女?男?いちいちうんざり?ホントに?

 トイレや銭湯が男女別に分けられている事は余りにも当たり前にされてしまっており、本当にほとんどの人はそれに何の文句も不満も抱かずに一生を終わっていきます。それほどまでに「私たち」はジェンダー化されてしまっています。私の友人でもあるハヤブサ人生が「銭湯のしきりの壁を壊したい!それが革命だ!」と言っていたのですが、それは決してなにかの例えや極端な例ではなく、性別二元論に基づく性差別をなくすという観点からは当たり前の、最低限の政治的主張でしかない。私たち1人1人が、トイレが「白人(white)」「黒人(black)」に分かれているのを見て当惑するように、銭湯や公衆便所が男女別に「区別」されているのをみて、毎日毎日腹をたて、その設置者に抗議をできるようになって初めて、私たちの意識が性差別から少しは自由になれたと言うことが出来るのだと思う。
(ぽこあぽこ Vol.15 2000年11月23日)


ポコアポコ15号下巻

ぽこあぽこ Vol.15
特集「性別というもの、こと」
ゲイ・フロント関西発行
2000年11月23日

女?男?いちいちうんざり?ホントに?

日比野 真

★白人(white)と黒人(black)

 ちょっと前に古本屋で南アフリカ共和国の事を書いた本を立ち読みした。本の冒頭に、南アの空港に着いてトイレに行こうとしたら本当に「白人(white)」「黒人(black)」に分かれていて、しかもそれだけではなく、誰もそれにいちいち抗議するでもなく、当たり前のようにそれぞれの割り当てられた方のトイレに入っていくのをみて、「名誉白人」である「日本人」の著者がぞくっとしたということが書いてあった。肌の色によって場所を分けるのは当たり前だ、という考え方、いや正確には、白人が黒人を差別するのが当たり前だ、という文化が、社会に生活する多数の人たちの個々人の意識にまで浸透し、そういった政治的な権力関係(ヘゲモニー)がかつては(実は今も)実際に存在した。そういった状況下においては、白人と黒人との場所を、トイレはもちろんバスの座席においても区別することは確かに理由のあることだ。なぜなら、安易に両者が同じ場所に居合わせてしまうと、白人から黒人への嫌がらせやひどいときには物理的な暴力の危険性が実際にあるからだ。第一、お互いに安心しておしっこをすることができない。だから、トイレを「白人(white)」と「黒人(black)」に区別するのは、ことさらな人種差別ではなく、暴力事件などの問題を事前に防止するための合理的な理由のある区別なのだ。別にその本にはこう書いてあったわけではないが、南アにおけるあらゆる公共の場所での黒人への差別・隔離・分離を、この様な生活上の実感から容認していた人は決して少なくないと私は想像しています。(**注1)
 これも伝聞なのですが、北海道稚内市では、大衆浴場が長い間「外国人入場禁止」という看板を出し、その横に「外国人専用」の施設が設けらていたそうです。はたしてこれは合理的な区別・住み分けなのでしょうか。まさかそんなはずはなく、地元では人種差別だとして抗議活動がなされているという事です。(**注2)
 今では、私は、「男女別に分けられたトイレ」も、これとほぼ同じような性差別の象徴として考えています。トイレや銭湯が男女別に分けられている事は余りにも当たり前にされてしまっており、本当にほとんどの人はそれに何の文句も不満も抱かずに一生を終わっていきます。それほどまでに「私たち」はジェンダー化されてしまっています。私の友人でもあるハヤブサ人生が「銭湯のしきりの壁を壊したい!それが革命だ!」と言っていたのですが、それは決してなにかの例えや極端な例ではなく、性別二元論に基づく性差別をなくすという観点からは当たり前の、最低限の政治的主張でしかない。私たち1人1人が、トイレが「白人(white)」「黒人(black)」に分かれているのを見て当惑するように、銭湯や公衆便所が男女別に「区別」されているのをみて、毎日毎日腹をたて、その設置者に抗議をできるようになって初めて、私たちの意識が性差別から少しは自由になれたと言うことが出来るのだと思う。
 そして「設置者に抗議」まで出来るようになるためには、何よりも性的な暴力を許さない文化をつくること、ジェンダーごちゃ混ぜでお風呂に入っても性的な暴力がおきにくい社会をつくることが、必要不可欠だ。性別二元論と闘う運動をする人が性暴力をなくす運動に関心を持ち、性暴力をなくす運動をしているフェミニストがジェンダーそのものをなくす運動に関心を持って、両者が協力することが出来るようになると良いなあ。

★私には全く分かっていなかった

 以下の文章は、1998年3月11日発行の「Project Press No.16(**注3)」に掲載された三浦サツキさんの文章の一部です。少し引用してみます。

「わたしは京都に来ることが多くて、京都の友達の家はだいたいフロなし。なのでほとんど毎日銭湯に行く。だいたい何人かでわいわいいくのに、銭湯の入口では男と女にわかれてしまってなんかつまらんなあ、一緒に入れたらいいのになあ、そんな気もちが前々からあった。しかし、実際入ることになって段々自分の中でこれはケンカ売ってるんだと、挑発的行為なのだ(男女の2分法で分かれている社会に対しての、性差に対しての)、という意識が強く働いてきて、しかしそのほこ先が明確でないのでかなり頭の中が混乱していた。」
「実際、文句をつけられた時の対応、それは色々あったのだけれど、(中略)、自分では心は男だ、といおう、そう思っていた。しかしこれは心が男であると自認している人たちに対して失礼なこと、でも私にはそういう意識が薄くてそれは、自分の心について、男か女かの判別なんてつかんから。男か女かそんなのわからん。ああでもそうしたら、やっぱりしつれいなことになるなあ。」
「何度か男湯にはいってみて、何がしかの意味があったのか、どういうつもりだったのかっていうと、やっぱわからない。うん、入ってみたかった、興味と好奇心。これにつきる。これを運動にしたい、とかは全然思わないし、もしこんな運動が起きたりしたら、違和感を覚えるだろう。ただ、男と女の2分法で片づけられる窮屈さに対して、性差というものに対して、そんな線いらん、なくしたい、という思いはいつもある。今回男湯に視点がいったけど、公衆トイレも気になるところだ。」

 今から読めば、この文章は性別二元論を強いる性差別社会への違和感を実に端的に表明していると思う。社会における性別二元論の象徴ともいえる銭湯に自ら入りに行き、公衆トイレまで指摘している。性別二元論を前提にしない意識を本当に持っている人であるなら、三浦さんのように「銭湯の入口では男と女にわかれてしまってなんかつまらんなあ、一緒に入れたらいいのになあ」という疑問が自然に出てきて場合によっては行動に移すのが当たり前のはずだ。しかしこの文章を読んだ当時は、女の体を持った人が男湯にはいることについて何となく面白いネタのようにしか捉えることが出来ず、銭湯が男女別になっている事自体に本当に問題があると理解することは私には出来なかった。性差別の不条理を言うためのいわば極端な例やたとえ話のようなものとして理解し、従来のフェミニズムの文脈で勝手に解釈し(**注4)、三浦さんの提起しようとしていた問題を、これまで提起されていなかった新しい問題として認識することが、その当時は出来なかった。性指向における性別二元論の不当性にはバイセクシュアルの問題領域を考える中で色々と思い当たっていたが、性役割や性自認の領域や、社会の中での性別による異なる取り扱いそのものの性別二元論(ジェンダー)を「本当に廃止する」ということは、想像もしていなかった。はっきり言うと、銭湯やトイレの男女区別をなくすなどというのは、何かの冗談だと考えていた。単にそう言っている人がいるというだけのことで、重大な政治的な問題だとは全く思っておらず、聞き流していたというのが事実だ。
 Project Pressの発行元であったプロジェクトPのなかでも、女の体を持った人が男風呂に入ったということは話題になり、私も三浦さんと友人になりたいと思っていた事もあり、自分としては三浦さんの文章をちゃんと読んだつもりでいた。しかしそれが単なる私の思い込み(というか、実は全く言葉を受けとめていなかった)であったことが自分で分かるのは、随分と後のことだった。具体的な出会いの中で提起された問題に逃げないで付き合うという事をモットーとして活動屋をしていたつもりの自分としては、もっともっと人の話に耳を澄まさなくてはならないと自分に言い聞かせるための、とても苦い教訓の一つだ。

★日比野がおいつめられる!ピーンチ!

 ハヤブサ人生(ぽこあぽこ12号の巻頭インタビュー参照)には、知り合ってすぐに「ぼくは男だ」とカムアウトされた。ことさらなカムアウトが必要だったということは、私がハヤブサを女としてみていたことを意味する。はじめから男としてみていたり、性別に本当にこだわらない状態で日比野が生活をしていたのであれば、そんなカムアウトはそもそも不要だからだ。「それって、もしかして、性同一性障害ってやつ?」とおそるおそる聞いたことを記憶している。知り合ったのがいわゆるセクシュアルマイノリティーのコミュニティーとは全く違う場所だったので、かなりびっくりした。と同時に、よく知らない人を勝手に異性愛者であると決めつけてはいけないのと同じように、よく話しもしない人のことを勝手に男であるとか女であるとか、見かけだけで決めつけてはいけないんだということを、実感させられた。当時すでに周りに森田さんや田中さんなどがいてくれたおかげで、ごく基本的な言葉(「性同一性障害」とか)と概念のアウトラインをあらかじめ知っていたことに、内心深く感謝した。でも実は、単なる表面的な言葉の理解でしかなかったことが、これから数カ月かけて露呈していったのだった。
 性自認は本人の言っていることを尊重しなくてはならない—-と、言葉で言って賛成することは簡単だ。自分が発話する相手の呼称くらいなら忍耐強くがんばれば何とでも自分で変更できる。しかし相手の性自認を尊重するということは、例えば一緒に男湯にはいることだったりする。だって、相手が純男や純女だったら、何の躊躇もなく「じゃあ今から銭湯に行こうか」と言ってお風呂に行くじゃないさ(当時はうちにはお風呂はなかった)。男なら一緒にはいるし、女なら別々に入って後で待ち合わせるとか。ところがハヤブサと一緒に男湯に行くのはさすがに緊張したなあ。なんかトラブルのが怖くて、いつも行っている近くの銭湯ではなく、少し遠めの銭湯に出向いた。なさけない!一応目立たないように洗い場の隅っこで体を洗ったりするんだけど、浴室も更衣室もほんとにシーンとしている。みんな黙っている。見て見ぬ振りをしている。他の客が逃げるようにあがっていく。すごい緊張感だ。
 そのときの私は、「もしハヤブサが入浴を番台で断られたら、ちゃんと抗議しよう!」と考えていた。これは、難なくパスできた。実際には、入浴後に着替えているときに客のオヤジの1人が話しかけてきて、いくつかの質問をされたくらいだった。もちろんもしハヤブサが典型的な男の体をしていれば話しかけられることすらないわけで、ハヤブサにとっては面倒で不快なことではあろう。しかし何も知らない第三者が好奇心に駆られて話しかける事自体は、それが相手を尊重した方法でなされる限りは不当ということはない。わたしは「もしハヤブサが他の客に何か変なことを言われたりされそうになったら、ちゃんとハヤブサを支援しよう」と考えていた。これは、見て見ぬ振りはしまい、セカンドレイプの加害者にはならないようにしよう、という事だ。ぼくには銭湯はいつもはリラックスするところだが、この日はとってもエネルギーがいる銭湯だった。そして、ハヤブサにはこの緊張感が日常なんだよね。単に一緒に行っている友達に過ぎない私でさえこれ程までの緊張感があるんだから、FTM本人の場合はさらに性的な暴力を受ける危険性まで考えると、諦めたり屈服したくなる気持ちも十分理解できてしまう。
 こんな感じでハヤブサは私に性別二元論の社会がなんであるかを身をもって教えてくれた。
 そうすると次に自分の生き方が自然と問われてしまう(嫌だなあ!)。
 街に一緒に出たときにハヤブサが女性用トイレに「まあ、仕方がないよ」という顔をして入っていくと、やっぱり安堵している自分がいる。だって、もし頑として男子トイレに一緒に入ってこられたら、周りの場が緊張するおかげで私も落ちついておしっこできないし、もし万が一もめたらハヤブサの応援をしなくてはいけなくなるんだもの。私の個人的な生活上の利害からは、ハヤブサが女性用トイレにいってくれるのが一番楽ちんだ。こんな感情の動きはもちろん表には出さないように隠そうとするのだが、でもばればれだよねえ。性別二元論によって秩序立てられている社会の中で私自身が何不自由なく生きていけているという現実と、ハヤブサが街でトイレ一つ安心して行けないという現実。これに制服や「彼/彼女」の呼称問題、職場でのジェンダーの強制、各種書類の性別欄、ありもしない「女たち」の幻想をつくろうとする(一部の)フェミニズム運動なども考えれば、ほんとどこにも居場所がないじゃん!!!ここまで社会全部が性別二元論を強いる社会だとは全くそれまでは気付かなかった。しかも、私自身も内心ではハヤブサに女子トイレに入って欲しいと思ってしまう、つまり私自身こそがハヤブサに性別二元論を強いようとしてしまっている。社会よりも何よりも私自身こそが、ハヤブサを始めとするトランスジェンダー(広義)の生きにくい社会を創っていた張本人だという事じゃないですか。そこまで分かってしまった私は、セカンドレイプをしないようにしよう、相手に対する直接の加害者にはならないようにしよう、と偽善者ぶるだけで良いのだろうか、と自問せざるを得なくなった。さあ、日比野、どうするよ。
 だったら、自分も社会を相手に闘うしかないね。社会を相手に闘えるような自分にならない限り、悪意のない加害者として、自分でも気がつかないうちに私自身がハヤブサに対して性別二元論を押しつけてしまうに決まっているじゃないですか。

★変態生活舎のイベント

 というわけで、1998年の12月5日に、変態生活舎という即席の団体名で、ビデオ「We are Transgenderes」の上映と、パネルトークを行いました。
 実はそれまでは、例えば「私の友人にトランスジェンダーがいます。トイレに入るときにその友人はどちらに入ればいいかでいつも困ります。だからトイレの男女区別には問題があります」みたいな言い方しか私はできなかったんだけど、これではいつまでたってもハヤブサに依存し、ハヤブサにたかり、ハヤブサに頭が上がらない。なので、この日のパネルトークでは、なんとかハヤブサの事例なしで、性別違和を巡る社会的な状況を言語化できないものかと試みました(**注5)。基本的には「性別の自己決定権」という概念を提起し、与えられたものとしての性別ではなく、どのような性別を(体の形状を、性自認を、性役割を、法律上の性別を)選択するのも本人の権利であるという考え方を提起しました。私自身としても、この言語化により、当事者かどうかを一切問題にしないで、社会的な権力構造の問題として性別二元論や性別違和の問題領域を表現する方法をみつけた感じがします。ハヤブサにも読んでもらいましたが、やっと、私が自分の位置からハヤブサに返事を返すことが出来た気がしました。この文章は、ハヤブサ、森田さん、井上くん、田中さんなどから戴いたいくつもの意見を参考にして随分と改訂された上で「ぽこあぽこ12号」に「『女?男?いちいちうんざり!』と言い続けていくために必要不可欠な主張」として再録されています。
 この企画では、全ての参加者に受付で「変態」か「ノーマル」かを自己申告してもらい、レッテル用のシールを配って服の上から貼ってもらいました(ちなみに変態割引があって200円安くした)。トイレも、既存の男女区別のトイレの中の便器一つ一つ個室一つ一つに「変態用」「ノーマル用」の区別をしました。折に触れ、「あなたは変態?それともノーマル?」という問を参加者1人1人が受けるようにしむけ、参加者1人1人にうんざりしてもらうことが目的でした。成功しただろうか。もちろんこれは、男女区別のうっとうしさの擬似的体験を目的としています。

(補足)「自分に性別違和がない」「私は男だ」と言うことは、日比野にとってどういうことか
 私が「性別違和がない」とか「私は男だ」と言うのはどういう意味があるのだろう。一つには私自身があまりにも男としてジェンダー化されてきている(考え方や身ぶりなど)という事実に対する認識です。身近な人との私的な人間関係の中においてすら優位に立ててしまい得るという事態への自覚の表明でもあります。また、私の場合、フェミニズムの影響は極めて大きく、社会的に男として扱われるという特権を持っているということは常に意識せざるを得ません。実際、男のみを雇用する職場に私は簡単に雇用されることが出来ました。一部のオネエが、あまりに安易に「わたしはオンナよ」などと言って女性として扱われる人のことを分かったような口を利くことへの反感もあります。いくらパートタイムで女装をしようが、私の男としての特権は全く手放していることになりませんし、その事に無自覚な一部の女装者も好きではありません。現実に男のコミュニティーにいる(いさせられている)自分としては、男のコミュニティーの内部にいながら男達を徹底的に裏切ること(例えば、男としての特権を、男としての特権の解体のために使うこと。男のコミュニティーの中に居続けて、ホモソーシャルな男同士の連帯感の形成を阻害し、どんなに無視忌避嫌悪されてもそこにあるジェンダー擁護と性差別を告発し問題提起し続けること)こそがフェミニストとしての自分の仕事の一つだと思っており、そういう位置に自分がいるという表明としても、「私は男だ」と言っています(でももう疲れたよん)。「女性」がヘゲモニーを持っている場所も多くの場合は男性嫌悪を許容しており、「女だけ」の運動やコミュニティーをも厳しく批判する私を対等なパートナーとしてすすんで受け入れてくれるところなど現時点では皆無だという事実も、「私は男だ」という認識を裏から支えています。しかし決して、「男になりたい」と思っているのでもなく、できれば「出来そこないの男」「おかま」でありたいと思っています。だから正確に言うと、自己の性別の認識は男ですが、それは「バイセクシュアル」というのが他者との関係の中で理解している自分へのレッテルだという認識と近いものがあります。私は日本語でものを考えており日本国籍があり「日本人」としての自覚がありますが、それは決して天皇制や日の丸・君が代を支持することでも今の日本政府を支持することでも現代の多数派の日本文化を肯定・共感するものでもありません。性自認は男ですが、(性別の)アイデンティティーにするには「活動家」「おかま」「変態」「左翼」「過激派」の方がしっくりきます。
 とはいうものの「男でなくなること」「男として持っている特権を捨てること」への恐怖感を現している可能性を否定しきれないのも事実です。


注釈

(**注1)
 南ア在住の峯陽一さんに教えていただいたところでは、「トイレの区別は、とても目に見えやすいものだったので、1970年代までに大部分が消えています。外部の人々に『うわ、ひどい』と思わせる小アパルトヘイトを消し去るかわりに、住む場所の隔離という大アパルトヘイトの枠組みを残そうとした」ということです。なお男女別との関係では「まずは人種別に2種類のトイレがある(男女に分けられた白人用のトイレがあり、別の場所に同じく男女に分けられた黒人用のトイレがある)という場合がまず基本です。ただし、浄化槽が一カ所であることの利便から、両人種向けのトイレが一カ所にあることも多かったようです。その場合は、白人男、黒人男、白人女、黒人女、というふうに、4つの入り口が並んでいたみたいです」とのことでした。

(**注2)[aml 18675] 外国人入場拒否問題(北海道)関連。陳情へのご協力依頼。amlについては「http://www.jca.apc.org/~toshi/aml/intro.html」参照)

(**注3)Project Press No.16
「レズビアン?ゲイ?バイ?ヘテロ?……?生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトP」発行のニュースレター。購入希望の方は日比野までお問い合わせ下さい。(末尾参照)

(**注4)従来のフェミニズムの文脈で勝手に解釈し
 「女性である」ということを根拠(口実)とした差別をフェミニズムは告発してきた。そのフェミニズム運動の文脈でも、「性差をなくしたい」「性別は重要ではない」「性別にこだわるな」というような言い方はずっとされてきたように思う。三浦さんの文章も言葉としては「性差をなくしたい」と書いてあったので、これまで自分がフェミニズムから学んだ言葉のストックを自動的に参照し、「性差をなくしたい」という言葉は女性差別を告発するために書かれていると勝手に決めつけてしまっていた。が、ちゃんとていねいに文章を読めばこれは明らかに誤読だ。ここには、本当に「性差をなくしたい」と書いてある。私自身フェミニストであり、あまりにも女性差別がまかり通る状況がいまだにあるので、女性差別を問題化することは私にとっても今でも大切な仕事の一つだ。性別二元論を問う言説は確かにフェミニズムとも密接な関係にあると思うのだが、だからといってそれを既存の認識枠組みに回収してしまうのは誤りだと思う。
 というよりもむしろ、今では私は、既存のフェミニズムの方が、性別二元論を問う言説によって、修正/バージョンアップを迫られているのではないかと考えている。「性差をなくしたい」「性別は重要ではない」「性別にこだわるな」と言いながらも、実はこれまでのフェミニズム運動は本当には性差をなくそうとしてこなかったのではないか。「男女を同じように扱う」ということと、「性別を根拠として異なる取り扱いをしない」ということとの間には、やはり微妙な違いがある。「男女平等」と「性別の廃止」の違いと言い換えれば、もっと分かり易いだろう。
 例えば部落解放運動の中では、企業の採用選考の際に本人の責任に属さない事項での選考をしないことが強く主張されました。具体的には応募書類(社用紙)に本籍(や生まれ育った場所・家族関係・宗教・支持政党など)を記入させることや、戸籍謄(抄)本の提出を強いることが問題にされました。大阪が先駆けとなり全国的に展開されたこれらの広範な運動の結果、1973年には労働省が「統一応募書類」というものをつくり、JIS規格も改訂され、本籍も都道府県名のみに限定して記入し戸籍謄(抄)本は提出しないという現在の履歴書の一般的な規格につながりました(仮に都道府県名だけであっても、日本で生まれ育ち日本語で生活していても「本籍」を持たない永住外国人に対する国籍を根拠とした差別的取り扱いの根拠になりうるので、私は完全撤廃するべきだと考えます)。しかし、履歴書から性別欄をなくせ、性別を聞くな調べるな、という主張を日本のフェミニストがしているところをこれまでに一度も聞いたことがありません。私が知らないだけ?どなたか知っていたら教えて下さい。ちなみに、米国では性別欄のない履歴書が使われているという話を聞いたことがあります。
(アファーマティブアクション(差別是正措置)と性別の自己申告との関係については今回は省略します。)

(**注5)ハヤブサの事例なしで、性別違和を巡る社会的な状況を言語化できないものかと試みました

 誰かがしんどい目にあった、誰かが生きづらいと感じている、ということと、そこに社会的な不当な権力関係があるという事とは、別のことです。「こんなに困っている人がいるからから」「生きづらいと感じている人のために」という理由で何かを「お願い」されても、現実問題として、その人の友人や知人でもない限り、「私には関係ない」と言われればそれまでです(但し直接の加害者は別)。また、全ての人が全ての人を受け入れなくてはならない、ということはありません。人には好き嫌いがあるのは当然ですし、例えばAさんのことを嫌いな人はAさんの個人的な悩みを聞く必要はありません。それ故、問題提起がされたとしても、それがある特定の個人の問題として提起されている場合には、その直接の関係者以外は無視する権利があります。
 従って、大切なのは、自分がハヤブサを好きか嫌いかに関係なく、ハヤブサと知り合いであるか否かに関係なく、ハヤブサが置かれている状況そのものが不当であると主張できるかどうか、にかかっています。
 被害者が、少数派が、マイノリティーが、自分の個人としての生きづらさを切々と語り、「私のことを分かって!」と訴えている限りは、権力者(マジョリティー)には痛くもかゆくもありません。なぜなら、権力者は自分の余裕のある範囲内で話を「聞いてあげ」、それを恩に着せればいいのですから。私自身、かつて周りの人々に対して、自分が同性を好きになったときの話などをして「分かってもらおう」「受け入れてもらおう」としきりに話をしていた時期もあります。まあ、それも必要だったのですが、しかし自分を相手に(または少数派である自分を多数派である相手に)「受け入れてもらう」という構図の中で何をどう言おうと、あまり効果はありません。これでは受け入れるかどうかは相手次第ですし、「受け入れてくれた」としても、それは私との人間関係を維持するために取り引きしただけかもしれません。そういう場合は、私との人間関係を持つ必要がなくなったらまたもとに戻ってしまいます。しかも実際は、相手にどんなに一生懸命話しても単に聞き流されることがほとんどです。多数派の善意にすがる運動には、やはり限界があります。
 だからこそ、社会的な権力構造の問題として語ることが重要です。誰かを受け入れるかどうかという話ではなく、あなた自身は当事者として社会的な不正とどう向き合うのか、という話にすることが必要です。
 性別違和を持つ人にはいろんな人がいますし、それぞれが厳しい状況を生きているのは事実です。私は、性別違和を持っているというそれだけの理由で、そういった1人1人全員と人間関係を持ちたいわけでもありませんし、また実際にそれは不可能です。しかし、性別二元論を強いる社会的な権力関係については、私も社会の一員である以上私も当事者であり、性別二元論を強いる社会の被害者1人1人と人間関係を持ちたいかどうかに関わらず、それは私の問題です。そして、変わらなくてはいけないのは社会よりも何よりも「わたし/あなた自身の認識」であり、旧態依然の意識(例えばホモフォビアや性別二元論)をもった「わたし/あなた」が誰かを「受け入れる」などというのはおこがましいに尽きる、ということを理解することこそが必要です。

“女?男?いちいちうんざり?ホントに?” への3件のフィードバック

  1. 私にとって、トイレや銭湯などが男女で分かれているのは、何の違和感もない常識です。
    性差別を無くしたいから男女の壁を無くせと言うのは、いままでの常識で生きていた人には、それこそ違和感のあることです。
    はっきり言うと、エゴにしか聞こえません。
    人にはそれぞれ価値観があるので、否定はしませんが、人の価値観を押し付けるのは、私には性差別を無くすことにはならないと思います。
    これが私の結論です。

  2. 「トイレや銭湯を男女別に分けることが可能である」「トイレや銭湯を男女別に分けることは正当である」というのは、一つの価値観ですし、人にはそれぞれ価値観があるので、その意味では尊重します。しかし、そのような特定の価値観が、現在、まるであたりまえのように人々に押しつけられ、強制されています。
    「トイレや銭湯を男女別に分けることは正当である」という特定の価値観や思想信条を押しつけるのは、それこそ「エゴ」「わがまま」でしかありません。「一般人A」さんは、まずご自身が自身の価値観を他者に押しつけている事実を認めることから始める必要がありますね。

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