそのアイデンティティーを他者に表現して初めて意味をもつものなのです。アイデンティティーとは、生まれつき持っているものではありません。まさに、人が自分の意志で選択して、自分で自分のアイデンティティーを決定しているのです。それは、「バイセクシュアル」だけでなく、「ゲイ」も「レズビアン」も「ヘテロ」も、本当は同じはずなのです。
このことはもう一つの観点からも明らかです。もし「バイセクシュアル」を「生物学上の男女とセックスをしたことがある人」などと定義してしまったら、「ゲイ」や「レズビアン」の数はぐんと減ってしまうでしょう。一度でも「女の人」とセックスしたことのある男性はゲイではなく「バイセクシュアル」なんでしょうか?何回までならいいんでしょう?誰が基準を決めれるのでしょう?そうです。「ゲイ」や「レズビアン」は何か自明のことであるかのような錯覚を持ってしまいがちですが、大事なことは、自分で自分のことをどう考えているか、どう他者に対して表現したいか、なのです。
実際に性別に関わりなくセックスをしたり親密な関係を持ったりするということと、「バイセクシュアル」というアイデンティティーを持つという事は、全く別のことです。アイデンティティーという実体が存在するのではなく、ある特定の状況下である特定のことをある特定の人に対して表現し伝えるために、便宜的に使う言い回しでしかありません。それは、しょせん他者との関係の中で強いられて使う道具/方便にしか過ぎず、アイデンティティーを根拠にして何かを語るというのは、本末転倒なのではないでしょうか。
もし「差別」というものがあるとしたらそれは、「特定の、一貫したアイデンティティーを持つことを強いられる」というところにあるはずです。性的アイデンティティーが何らかの実体であるかのような思い込みから、「あなたは何者なんだ」ということに回答することを強いられることこそが差別です。「レズビアン」「ゲイ」というのは強いられたアイデンティティーであると同時に、確かに政治的な声明としてのカムアウトのための道具でもあります。しかしそれは何かの実体なのではありません。同様に、レズビアン・ゲイのコミュニティーに対して「バイセクシュアル」とカムアウトした場合には、政治的な声明になるのは確かです。しかしその場合も、いやまさにその場合にこそ、「バイセクシュアル」は実体ではなく道具であり方便なのです。時によって同性とされる人と仲良くする(レズビアンやゲイとして生きる)時期もあるでしょうし、異性とされる人とセックスをする(ヘテロとして生きる)時期があってもいいではありませんか。その人が自分のことを「ゲイ(レズビアン)だ」と言うこともあるでしょうし、「ノンケだ」と言うこともあるでしょうし、「バイセクシュアルだ」「バイセクシュアルではない」「単なる若専」「隠れSM趣味」などと時期によって言うことが変わったって、なんの問題があるのでしょう。
強制異性愛社会と闘い、それから自分の身を守るためにという理由で、「ゲイ」「レズビアン」そして「バイセクシュアル」といったアイデンティティーを一貫して引き受けることを余儀なくされることこそが、そもそも不当なことなのです。
なぜアイデンティティーの話が出てくるのか、それは、この話がリベレーションを考える際に大きな意味を持つからです。「同性愛者の権利を獲得する」ということと、「同性同士で仲良くしたりセックスしたりする権利を獲得する」ということは、似ていますが、実は全く別のことです。そして残念ながら、そのことはあまり理解されていません。
一番重要なことは、「同性愛者の権利を確立する」と言ったときには、誰が「同性愛者」であるのかを定義する必要が出てくるということです。これは、「バイセクシュアルの権利を確立する」と言ってしまったときも全く同じことになります。しかし先ほど見たように、いったい誰が「同性愛者」なんでしょうか?異性ともセックスをする「同性愛者」は?主婦レズは?セックスワークで異性とセックスする人は?ここではセックスのことだけ挙げましたが、セックス以外にもある様々な関係の持ち方を丁寧に考えたらきりがありません。しかも「男」「女」という性別自体が現在では問われています。こんな中でいったいどんな言葉で「同性」「異性」を定義できるのでしょう?これまでは「性指向はグラデーションになっていて、100%のレズビアン・ゲイや100%のヘテロはあんまりいない」みたいな言い方で済まされてきましたが、この言い方こそまさに、「同性愛者」の不在と定義不可能性を明らかに示しています。そして、定義できないものを無理矢理定義するということは、「私たち」の内部に不必要に境界線をつくることであり、「私たち」を分断してしまうことにつながります。
にもかかわらず、「私は同性愛者だ」と言う人がいます。自分のことを「同性愛者」だと考えている人がいます。どうしてでしょうか?それは、その言い方を必要とする社会的状況があるからです。その言い方で表されること、「私が今大切にしている(または欲情する)人の性別は同性(とされる)人だ」を伝えるためには、「私は同性愛者だ」言うことがとても効果的で分かりやすいからです。逆に言うなら、わざわざそう言わない限り同性同士の関係は性的なものであるとはみなされない社会に私たちが生きているということです。わざわざ言葉にして納得し、言葉にして理解し、言葉にして相手に伝えない限りそこには何もないことにされてしまうからです。思い出して下さい。ホモに対してはマジョリティーである異性愛者は、「異性愛者」というアイデンティティーを普通は持っていません。持つ必要がない、つまりそれが当たり前で、人に説明したり、また人に説明するために自分で自分を受け入れたりといった過程が必要でないからこそ、多くの異性愛者は「異性愛者」というアイデンティティーをわざわざ持つ必要がないのです。何も言わなければ、それはノーマルであり、当たり前であり、自然であり、異性愛という言葉は必要ありません。「非異性愛者」のカムアウトにさらされて初めて、多くの「異性愛者」はものを考え始めます。
「同性愛者」という言葉は、だから、「異性愛者」のための言葉です。「ノーマル」「自然」と思われているものが、実は「異性愛」(正確には強制異性愛)であるということを「ノーマル」「自然」と思っている人に説明するための、道具として便宜的に使われる言葉に過ぎません。要するに、「私はあなたとは違う!」という政治的声明です。「バイセクシュアル」がレズビアン・ゲイのコミュニティーに対する「ノー!」という便宜的な政治的声明であるのと、構造は全く同じです。「同性愛者」という実体があるのではなく、「同性愛者である」と名乗る・カムアウトさせられる/せざるを得ない/することによって説明できる社会的な構造/権力関係があるに過ぎないのです。「朝食に納豆を卵をかけて食べる人」などということを考えたり、説明したり、カムアウトしたりアイデンティティーにしたりする必要がないのは、「朝食に納豆を卵をかけて食べるかどうか」が特になんの序列も価値もなく、単なる個人の趣味選択の問題であり、どちらであっても非難したりされたりする代物ではないということが自明だからです。もし納豆に卵をかけて食べることが違法とされる社会であったら、「実はぼくは納豆に卵をかけて食べるのが大好きなんだ」という告白・カムアウトがそれなりの重要性を持ってしまうのですが、ここでは、現在の日本がそういう社会でないことを喜ぶことにしましょう。性別によってことさら問題にならない世界、例えば江戸時代の武士階級の中では「男色」と「女色」とは対等な、一つの趣味として認識されていたという事はよく言われることです。そういう社会においては、「同性とセックスすること」は特にアイデンティティーにする必要はないのです。
私たちは「同性愛者だから」差別されるのではありません。「同性愛者が」差別されているのではありません。「同性とみなされる人たちの、親密な、もしくは性的な関係」が否定的にみなされ抑圧されているのであって、その人が「本当に」同性愛者であるかどうか、その人がどういうアイデンティティーを持っているかはなんの関係もないのです。(この辺のところは、トランスジェンダーがことさら性別にこだわっているように一見思われるが、実は性別にことさらこだわっているのは性別違和のない人たちや今の多数派の社会の方であって、トランスジェンダーは単にその社会的多数派に対抗する必要上自分の性的アイデンティティーを対外的に強く打ち出さざるを得なくさせられているに過ぎない、ということと、非常によく似ています)。にもかかわらず、「同性愛者に対する差別」という言い方をしてしまうと、「私たち」の内部にアイデンティティーによる線引きがされてしまいます。分かりやすい話の一つが「バイセクシュアル」は「同性愛者」ではないということです。「同性愛者の権利を獲得すること」は「バイセクシュアル」にとっては基本的には他人事です。これは、「同性愛者のサークル」が「バイセクシュアル」にとって居づらいということと同じ話です。「バイセクシュアルな人」は「同性愛者」の部分集合や下位概念ではありません。ましてや、「同性愛者アイデンティティーを確立するための過渡期」などではないということは、もう説明する必要はないでしょう。「同性同士で仲良くしたりセックスしたりする権利を獲得する」という言い方をすれば、「バイセクシュアル」が「同性愛者」のために下働きをさせられることがある程度避けられます。
カテゴリーのアイデンティティーを基準に考えたり、運動をしたり、場を組織することをやめませんか?「同性愛者の会」「バイセクシュアルの権利」「●●の集まり」というような、アイデンティティーを中心とした運動や組織の仕方は、非常に不自由です。本当は定義不可能なものを無理矢理自分たちでわざわざ定義して、窮屈な「同性愛者の定義」「バイセクシュアルの定義」を作り上げ、その基準に会わない人を排除したり無視したり正当性を争ったりするのは、時間の無駄です。「同性愛者」「バイセクシュアル」としてのカムアウトは確かに効果的で分かりやすいのは事実ですが、失うものが大きすぎます。その代わりに、「ホモフォビアと闘うこと」「性別二元論と闘うこと」といった「テーマで集まったり、テーマで運動をつくったり」した方が、よっぽど「私たち」の内部の多様性を放棄しないで済みます。リブが人気がないのは、そういう「運動」をしようとしたとたんに、とても窮屈なことになるからではないでしょうか。レズビアン・ゲイのコミュニティーの中にいるのは昔から現在でも同性愛者だけではありません。クラブやハッテン場、いつもの日常生活では私たちは既にいろんな人との関係を持って生活しています。リブをするといったとたんに、そういう生活の中のいい加減さや幅の広さが失われてしまうからこそ、リブはつまらなそうに見えるのです。
アイデンティティーの獲得が必要で大切なのではありません。アイデンティティーなんてものを持たなくても、多数派の社会に対して説明して認知されるという回路を経ないでも、自分で自分のことを受け入れて自信を持つことができるようになることこそが必要なのです。社会的な認知以前に、あなたはあなたであっていいのですから。
あなたも、彼も、見た目は男性に見える男性だったと仮定しよう。電車の中で、街角で、同性の恋人に手を握ろうと誘われた。でも、どうしても応じることができない。周りの目がさっきから気にかかる。どうしてだろうか。
同性愛が社会的に禁じられ、抑圧されているから、怖くて手が握れない。ホモだとばれたらどうしよう。また好奇の目で見られるんじゃないだろうか。
こんな日常を送ることでたまったルサンチマン(怨念)をバネに、強制異性愛社会の不当性を訴え、ゲイリブをやるというのもまた、よくある一つの在り方だ。そのこと自体は構わない。社会的カムアウトは自己に誇りを持つためには人によっては必要な過程でもあるのは事実だから。構わないのだが、しかし、そういった「被害者意識」に基づいた運動は、下手をすると自分の成り上がりの運動に化ける危険性もあることには、留意しておきたい。私がマイノリティーにならない社会、私のことを悪く言う人がいない社会、ホモ嫌いがいない社会、、、もしあなたがそういった社会をつくるために運動しているとしたら、それは悪い意味でのファシズム運動に他ならない。
もしあなたが、「同性愛者の権利が保障されていないから自分は手をつなげなかった」と考えているのなら、ほとんどの場合それは単なる甘えだ。本当に「同性愛者の権利が保障されていないから」手をつなげなかったのか?もし手をつないだら、牢獄に入れられてしまう可能性でもあったのか?もし手をつないだとしたら、実際に物理的な暴力を加えられる現実的な危険性があったのか?あなたは殴られそうだったのか?あなたは殺されそうだったのか?唾を吐きかけられそうだったのか?怒鳴りつけられそうだったのか?空き缶を投げつけられそうだったのか?カッターナイフで服を切り刻まれる危険性でもあったのか?あなたが手をつなぐことを実際に妨げる何かが本当に「その場に」あったのか?(**注:末尾にあります)
「ホモ狩り」がないわけではないのだが、ここではそういう場合以外をとりあえず想定している。
あなたは周りから浮くことが怖かったのではないのか?社会的な権力者の位置にいないと安心できないのではないのか?周りの多数派と同じでないことが怖いのではないのか?自分が「見る側」でなくなることが怖かったのではないのか?「立派な男」としての地位から降りるのがいやだっただけではないのか?男として認められないのが怖かったのではないのか?多数派の文化圏に自分がいる振りをして周りの人に認められることを、自分がやりたいことをやることよりも優先するという選択をしただけではないのか?
同性同士の関係がばれるのが怖いのは、もしばれたら「男」「まとも」「人間」という枠組みから自分がはずれてしまうからなのだが、その枠組みからはずれる恐怖を抱いているのは「ゲイ」や「バイセクシュアル男性」だけではない。「本当の男」「男の中の男」になりたくてもなれない生身の「男」たち、「異性愛男性」とカテゴライズされる人だって、強制異性愛社会の中で「男」であることを強いられている犠牲者であるとも言える。そういう男性がホモを攻撃するのは、自分が「男」であり「まとも」であり「人間」であることを自分で納得し、「男である自分」に自信を持ち、周りに対して証明するためだ。
大切なのは、「男」でなければならないという価値体系から逃げ、それを壊すことなのだ。「ゲイだってまともな普通の男なんだ」などと言って多数派に刷りよるなんて論外だ。まともでなく普通でなく男でもない生き方が困難な今の社会の在り方とちゃんと向かい合って闘おう。「(ホモが)ばれると」困るのではない。ちゃんと話しても説明しても理解しようとせず受け入れない人に困るのであり、いっつも説明することを強いられるのが困るにすぎない。
多数派になって、多数派にまぜてもらって、成り上がることを求めるな!男らしくなくて何が悪い!と開き直れ。ホモ嫌い「かもしれない」人の前でも余裕を持って手をつなげるようにあなたが強くなることが必要だ。「男らしさ」の鎧がなくても、社会的な承認や後ろ盾がなくても、自分のしたいことを実践できるようになることだ。周りの人がどう思おうと、好きなことができることが大切だ。同性愛者の権利が国家の物理的暴力によって保証されていなくても、あなたがあなたでいられることが必要だ。あなたのやりたいことを、誰かが、社会が認めることが必要なのではない。誰かの、社会の承認がないと好きなことすらできないあなたが情けないのだ。
社会や誰かの承認や、国家による制度的な保証がないと、自分のやりたいことさえできない人が社会的な運動を始めると、社会的な権力を使って自分に都合のいい世界を創ろうとすることになる。しかもそういう場合は「私はこんなに差別されてきた」という実感と、そして表現を使うことになるので、自己が絶対化され、批判を受け付けなくなる危険性が大きい。社会的な運動を行っていく過程で、自分が逆に権力を持ってしまう危険性があることに対する自覚があればいいのだが...。他者の承認や制度的な保証がないと安心できないということは、自分一人では他者と向き合うことができないということだ。一人でも自分に反対する、もしくは自分の苦手とする人がいたら、もうそれだけで不安で、怖くなってしまう。その不安を解消することを目的として下手に社会運動としてやってしまうと、それはホモフォビアにまみれた強制異性愛社会の中で多数派が自己防衛のために行っていること(強迫症とかパラノイアとかとも言える)と全く同じことになってしまう。自分の目の前にいる人に対して、自分は被差別者だからとか、自分はしんどいからとか、色々口実を作って向き合わない、自分とは異なる意見を持つ者ややりたいことの優先順位が違う者に対しては「異常」「変態」「キチガイ」のかわりに「差別者」「加害者」「アイデンティティーが確立されていない」などのレッテルを貼るだけで相手の話を聞かない、自分が権力者・加害者である可能性は微塵も考えない、などなど。自分が付き合いたい、向き合いたい人とだけ、つき合い向かい合うことでことが済んでしまう(と思っている/ことができる)やり方こそが、今の多数派のやり方であり、まさにその流儀こそが「差別」として問題にされなければならないのに。
「同性愛者としてのアイデンティティーの確立」と「同性愛者の権利の獲得」を目指す運動に感じる違和感の一つが、ここにある。被差別者としての「同性愛者」というアイデンティティーを獲得し、その「同性愛者」に対して国家による社会的な保護を与えようというのは、あなたが他者と直に向き合っていかないでも済む、楽のできる、社会を創ることにはならないのか。自分の在り方を丁寧に見つめ直す作業を放棄して、「同性愛者のアイデンティティー」に依存しようとしているところはないのか。自分とは異なる意見を持つ者ややりたいことの優先順位が違う者の話を聞かないで済むようにするために「同性愛者」の法的な権利の確立を望んではいないか。例えば、性別二元論に疑問を感じないで済む・性別違和がない・日本国籍を持っている・本土に住む日本人である・健全者である・男性である、などといった、自分がマジョリティーである問題に関わらなくても済むようにするために、そういう人が新たに来ても(元からいてもいないことにして)その人と向かい合わなくてもすむように、わざと話を単純化して「性的指向」の話だけをしてはいないか。その場合の「同性愛者」とは、性別二元論を前提にして、体と心と服装と振る舞いの性別が一致し、日本国籍を持った、本土に住む日本人の健全者の男性の、淫乱でなくオネエでもない、大切なものを諦めたり捨てたりして社会の多数派に受け入れられるために偽装した「同性愛者」にすぎないのではないのか。様々な人が会内に存在し、上に例示したような話もが日常的に話されているそんな集団の人たちが、「今回は性指向の話を焦点化しよう」という合意をつくって性指向のことを社会的に問題化するのであれば、私は理解できます。しかしたかだか「バイセクシュアル」についてすらまともに肯定的に言及できるゲイ活動家がほとんどいない日本の現在の状況において、「同性愛者としてのアイデンティティーの確立」と「同性愛者の権利の獲得」という主張のみを対外的な主張の中心に据える在り方は、私には、自分のことしか考えていない、人の話を聞かないで済むための口実として使われている、表現と運動のように思えてなりません。
自分の中のホモフォビアと闘うために一時的にはアイデンティティーの確立が必要だという、耳障りのよい主張があります。しかし誤解してはいけません。必要なのは、あなたがあなた自身を受け入れることであり、「自分自身の」アイデンティティーを獲得することであって、「同性愛者としての」「バイセクシュアルとしての」アイデンティティーを確立することが必要なのではありません。他者と自分とは違うということを、等身大に、当たり前のこととして受け入れることができれば、「ホモがばれるかどうか」は問題ではないはずです。同性関係が自分にとって大切だということを、話すか話さないか、明らかにするかしないか、ホモフォビアと闘うかここでは黙っているか、というあなた自身が選択する問題が残るだけです。他のゲイと自分との間にさえ色々違いがあるということ、自分は決して「同性愛者」一般ではなく、簡単に「私たち同性愛者は...」などと言えるものではないということ、などのほうが、私が「いま」を自由に生きるためには大切なことです。個人の中のホモフォビアと闘うために「同性愛者」としてのアイデンティティーを持とうとすることは、「あなた自身のアイデンティティー」を見つめ直すことを中止して、「同性愛者」という、他から与えられたアイデンティティーに依存してそこに同化していこうとする運動に他なりません。社会の中のホモフォビアと闘うために「同性愛者」というアイデンティティーを引き受けることが必要だと主張することは、主に男性の、性指向が同性だけに向くという点のみが「男として」成り上がるための障害になっているゲイ男性の都合に、「バイセクシュアル」などの非同性愛者を関ずりあわせることに他なりません。既に、もう現在の段階においても、「同性愛者の」アイデンティティーに固執する運動は大きな弊害をも生み出していることにも、注意が必要です。
私は「バイセクシュアル」です。場合によっては「ホモ」「オカマ」「ゲイ」「同性愛者」「女好き」「若専」などと名乗ることもあります。で、それがどうしたの?私には「バイセクシュアル・アイデンティティー」も「ゲイ・アイデンティティー」も必要ではありません。私は、日比野
真です。
ここでホモの話に限定したのには理由があって、女性に見られる人は実際に日常的に物理的な暴力にさらされているから、必ずしも安易に男性同士に見える人たちの場合とは同列には論じられない面が大きい。実際女に見えるというだけで痴漢などの性的な暴力を受けたり強姦されたりする例にはこと欠かない。性的な暴力の加害者が非難されるのではなく「どうして抵抗しなかったのだ」「本当は誘惑したんじゃないのか」などと被害者ばかりが責められる現実や、「通常のセックスにも多少の暴力は伴うものだ」という屁理屈で強姦が強姦とみなされずに裁判でも無罪になったりする事例があることが、残念ながら私たちが生きる今の日本の姿でもあるのだ。ただ、だからといって女性扱いされる人が他者と向き合わなくてもいいということでは、もちろんない。また、他者と向き合ったりコミュニケーションする技術を獲得するための責任を本人の自己責任「だけ」に押しつけていいという訳でも、ない。
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このテキストは、「ぽこあぽこ 12号(1999年発行)」に掲載されたテキストをWEB用に掲載したものです。
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