“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その2)

コメントでの議論のためのページです。

●はじめの書き込み
  “みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その1)

“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その2)(このページ)
“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その3)
“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その4)

““みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その2)” への12件のフィードバック

  1. ●takashiさんの「(その1)コメント17」の問題点

     takashiさんは「(その1)コメント12」で、「日比野さんの上の文章は、これ自体については、私も特に反対する理由はありません」と書いて頂いていたので、私が一貫して訴えていることをtakashiさんが理解してくれていると思っていたのですが、「(その1)コメント17」を読んで、そうではないことがわかりました。
     takashiさんが書かれているような「(「バイセクシュアル」を含まない)東京のゲイ&レズビアンコニュニティーを、パレードを通じて作り上げていこうという」という方針自体が、「バイセクシュアル」を排除/差別する間違った方針です。こういった間違った方針を掲げることができる原因は、「レズビアン・ゲイのコミュニティー」に対する不正確な認識や、「バイセクシュアル」に対する無知がその理由だと思います。

     >「セクシャルマイノリティーコニュニティー」は、
     >はっきりいってまだ存在していないんです。

     いま日本に存在し「ゲイコミュニティー」と呼ばれている全ての場所には、「バイセクシュアル」がいます。雑誌、ゲイバー、リブ団体、そしてパレードもです。歴史的には「ゲイコミュニティー」と呼ばれた全ての場所に「バイセクシュアル」がいたと考えるべきですし、将来も「バイセクシュアル」がいると考えるべきです。正確に言うなら、「ゲイだけのコミュニティー」は、過去にも現在も存在しません。
     にもかかわらず、そこはまるで「ゲイのコミュニティー」であるかのように偽られてきました。まず必要なのは、そういった間違った表象の仕方と、事実に反する認識をやめることです。
     では次に、「すでに一緒にいる」バイセクシュアルをコミュニティーから追い出して、新たに「ゲイだけ」のコミュニティーをつくるべきなのでしょうか。では、バイセクシュアルは、ゲイを追い出してバイセクシュアルのコミュニティーをつくるべきなのでしょうか。

     >まずはゲイ&レズビアンの人たちからそれがやっ
     >と始まったばかりのところなのです。

     それは事実と異なります。
     おそらく、アカーを除く全ての「ゲイ団体」には、発足当時から「バイセクシュアル」がいたし、また今もいると考えるべきです。つまり、運動の「一番はじめの段階から」、「バイセクシュアル」は当事者として、「レズビアン&ゲイ」と一緒に、主体的に運動を担ってきています。「レズビアン&ゲイ」の運動がはじめにあり、その外部にそれ以外のセクシュアリティーの運動がある、という認識は、同性愛者中心主義に基く間違ったものの見方です。

     >もしそのほかのセクシャリティーの人が声を上げ
     >活動を積み上げていき、その中から交流が生まれ
     >ひとつの大きなコニュニティーとよばれるものに
     >なっていくなら、

     「もし」ではなく、これまでの歴史において既に「レズビアン&ゲイ」以外の人は声を挙げ活動を積み重ねています。これまでの歴史の中で既に様々な交流が存在し、「レズビアン&ゲイ」以外の人がたくさん参加するコミュニティーが、実際に存在しています。

     現実を丁寧にみる時、いま存在するコミュニティーは、既にセクシュアリティーが入り混じった状態になっています。現場のレベルでは、「レズビアン&ゲイ」とそれ以外を分けて大規模な場を創ることなどできない、ということが既に明らかになっています。
     例えば「LOUD」をみてみれば、そのことは明らかです。レズビアンのコミュニティーでは、多くの「バイセクシュアル」たちが声を挙げ、レズビアンたちが「バイセクシュアル」の声を聞き、「レズビアンとバイセクシュアル女性」という括りで動くことが当たり前である状況をつくってきました。最近ではそれを更に進めて、トランスの人達とも一緒に場を創ることを、当たり前のこととして実践しています。「アニース」もそうでした。はじめは「女性を愛する女性のための」雑誌だったのが「レズビアン&バイセクシュアル」になり、その後は「セクシュアルマイノリティー」という括りになっています。
     また「名目だけ」という側面もありますが、関西の大きなリブ団体であった「ゲイ・フロント関西」も、ゲイを中心としたグループであることを2002年に公式に放棄し、様々なセクシュアルマイノリティーの問題を扱う会になりました(http://www5e.biglobe.ne.jp/~gfront/infomation0.htm)。
     「私たちのコミュニティー」には、その一番はじめの時からずっと、そして今すでに、同性愛者だけではなく、同性愛者以外の人もいます。こういう事実に基づいて、同性愛者だけを特権的に扱うという差別的なことをやめ、様々な利害関係の人がいるという事実に基づいた形でのコミュニティーをつくるために、たくさんの人達が努力をしてきました。同性愛者を中心とするあり方に異を唱え続けてきた「バイセクシュアル」の運動もこの一部ですし、私もそういった運動の一部として働いてきたことを、誇りに思っています。同性愛者を特権的に扱うのとは異なるコミュニティーをつくるための日本各地の様々な取り組みについては、「(その1)コメント20」でも具体的に例示したとおりです。
     そういった中で、2005年の今になってあえてわざわざ「レズビアン&ゲイ」のコミュニティーを創ろうとtakashiさんが呼びかける意図は何でしょうか。
     「レズビアン&ゲイ」のコミュニティーを創ろうとすることは、いま現在「私たち」が持っている多様性の中に分断を持ち込むことです。多様なセクシュアリティーの人達が努力してつくってきたコミュニティーを解体しようすることです。いま「レズビアン&ゲイ」という形で同性愛者だけを特権的に扱おうとすることは、様々なセクシュアリティーの人達が努力してつくってきた「対等な関係」を破壊することなのです。

     実は、どこにでも「バイセクシュアル」が存在するということは、誰でも知っていることです。にもかかわらず、「バイセクシュアル」は常に無視され、いないことにされてきました。これは、教室や職場の中で異性愛者以外が受ける取り扱いと同じ性格のものです。ゲイコミュニティーの中で「バイセクシュアル」に対してそういった不適切な取り扱いができるのは、「バイセクシュアル」に対する差別的な意識があるからに他なりません。
     とても残念なのですが、takashiさんも、そういった同性愛者中心主義の認識から自由ではないようです。しかし、「バイセクシュアル」は常にあなたの隣にいます。一見その人がゲイのように思えても、男性を恋人として持っていても、「バイセクシュアル」としてのカムアウトがなくても、「バイセクシュアル」はあなたの隣にいます。
     そして大事なことは、「バイセクシュアル」は時にゲイとは利害関係が異なるということです。つまり、ゲイコミュニティーや「私たちの今いるコミュニティー」には、利害関係が異なる人達がはじめからいるのです。こういった事実を認め、こういった事実に基づいて、認識を改めてい欲しいと思います。ノンケ社会の中における異性愛者と同じような態度をとるのは、やめてください。

     >一番残念だったのは、関西での有志のバレードの
     >呼びかけが結局日の目をみなかったことにたいす
     >る評価です。パレードの話がなくなったことがあ
     >なたの運動の成果であり勝利なのですが?

     これまで書いたとおり、「レズビアン&ゲイ・パレード」を呼びかけるという行為自体が、いま現在すでに様々なつながりと協力関係ができているコミュニティーの中に分断を持ち込み、「レズビアン&ゲイ」以外を排除/差別する間違った呼びかけです。だからこそ、たくさんの人が集まった話し合いの場所で、「レズビアン&ゲイ・パレード」という案は撤回を余儀なくされ、はっきりと「特定のコミュニティー・セクシュアリティー・グループの都合が常に優先されるような場にはしない」という確認がされました(http://barairo.net/special/kansai-parade/oboegaki.html)。少なくとも、開かれた場で人々が対等に集まった時には、必ずこういう結論になります。「レズビアン&ゲイ・パレード」という差別的な名前や、一部の人が決めてトップダウンで物事を進めようとする非民主的なやり方がはっきりと否定されたことは、まさに「運動の成果であり勝利」です。
     しかし何か誤解をされているようですが、私は関西でのパレードをつくるために動いていた側の人間です。パレードが開催されなかった事自体を、どうして「運動の成果であり勝利」と考えるのでしょうか。「関西での有志のバレードの呼びかけが結局日の目をみなかったこと」の原因の1つは、一部の同性愛者たちが、「同性愛者を中心としたパレードがしたい」というワガママを捨て去ることができなかったことが、一番大きな理由であると私は思っています。そういったワガママをワガママだと気がつき、同性愛者たちが「同性愛者を中心としない、いろいろな人達と対等なかたちで協力してつくるパレード」を欲しさえすれば、パレードが成立するのはそんなに遠いことではありません。
     そのことは、「関西クイア映画祭」が、様々なセクシュアリティーの人達の協力のもとで大成功したという事実からも、明らかでしょう。

  2. 長文の返信ありがとうございます。しかしこれだけいろいろとご指摘いただいても、違和感はぬぐえないどころか、ますます強く感じるようになってきてしまいました。「特に反対する理由がない」という当初の立場からも後退せざるをえない状態です。
    まず姿勢から。お互い意見の相違があり、認識の違いがあることはよくわかったんですが、どうしてわたしがあなたに、「間違った方針」、「無知」、「不正確な認識」、「間違ったものの見方」というように裁断されなければならないのかわかりません。これって対等なんですか、それともバイセクシャルに関して「無知蒙昧」な私を”啓蒙”してくれているんでしょうか。
    次。「バイセクシャルはどこにもいる」、それはそうでしょうね。でも、あなたと私の根本的な違いは、「コミュニティー」というものの捉え方なんだと思います。私の捉え方は、それそれの属性を背負った個人個人の繋がりでしかないということです。だから、ゲイである私はゲイであることを出発点にものを考えるし、あなたはバイセクシャルであることを出発点にしている。あなたも言うように立場の違いからくる利害の対立がある。で、何か一緒にやれることがあるかもしれないし、ないかもしれない。それはもう個人個人ですり合わせていくしかないことだと思ってます。
    あなたが大きな歴史的な出来事と位置付ける1996年から、東京ではなにもなくなってしまったし、できなくなってしまいました。その困難な状況を乗り越えるために2000年の呼びかけは、砂川さんがまったくの個人の責任で呼びかけたものでした。それに賛同者があつまったものです。そしたら、これに応えるにはバイセクシャルの人なりTG/TSの人なりが、個人の立場で利害を持ち寄るしかないと思います。実際そうやって集まった人もいました。
    さらに、「セクシャルマイノリティーコミュニティー」について。私はそのような総合的なものは存在していないし、人々の意識にまだないと思います。希望的に語られることはあっても。セクシャリティーごとまたは趣味趣向ごとに細分化された、小さなグループはばらばらに存在しているでしょうが、それを束ねるものは、私の理解する限り東京にはまだないと思います。また、あればいいのかどうかはわかりません。もっと相互理解のネットワークのようなものになっていくのかな。だからパレードは貴重な場の提供になると思うのです。始まりはゲイ&レズビアンでも別にそのほかのセクシャルマイノリティーを排除しているのではないし。
    ちょっと話は変わりますが、セクシャルマイノリティーのコミュニティーって日本では珍しく、とっても分権的、分散的で、地方色豊かなんですよね。だから、私もあえて、札幌、関西、東京とわざわざ地名をつけて語っているのは、まさにそれぞれの地域の特性があるからです。東京は、パレードが2年のお休みのあと、TLGPとして”復活”しました。ものすごく苦労してです。私が理解できないのは、どうして京都のあなたが、東京のパレードに当事者としてかかわることでなしに、名称変更をしかも提案でなく「求める」ことができるのかです。前にも書きましたが、対話をするかどうか受け入れるもの相手次第です。友達にメールしたって、返事がないときもあります。でも、それでこっちが怒っても、相手の気持ちが変わるわけではないですよ。
    何か物事を始めるのって、最初は結局有志からじゃないですか。その有志の思いが、”「同性愛者を中心としたパレードがしたい」というワガママ”として括られてしまったら、あまりにも残念です。
    結論。日比野さんがもし、バイセクシャルを立脚点に何か新しいものを創っていくのなら、それにゲイである私が一緒にできることがあるかもしれません。でも、非当事者(外野とも言う)の立場を出ずに、実際に苦労して作り上げていってる人たちに向かって、指図するかのような言説を続けるのなら、もう対話は成り立たないと思います。

  3. ピンバック: 玉野シンジケート
  4.  日比野さんのご主張については、10年おなじことを言いつづけて、パレードの足を引っ張りつづけているのだなあ、に尽きるでしょう。私もなにかと長いので、この人がゲイシーンに現れ始めたころから見かけておりますが、とくにお変わりなく、という感じ。
     ですので、ご自分の主張がパレード実に聞き入れられないからといって、つきまといつづけるのではなく、いいかげん戦術を変更して、ぜひ、ご自分の主張にもとづく名称のパレードを呼びかけられたらよろしいと思います。

     日比野さんのご主張が、おおかたの受け入れるところとならないのは、10年の長い時間のなかで、オーディエンスが、この人がなにを主張しているかではなく、この人がなにをしてきたか、を見ているからだと思います。
     日比野さんがるる述べているご主張–パレードはバイを排除している–を、たんにパレードに対してのみ言うのではなく、たとえば人権擁護法案などにからんで、衆議院の傍聴席で叫ぶとか、法務省や各政党の人権担当へ押し掛けるとか、最高裁のまえで座り込んでみるとか、そういう大きな敵に向かって体当たりして主張しているなら、「そこまで本気なら聞いてみようか」という気にもなります。
     しかし、現実にやっていることは、小さな、まだ足腰も弱いコミュニティの中で、やっと芽生えた、定着しかけたパレードの場へ出かけていっては、さんざんにごねたあげくに足を引っ張って、あまつさえつぶして回るだけ。そこにうかがわれるのは、どんなにやったところで、命を脅かされるようなことはない、とでもいうような甘えです。国会や政府や政党や裁判所や、そうした本当の権力に向かってそれをやれば、日比野さん個人は実際に大変なことになる可能性がある。少なくともゲイコミュニティ内でそれをやっているかぎりは、嫌われるのがせいぜいで、そういう恐れはないでしょうから。
     そのへんが、日比野さんの活動は、結局、議論の場を求めるとかなんとか口で言うほど崇高なものというよりは、「ボクもいっしょに遊んでよ~」とダダをこねているだけの、児戯に類する甘えだと思わされるのです。また、札幌パレードの交流会で直接、そう申しあげたこともあったはずです。

     日比野さんの主張の是々非々は、ぼくは判断しません。というか、その論戦の土俵にのることは、ゴメンです。私は永年この人を見かけてきて(見てきて、といえるほどフォローはしておりませんので)、とくに耳を傾けるべきものを感じないでおります。あくまでも議論のうえで判断してほしい、との思いもあるかもしれませんが、きのうきょう出てきた人ならともかく、10年来の歴史のある日比野さんには、あらためて向き合おうという気にならないのが、正直な気持ちです。

  5. takashiさん
    ちょっと長くなりましたが、せっかくレス頂きましたので、お返事です。

    まず姿勢から。お互い意見の相違があり、認識の違いがあることはよくわかったんですが、どうしてわたしがあなたに、「間違った方針」、「無知」、「不正確な認識」、「間違ったものの見方」というように裁断されなければならないのかわかりません。これって対等なんですか、それともバイセクシャルに関して「無知蒙昧」な私を”啓蒙”してくれているんでしょうか。

     私の言葉遣いによって、不快感を持たれたり、過剰に攻撃されているような思いを抱かれたとしたら、すいません。そういうことを私は望んでいる訳ではありません。
     ただ、思い起こして頂きたいのですが、私は、レズビアン・ゲイのコミュニティーに内部における同性愛者中心主義(もしくは、例えばバイセクシュアル差別)の典型的/象徴的な一例として、「レズビアン&ゲイ・パレード」の名称問題を取り上げています。
     私の問は、「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」など様々な性的少数者が参加しているのに、なぜパレードの名称は「東京レズビアン&ゲイパレード」なのですか?という問です。
     差別という問題を扱う時、全ての意見を「そういう意見もあるね」で済ますことはできません。「それは間違った意見だ」「無知」としか言いようのない場合も、少なからずあります(「人は年頃になると異性に性的に興味を持つ」「ゲイは女っぽい」)。ただ、その場合でも、根拠を示さずに自分の意見を押しつけたり、相手をバカにするような態度をとるのはよくないと思います。そのあたりのことに気をつけて、できるだけ丁寧に説明を試みてみますね。(ただ、そのおかげで長くなりました 苦笑)

    次。「バイセクシャルはどこにもいる」、それはそうでしょうね。でも、あなたと私の根本的な違いは、「コミュニティー」というものの捉え方なんだと思います。私の捉え方は、それそれの属性を背負った個人個人の繋がりでしかないということです。だから、ゲイである私はゲイであることを出発点にものを考えるし、あなたはバイセクシャルであることを出発点にしている。あなたも言うように立場の違いからくる利害の対立がある。で、何か一緒にやれることがあるかもしれないし、ないかもしれない。それはもう個人個人ですり合わせていくしかないことだと思ってます。

     「コミュニティー」といっても、いろいろな種類があります。「友達同士」というような意味でのコミュニティーや、主に個人どうしのつながりを指すものとしてのコミュニティーというのもあります。そういった個人的なこと(プライベート)についてであれば、あまり人がとやかく言うものではないという側面も確かにあります。個人的な「コミュニティー」においては、意見や利害が違った時には、そもそも一緒にいたいと思うかどうか、一緒に場を共有するかどうかが、個人の選択に任されている部分も大きいでしょう。
     しかしここで議論になっているのは、パレードといった公的なもの(パブリック)についてです。もしくは、雑誌やお店、イベントやグループといった、社会的な存在としての「コミュニティー」についてです。こういった公的な(もしくは社会的な)コミュニティーというものは既にたくさん存在します。そしてそこには、今すでに、ゲイだけではなく「バイセクシュアル」やそれ以外の様々な人がいます。利害対立は「ゲイコミュニティー」の「内部に」いま既にあるものなのです。
     従って、そういった公的もしくは社会的なコミュニティーの話をするのであれば、「一緒にいたいかどうか」「一緒にできるかどうか」はもう既に問題になりません。そうではなく、利害関係が異なる人達がすでに「内部に」存在するという事実を出発点として、ではそういった利害関係が異なる人達が、相互に対等なかたちで一緒にいるためにはどうしたらいいか、を考えなくてはいけないと思います。
     私が同性愛者中心主義を問題にするのは、私が「バイセクシュアル」だからという面もありますが、それが主たる理由ではありません。仮に私がゲイ男性であったとしても、主張の内容はほとんど変わりません。問題になっているのは、今すでに存在している「ゲイコミュニティー」の内部において、そのコミュニティーにおけるマジョリティー(マイノリティーの中のマジョリティー)であるゲイ男性と、例えば「バイセクシュアル」などが対等なかたちでいるためにはどうしたらいいのか、ということです。そしてそのためには、同性愛者だけを特権化するような「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前はふさわしくない、という議論をしている訳です。

    あなたが大きな歴史的な出来事と位置付ける1996年から、東京ではなにもなくなってしまったし、できなくなってしまいました。

     私は東京にいた訳ではないので、事情はよくわかりません。しかし、1996年以降、同性愛者以外のセクシュアルマイノリティーの存在がどんどん顕在化するなど、コミュニティーの内部の多様性を実感させる動きはたくさんあったと思います。そういったことは、私たちのコミュニティーにおける、重要で中心的な出来事の1つです。
     もし「同性愛者を特権的に扱う取り組みが、何もできなくなった」のであれば、それはある面ではいいことです。そういった現実を踏まえて、同性愛者を特権的に扱うのではない形で、コミュニティーが発展していくチャンスだからです。

    その困難な状況を乗り越えるために2000年の呼びかけは、砂川さんがまったくの個人の責任で呼びかけたものでした。それに賛同者があつまったものです。そしたら、これに応えるにはバイセクシャルの人なりTG/TSの人なりが、個人の立場で利害を持ち寄るしかないと思います。実際そうやって集まった人もいました。

     パレードを開催したという事自体はいいことだと思います。しかし、そのやりかたにも問題はありましたし、また相変わらず同性愛者を特権的に扱うパレードだったということは、様々な批判を受けても当然でしょう。

    さらに、「セクシャルマイノリティーコミュニティー」について。私はそのような総合的なものは存在していないし、人々の意識にまだないと思います。希望的に語られることはあっても。セクシャリティーごとまたは趣味趣向ごとに細分化された、小さなグループはばらばらに存在しているでしょうが、それを束ねるものは、私の理解する限り東京にはまだないと思います。

     全てのセクシュアルマイノリティーを束ねるようなものとしての「セクシュアルマイノリティーコミュニティー」というようなものを私は想定している訳ではありません。
     社会運動の文脈では、私は最低限でもLGBT(もしくはLGBTAQ)のコミュニティーは一体のものして考えた方がいいと思っていますが、これもここまでやると話が大きくなるので、今はしません。
     takashiさんとの間で話をしているのは、例えば最も話を限定した、「ゲイコミュニティー」における「ゲイ」と「バイセクシュアル」の関係のあり方です。
     繰り返しますが、個人的なパーティー(個人的なコミュニティー)ではなく、雑誌やお店、企画、グループなどの公的/社会的な意味での「ゲイコミュニティー」には、既に今の時点で様々なセクシュアルマイノリティーがいます。様々なセクシュアルマイノリティーが今すでにいるにもかかわらず、まるでそこには「ゲイ」しかいないと思いこもうとしたり、ゲイ以外の人達を対等に扱わないことは、公的/社会的な場のルールとしては間違っている、と言っているのです。

    だからパレードは貴重な場の提供になると思うのです。始まりはゲイ&レズビアンでも別にそのほかのセクシャルマイノリティーを排除しているのではないし。

    ●例えそれが「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前のものであっても、貴重な場になるのは事実だと思います。そういった観点からは、私もパレードがある事自体には賛成していますし、また今年も参加しました。
    ●パレードの目的にもよりますが、一般的に言って、もしレズビアン・ゲイ以外の参加を排除したら、当然大問題になるでしょう。また、レズビアン・ゲイ以外の参加者を排除するような排他的なパレードでは、多くの人達が楽しく参加することはできないでしょう。
    ●「そのほかのセクシャルマイノリティーを排除しているのではない」ということと、「その場の内部に差別がない」ということは別のことです。例えば、ほとんどの学校や職場は、特定のセクシュアリティーの人を排除していないし、実際にどの教室にもどの職場にも、同性愛者を含むいろんなセクシュアリティーの人も参加しています。確かに「排除」はしていない。でもそこには、ほとんどの場合、異性愛中心の文化と制度があり、女性差別や「男女という制度」が当たり前のように力を持っている。「排除していない」場合でも、だからといってその場の内部に差別や問題がないということにはなりません。
     もちろん「バイセクシュアルの参加はお断り」というあまりに分かりやすくてひどい差別があるよりはマシではありましょうが、だからといって、仮に全く排除がなくても、「排除されていないから現状には問題がない」「排除がないから、今のままでいい」と主張する事はできないです。
    ●「レズビアン&ゲイ・パレード」の問題点や不十分点を指摘することと、パレードそのものに敵対することとは別のことです。公的な形で批判をすることを、まるで何かパレードそのものを攻撃をしているように思っているのであれば、それはあまりにも狭いものの見方だと思います。

    ちょっと話は変わりますが、セクシャルマイノリティーのコミュニティーって日本では珍しく、とっても分権的、分散的で、地方色豊かなんですよね。だから、私もあえて、札幌、関西、東京とわざわざ地名をつけて語っているのは、まさにそれぞれの地域の特性があるからです。

    ●ほらtakashiさんも「セクシャルマイノリティーのコミュニティー」って言っている!
     まさにその通りで、「セクシャルマイノリティーのコミュニティー」と呼ぶのがふさわしい状況は、既に日本にも存在しています。
    ●東京のことに限定して考えても、例えばLOUDもアニースも東京です。大学生系のグループでは「レズビアン&ゲイ」と名前に冠していないものが既にいくつもあると思います。同性愛者だけを特権的に扱うのではなく、様々なセクシュアリティーの人達の間で協力していこうという動きは、既に東京でも無視できないくらいの流れになっています。
     そして更に、ゲイバーやクラブイベントなども、そこにはゲイ以外の人もたくさん参加しています。これは京都に帰ってから発見してびっくりしたのですが、パレードの会場でもらったクラブイベント「MX」のうちわには「Enjoy Night Cruising. for Lesbian & Gay & Bi & TG and RAINBOW PEOPLE in TOKYO」と明記してありました。それに、新宿2丁目で8月14日に開催されたお祭りだって「第6回東京レインボー祭り」ですよ。ゲイバーやクラブには、同性愛者以外もたくさん当事者として参加しているという事実を踏まえた、よりよい選択だと思います。
     東京でも既にそういう状況と積み重ねがある中で、あえて「レズビアン&ゲイ」という名前を選択するパレードのあり方は、「なぜ今さら『レズビアン&ゲイ』なの?」と、やはり目につきますよ。

    東京は、パレードが2年のお休みのあと、TLGPとして”復活”しました。ものすごく苦労してです。私が理解できないのは、どうして京都のあなたが、東京のパレードに当事者としてかかわることでなしに、名称変更をしかも提案でなく「求める」ことができるのかです。

    ●takashiさんだってオーストラリアにおられるのでは…(もう今は日本なのですか?)
    ●私は、1当事者として、パレードに参加しました。
    ●「求める」ことができるかどうかということで言えば、当然できます。私はパレードに参加した当事者として、そしてセクシュアルマイノリティーの1当事者として、よりよいパレードをつくるために、コミュニティーやパレードの中から差別をなくすために、パレードのあり方に意見しているのです。そういった意見の表明は、歓迎されることではあっても、非難されることではないです。
    ●例えば、「パレードでの集会の全てのスピーチに、朝鮮語と英語とロシア語の通訳をつけること」を「求める」とかいうことであれば、限られた資源の中で「できることと、できないこととがある」というのも事実でしょう。実行委員会に「求める」のではなく、ひびのが自分で通訳しろ、というのも一理あります。しかしパレードの名前を変えることは、別に何らかの特別な労力が必要なことではないです。パレードの場における同性愛者中心主義をなくしていくための第一歩として、ほとんど何のコストもかけずにできることの1つとして、パレードの名称問題はあると思うのですが。
    ●そもそも、パレードの実行委員会に参加したり、パレードの名称を決める過程自体が、公開された形の民主的なものではありません(事実と違っていたら教えてください。訂正します)。もし仮に「誰でも、パレードの名前を決める意志決定過程に参加できるようになっていたにもかかわらず、ひびのがそれに参加しなかった」とでもいうような状況があるのなら、私のあり方は問題があったでしょう。しかしそんな事実はありませんので、実行委員会の外部から実行委員会に対して意見を伝え、様々なことを「求めて」いくことは、当たり前のことだと思います。
    ●付言すると、意見の表明の方法も、適切なものでした。実行委員会に黙って裏で悪口を言うようなものではなく、ちゃんとまず実行委員会に意見を伝えています。私の意見の表明も、数で威圧したり、話し合いを拒否して結論を押しつけるようなものではなく、対話が始まることを望む内容でした。
     砂川さん(実行委員会)に宛てたメールや、その後のやりとりは、全然高圧的なものではないです。もちろんお互い個人的にはいろいろと思うところがあるのでしょうが、やりとり自体は「公的なやりとり」として、お互い礼儀正しくやっています。
     何度も私の姿勢を問題にされるようですので、私が砂川さん(実行委員会)に宛てて送ったメールを掲載しておきますね。

    前にも書きましたが、対話をするかどうか受け入れるもの相手次第です。友達にメールしたって、返事がないときもあります。でも、それでこっちが怒っても、相手の気持ちが変わるわけではないですよ。

     個人的なメールのやりとりと、公的な企画であるパレードについてのやりとりとを同列に並べるのは違うと思います。公的な企画を主催する実行委員会は、そのパレードへの意見について誠実に応答する義務があります。もちろん「応答しない」という行動をとることはできますが、そういった無責任な行動をとるのであれば、実行委員会は公的な企画を主催する団体としての最低限の社会的信頼を失うことになるでしょう。
     それに、実際パレード実行委員会は、そういった無責任な態度をとっているのではないことは、私もこれまで何回も書いてきています。

    何か物事を始めるのって、最初は結局有志からじゃないですか。その有志の思いが、”「同性愛者を中心としたパレードがしたい」というワガママ”として括られてしまったら、あまりにも残念です。

     ですから、その有志の提案していた内容には問題があったにもかかわらず、私を含むたくさんの人達が、有志の呼びかけに応えて話し合いに参加し、開かれた、民主的な、対等なパレードをつくるように努力しました。「パレードをつくろう」という思いは、みんなのものでした。
     しかし残念なことに、一部の同性愛者に、”「同性愛者を中心としたパレードがしたい」というワガママ”があったのは事実です。そういったワガママを持つ人がいると企画が成功しないので、takashiさんも、そういったワガママを持つ人達に、そういったワガママは通用しないんだよということを、働きかけて頂けるととうれしいです。

    結論。日比野さんがもし、バイセクシャルを立脚点に何か新しいものを創っていくのなら、それにゲイである私が一緒にできることがあるかもしれません。
    でも、非当事者(外野とも言う)の立場を出ずに、実際に苦労して作り上げていってる人たちに向かって、指図するかのような言説を続けるのなら、もう対話は成り立たないと思います。

    ●私は、「バイセクシュアル」を立脚点にするというよりも、「マイノリティーの中のマイノリティー」としての経験を生かして、人々が対等に生きることのできる社会と、そしてコミュニティーとをつくるために、表現と運動をしています。
    ●たくさんの人達がそれぞれの現場でがんばったからなのですが、同性愛者を特権的に扱うのではないやり方でコミュニティーをつくること、コミュニティー内部における同性愛者(特にゲイ男性)による場の私物化や、同性愛者以外に対する2級市民扱いに抵抗することなどは、日本の各地でもう既にかなりの実績を積み上げています。コミュニティーの内部における差別をなくし、風通しのいい、ギョーカイボスやエリート活動家に遠慮することのない民主的なコミュニティーをつくるという日本各地のそれぞれある流れの一つとして、コミュニティーの建設にこれまで貢献できたことを私は誇りに思っています。
    ●takashiさんのような書き方では、まるで私が人に指図するだけで、自分ではなにもしていないとでもいうような印象を受けてしまいます。でも、なぜそんな事を決めつけることができるのですか?別に私は、「takashiさんが一体コミュニティーにどんな貢献をしたのか」などと問いつめたりしていませんし、またそう「いったいちゃもんつけ」は、相手に失礼ですよね。

    ●でももしかしたら、本当に全くご存じないのかもしれないので、いくつか書いておきますね。
     私は、当事者として、運動の現場で、新しいものをつくってきました。ゲイ・フロント関西の役員をやっていた時代には、ゲイ・フロント関西の中の同性愛者中心主義を厳しく批判し、結果としてその会のあり方を変えることに成功しています。同じくゲイ・フロント関西時代に作成した冊子「ポコアポコ12号」の「特集 『バイセクシュアル』である/ない、ということ」は、日本におけるバイセクシュアル当事者のつくった冊子として、とても貴重なものです。
     また、例えば、「ひっぴぃ★スペシャル」などは、セクシュアリティーの問題と他の社会問題とを同時に考える、他にはない貴重な場でした(もし他にも、この手の動きが日本にあれば、教えてください!行きたい!)。京都でも地道にプロジェクトQにも参加して活動をしていますし、関西クイア映画祭にも実行委員として参加しています。いずれも、同性愛者を含む様々なセクシュアリティーの人々と共に創り上げてきたものです。

    ●ゲイ・フロント関西の中の同性愛者中心主義を厳しく批判
    http://barairo.net/works/TEXT/ChineseRestaurant.html
    ●「ポコアポコ12号」の「特集 『バイセクシュアル』である/ない、ということ」
    http://barairo.net/special/bi/poko12onWEB.html/index.html
    ●「ひっぴぃ★スペシャル」
    http://barairo.net/event/200305.html
    http://hip2004.barairo.net/
    ●プロジェクトQ
    http://projectQ.info/
    ●関西クイア映画祭
    http://kansai-qff.org/
    http://weblog.barairo.net/index.php?id=1122490755

    ↓もっと詳しく知りたければ、こちらへどうぞ
    http://barairo.net/hibino/index.html

    せっかくの機会なので宣伝!
    知っていますか? 同性愛ってなに 一問一答
    解放出版社発行(遠藤 和士・ひびの まこと編著)
    http://barairo.net/douseiai/index.html

  6.  日比野さんの長文コメントを拝読して分る事は、takashiさんの投稿文から何一つメッセージを受け取っていない(結局のところ話の中身を一切聞いていない)という事です。
     日比野さんからの返信コメントが毎回おそろしく膨大な文章量の長文になるのは、他者から提示された事柄に対し、その全てを言い訳、または論旨のすり替えなどで誤魔化し、逐一否定し、自己正当化に腐心していらっしゃるのが原因なのではありませんか?

     また、比較的温厚なtakashiさんの文章に対してのみ、そうした微に入り細に入った(その実)非対話的な返信を繰り返していらっしゃるようですが、他のもっと強い言葉で日比野さんを批判している投稿文(前ページのたなべさんの投稿)や、理論の面で強力にあなたを追い詰めていると思われる投稿(玉野シンジケートさんのブログのトラックバックや、永易至文さんの投稿の内容など)に対しては、果たしてこののちに、takashiさんの時と同じぐらい詳細な反論の作業をされるのでしょうか?
     
     勿論、この場はあなたの管理するウェブページなのですから、管理者の好きな基準で返信する相手や順番を選ぶ行為、それ自体はあなたの自由です。しかし現時点までのあなたの議論における「態度」を見ていると、傍目にも、逃げ場を探して半ば開き直りつつ自論に固執しているだけの、他者に対しての許容力や柔軟性に著しく欠けた、広がりの無い孤立した論者の姿に見えます。

     
     これまでの経緯から考えて、正直このブログ上ではあまり建設的な結果を期待はしていませんが、これまであなたが避けてきている相手からの投稿に、この場であなたがどう答えていくのか、もう少し見続けたいと思います。

    *なお私のこの投稿に関しては特に返答コメントは必要ありません(特にパレード論やバイ論については不要です)。
    もし何かを答えて下るにしても順番は後回しで結構です。また、今まさに私の指摘したような「他の投稿者」への返信を書かれておられる途中なのであれば、その場合は非礼を深くお詫び致します。もっともその場合も、takashiさんへの長文返答を繰り返すことでこの掲示板の主導権の維持と理論的延命を計っている、というこれまでの経緯への疑惑は晴れませんが。

  7.  少し考えを変えました。
     連続投稿で申し訳ありませんが、日比野さんの議論態度にのみ批判を行うのも失礼な気がしましたので、議論の本流の話題にも幾つか触れさせて下さい。
     
     まず、

    >雑誌やお店、イベントやグループといった、社会的な存在としての「コミュニティー」についてです
    >そしてそこには、今すでに、ゲイだけではなく「バイセクシュアル」やそれ以外の様々な人がいます

     その「コミュニティー」が、いわゆるゲイ雑誌やゲイバー、ゲイクラブイベントなどを指している場合は、「それ以外の様々な人」は、日比野さんが言うようには居ないと思います。言い換えると、日比野さんが内心期待したり自説の論拠に出来るような意味合いでは存在していません。なぜなら、それらの(おそらく商業的な)場のほとんどは、自明の理として『(日比野さんの嫌っている)ゲイ中心の原理』で動き、またそれを求め納得している人が、自主的に集まるからです。また例えバイセクシャルの方が一定数そこに混在しているとしても、自然にその場の原理に従って行動していることでしょうし、異議を唱える人も居ないでしょう。
     例えば、ゲイの出会いの「発展場」にバイセクシャル男性が入場したとして、「ここで女性と性交できないのはバイの自分に対する不当な差別だ」と叫ぶ人は居ません。しかし実際、日比野さんの被害妄想的な理論はそれに近いものがあります。(ご本人は気付いていらっしゃらないかも知れませんが)。

    >それに、新宿2丁目で8月14日に開催されたお祭りだって「第6回東京レインボー祭り」ですよ

     残念ながら、日比野さんの期待するような、少数者による権利獲得運動の勝利の結果として「レインボー祭り」になった訳ではありませんでした。
     二丁目界隈のもう一つの多数派、また世間一般でいうところの「多数派」である「ヘテロセクシャル」の商店主の存在や、権力者である都政・警察側の見解が「ゲイ・レズビアン祭り」の看板を下ろしたのが実情です。
    (残念ながら、日比野さんの言う「少数者からの主張の結果」の事例ではないようです)。

    >ほとんど何のコストもかけずにできることの1つとして、パレードの名称問題はあると思うのですが

     玉野シンジケートさんのブログの当該エントリーの中の「コンセプト」という言葉に注目して、再度お考え直し下さい。
     日比野さんがほぼノーコストのように思っていらっしゃるただの「名称」にも、作ってる側の人間の、時間と労力をかけて決定してきた意味や思想の積み重ね、また現実に採用され運用されていることの意味の重さがしっかりあります。

     この例のように、あなたは実作業のコスト面にあまりにも無頓着な、そして安全圏の外野席からの異議を挙げ続けているから、「日比野さんは何もしていないのに……」と批判を受けるのです。

    >●takashiさんだってオーストラリアにおられるのでは…(もう今は日本なのですか?)
    >●私は、1当事者として、パレードに参加しました。

     海外に居るtakashiさんよりも、実際に参加して歩いた自分の方がパレードへの関与度が高い、という皮肉のようですね。
     しかし、日比野さんは自分は当事者と言いますが、当日歩くだけの一般参加と、当日までの準備とその当日の実務作業を行った運営の人間が、意味的に違っているのは小学生にも分ることです。
     そしてこの議論の場で問題にされているのは、当然、いかに運営にコミットしていたか、です。

    >●takashiさんのような書き方では、まるで私が人に指図するだけで、自分ではなにもしていないとでもいうような印象を受けてしまいます。

     そうして日比野さんが挙げられた「実績」をリストアップしますと、

    >ゲイ・フロント関西の役員をやっていた時代には、,,,,,,,,,,,
    >ゲイ・フロント関西時代に作成した冊子「ポコアポコ12号…………
    >例えば、「ひっぴぃ★スペシャル」…………………
    >プロジェクトQにも………
    >関西クイア映画祭にも

     要するに東京のパレードについては実際は何もしていない、ということです…ね。
     あなたを批判している人は皆、「あなたが外野の立場で東京パレードの名称について何もしていないのに自己主張だけをしても、パレードの実行委員サイドがそれを受け入れる義務も必然性もない。またそうしたあなたの主張が説得力を得ることも、広く賛同されることもないだろう」と指摘しています。
     以上、全くその通りではありませんか?

     結果的にtakashiさんの問いかけ及び、それに対する日比野さんの返答内容に依る文章にはなりましたが、最初の投稿に書きました通り、私への反論は順番上、後回しにして下さい。私はゆっくりと、日比野さんが他の方への回答や反論を片付けていかれるのを待つことにします。

  8. ゲイの鈍感さには本当に頭が下がります。
    ゲイレズ以外のセクシュアリティのパレードボランティアの人がどんな思いでいるのかを察したら、胸がきゅんと痛みます。
    しかも「みんなで」っていうのは、ちょっと痛いなー、よくやるなーとは思ったけど。よっぽど鈍感か、よっぽど無神経か、まじで性格悪いかですね。

    論客のゲイの人たちは、パレードに参加するレズゲイ以外のセクシュアリティの人が、どんな思いで参加しているか、想像もつかないでしょう。多くの人が日比野さんの意見も含めるような、複雑な思いをしていることを。レズゲイを含め多くの人が名前について思っているけど、日比野一派と思われたくないから黙っているだけです。

    この問題は政治的とかそういうレベルじゃなくて、運営してる人たちの人間関係の問題じゃないかと思います。関東のコミュニティは同性愛者とそれ以外が別々に活動してきて交流をはじめたのが最近なんじゃないですか?関西はもともとごちゃまぜでコミュニティができているから、「レズゲイ」なんて名前をあげたら、個人レベルで仲良し同士が気不味い雰囲気になるし、そんなことをしたら人間関係が壊れてしまいます。ていうか、そもそもその名前にする発想がないと思います。(が数年前関西でこれまた無神経なことをしたゲイがいたのは事実ですが。案の定、その人たちは一緒に活動してきた仲間に信頼されなくなりましたが。)

    パレードを運営する人たちにはその他のセクシュアリティの仲の良い友達がいないのではないでしょうか。そりゃ関係ないと思っている人たちをわざわざ名前を上げるのは億劫でしょう。もし仲の良い友達がいるとすれば、相当鈍感か、無神経なんでしょう。そんでそれはその人だけが仲が良いと思っているだけでしょう。だから「ぼくのバイの友人は快く参加してくれた」なんてのたまうことが可能でしょう。本音で話し合っているような友人であれば、レズゲイ以外の人間がこのパレードで感じるホントのところを知っていて、こんな論議には参加しないでしょうし。それかそのバイの人がよっぽど「お客さん」として参加していたかですね。

    レズゲイも含めて多くの人が、もう「レズゲイ」はいいんじゃない。と思っています。でも言えないのは、なぜだと思いますか。

    こんなことを想像できますか。長年仲良しな人たちがパレードをするって。それで日本で始めてのセクシュアルマイノリティのパレード!すごい!。その名は『トランスマーチ』。セクマイ人口の大多数がトランスで、他のセクシュアリティも大歓迎と言っている。少ないゲイの友人とともにあなたは参加しますか。

    仲良しの友達がやってるなら参加しよかな。運営してる人がトランスなんだし、商業的にも、便宜上仕方ないか。名前はトランスって言ってるけど、セクシュアルマイノリティのプライドのためのパレードなんだし、自分も一緒に歩いてもいいよね。(まぁゲイって入れてくれたら嬉しいけど)
    いや、そんなの参加しない、自分たちのパレードを作ってやる。と思える人は幸せです。むしろ、身のほど知らずか。(←この意味がわかればこんな議論に参加しないかー。)多くの人が前者でしょう。

    日比野さん、名前を変えるなら、ボランティアスタッフとして参加して、ひとりづつ落としていくのが確実でしょう。そして、日比野さんがしないのなら、ボランティアでかかわっているレズゲイ以外の人が、
    最大限の勇気を振り絞って、
    レズゲイに向かって「土下座」をし、
    本当の気持ちを白状したらいいのです、
    私たちの名前も入れて頂けないでしょうか。と言ったらいいのです。そこでやっと、仲良く一緒に働いてきた仲間に、そんなことをされて、初めてゲイは、自分たち位置に気づくでしょう。
    そこでゲイは小綺麗なことを言わず、土下座の人々を足蹴にして、誰が金だしてると思ってんだ!?と言い放って欲しいですね。そして無自覚にマジョリティの利権を思う存分ふりかざす。
    まぁ、そんなことをしなくてもすでにこのような精神的な構図は出来ていると思いますが。

    そして大きな問題はまだあります。この名前問題が日比野さんの先輩特許になっていることです。レズゲイを含め多くの人が思っているけど、日比野一派と思われたくないから黙っているってことです。そして、それにまんまと惑わされてそう思っているのは日比野だけだ、こいつをどうにかしたらいいのだ、とゲイがこのような自分たちの多数者ゆえの無神経をさらしてまう。それを観るギャラリーが、やっぱゲイってそう思ってるんだー、もうゲイって別格だよね、マジョリティって傲慢だよなー、もうゲイに何言っても無駄だよねーと思って、さらに言うのをやめる。(諦める。)その悪循環がここ10年続いている気がします。日比野さん、違うやり方をする誰か別の人に代わってもらったほうがゲイウケがいいのでは・・・。って誰もやんないからやってるんだよな・・・

    ここでゲイの方々がおっしゃっていることはよくわかります。ちゃんとあんまり読んでないけど。
    差別の問題は現実的には「いちぬけた~」ですね。セマの中ではゲイが一番。次は誰なんでしょう。わたしは多数者が無神経になるのは仕方ないと思っています。ゲイのインテリが自分の立場も自覚できずに、偉そうなことを言っているのを遠くでクスクス笑うだけです。
    少数者だった気持ちを忘れてしまったのは惜しいですが。

    わたしはあくまで東京のパレードに関しては
    参加させて頂いている「お客さま」なので
    どうしてほしいとかはありません。
    自分でやる時はこんな無神経で仲間が不快がるようなことはしませんが。

    以上の長々と書いてきたことは、すべてわたしの「妄想」ですので
    ゲイの方々は今までどおりの考え方を変えず生きていいと思います。(^ー^)/

  9. ●KDMさん (その1)コメント13

    コメントありがとうございます。

    個人的にはこのパレードが、
    セクシャルマイノリティだけじゃなく、その友達、家族などにもひらけたものであればいいなと思います。
    そして、楽しいものじゃないと意味がないと思います。

    私もそう思います。
    いろんな立場と考え方の人が、それぞれいろいろ持ち寄って、楽しめるパレードになればいいなと思います。

    その楽しさがお互いの壁を取っ払う力をもっていると私は信じております。

    はい、わたしもそう希望します!
    いろいろと批判をしながらも、パレードがつぶれることを願うのではなく、あくまで「よりよいパレード」を目指して、参加し続けようと思うのには、そういう「力」に少しは期待するところがあるからなのかもしれません。

  10. ●たなべさん (その1)コメント14

     コメントありがとうございます。
     しかし、既に (その1)コメント15 のmacskaさんのコメントで、たなべさんは必要十分に論破されてしまったので、特に私が書くことがありません。
     ただ、パレードが公的なものであることについて理解をしておらず、まるで私的なパーティーであるかのように捉うものの見方は、例えば「玉野シンジケート」さん((その2)コメント3)にもみられます。どうもよくある認識のようですので、このあたりは後日「玉野シンジケート」さん((その2)コメント3)への批判という形で書いてみようかと思います。

  11. ●永易至文さん (その2)コメント4

     こんにちは。
     「議論で勝てなくなったら人格攻撃」という、ネットではよくある、いつものパターンですね。永易さんがそういった低レベルのことをされるということ、ちょっと残念でした。
     「レズビアン&ゲイ・パレード」というネーミングには問題がある、ということは、ちょっと考えればわかることなので、やっぱり公に批判されると無視できない影響力がある。でも正面から議論すると勝てないので、悪口を言って攻撃しておこう、という実例を示して頂いたようです。

     この10年で、日本のコミュニティーの状況は大きく変わりました。「レズビアン&ゲイ」だけを特権的に扱うのはよくないという私の主張は、今の日本では実際にかなりのところに浸透しています。もちろん私だけの努力ではないんですけれども。もう「レズビアン&ゲイ」だけを看板に掲げているグループは、特に社会運動系のグループでは、昔から比べて、ずいぶんと減りましたよね。同性愛者だけを特権的に扱うような恥ずかしい事はできないと考える人達が、どんどん増えている証拠です。
     この10年間で、日本全国で、様々なセクシュアリティーの人達の間の交流が進んでいます。もちろんまだまだ不充分なものではありますが。しかしあなたは、そういったコミュニティーの深化と成長から取り残されてしまったようですね。この10年間、一体何をしておられたんでしょうか。残念です。いまだに「レズビアン&ゲイ・パレード」というネーミングの問題点にも気が付かないフリをするご自身のあり方を、振り返ってみてはいかがですか?
     「日比野さんの主張の是々非々は、ぼくは判断しません」ということは、私の主張に「屈服」して、私の前から「敵前逃亡」をされるということですが、残念です。逃げないで、公の議論の場所に戻っておいで~(この一文、あえて永易さんに合わせて「旧態依然たる表現」を採用しています)

    以下は、詳細なレスです。

     日比野さんのご主張については、10年おなじことを言いつづけて、パレードの足を引っ張りつづけているのだなあ、に尽きるでしょう。

     いえいえ、どういうパレードが望ましいのかについて、開かれた形で話し合い、コミュニティーの合意をつくっていくというプロセス自体を妨害している永易さんの方こそ、パレードが発展するための足を引っ張っていますよ。

    私もなにかと長いので、この人がゲイシーンに現れ始めたころから見かけておりますが、とくにお変わりなく、という感じ。
     ですので、ご自分の主張がパレード実に聞き入れられないからといって、つきまといつづけるのではなく、いいかげん戦術を変更して、ぜひ、ご自分の主張にもとづく名称のパレードを呼びかけられたらよろしいと思います。

    ●わたしの意見はこの10年間でずいぶんと変わりましたよー
    ●わたしは、よりよいパレードができるために、また同性愛者を特権的に扱う間違った文化を変えるために、必要な闘いをこれからも確信を持って継続していきます。またどこかでお会いできると思いますが、その時はよろしくです(笑)

    日比野さんのご主張が、おおかたの受け入れるところとならないのは、

     本当に何か誤解しておられるようですが、同性愛者だけを特権的に扱うのがよくない、というわたしの意見は、別に私だけの専売特許ではないですよ。むしろ逆で、「レインボーマーチ」や「レインボー映画祭」など、特にわたしが何か働きかけた訳ではないところでも、当たり前のように、同性愛者だけを特権的に扱うのではないネーミングが採用されています。というか、フツウにやるとそうなりますよ。実際には「同性愛者だけの場所」なんて存在しないんですから。
     同性愛者だけを特権的に優遇して扱うようなことをすると、コミュニティーの中が分断され、みんなで協力しあう企画として成功させることができないという教訓は、広く共有されました。大阪の「レズビアン・ゲイ・パレード」が問題になった時にも、はっきりと「特定のコミュニティー・セクシュアリティー・グループの都合が常に優先されるような場にはしない」という確認がされました(http://barairo.net/special/kansai-parade/oboegaki.html)。少なくとも、開かれた場で人々が対等に集まった時には、必ずこういう結論になります。
     もしわたしの意見が、わたし1人の孤立した意見で、なんの影響力もないのであれば、おそらく永易さんもここに書き込みをされることはないでしょうし、たくさんのゲイの方から感情的なコメントが付くこともないでしょう。つまり、わたしの意見が、決して孤立した極端な意見ではなく、むしろ逆に放っておくとどんどん広まっていくということに薄々感づいておられるからこそ、黙殺できなくなったんだ、ということが、分かりやすく発覚したコメントだと思います。

    10年の長い時間のなかで、オーディエンスが、この人がなにを主張しているかではなく、この人がなにをしてきたか、を見ているからだと思います。

     同性愛者だけを特権的に扱って優遇することはよくない、ということを理解して、様々なセクシュアリティーの人達で協力しあって場を創ることを主体的に選択する人が増えているという事実を、謙虚にみつめましょう。 わたしだけではなく多くの人が「まず身近なところから差別をなくす」「マイノリティーの中にマイノリティーをつくらない」と、がんばっています。
     残念なことに、永易さんら一部のゲイ男性は、いまだにそういった教訓を理解することができずにいるようです。

    日比野さんがるる述べているご主張-パレードはバイを排除している-を、たんにパレードに対してのみ言うのではなく、

     いえいえ、どこにおいても、同性愛者を中心として同性愛者だけを特権的に優遇するのはよくない、といつも言っていますよ。

    たとえば人権擁護法案などにからんで、衆議院の傍聴席で叫ぶとか、法務省や各政党の人権担当へ押し掛けるとか、最高裁のまえで座り込んでみるとか、そういう大きな敵に向かって体当たりして主張しているなら、

     ここに書かれたような活動は意義があることだと私も思います。しかし、こういったいわば「外向き」の活動だけが活動ではないですよ。「私たち」の内部にある差別と向き合い、それをなくすために努力することもまた、「外向き」の活動と同じくらい大切で重要なことです。
     永易さんの文章を読んでいると、家の外では「革命だ!」とかっこいいことを叫び、街頭では機動隊と衝突しながらも、家の中や運動の内部では、女性に飯をつくらせ、女性に無償でケア労働を強いてきた、懐かしい男性活動家の事を思い出します。対外的に目立つ分かりやすい運動にことさら関心が向き、「私たち」の内部における差別に鈍感なところは、家庭や運動の中で権力を持っていた鈍感な男性活動家とそっくりですね。
     私たちのコミュニティー(もしくはあえて限定するなら「ゲイコミュニティー」)の内部で、同性愛者だけを特権的に扱い優遇するという間違った文化をなくすために、また「ゲイコミュニティーにおけるバイセクシュアル差別」をなくすために、永易さんは一体何をしてきたのでしょうか。もしかしたらわたしが知らないだけかもしれませんので、よければお聞かせ下さい。
    (ちなみにわたしは、仮に永易さんが「ゲイコミュニティーにおけるバイセクシュアル差別」をなくすためになにもしていなかったとしても、だからといってそれを根拠に、永易さんが「外向き」にやっていることを否定するような野暮なことはしませんが)

    「そこまで本気なら聞いてみようか」という気にもなります。

     いえいえ、誤解しないでくださいね、別にあなたのように礼儀をわきまえない傲慢(ごうまん)な人に対して話しかけているのではありません。

    しかし、現実にやっていることは、小さな、まだ足腰も弱いコミュニティの中で、やっと芽生えた、定着しかけたパレードの場へ出かけていっては、さんざんにごねたあげくに足を引っ張って、あまつさえつぶして回るだけ。

     パレードの内部から差別をなくそうとすることは、パレードを成功させるための、必要不可欠な取り組みです。パレードのあり方について、公的に意見を述べることは、パレードをつくるための建設的な関与です。
     そういった基本的なこともわからないで、パレードに対して公的に意見を述べること自体を「さんざんにごねたあげくに足を引っ張って、あまつさえつぶして回る」としかみることができないんですね、永易さんは。

    そこにうかがわれるのは、どんなにやったところで、命を脅かされるようなことはない、とでもいうような甘えです。国会や政府や政党や裁判所や、そうした本当の権力に向かってそれをやれば、日比野さん個人は実際に大変なことになる可能性がある。少なくともゲイコミュニティ内でそれをやっているかぎりは、嫌われるのがせいぜいで、そういう恐れはないでしょうから。

    ●「国会や政府や政党や裁判所」に公的に意見を言ったところで、今の日本で殺されるようなことはないと思いますが。
    ●なんかこの文章も、運動内部の女性差別を告発する活動家を黙らせるために使われてきた、マッチョな男性活動家の発言と似てません?ある局面で権力を持っている側が、自分の権力を開き直る時のもの言いは、結局似てくるのかもしれません。
    ●ところで「あなたは、イラクに行って人間の楯をするような命がけの訴えをしている訳ではない。どうせ意見を言ったくらいで殺されることはまずない日本の中で人権擁護法について訴える程度の甘えた態度では、あなたの意見に耳を傾けようという気にはならない!」と、議員さんに言われたら、あなたはどう反論しますか?

    そのへんが、日比野さんの活動は、結局、議論の場を求めるとかなんとか口で言うほど崇高なものというよりは、「ボクもいっしょに遊んでよ~」とダダをこねているだけの、児戯に類する甘えだと思わされるのです。また、札幌パレードの交流会で直接、そう申しあげたこともあったはずです。

     単に悪口を書いて憂さ晴らしをするのは、このサイトではご遠慮下さい。

    日比野さんの主張の是々非々は、ぼくは判断しません。というか、その論戦の土俵にのることは、ゴメンです。私は永年この人を見かけてきて(見てきて、といえるほどフォローはしておりませんので)、とくに耳を傾けるべきものを感じないでおります。あくまでも議論のうえで判断してほしい、との思いもあるかもしれませんが、きのうきょう出てきた人ならともかく、10年来の歴史のある日比野さんには、あらためて向き合おうという気にならないのが、正直な気持ちです。

     「見てきて、といえるほどフォローはしておりません」であるにも関わらず、「とくに耳を傾けるべきものを感じないでおります」「日比野さんの主張の是々非々は、ぼくは判断しません」と言いきっるのって、分かりやすく傲慢(ごうまん)ですね。
     「耳を傾けるべきものを感じ」るかどうかは永易さんの個人的な問題ですのでどうでもいいです。しかし公の場で発言する時に、相手の主張の是々非々を判断しないで発言することができると、本当に思っているのでしょうか。わたしのサイトのコメント欄に出てこざるを得なくなって書き込みをしているにもかかわらず、内容について議論すると負けてしまうから、逃げているようにしか読めないと思います。
     「レズビアン&ゲイ・パレード」というネーミングには問題がある、ということは、ちょっと考えればわかることです。同性愛者が特権を持って特別に優遇されている現状を守るために、永易さんは最後のあがきをしているんだと私は理解しました。正当な批判を受けた時に、受けた批判を誤魔化して開き直るために、相手を威圧したり、脅かしたり、嫌がらせをしたり、もしくは公然と相手を侮蔑することを通して、自己の持っている権力を周りに見せつけて、相手を黙らせようとする人はよく見かけます。それと同じたぐいのことをされているんだと思います。永易さんがそういった態度をとられたこと、残念なことです。

コメントは受け付けていません。