“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その3)

コメントでの議論のためのページです。

●はじめの書き込み
  “みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その1)

“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その2)
● “みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その3)(このページ)
“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その4)

21 thoughts on ““みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その3)”

  1.  こんにちは。
     コメント、楽しく拝読しました。

     先に、議論の前提で確認されてなかったので、最初に言わせてください。
     ゲイ/レズビアンパレードという名称より、たとえばレインボーパレードみたいな名前のほうが、より包括的だということは、私もふくめてたいていの人は了解していると思います。

     東京の実行委員の人たちも、東京でパレードが復活するさい、首都で開催するためには、どうしても多数の参加者やカンパを必要とするため、そして社会にこれがなんのパレードであるかを明示的にする必要もあって、ゲイ、レズビアンの言葉が政治的意図、というか、打算的意図をもって選ばれたようなことは、砂川さんたちがまとめた『パレード』にも語られていたのではなかったかと思います(手許にないので、未確認。ただ、手許にあった『クイアジャパン』4号の砂川さん参加の座談会には、その旨の発言があります。239ページ中段)

     また、実際に参加するがわ—-ゲイ/レズビアン当事者も、それ以外のセクシュアルマイノリティ(セクマイ)当事者も、ここがバイやその他のセクマイに排除的な場だとはほとんどの人が感じてないし、この名称はとりあえず選ばれているんだ、ということを、どこかわかっているし、どうしても、是が非でも、ゲイの名の冠されたパレードをやりつづけたいと「ワガママ」を言う者も、調べたわけではないが、たぶんいないだろうと思います。 (それでもそう感じる人がいることを否定するものではありません。)
     たとえば開催10周年を記念して、社会的にも定着してきたし、このさいレインボーマーチ東京と改称しよう、と呼びかけ側から提案されたら、多くの参加者は異議なく、それを是とし、そのまま参加し続けるのではないでしょうか。
     今年は登録参加者だけで2300人余りが歩いたわけですが、この人たちは、首都で、ともかくセクシュアルマイノリティのパレードが行なわれ、自身のビジビリティを高め、自らへの祝福の機会を必要とする、その一点で、このかたち、この名称を、いま現在もっともベターなかたちとして受け入れて集まっている—-大衆的にそれにイエスを与えているのではないかと思います。

     日比野さんは、こういう大衆をもワガママな多数派と断じ、あるいは頑迷な主催者の手練手管にダマされたムチモーマイな群集とでも考えているのでしょうか。あるいは主催者や実行委員、ボランティア、参加者のなかにいる多数の同性愛者以外の人は、日比野さんからは、同性愛者がわに転んだものとか、苦渋の選択のうえ屈服している人びと、とでも映っているのでしょうか。
     日比野さんは、コミュニティのどこかに「ゲイパレード」の名称に固執する(日比野さんふうに言うと、同性愛者だけを特権的に扱って優遇することを求める)、それこそ抵抗勢力か守旧派のごときものがいるような書きぶりですが、勝手な敵をつくってみずから盛り上がるのは、みにくいからお止めになったほうがよいでしょう。

     上記のような書き方をすると、「それじゃあ、私の主張の正しさは認めてくれたのですね」「屈服するのですね」の類いをおっしゃると思いますが、そうおとりくださってけっこうです。
     日比野さんのような原理主義的言説は、もとよりきわめて「正しい」わけで、その正しい言説どおりにことが運べば、だれも苦労しないわけですから。
     くり返しますが、日比野さんの活動は私には、原理主義的言説を振り回して、そこに勝手な敵をつくってみずから盛り上がっている姿にほかならず、きのうきょう出てきた若手ならば、まあ、青いながらも元気な論客がいるな、ですむことですが、あなたのような10年選手が今年何歳になるのか知りませんがいい年こいて(←エイジズムに毒されてますね。笑。ええ、何歳になろうと、ご主張を続けるのは立派なものです)やることじゃなかろう、と映るのです。

     東京のパレードにかぎりませんが、コミュニティイベントは、その呼びかけ人があらましの枠を決めて呼びかけ、それに賛成する人は集ればいいし、それに反対する人は無視するか、日比野さんのように出かけていって反意を表すればいい、それだけのことです。

     多くのコメントが、「あなたはなにもしないくせに、批判ばかりするのはいかがなものか」という論調をかかげています。パレードづくりの大変さに、TPOをわきまえたらどうだ、と。私はこの種の意見にかならずしも完全賛同するものではありません。もし、身体にハンディなどがあってボランティアその他に参加できず、それでもパレードに批判的意見をもつ人がいたら、なにもしない(できない)のだから批判するべきでない、と言えるでしょうか。
     ですので、日比野さんがパレードの名称に問題提起を続けられるのは、まあ、ご勝手にではありますが、なんらとがめ立てすることでもなかろうと思います(パレード後のコミュニティ交流会でも「問題提起」されておられましたが、会を呼びかけたがわとしては、まあ、ご勝手に、でした)。

     ただ、同時に、私が日比野さんにぜひやりとげてもらいたいと思うことが一つあります。

    >同性愛者だけを特権的に扱って優遇することはよくない、ということを理解して、様々なセクシュアリティーの人達で協力しあって場を創ることを主体的に選択する人が増えているという事実を、謙虚にみつめましょう。 

     とおっしゃるのですから、その人たちを糾合し、ぜひ、ご自身が委員長となって、ご自身が理想とするパレードを実現してほしいということです。パレードはいくつあってもかまわないものです。関西のコミュニティにはまだパレードがないのですから、ぜひ、あなたが叩き台をつくってこの指止まれで呼びかけてください。同志もたくさんいらっしゃるようですし。きっと成功されるでしょう。多くの参加者が集まって成功したとき、それは十分、コミュニティに大衆的に承認されたことを意味しています。一部の人が枠組みを決めて呼びかける、というスタイルは、よくあなたが書かれるように、パレードを私物化したような行為ではありません。
     さきに述べたように、私はまだまだ首都のパレードでは、ゲイ/レズビアンの名称を前景化しておいたほうが確実なパレードがつくりあげられると思う、打算的に考える、しがないマキャベリストもしくは商売人でありますが、いつかはゲイ/レズビアンなどという名称をかかげなくともすむパレードが実現することを心から願います。
     違う名称をかかげることで、多くのバイのかた、その他のセクマイ当事者もこぞって参加できるというのですから、2千3千のせこいパレードでない、1万、3万、10万といったパレードを、日比野さんの手で実現させてください。私もそのときは、歓喜の涙にほほを濡らしつつ、右手にレインボーフラッグ、左手に日比野さんの肖像画をもって、日比野委員長マンセーと叫びながら御堂筋でも烏丸通でも行進しますから。

     もし、そういう実践がともなわず、ただほうぼうのパレードに出かけては、いちゃもん、いえ、問題提起を重ねるだけであるならば、私はあなたに、こう申し上げなければならないでしょう。

     人のフンドシで相撲を取るのも、いいかげんにしたらどうだ、と。

  2.  ちなみに、東京レズビアン&ゲイパレードという名称が、同性愛者だけを特権的に優遇する名称として批判する日比野さんが、「同性愛ってなに」といった本をお書きになることには、矛盾はないのでしょうか。

  3. 日比野さんへ。

    もう、日比野さんのパレードをすればいいじゃない。
    外野からの私物化が出来ず地団駄を踏んでいるようにみえるのです。
    対等を目指している日比野さんの主張とは全く違って見えるのです。
    少なくとも私には。

    日比野さん独自のパレードをすれば良いではありませんか。
    10年選手であることは私も見てきて知っています。
    内容はどうであれ講演会にもお邪魔しました。
    沢山のお友達がいるようですし、きっと思い描くパレードが出来ますよ。

  4.  このところ、これまで思い出しもしなかった日比野さんのご主張とつきあってしまったが(もとはミクシー日記で、この板にもレスしていたtakashi氏=古い活動家? に教えられて)、どうしてこう議論がすれ違っていくのだろう、と思った。
     日比野さんのご主張(同性愛者を特権的に扱うことをやめて、東京パレードは名称を変えよ)が「正しい」ことぐらいは、レスをつけたゲイたちもつらつらわかっていることで、要は、そんな原理主義的な言説を振り回されて実際のパレードが動くなら、だれも苦労はしない、ということ。良心的な人であればあるほど、そういう原理主義的言説に足をとられて、そこに混乱した状況が生まれていくこと。そういうことに、実際の運営にはなにもかかわっていない人が評論家づらして「コミュニティのまちがった風潮を正す」などと言うのは止めてくれ、という感情的反発もないまぜになっての揚げ足の取り合いか、と思いいたったしだい。
     だから、どうこれ以上、レスつけたらいいのだろう。

     あなたの「正しい」ことはようわかってる。
     あなたの頭のいいことも、ようわかった。 
     議論のお上手なのも、これまたようわかる。
     
     で、だからなに?

     という感じか(脱力)。
     ご自身がつねに正しい立場から、他者を間違ったものとして断罪していく、コミュニティの「日本共●党」、あるいは弁は立つけれども、それが実際の効力をあげているのかどうかわからない、コミュニティの「竹中平蔵」とでも申し上げればいいのか……。

     ということで、これで落ちます。しばしのおつきあい、ありがとうございました。お元気で。(関西でパレード呼びかけてください。)
     

  5. 「ひびのさんも自分でパレードをすれば?」
    という趣旨のことを書き込みされる方がたくさんおられます。

     もしそのように言う人たちが、コミュニティーの内部におけるバイセクシュアル差別や、同性愛者中心主義に対して、日頃から批判的で、「マイノリティーの内部のマイノリティー」をつくらないように具体的に努力されている人達なのであれば、そういった意見にも一定のリアリティーがあります。つまり、(特に一部のゲイなど)傲慢な人達に愛想を尽かして、「もう別でやろう」というマイノリティー側の主体的な選択だからです。
     しかし、まさに今、コミュニティーにおけるバイセクシュアル差別や同性愛者中心主義が批判されているその時に、例えば永易さんのような特権を享受している側の人が「別のパレードを自分でやれば?」と言う時には、それは、社会的に権力を持った側(ゲイ)が、自身の持つ特権を維持するために、自身への批判を封殺し、自分の気に入らない人を黙らせたり追い出したりするための、恫喝の言葉である場合があります。
     同じようなたぐいの例を二つあげてみます。

    (例1)
     例えば、学校の部活動(そうですね、吹奏楽部ということにしましょう)において、実際に吹奏楽部の中にホモフォビアな雰囲気(ホモやレズをからかいにネタにしたりバカにしたり…)があったとします。そういう雰囲気に耐えられなくなった人が、「今の吹奏楽部には、ホモフォビアな雰囲気があるから、変えて欲しい」とみんなに訴えました。でもなかなか「ホモネタ」もなくならないので、練習前のミーティングでも意見を言ったりしていました。そしてとうとう、こんな事を言われました。
     「別にオマエを追い出そうとは思わないよ。いたいなら居てもいい。ぼくたちはホモを差別する気なんてさらさら無いんだ。でも、いつまでも文句ばかり言って練習の邪魔をするのは止めてくれ。嫌なら来なければいいじゃないか。それともいっそ自分で新しい『ホモ吹奏楽部』でもつくったらどうだ?」

    (例2)
     従業員数人のある小さな職場で。なぜかいつもお茶を配るのは女子社員の役目だった。これまでも50年以上も「女子社員によるお茶くみ」は当たり前のことで、誰も文句を言う人はいなかった。
     しかし新入社員の伊藤さんは、こういった女性差別に我慢がならなかった。周りの女子社員にも相談してみたが、みんな諦めているか、それが女子の仕事、女子として当たり前のこと、だと思っているようだった。
     しかしそれでも納得しない伊藤さんは、社長に文句を言いにいった。「社長、これは女性差別です。止めさせてください」。すると社長はこう答えた。
     「お茶くみを女子社員にやってもらうことは、社としての公式な方針だ。この会社はわたしが1人でたたき上げで作ってきたわたしの会社だ。社長の方針に文句があるのなら、辞めてもらう。他にも会社はあるんだから、我が社のあり方が嫌なら来なければいい。いつまでも文句を言っていないで、自分で『女性差別のない』新しい会社でもつくればいいじゃないか」

     実際に、「私たち」は上記の例のように言われ、黙らされ続けてきました。こういった形での「対話の拒否」「権力を持った側の開き直り」は決して過去のことではなく、今も、学校や会社・市民団体など社会のあちこちで続いていますし、そういったなかで黙らされている人も多いはずです。
     「嫌なら来なければいい」「文句ばかり言わないで、自分でつくれば?」というのは、力を持っている側が、自身のワガママや既得権を守るために、相手を黙らせるための言葉であることも多いのです。しつこく文句を言う人をこのように脅かすことで、場やグループのあり方は何ら変わることもなく、問題が隠蔽されたまま存在することができてしまいます。
     「差別と闘う」「少数派の権利を主張する」というのは、こういった例のような「マジョリティーの態度」「多数派の論理」という人や社会のあり方に反対することだと私は思います。

     「ひびのさんも文句を言うだけではなく、自分でパレードすれば?」というのは、それだけ聞くと妥当な意見のようにも思えますが、そういう意見がいまここで言われることは、どういう効果をもたらすのでしょうか。それは、今もパレードやコミュニティーの内部に存在する、同性愛者中心主義やバイセクシュアル差別を隠蔽し、同性愛者だけを特権的に優遇するパレードの名前を維持することにつながります。今のパレードやコミュニティーのあり方に対する批判や異議申し立てを萎縮させ封殺するという効果を生むのです。
     それに、もし仮に関西で何らかのパレードが開催されたとしましょう。そのことで、「レズビアン&ゲイ・パレード」というネーミングの問題点はなにか変わるのでしょうか。
     さらに、例えば、もし仮にパレードが日本人以外の参加登録を断っていた(注:実際はそんなことはないはず)として、それを公に批判する人がいた場合。「文句を言うだけではなく、自分でパレードすれば?」なんていう意見は出てこないでしょう。つまり、こういう言い方をする人は、実は批判の内容を支持しておらず、とにかくその批判を目の前からなくしたい、でも「出て行け」というと格好悪い(排除することになる)ので、「よそでやってくれ」と言いたいのを言い換えている場合も多いです。
     吹奏楽部の例でも、(例2)の伊藤さんも、そしてわたしの意見も、いずれも実は、ある場所における差別をなくして、場をよりよいものにしていくための行動です。そういう「場に対する異議申し立て」をすることは、その場やグループを「誰にとっても平等で居心地のいい場所」にするための、とても建設的で、かつ誰かがしなくてはいけない必要不可欠な仕事なのです。その場やグループの問題点をわざわざ言葉にするのはとても大変な作業ですし、それをわざわざみんなの前で言ったりするということは、多大な労力です。そういった形で場の形成に積極的・具体的に貢献している人達に対して、「文句ばかり言っている」「自分では何もしない」というような否定的なレッテルを貼ること自体が既に、多数派側、権力者側からの、事実に反する一方的なものの見方なのです。
     「文句を言うだけではなく、自分でパレードすれば?」という言い方それ自体が、実は批判から目をそらすためのすり替えだったりもするのです。

     わたしは、これまでも「レズビアン&ゲイ・パレード」の不十分点を指摘することで、よりよいパレードとコミュニティーをつくるために積極的かつ具体的に貢献してきました。実行委員会だけがパレードをつくっているのではありません。様々な人が、様々な形でパレードを支えているという事実を忘れてはいけません。わたしは、これからも、そういった努力を続けていこうと思っています。

  6. ●永易さん 【(その3)コメント1】へのレス
     まず、これまでも何度も書いているとおり、実行委員会や砂川さんは、わたしの質問に対しても応答されており、意見は違いますが、これから十分話し合いをしていくことができそうな感じがあります。その意味では、このサイトで攻撃的な書き込みをする人たちとは違います。
     しかし残念ながら、実行委員会や砂川さんの見解自体は、同性愛者以外のセクシュアルマイノリティーに対する理解が不充分で、あくまで同性愛者を中心にものを考えるというよくない発想が残っています。例えばゲイ・レズビアンが社会の中で非可視化されることは問題だと考えているにもかかわらず、バイセクシュアルやトランスジェンダー、Aセクシュアルなどが社会とコミュニティーの両方において非可視化されることには無頓着です。実際にパレードに参加しているバイセクシュアルやトランスジェンダー・Aセクシュアルが多数いることが分かっているにもかかわらず「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前を自身で採用することによって、レズビアン・ゲイ以外の存在を非可視化することに、自身でも加担してしまっています。世間受けを狙って「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前にしたというだけなのであれば、それと同時に、社会とコミュニティーの両方の場所で、バイセクシュアルやトランスジェンダー、Aセクシュアルが「マイノリティーの中のマイノリティー」として一層非可視化されてしまう現実を改めるための具体的な改善策をパレードとして持っているべきなのですが、それもありません。例えばゲイコミュニティー内部に存在するバイセクシュアル差別をなくすために何をするのかといった方針も、現時点では(わたしが知らないだけかもしれませんが)見受けられません。
     また、日本各地で「レインボー」や「クイア」を関した企画が成功していることをみれば、「『レズビアン・ゲイ』でないと分かりにくい」というのは事実に反することがよくわかります。「ゲイの動員を確保する」という点からみても、「レインボー祭り」をはじめ「レズビアン・ゲイ」と冠しない企画であっても十分多数のゲイ男性の参加があることは、各地の実績が示しています。
     詳しくは直接実行委員会や砂川さんとやりとりすることになると思いますのでそちらをご覧頂くのがいいと思いますが、わたしは実行委員会が出している方針それ自体の不充分さを指摘していますし、また批判的な意見を持っています。

     実際に参加するがわ―-ゲイ/レズビアン当事者も、それ以外のセクシュアルマイノリティ(セクマイ)当事者も、ここがバイやその他のセクマイに排除的な場だとはほとんどの人が感じてないし

     永易さんがおそらく本心から「(パレードが)バイやその他のセクマイに排除的な場だとはほとんどの(セクマイ当事者の)人が感じてない」と思っておられるという事自体が、パレードという場におけるマジョリティーとしての永易さんの、どうしようもない鈍感さなのだと思います。わたしには、こういう認識は、「日本って同性愛って合法だし、テレビにもいっぱい出てるし、差別されていないよね」と無邪気に言ってしまえる鈍感な異性愛者とうり二つに見えます。仮にこのサイトに限定したとしても、例えばnyunnyuiさんのコメント【(その2)コメント8】を読めば、もう少し丁寧なものの見方ができると思うのですが。
     ゲイ男性は、セクマイのコミュニティーの内部においてはマジョリティー側にいます。よっぽど自覚的に知ろうとしない限り、コミュニティー内部のマイノリティーの声は自動的には聞こえてこないということに気が付いてください。

     今年は登録参加者だけで2300人余りが歩いたわけですが、この人たちは、首都で、ともかくセクシュアルマイノリティのパレードが行なわれ、自身のビジビリティを高め、自らへの祝福の機会を必要とする、その一点で、このかたち、この名称を、いま現在もっともベターなかたちとして受け入れて集まっている―-大衆的にそれにイエスを与えているのではないかと思います。

     多くの人が「レズビアン&ゲイ・パレード」に参加しているのは、書かれているとおり、パレードを望んでいるからです。
     でも、どうして、「パレードへの参加=100%の賛成」と「100%の反対=パレードに参加しない」しかないのでしょう。例えば、「『レズビアン&ゲイ・パレード』という名前は嫌だけど、でもパレードにはでてみる」という人だっているかもしれないとは、思いませんか?
     パレード実行委員会に対して質問をしたり、チラシを配ったりしただけで、ネット上で激しくわたしを攻撃したり、永易さんのはじめのコメント【(その2)コメント4】のように傲慢(ごうまん)な書き込みをする人がいる、という事実をみた時、「ホントは意見を言いたいけど、攻撃されるのが嫌だから、黙っておこう」という人が居るかもしれないということを、想像することはできませんか?
     もし永易さんが「少数派の意見を大切にしよう」「まだ大きな声になってはいない意見にも耳を澄まそう」と考えておられるのであれば、もう少し違うものの見方もできると思います。

     日比野さんは、こういう大衆をもワガママな多数派と断じ、あるいは頑迷な主催者の手練手管にダマされたムチモーマイな群集とでも考えているのでしょうか。あるいは主催者や実行委員、ボランティア、参加者のなかにいる多数の同性愛者以外の人は、日比野さんからは、同性愛者がわに転んだものとか、苦渋の選択のうえ屈服している人びと、とでも映っているのでしょうか。

    いいえ。
    わたしの発言の一体どの部分から、わたしがこのように考えていると推測されたのですか?
    事実とあまりに異なる読み方をされたので、関心があります。

     日比野さんは、コミュニティのどこかに「ゲイパレード」の名称に固執する(日比野さんふうに言うと、同性愛者だけを特権的に扱って優遇することを求める)、それこそ抵抗勢力か守旧派のごときものがいるような書きぶりですが、勝手な敵をつくってみずから盛り上がるのは、みにくいからお止めになったほうがよいでしょう。

    ●もし誰も固執していないのなら、なぜいつまでも「レズビアン&ゲイ・パレード」という時代遅れのネーミングなのでしょうか。
    ●実行委員会は、現時点では、「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前に固執しています。
    ●「レズビアン&ゲイ・パレード」というネーミングには問題がある、と言っただけで、永易さんを含め、これだけたくさんのゲイの方の感情的かつ否定的な反応があったということを、事実としてご理解下さい。
    ●永易さんの意見自体が、全体としては、「レズビアン&ゲイ・パレード」という同性愛者だけを特権的に優遇するネーミングの変更を妨げる効果を生んでいますし、パレードやゲイコミュニティーの内部におけるバイセクシュアル差別を告発することを萎縮させる効果を持っています。つまり、永易さんご自身がされていることは、コミュニティー(ゲイコミュニティー)内部の差別をなくす動きに加担するのではなく、その逆に今の差別的な状況を延命させる効果を持っています。

     とおっしゃるのですから、その人たちを糾合し、ぜひ、ご自身が委員長となって、ご自身が理想とするパレードを実現してほしいということです。(中略)私もそのときは、歓喜の涙にほほを濡らしつつ、右手にレインボーフラッグ、左手に日比野さんの肖像画をもって、日比野委員長マンセーと叫びながら御堂筋でも烏丸通でも行進しますから。

     永易さんとは、本当に意見が合わないと実感します。ホントに「ギョーカイボス」をつくることが好きなんですね。
     パレードやいろんなイベントは、実行委員長や言い出した人達のものではありません。特にパレードのような大きな規模のもので、参加者一人一人が主体的にそこに参加していることこそが対外的な表現の中心的な意味を持つものの場合、主人公(そして主権者)は実行委員会ではなく一人一人の参加者です。委員長がいて、その人が方針を決めて、その方針に従って人が集まり、パレードが成立するというようなイメージ自体が、トップダウンの、まさに実行委員長が場を私物化するような、よくないあり方だと思います。(これに比して、個人もしくは限定されたメンバーの集団で行われる「わたし」を主語にした表現活動は、表現する人達の恣意的な意見が全てでしょう)
     「パレードしようよ」ということが話題になることはありますし、また将来パレードを実際につくっていくことになることもあるでしょう。しかしいずれにせよ、パレードというのは実行委員長や呼びかけ人だけが好きに決めるようなものではなく、関心のある人達で話し合いながら物事を決めていくものです。その意味で、誰が実行委員長になってもそんなに違いはないのです。
     現実的な話を考えると、関西では今年やっとクイア映画祭が復活できたところです。長い目で、温かく見守り下さいませ。

     もし、そういう実践がともなわず、ただほうぼうのパレードに出かけては、いちゃもん、いえ、問題提起を重ねるだけであるならば、私はあなたに、こう申し上げなければならないでしょう。
     人のフンドシで相撲を取るのも、いいかげんにしたらどうだ、と。

     「レズビアン&ゲイ・パレード」の問題点を改めるために努力することは、「男女という制度」の問題点を改め、様々なセクシュアリティーの人達が今の日本で平等に生きていけるようにするために、そして差別のないコミュニティーをつくるために、わたしが取り組んでいる様々な取り組みの中の、1つです。
     社会を変えていくためには、パレードだけではなく、様々な取り組みが必要です。パレードだけが特別に重要な課題だという訳ではないでしょう。例えばわたしが、東京のパレードでチラシをまくこと「だけ」をしていて、地元でそれ以外に何もしていないというのであれば、「なぜひびのさんは、東京のパレードのことしかしないの?」という疑問もわくと思います。でも、それは事実ではない(参考 http://barairo.net/hibino/)。
     ただ単に、関西におけるパレードをつくる動きを今していないことをもって、「実践がともなわず、ただほうぼうのパレードに出かけては、いちゃもん、いえ、問題提起を重ねるだけ」と非難するのはいかがなものでしょう。いくらなんでも乱暴ですよ。永易さんのはじめのコメント【(その2)コメント4】では、法律や国会といった「対外的に目立つ分かりやすい運動」にことさら関心が向き、「私たち」の内部における差別をなくすための取り組みなどを軽視する傾向があるようにお見受けしました。「自分でパレードを主催していないひびの」が「レズビアン&ゲイ・パレード」の問題点を指摘することが、何か問題でもあるかのようなもの言いになるのは、そういった永易さんの傾向が影響しているのかもしれませんね。

    そして最後に。

     ゲイ/レズビアンパレードという名称より、たとえばレインボーパレードみたいな名前のほうが、より包括的だということは、私もふくめてたいていの人は了解していると思います。

     上記のような書き方をすると、「それじゃあ、私の主張の正しさは認めてくれたのですね」「屈服するのですね」の類いをおっしゃると思いますが、そうおとりくださってけっこうです。

     私が永易さんにぜひやりとげてもらいたいと思うことが一つあります。
     もし本当に上記のように思われているのであれば、コミュニティーの中における同性愛者を中心とした文化を改めるために、実際に行動してください。パレードだけでなく、「レズビアン&ゲイ」という不適切な看板を掲げることはよくありますから、そういうものに1つ1つ働きかけをしてください。
     同性愛者を中心とする誤った文化を改めることは、ほっておいたら自動的にそうなるというようなものではありません。実際にいちいち指摘し続けていかない限り、今のよくない状況は変わりません。コミュニティーのなかの「同性愛者を中心にするよくない状況」を変えるためにかかる労力やコストは、本来は同性愛者が負担するべきコストなんですから。
     そこまでする気がないとしても、よもや、コミュニティーの中の問題を指摘し、よりよいコミュニティーをつくろうと努力する人の足を引っ張ることは、おやめ下さいね。

  7. ●nyunnyuiさん【(その2)コメント8】
     コメントありがとうございます。お返事遅れてすいません。
     ちゃんと読んで考えてくれるといいなと思いながら、わたしは「くそ丁寧に」長い文章を書いてしまいがちなんですが、nyunnyuiさんのようにすっきり/はっきりと書いて頂いた方がむしろ分かりやすいのかもしれません。
     「なぜ一部のゲイはこうも鈍感なのか」ということを考える時、nyunnyuiさんが書かれているように、実際にゲイ以外の友達がいるかどうかということが関係あるのは事実だと思います。
     わたしだけがいろいろ言っても状況が変わることはないと思うので、やはり実際に東京の人達が公に声を挙げていくことがないと、なかなか難しいなと。しかし既にこれだけ無神経なゲイの発言をみてしまうと、普通は「もうゲイに何言っても無駄だよねーと思って」黙りますよね。でもそれでは相手の「思うつぼ」なので、むしろわたしは「鈍感なゲイの発言のサンプル」として一連のやりとりを今後に活用しようとは思っているのですが(笑)。ゲイの人で1人くらい「ゲイを中心にするのはおかしい」と言い出す人が出てくるといいんだけど。
     「同性愛者だけを優遇するのはおかしい」というのは、わたしは分かりやすくはっきりと言い切っているので目立っていますが、実際はわたしだけ意見ではないですよね。全国各地の動きを見れば、むしろ「レズビアン・ゲイ」派の方が劣勢。よその国状況を見ても、少なくともLGBTを一体のものとして扱うことはほぼ確定した流れなのではないでしょうか。
     でも東京のことを考える時、なぜか風通しが悪い。これは南さんがパレードをしていた時から既にそうでした。特にゲイの世界では、権力を持っている人に遠慮して自由に意見を言うことをはばかる雰囲気があるなぁと感じます。
     しかし東京でも、LOUDとかは、はじめから「レズビアンとバイセクシュアル女性」という打ち出し方になっていますよね。レズビアンである掛札さんが個人でやっていた「ラブリス」ですら、ちゃんと「レズビアンとバイセクシュアル女性」だった(「トランスジェンダー」という言葉は、以前はあまり知られていなかった、と思う)。そして最近ではトランス女性の参加もちゃんと肯定的に歓迎している。もちろんいろいろと問題はあるのかもしれないけど、でも一部のゲイ男性の鈍感さと比べた時、その立ち方の違いはあまりに歴然としている。その意味で、同性愛者だからといって「レズビアン&ゲイ」をひとくくりにするのはよくないな、と改めて思いました。
     さて、一部のゲイ男性の鈍感さ、といった場合に、BTAQの存在を無視するというのは、とても分かりやすい鈍感さなのですが、実はそれだけではなく、「同じ同性愛者だから」といって安易に「レズビアン・ゲイ」と掲げてしまうことができるゲイ男性の鈍感さ、もまた同じように問題だと思います。
     一連のやりとりで実はまだあえて触れていない点なんですが、「レズビアンやバイセクシュアル女性」と「ゲイ男性とバイセクシュアル男性」とが社会的におかれる位置は、とっても大きな違いがありますよね。実際のコミュニティーをみてみても、レズビアンのコミュニティーとゲイのコミュニティーとは、ほとんどかぶっていない。にもかかわらず一部のゲイの人達は、「同じ同性愛者だから」と「レズビアン」は平気で看板に入れます。
     なぜそんなことができるのか?
     これはつまり、単に看板として「レズビアン」を掲げているだけで、実際には今の社会で人が女性として生きることで背負わされるものについては関心がない。今の女性差別社会の中でゲイ男性というのがマジョリティーとして大きな特権を持った存在でもあるということに無自覚だからこそ、安易にそんなことができるのではないかと思います。
     ただ現実には、不充分なところから始めるしかないので、「レズビアン&ゲイ・パレード」であることは「ゲイパレード」よりはよいことだ、とは言ったりするのですが。先は長いです(笑)

  8. 1点だけ

    私が書いた、

    (東京の参加者は)自身のビジビリティを高め、自らへの祝福の機会を必要とする、その一点で、このかたち、この名称を、いま現在もっともベターなかたちとして受け入れて集まっている

    という認識と、日比野さんがそこにつけたレス、

    「『レズビアン&ゲイ・パレード』という名前は嫌だけど、でもパレードにはでてみる」という人だっているかもしれないとは、思いませんか?

    というのは、おなじ認識を語っているのではないでしょうか?

  9. そういった現実を、自分の位置からどのようにみるのかというところ(評価)が違っています。
    永易さんの書き方だと、「この教室にはカムアウトをしている人がいないから、とりあえず皆を異性愛者だと仮定して話を進めてもいいだろう」と言っているように見えたんですが。
    公然たる異議申し立てがないことを持って、暗黙のうちの同意を与えていると判断するのは、少なくともこの件に限っては、乱暴だと思います。

  10. あともう一つだけ。パレードの作り方について、

    >委員長がいて、その人が方針を決めて、その方針に従って人が集まり、パレードが成立するというようなイメージ自体が、トップダウンの、まさに実行委員長が場を私物化するような、よくないあり方だと思います。

    というのは、呼びかけ方式として、ぜんぜんありでしょうし、ともかく参加者がそこへ自発的に集まってきて成立するものであれば、どこがトップダウンなのでしょう(強制的動員があるわけでもなく、日当が出るわけでもないのに)。
    ご自身が言うような、「関心のある人達で話し合いながら物事を決めていく」つくり方があっても、ぜんぜんかまいませんが、前者がトップダウンで、後者が民主的とかというものでもないでしよう。呼びかけが、呼びかけ人の個人的利害やトップダウンで呼びかけられたものなら、大衆はそれにそっぽを向いて、だれも参加することなく、その試みは失敗するでしょう(南さん呼びかけの「第4回」パレードのごとく)。同時に後者の方法は、一見、美しく響きますが、抜け駆け・出し抜きは許さん(具体的には、日比野に隠してことを進めることは許さん)、とでもいうもので、まあ、関西がどういう進め方をされるのかは、「温かく見守」らせていただきますし、東京のパレードの呼びかけに応答した者の一人としては、あなたにトップダウンだと言われる筋合いはない、と申しあげておきたい。

    たとえば関西で、Gフロントとかあなたとか、90年代以来のロートル活動家とはぜんぜんべつのところ–あなたのネットワークにも引っかからないようなところとか—から(たとえばクラブノリの若い人が)パレードを呼びかける動きが始まったらどうされるんでしょう。実行委員会へ押し掛けてピケでも張りますか? 関心のあるものはみんな入れろ! 2000年の「覚え書き」を見ろ! と。(そんな「覚え書き」なんか知りまへんがな、と若い人に言われるかもしれませんが。)

    お古い人間は(あなたも私も)、若い人からうとましがられておりますよ(苦笑)

  11. 永易さん【(その3)コメント4】

    要は、そんな原理主義的な言説を振り回されて実際のパレードが動くなら、だれも苦労はしない

    10年後ではなく、仮に来年「レズビアン&ゲイ・パレード」という名称を他のものに変更したとしても、別にパレードは問題なく続くと思いますよ。札幌の例を引くまでもなく、東京ですら「レインボー祭り」でも企画としては成功している訳ですから。
    わたしは、名称が「レズビアン&ゲイ・パレード」であることは、実際にパレードをつくるにあたって、実害の方が大きく、益が少ないと考えています。

    良心的な人であればあるほど、そういう原理主義的言説に足をとられて、そこに混乱した状況が生まれていくこと

    実際に「レズビアン&ゲイ・パレード」という名称である必要性などないにもかかわらず、あえてそういう名前に固執することの方こそ、わたしにはあえて同じ言葉を使うなら「原理主義的言説」に思えます。
    一番始めに戻りますが、「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」など様々な性的少数者が参加しているのに、なぜパレードの名称は「東京レズビアン&ゲイパレード」なのですか? という問の方が、ごく自然で、誰でも抱く疑問ではないでしょうか。「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前に疑問を抱くことは、決して「原理主義的言説に足を取られた混乱」ではないです。

    実際の運営にはなにもかかわっていない人が評論家づらして

    ●運営に関わっていない人が外部から意見を言うことの一体どこが問題なのでしょうか。むしろ逆に、主催者でもない人がわざわざ意見を言ってくれることは、主催者としては歓迎することなのではないですか?もしその「意見」が単なる言いがかりのようなものであれば、主催者は自信を持って黙殺すればいいだけのことです。パレードの名称問題は、そういった「言いがかり」とは全く異なり、コミュニティーの中でずっと議論になる、大事な問題です。そういった問題を開かれた形で議論しようという私の行動を、なぜそこまで非難したがるのか、わたしには本当に理解できません。
    ●名称を決める会議や実行委員会に参加する権利があったにもかかわらず、そういった場には参加(もしくはせめて文書での意見の表明)もしないで、いきなり批判ビラをまいたり壇上占拠をしたら、それは確かに「あなたは一体何ものなの?」という風に思うでしょう。しかし、まず実行委員会の人に直接見解を尋ねた上で、質問や意見をすることが、なぜ問題にされるのでしょうか。永易さんは、実際に私が砂川さんに宛てて送ったメールを読んだ上で、コメント頂いているのでしょうか。そこには、実行委員会に対するなんの押しつけも、非難も、高圧的な態度も、ないと思うのですが。

     あなたの「正しい」ことはようわかってる。
     あなたの頭のいいことも、ようわかった。
     議論のお上手なのも、これまたようわかる。
     
     で、だからなに?

    これこそが、権力を持った者の、開き直りだ、と何度も申し上げております。
    「正しい」と言っておきながら、それを「原理主義的」とレッテルを貼って、まるで極端な意見であったり、実現不可能な意見であるかのような印象を与えるのは、よくないと思います。

     わたしは、東京のパレードの名称だけをことさら問題にしているのではありません。東京のパレードの名称問題は、コミュニティーの内部にたくさんある問題点の1つですし、例えばコミュニティー内部のバイセクシュアル差別の象徴的な一例にすぎません。
     コミュニティーや運動の内部にも、「私たち」の間にも、差別や不十分点があることをまず隠すのではなく、公式に認めることが必要だと思うから、いろいろ黙らないことにしたのです。そしてそういった「私たち」自身の持つ不十分点を認めて改めていく必要性を痛感したのは、なにより、私自身が他者に対して鈍感な存在であった事を知った/思い知らされたからですし、自身に全くなんの悪意がなくても、コミュニティーのなかでマジョリティーとしての特権を持ってしまうことがある、ということを知った/思い知らされたからです。
     例えばわたしが発足時から参加した京都の「プロジェクトP」というグループは、その正式名称を「レズビアン?ゲイ?バイ?ヘテロ?……?生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトP」と言いました。その当時としては精一杯の試みでしたが、今からみれば「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」をないがしろにした名称でした。そういった不充分さがあることを認めるからこそ、プロジェクトPは2003年に、その名称を「生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトQ」に変更しています。
     また私自身、以前はトランスジェンダーに対して、とても無知でした。今の社会で、トランスジェンダーではない/自身を性別違和がないと思って暮らせるということが、一体どれほどの特権であるかについて、以前は全くわかっていませんでした。本当に、トランスジェンダーの友人に「教えて頂くことができた」からこそ、今の自分があります。ですので、自身を無垢な完璧な存在であるなどとは思っていません(女?男?いちいちうんざり?ホントに? http://barairo.net/works/index.php?p=35)。

    ですので、

    ご自身がつねに正しい立場から、他者を間違ったものとして断罪していく

    というレッテルを貼られるのは、わたしとしては全く不本意です。むしろ逆に、わたし自身を含めて、「わたしたち」は間違いをおかすし、不充分だし、マジョリティーとしての特権を開き直ることがある。そういった間違いを少しでも減らしていくためにこそ、遠慮なくものをいっていくことが必要だし、また言っていかなければいけないと思うのです。

     永易さんは、いろいろ考えて「感情的反発もないまぜになっての揚げ足の取り合いか、と思いいたった【(その3)コメント4】」と気が付いてくれましたが、いろいろな書き込みをみていると、「パレードに文句を言うやつはパレード自体に反対している/妨害している」とでも言うような決めつけや、パレードの批判は許さん、オマエは敵か味方か、とでもいうようなものがみられます。でも、パレードだって、「私たち」のコミュニティーだって、いっぱい不充分なところがあるし、問題だっていっぱいある。でも、それでもそこで生きていくしかないのが私たちなんですから、誤魔化したり隠したりするのではなく、間違いは間違い、不充分なところは不充分だと認めたうえで、今よりもよりよい状況をつくるよう努力しつつ、わたしは先に進みたいのです。

  12. 「実際の運営にはなにもかかわっていない人が評論家づらして」という多くの反発には、私個人はかならずしも賛同しないことは、さきに書いたはずですので、そこは読み取っておいてください。

    >パレードだって、「私たち」のコミュニティーだって、いっぱい不充分なところがあるし、問題だっていっぱいある。……不充分なところは不充分だと認めたうえで、今よりもよりよい状況をつくるよう努力しつつ、わたしは先に進みたいのです。

    については、まったく異議がありません。私も近年は、同性愛者のエイジングや生活権の問題に取り組んで、そうした若くなくなっていくこと、お肌の染みや腹のたるみの容姿の変化や、セックスから縁遠くなていくことや、若いつもりで二丁目に出たら若い子から疎外されたりとか、ハッテン場で「おやじ、うざい」と言われたりとか、そういうことによるアイデンティティの揺れや変化や、そこに輪をかけて世間的にシングルでいることが辛くなってくることや、と思ったらHIVやSTDの問題はまだあるし、そんなことより回りでぞくぞくウツを発病して休職していくのはどういうことか、カップルはカップルで、男女の法的結婚以外のパートナーシップを結んでいるものにはなんら法的公認や保障がないことや、とか思ったら、故郷で老親が倒れて介護をどうしたらいいのかとか、親のことより自分の老後の介護はだれがしてくれるのだろうか、とか……あなたが取り組む課題ほど思想的ではない、下賤卑近な課題でおはずかしいけれど、ゲイ男性のコミュニティにも課題が山ほどあって、それを私はおもにおなじゲイ男性に向かって働きかけるわけですが、当のゲイ男性自身がそれに目をそむけたり耳をふさぐ場合が多く、ゲイ男性コミュニティの不充分さを思わされることが多いので、私も「今よりもよりよい状況をつくるよう努力しつつ、わたしは先に進みたいのです」に同感しています。
    それぞれの領域、課題で、ご精励くださいますように。

  13. もう落ちるつもりで最後を締めたのですが、これまでの日比野さんのレスも、けっこう荒っぽいわなあ。「永易さんのような特権を享受している側の人」と言われてもなあ、で、まあそれを言うと、セクハラオヤジの言い訳だ、と言われちゃうんでしょうから、さきに自分がマイノリティだと言ったもん勝ちという気もする。まあ、しょせんゲイは鈍感なんでしょう。でも、どっかで、バイはどこにもいます、バイのほうが多いぐらいです、みたいなこと書いてなかったけ。その方々はみんな声のでかいゲイおやじに恐れをなして、黙らされてるの? セクマイコミュニティは、一部のゲイおやじが多数のバイその他のセクマイを圧制支配する、古代先制王朝みたいなもんですか。ピラミッドが立ちますわ。

     あと、パレードが外国人の参加を断るというタトエは、今回の名前問題とはぜんぜん次元の違うことで、譬えになってないでしょう。東京パレードはだれも断ってないし。

     ところで、議論のいちばん最初に、どっかに書いてあるかもしれないけど、たとえばゲイレズビアンパレードは、ゲイレズビアンが呼びかけて、ゲイレズビアンの人だけ参加してください、というのなら、なんら問題ないのかな。ゲイレズビアンがなにかするとき、なんでほかのセクマイの人といっしょにやることを前提とすることになってるんですか。ゲイレズビアンだけでやりたい、と言うてるわけではないが、なぜほかのセクマイの人(と言っても、日比野さんですが)からこうも言われないかんのかな、と思って。ゲイやレズビアンというものがそおもそも周縁があいまいなもので、ゲイレズビアンだけ、というのがそもそも成り立たないからですか? それとも数を集めたいだけの無節操な幅広イズムですか? ゲイレズビアンパレードを呼びかける人がいれば、LGBTIパレードを呼びかける人がいてもいい、それはコンセプトの違いだけだろうに、すべからく開かれたパレードにせなあかん、と言われるのはなんでやろう。クラブのゲイナイトもダメですか。ゲイバーというのもダメですか。ゲイ雑誌もあきませんか。パレードだけ別ですか? 
     どっかに最初に書いてあるなら教えてください。くり返しますが、ゲイレズビアンだけでやりたい、と言うてるわけではありませんので。為念。

  14. 京都の日比野さん、関西でパレードおやりなさいよ。
    お仲間と手を繋いで。
    賛同してくれる人たち、いるならね。
    東京突っ込んでる場合じゃないでしょう。
    自分が生きる土地を大切に生きていく時、大切なことよ。
    足元を固めず東京にやじ出してもね。
    建設的ではないよ。地元を愛そう。

  15. ●Pさん
    コメント5番に既に詳しく書いたとおり、「レズビアン&ゲイ・パレード」の問題点を指摘する人に対して「自分でパレードすれば?」と返すことは、「ゲイのワガママ」を延命させるための論点のすり替えです。Pさん自身がそのことに気が付かないのであれば、それが、Pさんが「多数派の論理」「強者の論理」に毒されている証拠です。
    「レズビアン&ゲイ・パレード」をよりよいものにし、コミュニティーの中のバイセクシュアル差別をなくそうとする建設的な試みに対して「東京にやじ」というレッテル張りをすることは、とても失礼なことですよ。

    ●永易さん
    レスちょっとお待ち下さい。いま書いてます。

  16. >京都の日比野さん、関西でパレードおやりなさいよ。
    >お仲間と手を繋いで。
    >賛同してくれる人たち、いるならね。
    >東京突っ込んでる場合じゃないでしょう。

    それ言うのなら、東京都渋谷区で行われたパレードなのに、
    区外の政治家に特権的にPRの機会を与えたのはOKですか。

    それはともかく、「政治的に中立」なんてほざいてるくせに特定の政治家にはPRの機会を与え、
    一方でひびのさんに対しては、この程度の意見表明の機会も弾圧するとは、
    ここまで堂々と差別主義がはびこっているとは思いませんでしたよ。

  17. 上に書いた、「特権的にPRの機会を与えた」って、おそらく、意味がわからないだろうから、誤解のないようにはっきり書きますね。
    TLGPに出た政治家、具体的にいえば世田谷区議の上川さんですけどね、当日の日記にこんなこと書いてます。

    http://ah-yeah.com/nadiary.html

    >主催者団体やボランティアの中には多くの友達が参加しているけれど、きっちりとした仕事ぶりの一方で疲労の色もうかがえる。
    >朝早くから忙しく動き回っているそれぞれの様子には本当に頭が下がる思いだ。
    >本当にありがとう…です。

    それをあんたが言うな!(-_-メ)

    スタッフやボランティアに朝早くから「ただ働き」(volunteer)の苦労・疲労だけさせて、自分は後からのんびり出て来て(上記の文章ではそうとしか読めない)、ステージでスピーチ+パレードの先頭。そりゃかっこよくて気分いいでしょうよ(苦笑)。で、あんたはいったいナニサマのおつもり?

    スタッフをあなたがカネ出して雇ってるなら、彼らをどうこき使おうが勝手だけど。

    しかもこれって、ご自分の区外(渋谷区)での活動であり、あなたもそのボランティアとまったく同じ立場のはずでしょう?それなのに、なにゆえに、こんな上から他人を見下すような物言いができるのか、不思議で仕方がありません。

    いや~、社会の偏見・差別に反対してるはずのLGBT界にまで、こんな「身分制度」が堂々とまかり通っているとは思いませんでしたよ(苦笑)。

    誤解のないように。政治家がパレードに参加するのは自由。だけど、政治家が一般参加者と異なる特権的な地位を与えられるのは絶対に許せない。以上。

  18. で、よく考えたら、上川さんを叩いた以上、もう一人の「よそ者政治家」尾辻さんにも触れないとアンフェアですよね。

    今回の尾辻さんの「カムアウト」話を最初に(1ヶ月ほど前?)聞いたとき、なんでそれを(自分の仕事場である)大阪でやらないの?って思いました。15番のPさんとほぼ同じ意味で(笑)。

    でも、後によく調べると、パレードの数日前にマスコミに発表していて、
    パレードでしたのはいわば「事後報告」に過ぎないのだと(尾辻さんに有利に)解釈することができます。
    ま、それなら、彼女を「特権的」に「特別扱い」さえしていなければ許してもいいかなと。

    そこで、彼女のブログを見てみると、

    http://blog.so-net.ne.jp/otsuji/archive/20050813

    >東京レズビアン&ゲイパレード2005に参加しました。スタッフの皆さん、本当に素晴らしいイベントをありがとうございました!
    >代々木公園に集まったレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー等の皆さんと、その支援者の皆さん、約3500名の前で「今日は元気に、一緒に歩きましょう!」と呼びかけました。

    ま、この程度なら、目くじら立てるほどでもないと思います、私はね。
    先ほども書いたように、政治家が一当事者の立場で参加することは自由だし、
    聴衆(+マスコミ?)が尾辻さんの挨拶を期待していたことは否定できないですから。

    もちろん、実際の彼女の当日の振舞い方を目撃している人からすれば、別の感想がありうるかもしれないけど、なんせ私はその場に居合わせなかったので、HPなどから知るほかないのです。

    結論:政治家は自分のHPの文章に細心の注意を払うべし。誰が読んでいるか分からないから。

  19. ピンバック: FemTumYum
  20. 皆さま、いろいろとコメントありがとうございます。
    長くなってきたので、(その4)をつくります。
    永易さんへのレスも、そちらに書きこみます:lol:
    (その4)http://barairo.net/works/index.php?p=51

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