NOVさんは、個人とグループ、個人とパレードとを分けて考えていないから、混乱している

NOVさんの「行動する主体とは」へのお返事です

 実はこれまでも、「レズビアン&ゲイ・パレード」の問題点を話し合うというような流れの中で、NOVさんのように個人とグループとを同一視してしまい、「じゃぁ、ぼくが自分のことを『ゲイだ』と言うのもいけないのか」という勘違いをされる方が結構おられました。せっかくなので、記事にしておきます。

 結論のところだけ簡単に書いておくと、誰か個人が自分のことを「ゲイ」だと自認したり、「1人のゲイ」という立場から社会に対して自分個人の意見を言ったりするのは、そのこと自体には全く問題がありません。しかし、実際にゲイ以外の人もいることが明らかな場所(グループ/パレード)を、「ゲイの場所(グループ/パレード)」と名付けることは、ゲイのワガママですし、間違った行為です。


【アイデンティティーは本人の問題】

 まず、個人がいかなるアイデンティティーを持とうと、それは本人の勝手です。それが「ゲイ」であれ「オカマ」であれ、「レズ」であれ「ビアン」であれ、「変態」であれ「倒錯者」であれ、好きにしたらいい。
 しかし同時に、何らかのアイデンティティーを持つように強いたり、もしくは持つべきだというような圧力や雰囲気があってもならない、とも思います。また、アイデンティティーは必ずしも一生を通じて一貫したものである必要もないです。
 つまり大事なことは、アイデンティティーに関わることは基本的に本人が決めることであって、周りの人が勝手にあれこれすべきではない、ということです。
 例えば仮に、ある男の人が、毎週末ハッテン場に通い、かつ男と同居し、毎月ゲイ雑誌を買い、同性の恋人がいることを親にも職場でもカムアウトしていたとしても、その人が「ゲイ」であるかは直接本人に聞かないとわからない、ということです。また、その人のことを第三者が勝手に「ゲイ」だと決めつけたり、勝手に「ゲイ」だとして扱ったり、まして「ゲイ」としてのアイデンティティーを持つように強いる/しつこく促すなどということはあってはいけません。
 また逆に、法的書類上の異性と法律婚をしている人の中でも「ゲイ」「レズビアン」を名乗る人もたくさんいます。そういった場合も、少なくとも個人のアイデンティティーという観点では、本人の意向は尊重されるべきです。

【個人の行動の主体は個人・グループの行動の主体はグループ】

 さて、個人としてはどういうアイデンティティーを持つのも自由ですし、それに基づいて発言するのも自由です。それが「個人の責任」である限りは。
 しかし、複数の人が集まる場所(グループ/パレード)となると話が変わってきます。実際に場所をつくってみればわかると思いますが、どんな看板を掲げていても、そこにはさまざまなセクシュアリティーの人がいることの方が、多いです。特にパレードのような「歩く人一人一人が主人公」というような公開の場の場合は、ゲイ以外の人がいることはあまりにも自明です。また、例えば個人宅でのパーティーなどの閉鎖的でメンバーが特定された少人数の集まりでもない限り、「ゲイだけ」の場は実際には存在しません。
 実際にはそのグループや場所にゲイ以外の人がいるのであれば、その場(グループ/パレード)の行動の主体は「ゲイ」ではありません。実際にゲイ以外の人がいるのも関わらず、「ゲイ」を看板にして場(グループ/パレード)のことを表そうとするから、「2級市民扱い」として問題になるのです。

【MSMやLGBTという言い方もある】

 少し文脈が違いますが、例えばMSM(man sex with man / 男とセックスをする男)という言葉は、こういった事実を踏まえて創り出された言葉だと思います。つまり、実際に社会的な層として想定し、また働きかけたいと思う社会的な集団の人達のことを、「ゲイ」という言葉で表すのは不適切だということです。例えば、ハッテン場やその他広い意味での「ゲイコミュニティー」にいる人の中には、「ゲイ」というアイデンティティーを持っている人もいますが、そうでない人もたくさんいます。そういう人達に対して「ゲイというアイデンティティーを持つべき」と押しつけるのは不当ですし、また不可能なことです。ここで「ゲイ」という言葉を使ってしまうと、本来メッセージを届けたい相手にメッセージが届かなくなる可能性が増えてしまいます。だからこそ実際に「どのような行為をしている人達なのか」を具体的に述べることで、「ゲイ」アイデンティティーを持たない人を疎外しないようにし、また「ゲイ」アイデンティティーを押しつけることがないようにしているとも言えます。
 そして、MSMの健康に関わる活動をしているゲイも、たくさんいます。MSMという言葉を使うことは、別に個人が自分のことを「ゲイ」だと名乗ったり認識することを妨げません。
 また、わたしとはやや路線が違いますが、仮に「アイデンティティー語」を重視するという立場に立ったとしても、「ゲイ」にこだわるのではない選択が必要です。例えば英語圏では「LGBT」もしくは「LGBTI」という言葉が好んで使われています。これは、「アイデンティティー語」を使うという前提の中で、しかし実際にこの場所にいる人達をちゃんと対等に扱っていこうという方向で、使われている言葉だと思います。

【個人のアイデンティティーとグループの名前は、ずれていて当然】

 個人のアイデンティティーの問題と、集団を表す時の言葉とは、ずれがあることの方が当たり前です。集団やグループ/場所などについて、確かに自分のアイデンティティーと同じ言葉を使うことは「気分がいい」のは確かですが、少なくとも、大きな規模の公的な企画をするような時には、実際にはそれは不可能なことです。個人のことを表す時と、グループのことを表す時とを、明確に区別して考えることができれば、「ゲイ」もしくは「同性愛者」という言葉に固執することの間違いに気が付くことができるのではないでしょうか。
 なぜわたしがこのことにこだわるのか。それは、「少数派の権利の擁護」という「私たちの運動」の根幹に関わることだからです。「私たち」は、数十人の教室の中にいる「たった数人」の人達が「対等に」尊重される社会を求めるのではないのですか?社会では異性愛者の数が圧倒的に多数派であるという事実を承知の上で、「まるで異性愛者しかいないように」社会と社会制度を創ることに異議を唱えているのではないのですか?
 仮にその場所でゲイが多数派であったとしても、仮にゲイがその場で中心的な位置を占めていたとしても、その場所自体を「ゲイ」で表象する(言い表す)ことには極めて慎重であるべきだと私は思うのです。

【「ゲイだけ」は可能か?】

 それでもあえて「ゲイ」だけを特別に優遇した看板を掲げたい、「ゲイだけの場所」を創って「私たちゲイは」と言いたい、という人もおられるかもしれません。
 もしそれが、メンバーの数が少なくてかつ固定したグループ、例えばお芝居をする集団などであれば、あり得ないことではないかもしれません。
 しかし、規模の大きな、公的で開かれた社会運動の場を創る時には、「ゲイだけ」に固執することは、わたしにはまず現実的でないように思えてなりません。
 これまでにも書いた通り、いま既に存在している「ゲイのコミュニティー」には、ゲイではない当事者がすでにたくさんいます。「ゲイ」と看板の付いている場所には、これまでも、いまも、「バイセクシュアル」がいると基本的には考えるべきです。そういう「ゲイというアイデンティティーを持たないけれど、コミュニティーにいる人」を切り捨てて行動することが、何か建設的なものを生み出すとはわたしには思えません。
 仮に「ゲイ男性」の利害だけを考えるとしても、多くの「ゲイ男性」が「バイセクシュアル」として自身を位置づけるという歴史をたどることがあるのはご存じでしょう。「ゲイだけ」に固執することは、結果としてそういう人達をも切り捨てることになってしまいます。

【「ゲイというアイデンティティーを持っている人」が差別されるのではない】

 いまの社会の中で異性愛中心主義によって引き起こされる差別は、その人が同性との関係を持つという事実に対して向けられているのであって、その行為をする人自身がどういうアイデンティティーを持っているのかには関係がありません。
 つまり、「ゲイというアイデンティティーを持っている人」が差別されるのではなく、アイデンティティーに関わらず同性との関係を持つことが攻撃を受けるのです。
 異性愛中心主義によって差別される人達はたくさんいますが、ゲイはその中の一部分でしかありません。社会の中の同性関係嫌悪と闘おうとする時、社会を変えようとする時に、「ゲイだけ」で集まることが事実上不可能なのは、実際に差別が実践されるその仕組みに理由があるのだと思います。

【「同性パートナーシップの保障」=「同性愛者の問題」ではない】

 NOVさんが個人として発言する時に「ゲイとして」発言する事自体は問題がありません。「ゲイとしての経験」は、運動に貢献することと思います。しかし実は、その発言の際に、同性愛者だけを中心にした「ものの見方」をすると、間違いをおかすことがあります。
 例えば今、法的書類上の異性間でしか婚姻を認めず、また異性間の関係しか社会的に認知/保護されていないという現実があります。このことにより不利益を受けている人は、同性愛者だけではありません。
 何度も書いていますが、例えば、法律上の同性同士のカップルであっても、その人たちは同性愛者とは限りません。バイセクシュアルであったり、そういうカテゴリー分け自体を望まなかったり、異性愛者の場合もあります。異性間の関係だけを保護する制度は、そういったさまざまな人達を抑圧する制度なので問題なのです。
 もし運動の目的が「異性関係のみを優遇する制度を改めること」であるのなら、まずもって運動の主体として想定され、まずつながっていこうと指向されるのは、「異性関係のみを優遇する制度によって不利益を受けている人たち」です。「ゲイであること」を出発点にする人がいるのは構いませんが、それは「異性関係のみを優遇する制度を改める運動」の中の一部分であって、全体ではありません。
 もし仮に、人々に「ゲイアイデンティティーを獲得するよう促す」ことが本当の目的で、そのための手段/道具として「同性パートナーシップの保障」を求める運動を利用する、という立場なら、「同性パートナーシップの保障」を求める運動を「ゲイの運動」とみなしてそのように宣伝していくのは有効かもしれません。しかし、「異性関係のみを優遇する制度を改めること」が目的の中心であるのなら、どのようにして志を同じくする他の人とつながっていくか、「ゲイ」というアイデンティティーを持たない他のセクシュアリティーの人と一緒に運動を創っていくにはどうしたらいいか、をまじめに考えなくてはいけないはずです。だからこそ逆に、同性パートナーシップの保障の問題はゲイだけの問題じゃない、ということを積極的に打ち出していくことの方が、運動を広げていくためには大切だと私は思います。

【まとめ】

 個人の意見を言うだけではなく、実際に社会的に何かを始めると、現実の問題として「ゲイだけ」で集まることは不可能です。ですので、そういう現実を踏まえた運動の作り方をすることが大切になると思います。
 それはつまり、同性愛者だけを特別に優遇するのではない、ゲイもレズビアンも「たくさんある中の一つ」として、他のセクシュアルマイノリティーと同様に尊重されるような、場所と運動を創るということです。場のルール自体を、さまざまな立場の人に開かれた対等なものにすることで、むしろ逆にそこにいる一人一人が自分の個人としての立場から自由な発言ができるようになります。
 何か社会的な運動をする時に、「自分とは違う人」と一緒に場や運動を創るということを肯定的に考えましょう。それは、大きな目で見れば社会的には「少数派」であることから免れえない「私たち」の運動としては、必須のことだと思います。


以下は直接のレスです。

日比野さんの議論を突き詰めていくと、
「レズビアン/ゲイである」という
アイデンティティによって
(一個人であれ、ある程度の組織体であれ)
考え、行動すること自体が
「バイセクシュアル排除」になりますよね。

NOVさんがものを考える時にゲイとして考え、個人として行動する時にゲイとして行動することは、「バイセクシュアル排除」にはなりません。
しかし、集団で何かをする時には、実際に一緒にいる人達がどういう人達なのかをちゃんと踏まえて行動しないと、場合によっては「バイセクシュアル排除」になります。

東京メトロポリタン 「ゲイ」フォーラムも
ダメってことですかね?

グループの集まりに参加したことがないので、わかりません。

一ゲイの視点で政治について書く
「赤杉康伸のごく私的☆政治観測」もダメ?

「一ゲイの視点で書く」こと自体は、全く問題がありません。
しかし「ゲイの視点で書く」その時に、ゲイではない人との関係のことについてちゃんと考えて書かないと、その書かれた内容に問題が含まれている可能性はあります。

誰も、自分の立場からでしか
考え、行動することができません。
その際に、重要な取っ掛かりになるであろう
「レズビアン/ゲイ」であることを根拠とした
思考・行動そのものが「差別である」と否定されたら、
どのように行動すればよいのでしょうか?
結局、行動の主体って一体どこに?

個人として行動する時は、個人のアイデンティティーを立脚点にする人はいるでしょう。
しかしその場合でも、自分とは異なる立場の人との共同なくしては社会を変えることはできません。
また、実際に集団的に行動する場合には、個人の行動の主体と集団としての行動の主体とがずれていることは、当たり前のことです。
同性関係嫌悪や異性愛中心主義と闘う運動の主体は、「同性関係嫌悪っや異性愛中心主義に反対する人達」です。ゲイだけが特別に差別されている訳ではありませんし、そういった運動を担っているのはゲイだけではありません。さまざまなセクシュアルマイノリティーの人達が運動を担っているにもかかわらず、それを「ゲイの運動」と認識したり、「ゲイのパレード」だと言い表そうとするから、問題になるのです。

個人個人、他人とは異なる「主体」があるからこそ、
他者と議論したり、連帯・協力ができるわけです。
その主体を否定されては、そもそも何も生み出せない。

個人個人、他人とは異なる「主体」がある人達が、実際に「パレード」には主体的に参加しています。にもかかわらず、「レズビアン&ゲイ」だけを特権的に優遇する名称を使うことを、少なくとも認識のレベルでさえ「望ましくない」と認識できないようでは、NOVさんは、そもそも自分とは異なる主体の人と連帯・協力する気があるのかどうかさえ、疑わしく思えてしまいます。

「バイセクシュアルの可視化」を
否定することができないように、
「レズビアン/ゲイの可視化」もまた、
否定することができません。

わたしは「レズビアン/ゲイの可視化」それ自体を否定したことは一度もありません。
しかし「レズビアン/ゲイの可視化」だけが特別に優遇され、「バイセクシュアルの可視化」が対等に扱われていない現在のあり方は、異なるアイデンティティーを持つ人どうしの共同の取り組みとしては不適当です。だからこそ、「コミュニティーにおけるバイセクシュアル差別の典型例」として「レズビアン&ゲイ・パレード」が批判を浴びるのです。

そこで、「バイセクシュアルが排除されている」
と思うのであれば、
バイセクシュアルの立場から行動を以って
パレード企画・運営の実際の場に
参加すればいいのだと思います。
そこでの行動に説得力があれば、
何らかの議論が生まれるはずです。

では、現状を変えようとするため、
日比野さんの具体的且つ建設的な行動が
どのようなものなのか興味があります。

 はい、ですから実行委員会に質問をし、パレード当日もチラシを配布しました。
 パレードの名称を含む基本的な方針自体を決定する会議に、他のメンバーと対等の権利を持った形で参加できるような状況があったのであれば話は別ですが、わたしの知る限りそういう事実はありませんので、とりあえずの行動としては妥当なものだと思います。
 また、今回の問題提起を受けて、さまざまなところで議論が行われています。コミュニティー内で何となく「タブー」のようになっていた問題について、表で議論する状況を創ることができたことは、第一歩としては大成功だと思っています。
 わたしの立場からは、こういった議論を通じて、「レズビアン&ゲイ・パレード」というネーミングがなぜ不充分であるか、同性愛者を中心にすることがなぜいけないのかを理解する人が増えていっていることを、嬉しく思っています。

“NOVさんは、個人とグループ、個人とパレードとを分けて考えていないから、混乱している” への4件のフィードバック

  1.  NOVさんのトラックバックのみ取り出して別ページに隔離する理由がよく分らないのですが、私もこちらに書いてよいでしょうか。(NOVさんの意見も、すべてこの「日比野ブログ」での議論の流れ上、論点も争点も同一のところにあり、連続しているはずですが。単に日比野さんご自身が、また新しいページで「長文」を書きたかっただけでしょうか?今回はそれにあわせてという訳ではありませんが、私も長文での投稿をさせて頂きます…)。

     >ゲイ以外の人もいることが明らかな場所(グループ/パレード)を、「ゲイの場所(グループ/パレード)」と名付けることは、ゲイのワガママですし、間違った行為です。

     この日比野さんの(非常に珍しく)シンプルに短く要約された一文こそが、日比野氏主張の全てだと思うのですが、常識の範囲で申し上げますと、これは明らかに極端すぎる断定で、コミカルなそして破綻した主張文になっていると私は思います。
     何故このようなジョーク的にも思えるような突拍子も無い原理主義的原則論になるのか?それはおそらく、日比野さんの視点や考察に、現実的な「場合分け」や「TPO」の概念が完全に欠如しているからだと思われます。いいや私は場合わけをして議論しているぞ、とおっしゃるのならば、その場合は日比野さんの場合分けの腕前とセンスが下手なのです。大事なところでの「場合わけ」と「TPO」の把握が上手く出来ていないのです。

     「〇〇でない人間が含まれているのに〇〇と名のつくのグループや、イベント」、そのようなことは、場面や状況、目的や意図によっては、当たり前のようにいくらでもどこでも存在します。〇〇部分を日比野さんの主張するとおり、「ゲイ」と入れて、日比野さんがお好きな「ゲイ:バイの二項対立構図(バイは犠牲者論)」に仮に当て嵌めてもそんな場所やシチュエイションはいくらでもあります。

     しかし、場や集団や組織にはそれぞれのTPOと目的が、現実としてあるのです(その場に応じた「主体」があるとも言えます)。ですから「人」はその「TPO]や目的や自らとの関係性や利害関係等を読み取り、各々の主張なり属性なりを抱えたままで、それぞれの場に所属し、集団に参加することが出来ます。また現実のゲイイベントや東京や札幌のパレードなどのイベントもそうやって動きながら続けられています。

     つまり、日比野さん理論の中で構築されているような、「差別と抑圧」の構造も、「ゲイのわがままと傲慢」も、「組織としての誤謬」も、恐らくは現実では最初から存在していないのです。現実のバイの人の感じる抑圧感は実在しても、日比野さんが振り回す独特の被害者論との意味合いとは合致せず、日比野さんはいつまでも非現実的な「多数派との戦い」を妄想されているのです。例えバイであってもその他の属性であっても、冷静な人は最初から場のTPOを読み、好きなように動き、それで「場所」は存在し、「組織」も柔軟に自然に動き続けていきます。
     それで、何が一体最初から存在していたのかというと、そこには「どんな組織を見ても差別を見つけだす日比野さん」と「どんな場所の中に居ても差別を叫ぶ日比野さん」が最初からぽつんと居るだけです。
     
     私は常々、日比野さんの構築する「少数者の権利」論は、バイのためのリベレーションでもなくセクマイ解放のアクトでもなんでもなく、単なる市民運動型のミニコピーで弱者権利を求めるための被害妄想に過ぎないと感じております。もし、そうではないと改めて仰るのであれば、日比野さんの「脳内理論の外」での、現実的な検証と場合わけを行った上で自説を構築し、今後のこの議論を続けて頂きたいと思います。

    ・ 

     以下、日比野さんの理論の混乱した部分について、もう少し細々とした指摘を。
     
     まず、

     >大事なことは、アイデンティティーに関わることは基本的に本人が決めることであって、周りの人が勝手にあれこれすべきではない、ということです。

     当たり前の話ですね。しかしなぜ、論者の誰も反論してないような事をあんなに沢山の文字量を費やしてわざわざ長文で書くのですか?日比野さんのこうした議論上のクセも大分解ってきましたが、それは、「誰にも文句言えない正しい内容を私も書いている」と閲覧者にアピールをしたいためでしょうか。
     議論の対立点にも全くなってない話で文章量を無意識に水増しするのは、議論が不必要に混乱するので今後はやめて頂けますか。おそらく本当に無意識にやっておられる行為だとは思いますが。

     >ゲイ以外の人がいるのであれば、その場(グループ/パレード)の行動の主体は「ゲイ」ではありません

     「主体」についての認識が根本的に間違っております。「〇〇以外の人」が居るからといって、自動的に「主体」が変わるべき、という日比野さんの理屈は短絡であり、初歩的な誤りです。
     最初から想定されている、ある一つの場(例えばグループやパレード)の主体は、その場自体が持つ目標なり目的の「主体」が決めるものですし、具体的には最初に場の設定~決定作業に携わった人々(実行委員、呼びかけ人など)、が打ち立てて掲げるテーマが、強いて言うなら「主体」です。日比野さん主張の、後から異なる存在が入ったら主体も変わって当然、変わらないのは差別!という原則論的な主張は「場の成り立つ順番」の読みが違っています。つまり「場」の成立する過程の「TPO」と「場合わけ」に思慮が及んでいないのです。
     それとも、もしかして日比野さんの使う「主体」と言う言葉は、我々とは全く違った異次元的な辞書的意味を持っているとでも言うのでしょうか…?
     (その場合は、新しい日比野専用用語としての「主体」の意味や成り立ちを一から他者に説明する義務がそちらに生じます)。

     >例えばMSM(man sex with man / 男とセックスをする男)という言葉は、こういった事実を踏まえて創り出された言葉だと思います。

     いえ、違います。
     日比野さんの期待するような、「みんないっしょ、みんな平等」的なあやふやな日比野理論系から生まれた言葉では全くなく、医学、統計学上の「調査の為の場合わけ、及び分析の精査の必要上」から生まれた、ある意味厳然たる理論的用語です。
    (自論に一見合いそうな言葉が、いつもご自身に都合よく使えるとは限りません。以前に私が、日比野さんの「誤用」を指摘した東京の「レインボー祭り」の場合と同じです)。

     >「私たち」は、数十人の教室の中にいる「たった数人」の人達が「対等に」尊重される社会を求めるのではないのですか?

     その比喩は例が極端すぎますね。
     この極端さは、あたかも日比野理論の原理主義的な側面をよく表していると私は考えます。以前に私が日比野さんの行動思想全般を市民運動のコピー的という風な評価を下したのはこういう側面からの判断です。日比野さんの言う『対等』とは、具体的には実現の可能性自体も、そこへ至る筋道も非常に不明確で非現実的であやふやな概念です。その反面、「理念」の旗印としては常に全面に押し出し、他者への批判用途の得意武器としてはいつも使っておられる。それはまるで、プロの社会運動従事者が、(自らの存在意義が当面なくならないように)わざと遠大で実現不可能的な左翼的大目標を活動テーマに掲げ、日々のミクロな活動に従事する様子に、非常に似通って見えます。
     私は、日比野さんに対しては、(日比野さん自身にも扱いきれないような)理念で永久に遊ぶのはやめ、現実のTPOを見て考えてくださいとお願いしたいです。
     パレードで言うと、いくつあるのかわからないマイノリティ集団の各条件、そうした詳細な要素の「目」が「全て揃うまで」何も行動できない、何も決められない、ということになります。結果的にそれは答えの出ない無理難題をふっかけ、パレードの足を引っ張りつづけている、と同義です。

     >実際に社会的に何かを始めると、現実の問題として「ゲイだけ」で集まることは不可能です

     「不可能」?、これは不思議な決め付けです。TPOによっては成立するかもしれません。現実に揃ったら、今度はその集まりを「差別的な集団だ。ゲイしか居ないじゃないか」とまた糾弾するのですか?単に口が滑っただけかも知れませんが、こういう狭い「断定」は思考を硬直させます。しかも、まとめの段の大事な文節で、こういう断定仮定をはさむのは感心できません。「不可能でない」場合の場合分けも理論では必要なのですし、もし「そうでない」場合があったら、ここまでの日比野さんの長大な演説が最集段で崩れるので大変勿体無いです。そもそもこういう日比野さんのような決めつけ文は、物事の、一つの側面からしか語っていらっしゃらないのではないでしょうか?(笑)
    こういうところも、以前指摘した、日比野理論の「不備、不整合」の一例です。

     以上、NOVさんに向けて直接は語ってなさそうな部分のみで、日比野さん理論の崩れ箇所や空いている穴などを一通り指摘してみました。
     (しかし、日比野さんの発言は、過去も一貫して、また今回のNOVさんの回答の内容に至るまで、「全て同じ」ですので、日比野氏批判の汎用例としてはどこでも通用すると思います)。

  2. masatomoさんの「決めつけ」も硬直していてぜんぜん感心できない。

  3. あなたみたいなつまらない方につまらないと言っていただけてたいへん光栄です。

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