2:性別にこだわっているのは誰か?

 「俺/オレ」「僕/ボク」「私/わたし」という自称にこだわり、「さん」付け「君」付けされることにこだわり、「本来の自分を取り戻すために」性役割をわざわざ意図的に身にまとい、時には体さえどちらかの性別に合わせてしまう。トランスジェンダーっていう人たちは、なんて性別にこだわっている人たちなんだろう!そんな窮屈な生き方をしなくてもいいのに。————そんなことを思ったことはありませんか?
(初出「女?男?いちいちうんざりよ!–性別の二元論を問い直そう」資料集 98年12月5日)

 

初出収録元

「女?男?いちいちうんざりよ!–性別の二元論を問い直そう」
資料集

発行:変態生活舎

 

発行日:1998年12月5日

価格:非売品・企画参加者に配布

以下の文章は、1998年12月5日に行われた企画「女?男?いちいちうんざりよ!–性別の二元論を問い直そう」において日比野が発言した要旨を、その後の様々な意見を参考に改訂したものです。性自認と性別の二元論の話を分かりやすく分析して書いた、おそらく日本でも数少ない文章です。是非読んでみて下さい。

 目次

 

 

性別にこだわっているのは誰か?

日比野 真

 「俺/オレ」「僕/ボク」「私/わたし」という自称にこだわり、「さん」付け「君」付けされることにこだわり、「本来の自分を取り戻すために」性役割をわざわざ意図的に身にまとい、時には体さえどちらかの性別に合わせてしまう。トランスジェンダーっていう人たちは、なんて性別にこだわっている人たちなんだろう!そんな窮屈な生き方をしなくてもいいのに。————そんなことを思ったことはありませんか?

 人間には「女」「男」という二つの性別があり、たいがいの人はそのどちらかに分けることができる、と考えているのはいったい誰だろう。パブリックな場で「男」「女」に分けるという行為には合理的な意味があって理由のあることだ、と主張しているのはいったい誰だろう。「女同士だったら分かり合える」「男同士だったら話しやすい」というように、「男」や「女」にはそれぞれ何となく共有されているものがある、と考えているのは誰だろう。
 それは、公衆便所で女子便所・男子便所のどっちに入っても落ちつくことができない、ということがが決してない、あなただ。それは、銭湯に行く度に男湯か女湯かを選択させられることに一度も違和感や嫌悪感を抱いたことのない、あなただ。それは「女が好きなの?男が好きなの?」と無邪気に聞くことのできる、あなただ。自分の性別をわざわざ言葉にして他者に説明するということすらしないでも当たり前のように男子便所に、女湯に入っていくことのできる特権的マジョリティーの立場に安住している、あなただ。そしてもちろん、それは私のことでもある。

 なぜパスすること(**注8)を望むトランスジェンダーがいるのか?それは、パスしない限り他人が決してトランスジェンダー本人の性自認を尊重せず、本人の意志を無視して勝手に「女扱い」「男扱い」するからではないのか。あなたは、女湯にオチンチンのある人が入ってきても当たり前のこととして受け入れられるのか。あなたは、男子トイレに長髪のロングスカートをはいたかわいいコが入ってきても驚かないでいられるのか。男の子だと思って服を脱がせてみたらオチンチンがなくオマンコが付いていた時に、あなたは相手を受け入れられるのか。

 女として育てられたということと、その人が女であるということとは別のことだ。女としての性役割を持っているということと、その人が女であるということとは別のことだ。オッパイを持っているということと、その人が女であるということとは別のことだ。スカートをはいているということや女らしい振る舞いをするということと、その人が女であるということとは別のことだ。生理があることや出産できる/したことがあるということと、その人が女であるということとは別のことだ。女装が好きだということと、その人が女であるということとは別のことだ。女湯に入っているということと、その人が女であるということとは別のことだ。その人が女であるということは、その人の性自認が女であるということ以外の何も意味しない。本人以外が、勝手に人の性別を決めてはならない。
 母体保護法第28条の存在を暗黙と無関心という方法を使って支持し、性別の自己決定権と身体の所有権を侵害する社会や国家を支え、自身で日常的に他者の性別の自己決定権を侵害し続けているのは、いったい誰なのか。トランスジェンダーをして、「ボクは男なんだ」というカムアウトを強いているのは、いったい誰なのか。どう呼ばれるかなどということについてまで「さん」付け「君」付けといった具体的な方法をいちいちわざわざ具体的に指摘され教えられない限り、勝手に相手の性別を自分で判断して呼称を押しつけているのはいったい誰なのか。カムアウトされない限り勝手に「男扱い」しているのはいったい誰なのか。オッパイやオマンコがあることを理由に勝手に相手を女扱いしているのはいったい誰なのか。「ボクは生まれつき男なんだ」と言わない限り、本人の性自認を尊重せず、性再指定手術ができない状態にいることを想像もせず、本人の声に耳を傾けてこなかったのはいったい誰なのか。「本来は」「生まれつきは」「脳の形態が」「実は性同一性障害で」などといったそれらしい理由を言わない限り、本人の性自認を尊重せず、性再指定手術ができない状態にいることを想像もせず、本人の声に耳を傾けてこなかったのはいったい誰なのか。
 トランスジェンダーをして、性別にこだわることを強いているのはいったい誰なのか。

 女として扱われる人たちや女として育てられた人たちの間に、現在の現実としてそれなりの「女らしさ」というものがあるようには、私にも思える。今の社会で、「女として」見られ扱われる人が雇用を拒否されたりなめられたりするのは紛れもない事実だ。しかしそのことは、「女が女らしさを持っている」とか「女は雇用されずなめられる」ということとは、別のことだ。ある一つの様式や文化を持った人たち、又は同じような権力構造の中に置かれるものたちで集まること、例えば「女として扱われてきた人たち」で集まることには意味がないわけではない。しかし、それと、「女が、集まる」ということとは、別のことだ。
 性役割について考えるということは、ウーマンリブやフェミニズムの息の長い運動の中で、相当の訓練がなされている。しかし、性自認について考えるということは、これまでほとんどそのような場がなかったため(というより、これまでずっとトランスジェンダーの発言を無視し続けてきたため)、私を含め、まだ不慣れな人の方が多い。性自認と性役割の問題は、まず一度、全く別の問題として切り離して考えてみる必要がある。

 「トランスジェンダーが性別にこだわっている」などと人のことをあれこれ言う前に、まず私のような性別違和のない者がするべきことは、自分自身がいかに性別にこだわって暗黙の前提にしているのかを思い知ることだ。自分自身の無知と無関心を使って、これまでに何人のトランスジェンダーに対して一方的に「男扱い」「女扱い」をしてきたのか、思い起こすことだ。
 そしてそんなことよりも、もっと優先されるべきことが山ほどある。母体保護法第28条の廃止。戸籍と外国人登録の性別変更の任意化(又はそれらの廃止)。性別違和やホルモン・手術などについて話し合える、相談できるカウンセラーの育成や、当事者団体に対する支援。医療現場におけるインフォームドコンセントの徹底。公的な場における性別を理由とした異なる取り扱いの禁止。また公的な書類における性別欄の廃止。ランドセルの色の完全自由化と、男女別に分けられた制服の廃止。生理がある男性に対する生理休暇の付与。公衆便所の全室個室化。銭湯の混浴化と、個室銭湯の設置。
 私が性自認について理解を深めること、社会の多数派が性別違和について理解を深めて納得すること、などよりも先にまず優先して達成されなくてはいけないのは、性別違和を持たない人たちの無知と無関心によってわりを食っている人たちの不便を解消することだ。

 「性別二元論の解体」「ジェンダーフリー」などというたわごとは、そのあとで話し合いたい人たちで話し合えばいい。

(付記)
 「私が性自認について理解を深めること、社会の多数派が性別違和について理解を深めて納得すること、などよりも先にまず優先して達成されなくてはいけないのは、性別違和を持たない人たちの無知と無関心によってわりを食っている人たちの不便を解消することだ。」というのは論理構成上全くの正義であり、実に正しい。差別や抑圧・搾取といった社会的な問題の主要な論点は、「権力の遍在」つまり「ものを決める人と決められてしまう人がいる」というところにあるからだ。だからこそ、多数派による理解や納得の有無に関わらず、多数派の持っている権力は剥奪されねばならない。
 さて、では、どうやって?
 冒頭のような、全く正しい論理を実力でもって実践してきたのが、これまでの様々な革命運動であった。抑圧者を打倒し、政権を取り、新しい憲法と法律を制定して理想の社会をつくろう……。自らが権力を握り、自らが権力の座に登ることによって多数派の持っている特権や権力を奪い、差別や抑圧・搾取といった社会的な問題を解決しようとしてきた運動が、いったいどういうものであったかについては言を待たない。権力構造の解体ではなく、新たな権力構造の再生産でしかない運動が、いかにそれが正しい理想や正しい目的や、やむを得ない事情によるものであったとしても、いかに差別や抑圧・搾取を再生産するものであるか!
 サパティスタ民族解放軍が注目されるのは、サパティスタが権力の奪取を目指さず、自分たちにとっての正義を多数派のメヒコ政府などに力で押しつけることもせず、「対話を開始しよう!」と他ならぬ多数派に対して呼びかけているところにある。私たちの存在や主張を黙殺するのは許さない、でも結論は押しつけない、だから、対話を開始しよう!
 現実に「性別違和を持たない人たちの無知と無関心によってわりを食っている人たちの不便を解消する」ためには、結論(自分にとっての正義)を暴力によって押しつける方法を採らないのであれば、「多数派が性自認について理解を深めること、社会の多数派が性別違和について理解を深めて納得すること」は必要不可欠なことだ。多数派に対して話しかけ、「分かってもらう」のではなく「分からせる」ために少数派が時間をとられ搾取され消費されるのは、現実に「性別違和を持たない人たちの無知と無関心によってわりを食っている人たちの不便を解消する」ためには、避けられない過程でもある。それを嫌がるのであれば、それは権力への指向、2世代前の単純な暴力革命への指向にほかならない。
 搾取され消費され差別されることが悪いのではない。私たちが他者と人間関係を持つということは、お互いで搾取し消費し差別し合う関係の中に自らを放り込むということに他ならない。自らが「多数派」になってしまわないために必要なことは、確信を持って相手を搾取し消費し尽くした上で、ちゃんと相手と向かい合い相手の存在を受けとめることではないだろうか。

注釈

パスすること(**注8)
トランス(自覚する性別にふさわしい姿をしていること)が見破られないで、その性別で他者に通用することを「パス(パッシング)」という。


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