皮のパンツはエッチでいいわ!

プロジェクトPのニュースレター「Project Press No.5」に書いた文章。この号は「学園祭企画『レズビアン・トレビアン・笹野みちる』の報告号」になっている。笹野みちるさんを始め、多くの出演者・プロジェクトPのメンバーなどが文章を寄せています。
(Project Press No.5 95年12月19日)

皮のパンツはエッチでいいわ!

企画の感想  BYヒッピー

Project Press No.5
(Project Press No.5 95年12月19日)

 何が1番楽しかったかっていうと、おしゃれをしたってこと。企画準備段階で「これはかっこいい!」って思える服装をした(服装だけじゃないよ、もちろん)レズビアンに何人も会って大いに触発されてしまった。皮のパンツってセクシーでいいのよね。おかげで企画2日前のとっても忙しい時期に街にまで買い物に出てしまった。(これはぼくだけでなくて他のスタッフもそうだったわ。企画の準備よりも各自の都合を断固として優先するっていう作風はぼくには新鮮でよかった。そのおかげで会場前に出したかった大きな看板が描けなかったけど。)「レズビアン・トレビアン・笹野みちる」の本番の日は「ステージに上がらない私が目立つためには格好で勝負するしかないわ!」と思って気合い入れて行ったら同じ様なことを考えて来ていたRAYと意気投合してしまったワ!

 ここ1~2年で、もしくは去年の「ゲイの11月祭天国!」から1年がたって、自分がほんとに変わったなあと思うことがある。「とにかくゲイに会いたい!」「とにかくゲイと一緒にいるとホッとする」という思いが1年くらい前まではほんとに切実だった。でももう今はそういう切実感はない。考えてみれば、切実に求めなければならないほどにゲイに出会いにくい・出会えなかった状況や、ヘテロが当たり前になってる社会がおかしいだけで、ゲイだから分かり合えるとかいうのは単なる幻想にしか過ぎない。その相手とセックスがしたいとか好きになったとかの場合以外は、性差やセクシュアリティーがどうこうというよりやっぱり一人一人の個体差こそが問題なのだ。もちろんこんなことを言えるのは、少なくとも今の日本に於いては、ほんとに多くの人が地道に頑張って創り・獲得してきた場所・コミュニティーがあってこその余裕だし、だからこそぼく自身もその地道な努力(これを運動…リブ…ともいうと思うのだが)を続けていかなければいけないと思っている。ただしこれは、既存の場・コミュニティーを守るという意味においてではなく、ゲイやレズビアンなどのセクシュアルマイノリティーに出会いにくい状況やヘテロが当たり前になってる社会をもっともっと変えていくためにできることをするという意味でなのだけど。
 例えばバイト先で、ホモフォビックな会話を聞くとき、異性と結婚することこそが一人前みたいな雰囲気を感じるとき、定職について家族を扶養するといったライフサイクルをとらないと割に合わない健康保険・年金などの社会制度について考えるとき、ぼくにとって大事なのはそのことについて愚痴ることのできる立場が同じ仲間がいるということではなく、そんな状況を変えるために一緒に協同できる仲間が欲しいということ。そしてこれは、セクシュアリティーがどうこう/ゲイetcであるかないかというよりも、その人が社会とどういう関係を創っていくか・いきたいかということの方が重要だということだと思う。だから繰り返しになるけど、ぼくにとっては性差・セクシュアリティーよりも個体差こそが問題だ。

 だから例えば、「ゲイが大勢集まっている」というだけではあんまりぼくはもう感動できない。ぼくにとって「ゲイの11月祭天国!」は必要だったけど、それをいまからもう一度「ゲイ(だけ)の祭典」というやり方で企画する気はもうないってこと。(これは去年のイベントを悪く言ってるんじゃないってことは分かるよね。また今から「ゲイ(だけ)の祭典」をぼく以外の人がやることを非難するってことでもないのよ。)
 ぼくが「ゲイ(だけ)の祭典」にあまり興味がないことの理由を、ぼくがバイセクシュアル(正確には綺麗な肌フェチの若専・性差はあまり関係ない)であることに見る人がいるかもしれない。確かにバイはヘテロ社会の中でもゲイコミュニティーの中でもマイノリティーだしぼくは「ゲイアイデンティティー」に同一化するのは困難だ。でもぼくは「バイだけの祭典」にも全く興味がない。理由は、ここまでの文章の「ゲイ」を「バイ」に置き換えて読んでくれればいいのだけれど。(バイの話をすると「じゃあアンタがバイコミュニティーを創れば。」みたいに言う人がいるけど全然分かっていないわ。ぼくは「ゲイだけ」が嫌なのではなくて「**だけ」というのが嫌なんだけどなあ。「プロジェクトPは同性愛者のグループではない」といっていることの意味をちゃんと肯定的に受けとめて欲しい。)

 「レズビアン・トレビアン・笹野みちる」を企画してよかったのはまずいろんなたくさんのレズビアンと知り合えたこと。「レズビアンと知り合うチャンスが少ない」のは何も当事者だけには限らないのよね。それから、「ゲイリブ」に傾いていた中で置き去りになっていた「女の問題」をもう一度考えるきっかけになったこと。「男はいいよね、仕事がいろいろあるから」というたぐいの日常会話はあんまりゲイフロント関西とかでは出てこない。あたりまえか。でもゲイフロント関西にもレズビアンやヘテロの女の会員もいるのにね。
 笹野さんを呼ぼうと思ったのは彼女がとってもオープンなレズビアンだということと、「Coming OUT!」などを読むと彼女が性差・セクシュアリティーをこえて人とコミュニケーションすることを楽しむ人だと思ったから。「セクシュアルマイノリティーの顕在化」と「クロスセクシュアリティーの楽しみ・可能性」がプロジェクトPの基調をなす2本柱じゃないかとぼくは思っているのだけど、そのうちの後者が「レズビアン・トレビアン・笹野みちる」のなかではっきりと打ち出せなかったのは残念でした。笹野さんも冒頭に「(プロジェクトPには)セクシュアリティーも訳わからん人がいっぱいいる、そんな人たちと出逢えるかもしれない」とこの企画に来た理由を言ってくれたのに。今年のゲイフロント関西の学園祭企画「いったいゲイってなんやねん95」を「ああこれはゲイアイデンティティー獲得のお話だなあ」とすこし距離をとってみていたのとおなじようなものを「レズビアン・トレビアン・笹野みちる」にも少し、ぼくは感じていた。ただ、これもいろいろ準備の中で改めて気がついたのですが、レズビアンが話題の中心になる一般にもオープンな場がほんとに少ない・レズビアンだけの集まりもとても少ない(ゲイよりももっともっと少ない)・レズビアン以外の人(特にセクシュアリティーを問わず男達)がレズビアンのことに興味を持っていない話をちゃんと聞こうとしない状況が確固としてあり、その状況の中では「クロスセクシュアリティーの楽しみ・可能性」を前面に打ち出す余裕はなかったとも言えるのだけど。(何回もいうけど「バイ」がテーマにならなかったことを問題にしてるのではないです。レズビアン[やゲイやバイ・要するに自分]であらゆるセクシュアルマイノリティーを代表すること、レズビアン[やゲイやバイ・要するに自分]以外のことを考えないでその中で安住することが可能なこと、などについての違和感をいっているのよ)

   「ノンケなんか要らない!」とは、実は昔のある時期ぼくは思っていた。だからぼくにとって「ノンケ」「ヘテロ」というのは最大の罵倒語だった。「ヘテロなんてどうでもいいわ、どうせ興味ないんだし」とかよく言っていた。もちろん個々人をとればヘテロの友達もいたけどそれはそれ、これはこれだった。でも何回も「そういうヘテロを一般化して否定するのは嫌だ」ということを何人ものヘテロの人に聞かされ言い方は変わっていった。「一部のヘテロは…」「ヘテロ(至上主義の)社会は…」というふうに。考えてみればそういう丁寧な言い方ができずにヘテロの人一般を攻撃したかった自分というのは、逆に「ゲイだったら分かり合える」という幻想・「これまでぼくに辛い思いをさせてきたヘテロの連中に仕返しをしてやる」みたいな怨念が強かったのだと思う。だから分かってはいても「やっぱりヘテロは…」と言ってしまっていたのだ。
 レズビアンをタイトルにして、レズビアンがあんなにたくさんいる場においても「男なんて要らない」という言葉が何回も出てきたのを聞いて、「女の話を聞かない男達」や「男の方を向かせようとする社会」が相当強く彼女たちを抑圧しているということを、ぼくは今更ながら再び感じた。

 「レズビアンとゲイは同じ同性愛者だから分かり合える」という幻想を疑った方がいいと思う。いやそれよりもっと前の段階として、他人のことについて自分で考えるってことが必要だということに男達は気付くべきなのかのしれない。

 ちょっとまじめに書き過ぎちゃったわ。ぼくのバイト先に女の人が雇用されなかった話についてはまた今度ね。

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