私は誇り高き「バイセクシュアル」

札幌、および東京のパレードで、バイセクシュアルの顕在化のために大々的に配布したもの。男性のバイセクシュアルが日本語で書いた文章はホントに貴重です。
(「Project Press号外」として配布 96年8月25日)

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「Project Press号外」として以下の場所で配布。

  • 第1回LesBiGayプライドマーチin札幌(96/6/30 初稿)
  • 第3回東京レズビアン・ゲイ・パレード(96/8/25 第2稿)

曚靴燭發痢?
以下の文章は東京で配布した第2稿。

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私は誇り高き「バイセクシュアル」

by ヒッピーこと日比野 真

 レズビアンやゲイやヘテロのあなた。「男が好き」「女が好き」ってどういうこと?性器(ペニスとかオマンコとか……)があること?声?しぐさ?服装?戸籍上の性別?それとも相手の性自認?
 ちゃんと答えて。

 私は「男も女もイケル(欲情できる)」のではありません。
  「男とか女とかそんなことはどうでもいい」のです。

 女/男という2つの性別が明確に存在することを暗黙の前提とし、「相手の性別が男か女か」ということこそが第1に重要な関心事になる、という点では、レズビアンもゲイもヘテロも同じことです。その点では「バイセクシュアルである」私は圧倒的マイノリティー。
 私は誇り高き「バイセクシュアル」。

(注:一口に「バイ」といっても実は様々で、相手の性別が重要でそのどちらもイケルという「バイ」もいると思います。ただ、私の場合は「性別がほとんど関係ない」という「バイ」です。この文章はそんな私の訴えです。)

 バイセクシュアルのカップルは、特にそれが男女のカップルである場合には、見た目にはヘテロのカップルと区別ができません。従って「ヘテロ嫌い」の人が多い場は、バイにとっても居づらいということです。
 さて、今日のこのパレードは、あなたのサークルは、そしてまたレズビアン&ゲイのコミュニティーは、例えばヘテロのカップル(又はそうにしかみえない男女のカップル)にとって、果たして居心地のよい場でしょうか。
 レズビアンにも、ゲイにも、そしてバイにも居心地のよい場というのは、欲望が同性に向かう人も、異性に向かう人も、つまり誰が誰に欲情しようと特に問題にならない、それが当たり前になっている場だと思います。
 いつまでも「ヘテロ社会の被害者」として「まず同性を好きになる自分に自信をもちたい」ということだけに関心を集中させたい人には、そしてそういう場所には、「バイ」のわたしが関わっていくのは非常に困難です。別にまちがっているとは思いませんが、「勝手にやってちょうだい」。

 ヘテロ社会の中にも、見えなくても必ずゲイやレズビアンがいるのと全く同じように、レズビアン・ゲイのコミュニティーの中にも、これまでもずっと「バイセクシュアル」はいたし、今もいます。今いるこの場を、「レズビアン」や「ゲイ」を中心にしてそのうえで「バイセクシュアル」などをも許容してくれといっているのではありません。どこかに中心をつくり、権力を握った多数派のわがままを少数派に押しつける、そんな人間関係のあり方とちゃんと闘おう、と私はいいたい。そう、ヘテロ社会においてだけでなく、レズビアン・ゲイのコミュニティーの中においても。


「バイセクシュアル」は
「レズビアン・ゲイ」と「ヘテロセクシュアル」との
中間ではありません!

 「バイセクシュアル」の存在は、レズビアン・ゲイの運動がこれまで中心には考えてこなかった問題を提起していると私は考えています。

 まず1つは、性的指向は必ずしも相手の性別の問題ではないということ。「同性を好きになること」ということを中心に考えてきた人には、「性別なんかどうでもいい」というもの言いはなじめないかもしれませんが、事実として私は性別なんてどうでもいい。まずこの事実を受け入れることが大切です。おそらく多くのバイは、ヘテロ社会だけでなく、レズビアン・ゲイのコミュニティーからも「相手の性別こそが重要」という思い込みを刷り込まれ続けていて、「性別なんか重要でない」という自分に自信がもてなくさせられているのではないでしょうか。しかも、コミュニティーからも仲間外れにされそうで、また相手にされそうもなかったりして、なかなか自分の話がしにくいと言うのは、ヘテロ社会もレズビアン・ゲイのコミュニティーも、バイにとっては、全く同じ話です。そんななかでやむを得ず、めんどくさくて、「ゲイ」「レズビアン」というレッテルをひきうけ(させられ)ている人は居ませんか?
 「相手の性別にこそ興味がある」という感覚と文化はあまりに自明すぎて、それもがONE OF THEMでしかないということに気付くのは大変そうですね。

 2つめはレッテルの拒否の問題です。
 逆説的ですが、本当にバイセクシュアルな人は「バイセクシュアル」というレッテルを拒否する、又はとてもいやがるのではないかと思います。
 実際私は「バイセクシュアル」ではありません。
 「バイ」という言葉は、相手の性別こそが第1の関心事であるレズビアン&ゲイやヘテロの人たちが自分たちの都合でつくった言葉だからです。何かいい言葉はないものかしら。
 ゲイにも(例えばデリック=ジャーマンのように)「ゲイ」としてカテゴライズされることを拒否していきようとするオカマもいます。とはいえ、頼ろうと思えば頼れる枠組み・レッテルがある(本当?)レズビアンやゲイに比べて、いくら少数者としての権利主張が目的であったとしても「バイ」というレッテルは自己矛盾を含まざるを得ません。それ故「女」「男」という枠組みやその枠組みの存在を大前提とした「ゲイ・レズビアン」「バイ」「ヘテロ」という分け方をも、当初から遡上に載せていかないと結局「バイ」は報われないと私は考えています。
(浅田彰さんをみよ!彼は必ず、「ゲイアイデンティティー」の獲得とともにその(枠組みの)解体を訴え続けている。)


ヘテロだけ、
ゲイだけ、レズビアンだけ、
◯◯だけ、はもうたくさん!

 男とか女とかそんなことが主要かつ重要な問題ではなく、様々な性的指向/嗜好/志向/試行がその人の単なる趣味でしかないようなものとして考えられている社会、そんな遠い遠い理想郷のような状態こそがバイにとって居心地のよい最低条件なのです。たかが同性のカップル、その程度のことがことさら問題になるようではまだまだなのです。
 「ゲイ」「レズビアン」のような社会的にも認められるべきものとしての枠組みを頼ることができず、例えば「きれいな肌フェチの若専」のような趣味としてしか自分を打ち出し得ない、そんな自分を私は大切にしたい。
 そしてそんな1人1人の様々な単なる趣味が、社会的な承認・認知のある/なしに関わらず全て対等な社会、「男フェチ(ゲイ)」と「きれいな肌フェチ」とが対等になるような、1人1人が枠組みに頼らずにも自由に生きられるような社会を私は望みます。
 社会的承認を求め自らの枠組みを認めてもらう運動ではなく、社会的承認や枠組みがなくても1人1人が生きていける生きやすい社会をつくる運動を。


「強制異性愛」と闘うということ

 今のヘテロ社会の問題は、異性愛者が多数派であるということではないはずです。
 ホモフォビアは性的指向を問わず人々に刷り込まれています。だからヘテロの人がホモフォビアをもっているという事実が問題なのではないはずです。
 重要なのは、ヘテロでない人がヘテロの人の前に現れたときの反応です。あくまでも自分のホモフォビアと闘うことを避け、ヘテヘテな自分のあり方を社会の中心にして、他者への関心を持とうとしないまま過ごすのか。自分のノリそのものを変えようとせず、問題提起を無視し続けるのか。無意識のうちに、そういう自分のわがままに開き直ることのできる多数派の放漫な態度こそが問題なのだと考えます。
 そして何もこれはヘテロの人だけの問題ではありません。
 わが身を振り返るべし。
 「自分にとって切実な関心事」を中心にして権力を形成し、他人も自分と同じ関心を持っていると決めつけ、自分の都合を相手に押しつけかねない自分の弱さ、情けなさ。意識的なものであれ、無意識のうちにノリでそうしてしまう場合でも、話しは同じことでしょう。そういう自分のあり方と闘うことこそがヘテロセクシズム(強制異性愛主義)と闘うことなんだと私は思う。
 ヘテロ社会からもはみ出し、レズビアン・ゲイのコミュニティーからもはみ出しかねない「バイ」(おっと違った「きれいな肌フェチの若専」)の私が提案するのはだからこんなこと。「レズビアン」「ゲイ」「バイ」「ヘテロ」といった自分を守ってくれるレッテルに自分を同化させたりせず、あくまで「たった1人の少数者」として生きること。
そういう「クイアーな生き方」を選択した私たちはいったいどんな人間関係を、コミュニティーを、つくるのだろう。とても楽しみ?


 あとがき

 この文章は、6/30の「第1回レズビゲイ・プライドマーチ in 札幌」のときに配るために書いた文章に少しだけ手を加えたものです。
 札幌のパレードはとても楽しいものでした。それは「バイセクシュアル」を掲げて歩くことができたということもありますし、いろんな人と出会い、また共同作業ができたということもよかったです。札幌では、「私たちは誇り高きバイセクシュアル」「無理に『レズビアン』や『ゲイ』を名乗る必要はない」「ヘテロだけ、ゲイだけ、レズビアンだけ、◯◯だけ、はもうたくさん」「バイはレズビアン・ゲイとヘテロの中間ではない」「女!男!うんざりだ」といった大きなプラカードを掲げて歩きました。ゲイリブの文脈では見たことのないスローガンもあるでしょ!
 それから、ぼくは「パレードは警察の指揮に従って整然と歩くものだ」などとは間違っても思っていない。一緒にプラカードを持ってくれた人もそういう窮屈なデモは嫌いなようで、いっしょに反対車線を走り回ったり、中央分離帯に上ったりと好きに派手に動き回れたわ。そうよこれがデモよパレードよ!デモは暴動の前段階よ!(1000年先?)
 あと、車を出して音楽をかけたんだけど、「じゃがたら」やフォルクローレやサンバ、戸川純、浅川まきなどハウス以外の音楽をかけることができてよかった。例えばクラブでハウス・ミュージックを聴いて踊って楽しむのはそれはそれでいいのですが、ゲイといえばハウス、クイアーといえばハウスみたいなのが当たり前なのは、まっぴらごめん。

 この文章では話をセクシュアリティーに限定してますが、最近私はそうすることの窮屈さに耐えられなくなりつつあります。だって、セクシュアリティーのことなんて、私が社会のなかで生きていくときに感じるたくさんの嫌なこと不自由なことのなかの1つでしかないんだもの。
(セクシュアリティーことこそがことさら問題なのではなく、それは様々な問題のなかのone of themでしかない!例えばこの前、がらがらのバスのなかで弁当を食べていたら運転手がわざわざやってきて「車内で食べるな。そんなのは常識だ」などと言いがかりをつけてきた。そんなえらそうな運転手のうっとうしさーーほかにも、地下街には座って休むベンチがない、地べたに座ると警備員がやってくるとか、原発や軍隊などには国家がばく大な無駄金をつぎ込むくせに本来タダであるべき電車などの公共交通機関に私が乗るのには高いお金がかかるとか、常雇い労働者だけを過度に優遇する制度とか、警察が私の許可を得ずに勝手に私の車をレッカー移動しておいてそのレッカー移動代をとられるとかーーそういう様々なうっとうしいことの一つとして、社会に蔓延するヘテロセクシズム・ホモフォビアの問題があるに過ぎない)

 これからどういう形になるかは分かりませんが、バイについて、クイアーについて、考え表現し続けたいと思っています。
 で、お願いがあります。ぜひあなたの感想を教えて下さい。よろしく!

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