ぽこあぽこ12号 掲載テキスト集 |
バイセクシュアルは既にいろんなところにいた。そして、自分を表現し、様々な活動に主体的に関わってきた。以下、バイセクシュアルの位置を知るために、公然と登場したいくつかの団体などを取り上げてみました。 もちろんこれらの情報は私の手に届いた範囲でのものにしか過ぎず、ここに挙げた以外にも様々な動きがあったに違いないことには留意してお読み下さい。もしこの他にバイセクシュアルに関連した動きをご存じの方、私もこんなことをした、という方、お教えいただけるとうれしいです。なお、「レズビアン・ウィークエンド」「ウーマンズ・ウィークエンド」における話は、私の手に余るので記述していません。
寺山修司が主催していた演劇実験室「天井桟敷」は、67年に男娼の話「毛皮のマリー」を上演した。主演は美輪明宏(そのころの芸名は丸山明宏)。上演に向けて「天井桟敷新聞」では出演者を公然と募集し、何人ものおかま、女装者、ゲイボーイが出演したらしい。日比野は、そのころはゲイとバイ、または女装者やトランスジェンダーとゲイとの厳格な区別はなかったのではないかと想像している。また天井桟敷はその後、「星の王子様」という男装劇/レズビアン劇も上演している。
美輪さんは今でも様々なところで発言されている。私のバイセクシュアルの友人は「美輪明宏は自分のことをバイセクシュアルだと言っていた」と教えてくれたが、残念ながらその出典は発見できなかった。しかし、美輪さんの発言は私には同性愛者というよりどちらかと言えばバイセクシュアル系の人の発言に感じられる。例えば以下の通り。
「それから逆に同性愛の人たちにも、自分たちの枠にとらわれすぎてはいけないと、私は言っているわけ。こう言うと、美輪さんは同性愛なのにどうして?と聞かれるけど、私は同性愛であると思っていやしないよ、人間が人間を愛してどこが悪いんだよって言うの(週刊金曜日・98.10.23)」。
89年に東京で、ILGA日本Fセクション(Femaleセクション)の中につくられ、パーティーや読書会・ミニコミの発行などを行った。例えば90年に行った座談会には「自称バイセクシュアル」だけでなく「自称ゲイ」「自称レズビアン」も参加するなど、風通しはよかったような感じをミニコミからは受けた。 当時のメンバーの一人が「バイプロ」のホームページを開設している。(http://www.din.or.jp/〜sivia/bipro/frame.htm)
佐藤雅樹さんが編集長の「KICK OUT」は、はっきりと「ゲイ」にこだわったミニコミだ。「同じ同性愛者といえども、ゲイはレズビアンのかかえる『女』の問題を少しも見ようとしないし、同性愛者はバイセクシュアルのことなんか真剣に考えるつもりもない(Vol.14)」といった視点をも持っておられる佐藤さんは、ゲイにとっての他者である女性やバイセクシュアルをちゃんと他者扱いし、そういったゲイ以外のセクシュアリティーの人間たちともちゃんと向かい合っていこうとして誌面をつくっているように日比野には感じられる。「ゲイのミニコミ」という性格付けを明確化していながらも、決して「ゲイのことだけ」を取り扱うのでもなく、「常に」ゲイのことを優先するのでもなく、女性やバイセクシュアル、そしてヘテロセクシュアルといったノンゲイの人たちにも発言の場を提供し、異なるセクシュアリティーのもの同士でもコミュニケーションをはかろうと努力し続けてきた。Vol.14(95.8)では、特集として「セクシュアリティー・バトル」を掲げ、後にフリーネやアニースの編集もすることになるバイセクシュアルの萩原まみさんや、ニフティーサーブのフォーラムなどでも活発な発言を続けているバイセクシュアルのイラストレーター・田中直樹さんも文章を寄せている。
掛札悠子さんが中心になって編集していた「LABRYS」は「レズビアンとバイセクシュアル女性のためのミニコミ」と明示されていた。通算して約2300人が購読したこの雑誌は、95年に10号を発行して「お休み」となった。当初からバイセクシュアルにまつわるやりとりも掲載されていたし(例:「バイバイ、バイ・バッシング」)、最終号となった10号にも英国での「全国バイセクシュアル会議」の報告(by スイッチャブルさくら)も載っていたりする。北米やアジア各国など外国のレズビアン情報も頻繁に掲載されており、その他にもレズビアンアート、コミックマーケット報告などマンガ関連など、非常に盛りだくさんな内容のミニコミだった。また、「情報ラブリス」という形での個人文通欄も充実しており、100人以上が自分の情報を載せ、数百人が手紙の回送を利用していた。最終号となる10号の最後のページで掛札さんはこう述べている。「『LABRYS』の役目はとりあえず終わったのだと感じています。…もう『私たち』という言葉で…日本のレズビアンやバイセクシュアル女性をくくることはできなくなった、ということです。…これから必要とされるのは『差異』を強調し、それによって逆にレズビアンやバイセクシュアル女性が力を持てるようになる、そんなミニコミやグループではないでしょうか。」
「自分たちが安心していられる場をつくろう!」とバイセクシュアルの女性たちが中心になって94年に作ったグループ。両性愛性を積極的に認めるあらゆる女性(両性愛者・同性愛者・異性愛者・性的欲求のない人・よくわからない人)の為のグループ。独自のニュースレターを隔月で発行し、毎月ミーティングを東京で開き、他にも映画鑑賞会やパーティーなどのイベントもときどき開催していた。97年2月に通算17号目に当たる「最後のボランティア号」を出して、その活動を中止した。16号から連載されるはずだったスイッチャブルさくらさんの文章「女がやっても『女装』でしょ!」「越えられない一線がありますか?」「バイなポルノが欲しい」「女にみえる男か、男にみえる女か?はたまた、女に見える男に見える女に見える男に…(永遠に続く)」「SMの話」を日比野は個人的には楽しみにしていたのですが、終刊になり読めなかったのが残念でした。
1994年に、大学生のゲイと、会社でゲイであることをカムアウトしようと考えていたゲイとが中心となって、ゲイサークルとしてP3が岡山に設立された。しかしその後、集まりを持っていた会社員のゲイの家に遊びに来ていたゲイ以外の知人・友人の参加もあり、またカムアウト後に行った講演会等の参加者で「P3に行ってみたい」という人がいたので、ゲイでなくてもどんどん歓迎していた。そうこうするうちに、なしくずし的にゲイのサークルではなく参加者の性的指向・性自認等を問わない「性を語る場」になった。
現在は月に1回公民館で語る会を持っており、その他にも自助ミーティング、クラブイベント、合宿、宴会等々も行っている。岡山、四国、広島、関西などから様々な性的指向・性自認等の参加者がおり、毎月のニューズレター発行などもし、ホームページも開設している。
「CHOISIR」34号「特集・性自認」における座談会「バイ・セクシュアル、という言葉」を受けて、35号では「緊急特集・バイセクシュアル-性自認と名付け-」が組まれた。「バイ・バッシング試論(掛札悠子)」「問われたのはセクシュアリティ?それともアイデンティティ?(まつなが)」「バイセクシュアルの憂鬱(佐藤雅樹)」「私の中の『女性への思い』(色川奈緒)」「正直な形の違い(小倉美保)」「私がレズビアンを選んだ理由(大矢晃世)」がその内容。
「ヤンチャ・レズビアン・パワー(YLP)」が発展して94年につくられたOLPは、大阪に住所をおいて活動している団体。活動の趣旨によれば、「レズビアン」ということばを「女が女を愛すること」「女を愛する女」という「広い意味」で使ったうえで「女を愛する女たちが自らを偽ることなく生きていけるような、差別・抑圧・偏見のない社会を目指して活動するグループ」とされている。活動の趣旨に賛同する人だったらセクシュアリティーを問わず誰でも入会できることになっており、性自認が女性のトランスセクシュアルやヘテロセクシュアルやバイセクシュアルの女性、そして男性でも会員がいる。会の名称や趣旨の中に「バイセクシュアル」という言葉がはっきりと入っていないことに関連して、OLP会員のつづらさんは「バイセクシュアルの問題を軽んじているわけではないんだけども、問題化できていないだろうなと思っています」とも発言しておられます(現代思想・臨時増刊号「レズビアン/ゲイ・スタディーズ」)。
94年に「ゲイの11月祭天国!」という企画を行ったことがきっかけで95年に京都で発足したプロジェクトPは、正式名称を「レズビアン?ゲイ?バイ?ヘテロ?......?生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトP」といい、その時点ではバイセクシュアル男性やヘテロセクシュアルをも明示的に対等に扱う唯一の団体だった。同年には「レズビアン・トレビアン・笹野みちる」というイベントを、翌年には「『バイセクシュアル』である/ない、ということ」と題したワークショップ(出演:まつなが・トダタカコ・キム・阿部大雅・日比野真)を行った。また札幌のプライドマーチや東京のレズビアン・ゲイ・パレードにおいても、大きな看板をつくったりビラを配布したりして、バイセクシュアルの顕在化のために大きく貢献した。その他にも、第2回及び第3回の東京レズビアン・ゲイ・パレードの際には、ゲイフロント関西と共催して「パレードツアー」を、性別や性指向などのセクシュアリティーに関わりなく誰でもツアーに参加できることを公式に明示した上で組織したりもした。
「[WOMYN LOVING]女性を愛するあなたに捧げる」と題して三和出版から雑誌「フリーネ」が創刊されたのは95年のこと。この時代は、「レズビアンのため」とするかわりに「女性を愛する女性のための」とすることによってレズビアンオンリーではなくバイセクシュアル女性も含んでいることを「言外に含意する」という手法がしばしば取られていた。フリーネの「女性を愛するあなたに捧げる」というサブタイトルもこの文脈で理解するべきだろう。実際、編集スタッフであった萩原まみさんは、自身がバイセクシュアルであることをオープンにしており、フリーネの編集後記にもこう記述している。「個人的に今回一番うれしかったのは、レズビアンオンリーというくくりではなくて、『女性を愛する女性』という間口を広げた形で雑誌作りができたこと」。雑誌の内容としては、斉藤綾子さんの書き下ろし小説、松浦理英子さんやシュー・リー・チェンさんへのインタビュー、桜沢エリカさんのイラストなど、密度の濃いものになっていた。しかし残念ながら2号で終刊した。 翌96年には、今度はゲイ雑誌「バディ」を出しているテラ出版から、萩原さんの編集によって「アニース」という雑誌が新たに発行されることになった。アニースの副題は当初は「女を愛する女たち」だったが、札幌の「第1回レズビゲイ・プライドマーチ(後述)」の直後に発行された第3号からは「LESBIAN&BISEXSUAL」に変更され、バイセクシュアルが明示的に表されるようになった。この雑誌も、残念ながら5号を持って終刊になってしまった。
レズビアンやバイセクシュアル女性、そしてLOUDの趣旨に賛同する女性とグループのためのコミュニティーセンターが、3人のレズビアンたちによって、95年に東京中野に開設された。「LABRYS」同様に「バイセクシュアル女性」が明示的に言及されている。
「北海道セクシュアルマイノリティー協会札幌ミーティング(HSA札幌ミーティング)」の前身である「ILGA日本・札幌ミーティング(89-)」には、「レズビアンブランチ」ではなく「ウィメンズブランチ」があった。「ウィメンズブランチ」にはバイセクシュアル・レズビアンの女性が多く参加し、そのミニコミ「かわらばん」でもバイセクシュアルのことが取り上げられていた。96年に札幌ミーティングが呼びかけて開催されるに至った「第1回レズ・ビ・ゲイ・プライドマーチ in 札幌」は、企画名称にバイセクシュアルを意味する「ビ(bi)」という名前が入り、バイセクシュアルの存在をレズビアン・ゲイと対等に扱って社会にアピールするマーチとなった。その後このパレードは「セクシュアルマイノリティー・プライドマーチ in 札幌」と名称を変えて、毎年開催されている。
この年のパレードでは、様々な問題が顕在化した。バイセクシュアル関連に限定すれば
などがある。詳しくはプロジェクトP発行の「第3回レズビアン・ゲイ・パレードを巡るパレード資料集」を参照のこと。
実際にかなり長い時間をかけて丁寧に話し合う場をワークショップとして創り、その報告である「paper」を何回か発行した。いわく「様々なセクシュアリティの人たちとコミュニケーションがとれる!「当たり前」が無い!自分のこだわりにトコトンこだわれる!素朴なギモンが素朴に聞ける!楽しい!マグロは嫌よ!類じゃなくても友を呼ぶ!バッシングや決めつけは御免!色々な可能性を考える!といった、世の中ではなかなか見つけることの出来ない環境づくりにこだわっています」。性別や性指向を問わず誰でも参加ができ、性について「きける・いえる・かんがえる」場を創ろうとした。99年現在は同じスタンスで「公正証書をつくるためのハウツー本」を制作中。
第2回男のフェスティバル内における分科会の一つとして、ゲイフロント関西とプロジェクトPとの共催で「あなた、オカマ、嫌い?」が行われた。打越(ゲイ)、籠(おネエ)、森田・井上(トランスジェンダー)、日比野(バイセクシュアル)の5人のパネラーがそれぞれの立場から発言し、お互いの接点を探るイベントとなった。
レズビアンのサークル「ハートショット」が発展して作られたグループ。今では、ノンヘテロ(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、TS、TGなど)を中心としたサークルになっている。「いろんな人間がいてあたりまえ」というのをモットーに、四国四県をはじめいろんな所から人が集まってきている。99年の総会では規約を考え直し、正式に「多様なセクシュアリティーの共生」をサークルのテーマとした。同時に規約文の中の「同性愛」「同性愛者」にかわり「多様なセクシュアリティー」と表現することにした。
「メイデーをゲイデーに」というかけ声とともに98年5月に東京において行われた「セクシュアルマイノリティー・レイバーズマーチ」においては、セクシュアルマイノリティーとしてレズビアン・ゲイに並んでバイセクシュアル・トランスジェンダー・インターセックスが明示的に対等に扱われていた。実際、マーチの実施に関わった人の中にもバイセクシュアルやトランスジェンダーも多くいたようだ。
京都で毎月「全人民的女装社交宴会」として「カフェ玖伊屋」を開いている阿部まりあさんと、プロジェクトPのバイセクシュアル活動屋の日比野真などが中心になって、ビデオ映画「We are Transgenders」の上映など性別の在り方を考えるイベント「女?男?いちいちうんざりよ!ー性別の二元論を問い直そう」が98年に行われた。ノンパスTVやバイセクシュアルの話を踏まえながら性別の二元論について考える場になった。主催は変態生活舎。
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このテキストは、「ぽこあぽこ 12号(1999年発行)」に掲載されたテキストをWEB用に掲載したものです。
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