““みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その6)” への21件のフィードバック

  1. takashiさん 【(その5)コメント10】へのレス
     お書きの通り、実行委員会からのお返事は、

    (1)礼儀にかなったやりとりになっており、今後の継続した対話のための第一歩として、肯定的に受けとめている。
    (2)内容的には、わたしの立場からみた時、状況認識自体に問題があったり、あくまで「レズビアン&ゲイ」を中心に考えるという立場からの意見でしかないなど、たくさんの問題を含んでおり、到底受け入れられる内容ではない。

    と思っています。これは、「実行委員会が、なぜ、レズビアン&ゲイ・パレードという名前を選択しているのか」を聞く最初の質問でした。従って、これについては、このサイトでのやりとりが一段落してから、本格的に対応をしていきたいと思っています。
     しかし不思議なのは、少なくとも砂川さんとのやりとりにおいては礼儀正しくやりとりができているにもかかわらず、あなたを始め外野のゲイの人達が過剰に反応して、「パレード批判はゆるさん」とでもいうような極端な反応が見られることです。
     やっぱりこれは、同性愛者を中心とする間違った文化があることが明らかになると困るから、過剰反応しているんでしょうか。わたしの発言がそこまでの影響力を持っていることを知り、驚くと同時に喜んでおります。
     
     

    あなたが掲げる「個人とグループ」という単純な2項対立は、実はありえないということです。グループだって個人個人のメンバーから成り立っているし、そのグループの特色や目的、歴史があります。イベントだって、場を成立させるための主催団体が必要です。

    社会的に責任のある企画をする時、やっている個人と組織とを、厳密に区別することは、組織運営の基本です。(断定で書いていますが、でもそうとしか言いようがない感じがするのですが)

    個人がゲイプライドを表明するのと同じように、「まずはゲイ&レズビアンを中心に集まってやっていきたい」という人たちがグループや団体を立ち上げることに、誰も文句を言える筋合いはありません。

     既に書いておりますが、どのような間違った方針を掲げたパレードであっても、市民権の問題としては開催する権利があります。
     ただし開催する権利もあるけれど、その場合には、厳しく批判を受けたり、直接行動による抗議などを受ける可能性も十分あるでしょう。そして、誰であれ文句がある人が文句を言うことは、これまた市民としての当然の権利です。

     「ゲイ」と名の付く公的で開かれた場所には、一般的に言って必ず「バイセクシュアル」がいると考えるべきです。それは、その場にカムアウトする「バイセクシュアル」がいるかどうかにかかわらずです。すでに「バイセクシュアル」が同じコミュニティーにいるにも関わらず、「バイセクシュアル」を無視する事自体が既に間違いです。「レズビアン&ゲイ・パレード」を呼びかけるということは、今すでに存在している豊かな人間関係を破壊する試みですし、コミュニティーを分断する間違った行為だとわたしは思います(**主語をつけてみました)。

    パレードの名称の問題もやっぱり最後に決めるのはTOKYO Prideなのです。

     形式的に言えば、TOKYO Prideが決めることになるでしょう。
     そういうタイトな話をするのであれば、TOKYO Prideへの参加の権利が誰にあるのか、それは開かれたもので、今の執行部を批判する人の参加が可能かどうか、今の責任者の罷免が可能かどうか、そういった民主的な運営がされているかが直接問題になってきます。(ところで、実行委員会が「これは決定です」と開き直っている訳でもなく、やりとりが始まった段階でしかない現時点で、わざわざ外野のゲイたちが「決定権はTOKYO Pride」と騒ぐのは不思議です。今は内容の話をすればいいのであって、組織論の話をすれば今のTOKYO Prideは明らかに不利ですよ。砂川さんもどこかで「将来的には開かれた運営をしたい」というようなことを書かれていたと思いますし、わたしも実行委員会が誠実に応答している限りにおいて組織論の話をするのはやめようと思っているのですが。将来に状況がよくなることを願いつつ今しばらく「見守る」の方が現実的だと思うのですが…)
     また仮に形式的に実行委員会に決定権があるとしても、それは実行委員会の決定した内容が正当である限りにおいて容認され受け入れられるだけであって、問題のある決定をすればそれが批判を受けるのは当たり前のことです。
     そして今実際に、「レズビアン&ゲイ・パレード」という不適切なネーミングを「決定」しているから、こうやって問題になっている訳です。決定権があるからと言って、なんでも好き勝手にできる訳ではありません。

    「バイセクシャルプライド」の団体なりネットワークなりを立ち上げて、来年のパレードに大挙して参加されてはいかがですか。

     う~ん、わたしは、「バイセクシュアル差別」や性別二元主義と闘うことには関心がありますが、「バイセクシュアル・アイデンティティー」の構築にはほとんど関心がありません。誰かやる人がいたら、参加も応援もするよ~という感じかも。バイ当事者からのリクエストがあれば、検討はするかもしれない。そんな感じ。
     やるなら「反戦フロート」がやりたいな、とどこかに書いたこともあったはず。

    でもゼロから作り上げていくのはものすごいエネルギーが必要です。

     ですから実行委員会には敬意を払って、裏でうわさを流すようなネガティブなやり方ではなく、まず礼儀正しく実行委員会に質問をするなど、建設的な関与をしているところです。
     エネルギーとか、大変さとかを言い立てる方は結構おられますが、コミュニティーの中で「ゲイのワガママ」を指摘することも、同じような言い方をしてみるなら「ものすごいエネルギーが必要です」。ゲイコミュニティーの内部における差別をなくすための努力に対しても、同じように敬意を払って欲しいものです。

    今回の議論で私自身驚いたのは、パレードにかなりの数のノンゲイの人が参加され、また名称に対しての疑問点をブログなりで表明していたことです。

     takashi さんが見えていなかっが事実を発見することができたのは、素直によかったと思います。でも、それはtakashi さんには見えていなかったというだけで、ノンゲイの人には自明の事実だったと思います。またさらに、そういった自明の事実を多くのゲイの人が見ようとしない、見て見ぬふりをしているという事実もまた、ノンゲイにとっては自明の事実だったと思います。
     さて、実はそもそもレズビアンも「ノンゲイ」なんですが、そのことにはお気づきではなかったですか?「レズビアン&ゲイ」という看板だということは、それは既に「ゲイのパレード」ではないということです。でも、takashi さんにとっては、「レズビアン&ゲイ」という看板であっても、「レズビアン」の存在は見えていないということなんですね。

    でも、同時にとっても残念だったのは、その人々がおしなべて「お客さん」の立場を一歩も出ていないことです。「レズビアン&ゲイじゃねえ」、というのならどうして準備の段階からもっと「主体的に」声を上げていかなかったんでしょう。または、どうして昨年、一昨年中止になってしまったときにこのような話が出てこなかったんでしょう。今年成功したからこそ、出てきた話じゃないですか? それぞれのノンゲイの方のお話をうかがっていて「それって、後出しじゃんけんじゃん」との思いを強くしました。

     あのですね、既に、パレードのボランティアにはたくさんの非ゲイ非ビアン(同性愛者以外)が参加しています。
     ではなぜ意見が「表に」出てこないのか?
     わたしがたった一人で実行委員会に質問をしただけで、「パレードを妨害する」とか「自分では何もしないくせに文句を言う」とか「実行委員会の苦労を考えろ」とか「なぜわざわざノンゲイのあなたが『レズビアン&ゲイ・パレード』にくるの」とか、嫌がらせと攻撃の言葉が一部のゲイから出てくる現実がある訳です。takashi さんをはじめとする、マジョリティーとしてのゲイの特権に鈍感なゲイの方たちの存在こそが、ノンゲイの発言と顕在化を妨げている原因です。自由にものを言ったり、お互いのあり方を見つめ直すような環境ではないですよ、これは。
     コミュニティーの内部の同性愛者中心主義とでもいうものを解体するために、確信を持ってものを言うわたしのような人は、やっぱりまれです。多くの場合は黙っています。そのあたりのことは、【(その2)コメント8】でnyunnyuiさんが書いてくれています。
     それから、「TOKYO Pride」という名前が採用されているという事実からみると、上記のような状況があるにもかかわらず、既に今の時点でいろいろな意見がそれなりに実行委員会にも届いているとみた方が妥当でしょう。「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前への批判や、同性愛者を中心とすることの誤りについては、パレード以前からの蓄積が既にあります。ですので「後出しじゃんけん」ではありません。

    さまざまなセクシャリティーの人、グループその他具体的なつながりができてくれば、この問題も案外早く解決すると思います。

     というのはその通りだと思います。しかし、その実現を阻んでいる大きな理由が、例えばtakashiさんの認識と行動にあることには気が付いて欲しいです。「私はまだ存在していない、さまざまなセクシャリティーの人、グループその他具体的なつながりができてくれば」というtakashiさんの発言は、「ゲイの人がこの職場にいるなんて知らなかった」というようなのと同じなのです。
     ノンゲイは、これまでに既にあなたの周りにいたのです。そのことに気が付かなかったのはあなたの方に理由がありますし、またいたにもかかわらず知ろうとしてこなかった、つながろうとしてこなかったあなたの方にこそ原因があります。

    日比野さん初めその他ノンゲイの皆さんに期待するのは、「具体的な何か」を作り上げて持ち寄ってほしいということだけです。

     ですから、せっかくチラシを持っていって配ったりして、ノンゲイの存在をアピールしたのに、それに賛同して協力するのではなく、わたしがまるでパレードを邪魔しているかのように扱ったのは、他ならぬ takashiさんなのですが。もし本当にtakashiさんが、ノンゲイと関係を作りたいと考えているのであれば、最低限の礼儀として、まず始めに「ひびのさん、わざわざ意見を書いて表現してくれてありがとう」とでも言って欲しいものです。
     実際にパレード当日にお会いした実行委員の方とは、特に険悪になるのでもなく、お互いいい感じで挨拶もできました。実際にそうやって話が少しずつ進もうとしている時に、一部の外野のゲイが「ゲイのワガママ全開」の発言をすることで、状況を悪化させていますよ。
     それから、ノンゲイは、ゲイの利害を支援するために参加するのではありません。しかもノンゲイは、「参加させて欲しい」とゲイにお願いするのではなく、当然の権利として参加します。さらに、ノンゲイがノンゲイとして公然と参加するということは、パレードの場におけるゲイのヘゲモニーが減少するということです。これらのことはあらかじめご覚悟くださいませ。

    ゲイの私にはバイセクシャルの日比野さんの個別具体的な利害を代行することはできない

     代行して欲しいとは思いません。しかし、ゲイを中心とする力関係は間違いであると認めて、その意見を公表するということを自身の責任ですることができます。具体的には、例えば、「わたしはゲイですが、『レズビアン&ゲイ・パレード』という名前は今のパレードにはそぐわないと思うので、できればもう少し広い名前に変えることを検討して頂けませんか。最終的にはTOKYO Prideさんが決めることですが」などとTOKYO Prideに宛てて意見を伝えることもできますよ。
     一番大事なことは、ゲイであるtakashi さん自身が、同性愛者を中心とするパレードを望むのか、それとも同性愛者だけを特別に優遇するあり方に反対するのか、ということです。

  2. 青山直樹さん 【(その5)コメント11】へのレス

     青山さんが書かれるようなアプローチの仕方は、1つの方法として重要なことだと思います。実際に人間関係を作っていくことも大切なことですし、そういった努力をされている方には、素直に敬意を持ちます。
     こちらのゲイの方の書き込みだけをみると、わたしがまるでパレード実行委員会に難癖をつけたり攻撃をしているように誤解する方もおられるかもしれませんが、実際にわたしが書いて実行委員会に送ったメール(http://barairo.net/works/index.php?p=53)を読んだりすれば、それは事実ではないことがわかるはずです。わたしは、ごく普通に質問をしているだけです。その意味で、まず礼儀にのっとって関係作りをしていると思います。

     もしパレードが「私的なパーティー」なのであれば、青山さんがおっしゃるとおり主催者に「受け入れてもらう」というアプローチが必要だというのも一定の説得力があります。しかし「レズビアン&ゲイ・パレード」は、現実には「性的少数者の顕在化を訴える政治的なパレード」という性格の方が強い企画です。実際に不特定多数に参加を呼びかけていますし、またそういうものとしてメディアにも登場しています。「私的なパーティー」であればメディアもこんなに取り上げることはありません。
     ですので、パレードの主催者は、単に「やりたいからやりたいことをする」という、自分のことだけを考えた単純な発想では済まされません。言い換えると、「私たちのコミュニティー」の名前を使って政治的なパレードをしているのですから、「社会的責任」があるということです。
     実際にパレード実行委員会の実務をまったく担わない人が、パレードについて意見を言ったりすることは、いかなる意味においても否定的に考えるべきではないと思います。また実行委員会は、批判者と人間関係をつくりたいかどうかに関わりなく、批判に対しては誠実に応答していく必要があります。
     パレードは「私的なパーティー」ではないのです。公的な企画としてパレードは開催されている訳ですから、そのパレードについて議論する時、その前提として別に現在の実行委員会の人達と個人的にオトモダチになる必要はないです(なりたくないと言っているのではありません)。個人的に好きか嫌いか、個人的に人間関係を作りたいかどうかということには関わりなく、いわば「お仕事として」話をするということ、直接の人間関係がないところでお互いに敬意をもって話し合うことも、必要になると思います。
     幸い、例えば砂川さんからのお返事を見る限り、そういった社会的責任を引き受けて行動しようとされているようにわたしは少なくとも現時点では思えるので、その点については喜んでいます。

    どんな社会でも、コミュニティでも、改善するべき部分はあります。外部からの声が、正当性を有している場合もあります。しかし、あなたから言われたくない、と言われてしまう場合もあります。それは、その人が語る内容に問題があるのではなく、言うべき必然性と、人間関係が十分に培われていないからです。

     はい確かに、コミュニティーの外部から、例えば性別違和のない異性愛者から意見を言われても、「あなたから言われたくない」という思いを持つことは私もあります。しかし、私はコミュニティー内部の人間として、コミュニティー内部の問題としてのパレードの名称問題を、言うべき必然性があって提起しているつもりです。 パレードは私的でクローズドな企画ではありません。対社会的な行動である以上、主催者や参加者以外の人に対しても影響を与えます。仮に私がパレードには参加しなかったとしても私の生活にも影響を与えるんです。「レズビアン&ゲイ・パレード」という看板でパレードすることによって、コミュニティー内の「非レズビアン&ゲイ」の存在を社会の中で一層不可視化する効果を持っていることを危惧するからこそ、声を挙げているんです。

     繰り返しますが、個人的な人間関係を作ることによって、意見を採り入れてもらえる状況を作るという青山さんの言われるやり方を、わたしは否定しているのではありません。そういうやり方をする人にもわたしは賛成します。しかし公的な場としてのパレードについては、個人的な人間関係の問題を離れた社会的な責任もありますので、個人的な人間関係を離れて礼儀にかなう形で意見を表明することに問題があるとは、思いません。
    (さらに現実的な話にすると、例えば私が毎週実行委員の誰かと顔を合わせるような環境にいるのに、直接本人には何も言わずにいきなり「公開質問状」を送ったら確かに少しびっくりするでしょう。「直接言ってくれたらいいのに」という思いを持つかもしれません。でも、私は実行委員の人とはほとんど面識がありませんし、京都在住の私が実行委員の人と直接会う機会はほとんどありませんので、直接会ってお話しするという感じにはなりづらいということもあります)

  3. masatomoさん 【(その5)コメント15+16】へのレス

    ●「マイノリティー/マジョリティー」

    「日本語」の辞書では、マイノリティは少数派または少数民族の意、対語のマジョリティは多数派の意味のはずですが。

     「少数派」「マイノリティー」という言葉は、もともとは「数が少ない」という意味の言葉だと思いますが、社会運動の文脈では、社会的に差別されている側、被抑圧側を指す言葉としてもよく使われている言葉です。国内の例で言えば「女性」は数としては少数派ではありませんが、女性差別という観点からは「被差別」「被抑圧」の側ですので、しばしば「マイノリティー」とも言います。社会的な権力は、数の多い少ないによって決まる部分が大きいのも事実です。ですので社会的に差別され抑圧をされている社会的集団は数の上でも「少数派」であることは多いと思います。しかし、数の上では「少数」ではなくても社会的には抑圧されているような事例は、例えばさっきの「女性」、ラテンアメリカにおける先住民族、以前のイラクのシーア派/スンニ派の関係などを例示できます。「マジョリティー/マイノリティー」という言葉は、数の多い少ないという観点からだけ使われるのではなく、社会的な差別や抑圧関係といった観点から「抑圧/被抑圧」という意味で使われることもあるのですよ。
     しかし日本語で「多数派/少数派」と書くと数の多い少ないの問題としてだけ捉えてしまう人がいるのも事実なので、わたしがどういう意味でこれらの言葉を使っているかを説明するために、ちゃんとこう書いた訳です。

    >「マイノリティー/マジョリティー」の問題は、人数の問題ではなく、社会的な力関係の問題です。
    >数字は関係はありますが、数字だけを根拠にしているのではありません。

     ですから、繰り返しますが、「マイノリティー/マジョリティー」「多数派/少数派」という言葉は、社会的な力関係の問題として読んで頂くようお願いします。
     なお、もちろん数の多い少ないは社会的力関係や抑圧を創り出す大きな原因の1つにはなりますので、意味としてかぶって使うことも多々あります。
     
     
    ●本サイトへの書き込みについて

    「この現在のブログ上の議論で、日比野さんを理論面で支援し擁護するバイ論陣側の援護射撃が無いのはなぜですか?」

    ・普通はですね、鈍感なゲイの人と話をするのは時間の無駄だからしないのです。かまってあげる価値があると思えない限り、わざわざ出てこないですよ。
    ・バイ活動家が少ないのは事実だと思います。残念なことではありますが。ただ実際、異性愛社会の中での抑圧と闘うだけではなく、レズビアン・ゲイのコミュニティーの中での抑圧とも闘わなくてはいけないのは、かなりの負担です。そんな中で、活動的な領域からは身を引いて、日常生活を送る人は多いと思います。
    ・何度も書いておりますが、わたしは「バイセクシュアル」を代表してものを言っている訳ではありません。わたしの意見に賛成しない「バイセクシュアル」の人だっているでしょう。議論は、ギャラリーや第三者の書き込みの有無ではなく、論旨の内容を検討することで進めて頂くようお願いします。
    ・そもそものわたしの問いかけは、『「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」など様々な性的少数者が参加しているのに、なぜパレードの名称は「東京レズビアン&ゲイパレード」なのですか?』というものです。「レズビアン&ゲイ・パレード」という名称が同性愛者だけを特別に優遇する問題のあるネーミングであるという点については、ここに書き込まれるゲイの方でもだんだん表だって反論できなくなってきています。
     
     
    ●「バイセクシュアル」の運動の当事者性について

     >「バイセクシュアル」の運動(最大広義)を自分の位置から担うと名乗りを上げられるのであれば路線についての議論を是非したいとは思いますが、もしそうでないとするなら、この一文は「余計なお世話です」と言っておきましょう。

     日比野さんはゲイ社会のあり方や実際のゲイパレードの運営から「余計なお世話です」と言われたと感じ取り、それに対してバイの立場から批判をしていたのではなかったですか?(中略)それが、他者がバイセクシャル問題に触れると、今度は「余計なお世話」と仰るわけですね。

     異性愛主義と闘う運動の主体は、異性愛主義に主体的に反対しようとする人達です。それは強制異性愛社会によって不利益を被る人達の人権の向上を目指す運動です。しかしそれは決して「ゲイの運動」ではありません。被抑圧当事者であって運動を担っている人でも、「ゲイ」というアイデンティティーを持っていない人、持ちたいと思わない人もたくさんいます。
     そしてさまざまなセクシュアリティーの人達が実際に協力しつつ進めている運動を、それがまるで「ゲイの運動」であるかのように間違った表象をすることに、私はずっと反対しています。「レズビアン&ゲイ・パレード」の名称への批判も、この文脈にあります。
     「バイセクシュアル」の運動は、「バイセクシュアル」の運動を主体的に担おうとする人達のものです。もしmasatomoさんが主体的にその意志がおありなら、一緒に議論しましょう、といっているのです。
     「バイセクシュアル」の運動は、「バイセクシュアル」という名乗りを引き受けるかどうかには関わりなく、しかし一般に「バイセクシュアル」と人に言われるような状況におかれる人達の権利の向上のための運動です(だからバイセクシュアルに「」がついている)。そもそも「バイセクシュアル」の運動、という言い方をすることから問題含みなのは自明ですので、「一般にバイセクシュアルと人に言われるような状況におかれる人達」の権利の向上という目的を共にできる人とであれば、そもそもそういった名称の是非から含めてお話をしたいと私は思っています。しかし、それはあくまで「一般にバイセクシュアルと人に言われるような状況におかれる人達」の権利の向上という目的を共にできる限りにおいてであって、例えばゲイの人に何かを「わかってもらう」ために、「バイセクシュアル」の運動の運動方針や考え方を変える必要ないです。
     言い換えると、バイ差別や性別二元主義という観点からは、「バイセクシュアル」に対してマジョリティー(社会的に力を持っている側)であるゲイの人達には、バイリブを主体的に担う意志がないのであれば、バイリブの運動方針には口を出す資格がありません。しかし主体的に「バイセクシュアル」の運動を担おうという意志があるのであれば、話し合ってみましょう、といっているのです。
    (ただしバイの人でも、さまざまな運動路線がありますので、仮に同じ「バイセクシュアル」であって、バイリブをするという場合でも、意見が違ったりすることもあります。念のため)

     
      
    ●masatomoさんの文章や他のゲイの方の意見を読むと、ギョーカイボスを作ってありがたがるゲイコミュニティーの一部にある文化を思い出します。実績がどうのとか言い出すに至っては、その発想の「男らしさ」に感動すら覚えますです。
     永易さんも「国会」「法律」など大文字の政治にばかり関心をお持ちの様子がうかがえましたが、「パレードを実現させたかどうか」だけを評価軸とするmasatomoさんの発想の狭さにも驚きました。
     別にセクシュアルマイノリティーの運動はパレードだけではないですよ。目立たないところで、いろんな人達が、それぞれできる範囲のことをやっています。そういう小さな取り組みがたくさんあるからこそ、はじめてパレードのような規模の大きい企画ができるのです。大きなこと、目立つことをやっている人だけをありがたがるような権威主義的なものの見方をされる方がおられることは、とても残念です。

    ●masatomoさんは、「ゲイ」を中心とするコミュニティーのあり方を批判する私の意見に賛同者が少ないかのように思われていますが、例えば実際に顔を合わせて丁寧に話をすることのできる場所では、私の意見は特にことさら「ひびの理論」などとネーミングするまでもない、多くの人に受け入れられる当たり前の意見です。関西パレードの流れの中で、多くのゲイを含めた人達の間で以下のような確認がされたことが、その事実を物語っています。また、関西で大きな「ゲイグループ」だった「ゲイ・フロント関西」が、「ゲイのグループであること」を公式にやめたということなども、オマケで付け加えておきましょう。

    「パレード準備会」開催にあたっての事実関係確認のための覚書(2000年5月20日) から一部抜粋

    1)少数者の意見に積極的に耳を傾け、異なった意見をもつ他者と向き合い、ていねいな話し合いに基づいたパレードを作る。
    2)準備の段階も含めて、パレードに参加する意志のある人は誰も排除しない。
    3)特定のコミュニティー・セクシュアリティー・グループの都合が常に優先されるような場にはしない。
    4)できるだけ広い範囲の個人や団体に呼びかけるよう積極的な努力をする。
    5)開かれた会議以外の場所で一部の人だけで重要なことを決定しない。
    6)個人のプライバシーを尊重し、傷つけないよう最大の努力をする。

    http://barairo.net/special/kansai-parade/oboegaki.html

    会の機構の変更についてのお知らせ

     2002年4月に開催された第9回定期総会において、「ゲイ・フロント関西」は、それまで別称として用いてきた「G-FRONT関西」という呼称を会の正式名称とすることに決定しました。また、会の目的として、これまで掲げてきた「社会にゲイの存在を知らせ、ゲイへの差別と偏見を解消し、セクシュアリティの多様性を認めさせる。」「大多数のクローゼット・ゲイに情報を提供し、孤立しがちなゲイを支援し、そのネットワーキングをすすめる。」を発展させて、
    「社会にセクシュアル・マイノリティの存在を知らせ、セクシュアル・マイノリティへの差別と偏見を解消し、セクシュアリティの多様性を認めさせる。」「大多数のクローゼットな状態にあるセクシュアル・マイノリティに情報を提供し、孤立しがちなセクシュアル・マイノリティを支援し、そのネットワーキングをすすめる。」
    とすることにしました。
    今後も、新しくなった「G-FRONT関西」の活動に
    ご理解とご協力を下さいますよう、よろしくお願いします。

    http://www5e.biglobe.ne.jp/~gfront/infomation0.htm

     
     
    ●わたしの言っていることは、実はそんなに難しいことではありません。「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」など様々な性的少数者が参加しているのに、なぜパレードの名称は「東京レズビアン&ゲイパレード」なのですか?という問は、事実として多くの人の思いです。そういった思いの実現を妨げている人達がどういう人達なのか、またそれを妨げている人達が何を考えているのか、こんな簡単な問題が素直に話し合われてこなかったのはなぜか、ということの一端を明らかにできたことは、今回の成果です。そういう意味では、masatomoさんの書き込みにも感謝しています。

    ●「説得下手で空気が読めてない」という話については、「NOVさんは、個人とグループ、個人とパレードとを分けて考えていないから、混乱している」の記事のコメントの方に、TPOのこととあわせてお返事する予定です。

  4. 永易さん 【(その5)コメント13+14+20】へのレス

    ●「バイセクシュアル」の存在しない形で「ゲイ・コミュニティー」「ゲイ・パレード」を想定することは不可能です。「ゲイ」という看板が掛かっている場所は、一般的には「バイセクシュアル」の場所でもあります。最も少なく限定しても、ゲイ男性と「バイセクシュアル」男性がメンバーとして既にいるにもかかわらず、その場所のことをまるで「ゲイの場所」であるかのように言い表すから、「ゲイによる場所の私物化」として批判を受けるのです。
     これはことさらアイデンティティー語を使うことの弊害の表れでもあります。もしどうしてもアイデンティティー語を使いたいと永易さんが言われるのであれば、「ゲイ」という言葉を使うことで「ゲイではない人」を排除したり嫌な思いをさせたりしないように努力する責任は永易さんの方にあります。個人として自分のことを「ゲイ」といわれるのはお好きにされればいいですが、人を勝手にゲイだと見なすとか、「ゲイ」だと名乗ること促すとか、ゲイだと名乗らない人に不利益を与えるとか、つまりゲイ以外の人にゲイの都合を押しつけないようにちゃんと注意をして欲しいものです。

    たとえば仮に朝鮮人パレードがあって、チョゴリやチャンゴでにぎにぎしくパレードしている人がいるところへ、「朝鮮人と名乗るのは、そうでない人が入れないから、名前変えろ~」と言ってるようで、どうしてもフに落ちない。

     もしこういう議論をするのなら、その「朝鮮人パレード」が何を目的とするパレードなのかということ、そして「名前変えろ」という意見の内容とを、ちゃんと具体的に検討することが必要だと思います。
     永易さんは【(その5)コメント20】において、「在日問題を意図しておりません」と書かれていますが、「在日問題」以外で「朝鮮人パレード」がいま日本で開催される目的が想像できませんし、実際にそういうものが開催される可能性も考えつきません。ですので、「朝鮮人パレード」の是非について意見を書くのは無理です。
     もしそのパレードが「日本における外国人の権利」を訴えるためのパレードであるなら、accaさんが書かれたとおり、タイトルに「朝鮮人」とだけ掲げるのは確かに不適切でしょう。また更に、accaさんも書いておられるように「朝鮮人」という言葉をめぐってもさまざまな議論があることと思います。
     ただこの場合、私は今実際にその運動に積極的に関与している訳ではないので、自身のコミュニティーの問題として「レズビアン&ゲイ・パレード」の問題点を指摘するのとは異なり、「外部から」意見を言うことになります。もちろん私も意見がない訳ではありませんが、その場合に私がするべきことは、京都にも実際いろいろと運動がありますので、まずそういった場所に出向いていって直接お話をするようなこと(もしくは、日本社会の内部やゲイコミュニティー/クイアコミュニティーの内部にある朝鮮人差別/日本人中心主義を問う活動をすること)だと思います。
     私のサイトで「レズビアン&ゲイ・パレード」を批判することは、私のサイト全体の中でみればホモフォビアな解釈をされる危険性はあまりないと思いますし、異性愛主義者につけいる隙を与えるものでもないと思います。というのも、議論自体が「男女という制度」や異性愛主義を問うという文脈の中で行われているからです。しかし日本人中心主義への取り組みという点では私のサイトにはほとんど蓄積がありません。また本来、朝鮮人への差別を問題化するという目的の「朝鮮人のパレード」について意見交換するということは、朝鮮人への差別や日本人中心主義を問うという文脈の中で行われるべきだと思うので、「朝鮮人パレード」の件について私の方からこれ以上書くことはやめておきます。

    朝鮮人パレードはダメだから東アジア人パレードにしようとしたら、インドやシンガポールはどうするで、アジア人パレード、いや世界人パレード、……そもそもアイデンティティ語を掲げること自体がダメなんだ、と、そういや日比野氏はそうハッキリ書いていたような。アイデンティティ不要論、アイデンティティ罪悪論、ということか?

    ●パレードをするということは、それぞれ理由がある訳です。永易さんの言われる「朝鮮人パレード」については、先ほど書いたとおり、その開催目的がわからないので何ともいいようがありません。
     「レズビアン&ゲイ・パレード」をするということは、今の日本社会が強制異性愛社会であり、性別二元主義を強いる社会だから、それに抵抗する必要があるからです。具体的には、セクシュアルマイノリティ(性的少数者)の存在を強くアピールすることが目的とされています。
     そういった趣旨で開催されるパレードの名前として、ことさら同性愛者だけを特別扱いする「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前がいいのかどうか、という点で、問題が提起されているのです。個別の具体的な理由を検討することなしに、なんでも無前提に枠組みを広げるべきだなどと言っている訳では私はありません。
    ●アイデンティティー語というのは便利なものですが、同時に弊害もあります。特にマイノリティー運動の中では、アイデンティティー語にこだわる運動をするということは、運動内にわざわざ新しい力関係を創り出すという弊害があります(何度も書いていますが、「ゲイ」という言葉に固執することで、同性を好きな人のうち「ゲイではない人」の存在が一層不可視化されるということなど)。ですので、別にアイデンティティー語にこだわりたい人が個人としてこだわるのは好きになされたらいいと思いますが、私はアイデンティティー語を使うという事自体にあまり賛成しません。
     それでも、どうしてもアイデンティティー語を使ってパレードがしたいというのであれば、少なくとも今ここにいるということが明らかで、かつ政治的に人権の問題として提起されている人達のアイデンティティー語を対等に扱うことは、最低限の礼儀として当然だと思います。その意味で「レズビアン&ゲイ・パレード」という同性愛者だけを特権化するネーミングには、まずもって同性愛者こそが反対してしかるべきだと思います。

    マンセーは北朝鮮的全体主義のイメージを下敷きに日比野さんを揶揄しました。旗と肖像画をかかげるイメージから、文化大革命中の中国をイメージして、日比野主席、万歳(ワンスイ)でもかまいません。

     人の悪口を書いて憂さ晴らしをするようなことは、このサイトではご遠慮下さい。

     
     
     ところで永易さん、「朝鮮人って「在日」のことですよね?」への回答が「在日問題を意図しておりません」ということは分かりました。しかしその前段にaccaさんが書かれておられる以下のことには、お答えを頂いていません。

    >私もそのときは、歓喜の涙にほほを濡らしつつ、右手にレインボーフラッグ、左手に日比野さんの肖像画をもって、日比野委員長マンセーと叫びながら御堂筋でも烏丸通でも行進しますから。

    という発言をしておられるのはなぜですか?あるメタファーであると私は読んだのですが、ひびのまことさんを揶揄するための文章(ですよね?)にこういった表現をなぜお使いになったのでしょうか?
    私はこの言葉で非常に不愉快な思いをしました。外国人を断っていないといわれても、このような発言をする人とは一緒に歩きたくないなぁというのが正直な感想です。

    これについては、ちゃんとお返事をして頂くよう、お願いします。

     
     
    ●アイデンティティーについての私の意見は、以下にも書いてあります。
    http://barairo.net/special/bi/poko12onWEB.html/about_BI.html

  5. ピンバック: FemTumYum
  6. tnさんの投稿へ。(その4のページの21番についてです)。

     >一方のTLGPでは、東京都知事や渋谷区長からはなにかあったんですか。

     東京ではパレードが「レズビアン・ゲイ」を未だに看板に掲げているような開かれたパレードではないから都知事が来ないのだ、というご意見の主張ですね。しかし、tnさんは今の東京都知事についてあまり詳しく知らない方のようです。今の都知事は多分名前が「プライド」でも、彼の信条上来ないと思いますね(笑)。でも現職都知事へのなかなか素敵な皮肉になっていると思います(笑)。

     >世界やアジアで「プライド」という名称が一般的になり、

     この「世界やアジアでは」という文章、例えば日比野さんが(ご自身とはぜんぜん直接関係が無くても)ラブリス、アニース、カーミラの名前を頻繁に出すのと同じ事で、では逆に、反対意見側の人間が世界やアジアの「レズビアン・ゲイ~」という名前の付いたイベントを幾つも並べたらどうなさいますか?おそらくgoogle検索では「両方」ともそれなりの数が出てくると思われます。しかし、どうもそういう「例出し」競争は、片いっぽうが例を10出したらもう片方も例を10出すみたいになって、キリがなく、最後は両方とも疲れるだけになるような気が私はするのですが。
     また今のこの議論の場のように、かなり突っ込んで東京のパレードについて「具体的」に論じられてる時には、「外国では~」「〇〇では~」と論じても、あまり直接の参考意見にはならない気もします。実際、tnさんの投稿のご意見も、「東京パレード」についての具体的なご批判が多いようですし。
     でも、私も、もし今回の話が具体的な東京のパレードについてのあれやこれやでなければ、(新しいパレード計画や全く別のイベントであれば)、別に日比野さんサイドの意見の推す「プライド」でも「レインボー」でも構わないと思います。
     
    また、ですから(なおさら余計に)、このブログを見ている人は、「日比野さんが自分でそういう新しいパレードを作った方が早いのに…」と言う感想を持ってしまうのだと思います。

     あと、タカナシさんからtnさんへの質問で、私もtnさんの答えを聞いてみたい質問がまだ3つか4つ残っているのですが、そちらについてはいかがでしょうか?

  7.  失礼。上の私の投稿で「その4のページの21番についてです」というのは「その5のページの21番」の誤りでした。
     どうも失礼しました。

  8. >バイ活動家が少ないのは事実だと思います。残念なことではありますが。
    >ただ実際、異性愛社会の中での抑圧と闘うだけではなく、レズビアン・
    >ゲイのコミュニティーの中での抑圧とも闘わなくてはいけないのは、か
    >なりの負担です。そんな中で、活動的な領域からは身を引いて、日常生
    >活を送る人は多いと思います。

    日常生活って、つまり結婚して異性愛者として暮らすってことでしょ?
    不自由してないんだからいいじゃん?

  9. masatomoさん

    >反対意見側の人間が世界やアジアの「レズビアン・ゲイ~」という名前の付いたイベントを幾つも並べたらどうなさいますか?

    じゃあお出しなさいな。

  10. >東京ではパレードが「レズビアン・ゲイ」を未だに看板に掲げているような開かれたパレードではないから都知事が来ないのだ、というご意見の主張ですね。

    いいや。
    ある方がひびのさんに、「東京じゃなく、京都でパレードしろ」って言うから、
    それを言うのなら、渋谷区のイベントで大阪府議や世田谷区議が
    「特別待遇」を受けてるのだっておかしいんじゃない?
    って言っただけなんですけどね。

  11.  ずいぶん板が続きますね。日比野さん、こんなにもてたの初めてですか? みんなで日比野さんのお守りしているような気になってきました。
     tnさんなるかたにもコメントしようかと思いましたが、これはもう問題にするまでもないことに、ギャラリーのみなさんはお気付きでしょうから、私もスルー。

     朝鮮人パレードは、深い意図はなかったのですが、在日朝鮮人差別問題をどうしても想起してしまうのか、在日当事者からの反発も呼び、日比野さんのこの板でのコメントも、どうしてもそっちへ引っ張っての深読みで、私としては困惑。
     朝鮮人パレードでもドイツ人パレードでもかまわないと書きましたが、まだ深読みされるなら、「阿波踊り」でもかまいません。徳島人が徳島でやってこそ阿波踊り。しかし、実際には高円寺でも椿山荘でもやって、日本中の人が踊っている。明らかに阿波人以外もはいっているところに阿波の名を冠するのは、日比野さん流に言えば「間違っているのです」か? それはすべからく、たとえば「民族踊り」とでもしたほうがいいのでしょうか? 
    「レズビアンゲイパレード」は政治的行動だが、阿波踊りはお祭、などと、日比野さんの基準で勝手に選別するのはナシよ。LGパレードはお祭だと思って来ている人もいっぱいいますし、高円寺阿波踊りをまがい物だと苦々しく思っている徳島ナショナリストもいるでしょうから。もしLGパレードは論ずる論点があり、阿波踊りにそれほどの論題がないとすれば、日比野さんこそ、大文字の政治にばかりご関心をお持ちの権威主義者ということになるのではないでしょうか。
     まあ、「アイデンティティ語」がダメなんです、という日比野さんのご意見がすでに確認できているので、もうどっちでもいいですが。

     それから、マンセーうんぬんについても、すでにお答えしてあると思います。北朝鮮でも文化大革命中国でも比喩はおなじで、心は、日比野さん的原理主義で日比野委員長のもとパレードができたらすばらしいと申しあげたまでです。実施のさいには、私を参加拒否しないでね。

    >人の悪口を書いて憂さ晴らしをするようなことは、このサイトではご遠慮下さい。

     揶揄・皮肉は、レトリックの花とは言いませんが、ワサビ程度にはなりまして、言われたご本人は「悪口」と思っているかもしれませんが、ギャラリーさんはお喜びのかたもいるということで。なにさま、おゲイはサービス精神過剰ですいません。

  12.  さて、これでホントに終わりにします。

     一連の議論を読んで来て、やはりmasatomoさんが規定した、「非常に小さな専門分野担当の職業的権益クレーマー」にいよいよ納得せざるをえませんし、議論の各所各所に言い訳を埋め込んだ、ひじょうに卑怯な論法の多い人、という気がしています。masatomoさんが指摘するように、

    >日比野さんが「一番大きな多数派=抑圧者」のへテロ~ヘテロ社会と戦うよりも、常に「ゲイとレズビアン」との戦いを優先させているのはなぜですか?

    という疑問は最後まで消えませんし、そういう疑問へも、「ギョーカイボスを作りたがる文化」「男らしい発想」との決めつけを投げ付けるばかりで、これではご返事になりません。よほど「鈍感なゲイ」たちに、これまで煮え湯を飲まされる思いをさんざんされての、このご執心かと拝察。

     また、ご自身で納得のいくパレードを呼びかけたらどうですか、についても、それを勝者の論理とばかりに切り捨て、そこにさまざまなご高説を並べるのも、ご自分が呼びかけても、人やカネが集まって、ある程度、見栄えのするものにならないことをはじめから恐れての言い訳と、少なくとも私は思っています。できないならできないと、ハッキリ言えや、という感じです。
     そう書けば、またギョーカイボスを作りたがるだとか数がすべての権威主義と言うのでしょうが、数なんかどうでもいいよ、あなたがこれまで展開してきた趣旨でパレードを呼びかけて、御所から京都駅まで河原町通り経由で歩きましょう、というなら、私はいっしょに歩くよ、ホントに。
     東京のパレードだって、いずれLGの名前から違う名前に移っていくだろう、ということは、ここに書いた人たちも、みんなそう思っているわけよ。あなたは、「ゲイのかたでも表だって反論できなくなっています」などと得意気に書いているけど、2000年に復活させるときとか、そこに人とカネをある程度集めるためとか、さまざまな計算づくでとりあえずこの名前でいきましょうと、いろいろな水面上、水面下の調整や駆け引きや根回しのうえにやっと復活させたパレードだということ。
     もちろんこう言ったって、パレードのような公的なものに、そんな浪花節みたいなこと言われても困る、と、言うだろうし、私もそう思うけど、パレードが定着するかどうかもまだわからないうちにそういう原理主義的なこと言って「間違ってる」とか得々と言うのは、おまえ、もうちょっと待ってやれよ、優しくないやつだな、と、ぶっちゃけ言えば、こういう反応なのよ。
     ありていに言えば、もうちょっと大人になれませんかねえ、という。
     まあ、それでも、出ていくほう(実行委員)は、なにを言われてもいい覚悟で出ていくのだろうから、まあ、日比野さん、せいぜい建設的批判を投げかければいいでしょう。まえにも書きましたが、そうした「ノイズ」を同伴しながらパレードは行なわれるものだと僕も思いますから。

     もう僕もこれで終わりにします。最後に、ところで、どっかのコメに、

    >「バイセクシュアル」と人に言われるような状況におかれる人達の権利の向上のための運動

    とお書きだったけれども、その場合の向上されるべき権利って、どんなものですか。まえにも引用しましたが、私のミクシー日記に、「日比野さんはセクシュアリティの中身、下々の課題についてはあまり関心がないのでは」と書いていた人がいました。
     今回のこの長々とした議論も、セクシュアルマイノリティをどう表象するか、その「入り口」問題だけでここまで来ているような気がします。いいかげん、玄関のドアの木目がどうの、敷石がどうのばっかり言ってないで、座敷のなかの話をしたいものです。
     バイならバイの生活に根ざした権利の向上、その「中身」について、どこかにすでにお書きでしたら、またお示しください。
     お元気で。

  13. >水面上、水面下の調整や駆け引きや根回しのうえにやっと復活させたパレード

    と自分で書いて、そういや90年代のパレードがつぶれた理由の一方の当事者はこの男じゃないか、と思ったら、またなんだか腹が立ってきた。パレードトラウマを乗り越えるのが、どれだけ大変だったか、人の心も知らないで。
    やはり私はあなたにあまり礼儀正しくできないようなので、これで引き下がります。

  14. ご回答どうもありがとうございます。

    おっしゃる内容と、過去のスレッドをひと通り拝見してわたしの中の意見もだいたい固まりました。
    個人的に一部のゲイの方の書き込みにおける過剰な言語的表現や、反応から
    「きっと日比野さんが相当な反対運動や妨害でも行ったのだろう」という暗黙の推測がありました。
    まだ、皆さんの意見を全てお伺いしたわけではないので、最終的な判断はできませんが、違っていると
    したらその点はお詫びをしなくてはいけません。失礼いたしました。

    さて、ここからはわたしの個人的な感想ですが、箇条書きにしてみます。

    ・10年前のゲイリブは、まったく日比野さんと同じ論旨でヘテロ社会に対して抗議していた。
    ・にもかかわらず、今はヘテロ社会が行ったのと同じ対応をあらゆる意味で日比野さんの主張に対して
     行っている。

    という点です。しかしながら、わたしはあんまりリブが好きではありません。わたしは先に述べたように、
    たとえ差別があったとしても、人間関係や信頼から、個人的にその障壁を取り除き、自分の活路や対等な
    関係を築きあげることに満足しています。また、そのような方法こそが、もっとも人生を豊かにし、こういった
    個々の活動がリブの裾野を広げるとも思っているからです。(戦略として、こうした個々の動きと、組織的
    政治的活動がともに必要であることは認めますが、リブに従事する方をみると、ルサンチマンが多く、結
    果的に負の側面が際立っているように思えます)

    そこで皆さんに質問です。

    その1■リブに敵は必要ですか?敵がいなければリブは成立しませんか?
    その2■どうしたら、パレード名称をもっともスムースに変更できますか?(パレードは進化しますか?)

    一見、突拍子もなさそうな質問ですが、これこそがことの本質な気がします。互いに論破しようとやっき
    になるのはやめて、建設的な議論にしませんか?

    レインボーパレードとかプライドパレードにしたほうがよいことはわかりきっているではありませんか。
    (ゲイとレズビアンのためだけのパレードということであればそれはそれでありだと思います。※どこで線を
    ひくかは自由だと思います。女性だけのパレードや男性だけのパレードがあってもよいように。でもそれを
    目指しているわけではないというのが大部分のゲイレズパレード関係者・参加者の気持ちだと思います)

    ・しかし、この名称は今後このまま固定するということではなく、検討しつつ、適切な時期に多くの人が
     賛同できる適切な名前があれば変更する。(砂川氏)

    かつて、ゲイリブはヘテロ社会のこうした緩慢な回答を許してこなかったではないですか。
    (リブではない大多数のゲイは許してきたと思うし、自分も許せるんですけどね・・)

    あと、知名度や認知度が重要であることは認めますが、名前がかわったくらいで、或いは誰かがNOと言った
    くらいで、なくなるようなパレードなら、それはセクシャルマイノリティからもニーズがなかった、ということです。

    違うでしょうか?

  15. 青山さま

    90年代のリブを生きた人間として、「親の因果が子に報い」のように見られる時代がめぐってきたことに、めまいを覚えています。さて、

    >ゲイリブはヘテロ社会のこうした緩慢な回答を許してこなかった

    どのような回答を、ヘテロ社会から受け取ったというのでしょうか。砂川さんの回答程度には、具体的なものを例示していただけるとありがたいです。

  16. なんだか回りまわって、元にもどっちゃいましたね。
    もう私の言いたいことはほとんど言ったし、実は一番最初に書いたコメント以上のことは言っていません。日比野さんのおっしゃることも大体出尽くしたように思われます。
    まだ「実行委員会」とのやり取りを続けられるようですね。(もっとも2005年実行委員会は解散し、継続的団体としてのTOKYO Prideが来年に向けて組織固めを始めるころですが。)これをあなたは「パレードへの主体的、建設的参加」だとおっしゃる。
    私は、来年に向けた企画の提案だとか、お金をどう集めるか、または寄付するか、さらには具体的に手を出す手段として、実行委員に立候補するとか、ボランティアに参加するとか、フロートの準備をいまからするとか、そういったことが「建設的な参加」だと思ってます。

    >う~ん、わたしは、「バイセクシュアル差別」や性別二元主義と闘うことには関心がありますが、「バイセクシュアル・アイデンティティー」の構築にはほとんど関心がありません。誰かやる人がいたら、参加も応援もするよ~という感じかも。バイ当事者からのリクエストがあれば、検討はするかもしれない。そんな感じ。>

    この発言には正直がっかりしました。向いている方向がぜんぜん違うといえばそれまでですし、どんな参加の動機もありですが、なんか私の考えるパレードの目的、「自分が自分らしくあることを誇りに思い、それを祝福するためのお祭り」、にはなんかそぐわないです。
    「具体的なものを持ち寄ってほしいだけ」という、はかないお願いもあっさり却下されてしまいました。別のブログでも「 名称変更を提起するという事自体が既に、よりよいパレードを「主体的に創っていく」行為です。あと、遠くに住んでいる人にできることは、限られてはいますね、当然ながら。」とおっしゃってますよね。
    http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20050908/1126201697

    私は2000年の復活パレードに、休暇をあわせて、2002 Sydney Gay Gamesのプロモーションも兼ねて参加しました。これまでの仲間や、新しい人々と共に、楽しく元気に東京の街中を歩いたことを、感動と共にまざまざと覚えています。
    1996年の出来事とその後の空白は、とても大きな痛手を残していました。誰も手を上げられなかたったんです。とっても厄介なことになってたから。それを砂川さんが立ち上げて、みんなが協力してこんな風にまたやれたんだ、ということが正直にうれしかった。だから、2003/2004年の中断は、これまたショックでした。
    2度の挫折を経て、今回たくましくの復活した東京のパレードが、これまでの経験を踏まえ、さらに大きく広く発展していくことを願ってやみません。

  17. ●取り急ぎ、昨日から書きかけだったaccaさん【(その5)コメント19】へのレスです。

     こんにちは。丁寧なコメントありがとうございます。私も自分でいろいろ考えることができて、うれしかったです。
     
     確かに京都には、日本籍朝鮮人として活動する人や、ダブルとしての会もあって、いろいろ運動がありますね。「朝鮮人」を「国籍に関わらず、朝鮮半島にルーツを持つ者」と定義するのを最近よく見かけるので、実は私、なかなかいい言い方だなと漠然と思っていたのですが、うかつでした。なるほど確かに、accaさんに言われてちゃんと考えてみれば、例えば「朝鮮系日本人」というアイデンティティーを持つ人には居心地がよくないですね。やっぱりアイデンティティー語を使うのは難しいです。
     数年前まで3人で一軒家を借りて暮らしていたんですが、その時の同居人の1人が在日朝鮮人の2.5世でした。在日朝鮮人のコミュニティーの中における女性差別の問題や、女性扱いされることと自身の性自認との関係、性指向の問題にさえ民族という要素が入ってくること、など、いろいろと教えてもらいました。私はそれまで日本人として暮らしてきたので分からなかったんですが、その友人にとってはセクシュアリティーと民族の問題は密接なものでした。これを裏返してみてみると、いま日本のセクシュアリティー業界で流通している言説は、それが実は「日本人の言説」でしかないということに、その時気が付かされました。
     最近の話で言うと、この前の衆議院選挙のこと。いくつかのセクシュアリティー系のグループが立候補者への質問などをしていました。私も京都で質問を出そうかと一瞬思ったんですが、でもどうもやる気がすすまなかったんです。というのも、日本の選挙って民族差別の実践だから。戦後日本の独立と同時に旧植民地出身者の日本国籍を剥奪し、選挙権も被選挙権も奪ったのが今でも続いている。だから選挙の話をする時は、私が候補者に一番聞きたいことは「日本国籍を持たない旧植民地出身者とその子孫に、国政選挙の選挙権と被選挙権を認めない今の選挙のあり方をどう思うか?」なんです(ホントは旧植民地出身者だけでなく範囲をもっと広げるべきなんだけど、という議論はとりあえず省略。いや、いまの話の文脈では省略してはダメかしら。う~む)。で、こういう質問と、セクシュアリティー系の質問の両方を並べて聞くというのがいいのか悪いのか、なんかいまいちよく分からなくて、思考がストップしてしまっていました。
     でも、今落ち着いて考えてみると、気にせず両方聞いておけばよかったんですね。なんかセクシュアリティーの話をする時には、セクシュアリティー以外の話を持ち込んではいけないというブレーキが私の中のどこかにあるみたい。非常に歩みが遅いのですが、最近少しずつ私のするべきことが見えてきているような気がします。
     複数の視点や課題を同時に扱うという「マルチイッシュー」のアプローチの運動を、いま少しずつ形にできないかと模索しているところなのです。興味のある方がおられたら、何か一緒にできるとうれしいです。私自身も勉強しながら/一緒に考えながらということになると思いますが、おつき合い頂けるとうれしいです。
     話が少し脱線しました。
     
     「文句があるなら他でやれ」「もっと運営に貢献してから口を出せ」って、在日朝鮮人の運動の中でも、混血の人やaccaさんに対して言われたりするんですか?ほんとに似てますね。アイデンティティーをめぐる論理的な枠組みの問題(**注)だけでなく、実際に運動の中で言われる言葉まで似ているなんて、面白いです。

    (**注) 実は私も以前、鄭暎惠さんの文章(岩波講座現代社会学15・差別と共生の社会学「アイデンティティーを越えて」1996)を読んだ時、混血/ダブルの話と、「バイセクシュアル」の話が、その論理構成が似ていることにびっくりしました。「ゲイ・アイデンティティーの獲得」を目指す運動を相対化して、必要な場合には批判をしていくという今の自分のスタンスを獲得するのに、お世話になった文章でした。
     全然分野が違うと思っていたところで、自分と同じようなことを考えている人がいるということは励みになりました。また、セクシュアルマイノリティーの運動とは違い、「在日朝鮮人の運動」は歴史的な積み重ねがあります。その中で、これまでの運動の限界を超えるものとして「アイデンティティーを越える」ということが提起されていることを知り、自分が「ゲイ・アイデンティティーの政治」を批判していることが社会運動の歴史の中でどういう位置を占めているのかを知ることができて、とても自信を持つことができました。

     
     ところで
     

    アイデンティティ語を掲げるということは、その言葉にアイデンティファイしている人が、抑圧に抵抗する手段としては非常に有効ですが、少しでも特権を獲得すると(もしかするとその以前で?)、それはその言葉にアイデンティファイできない人を抑圧するかもしれない危険性を持っています。(中略)一度強者になってしまったらその特権を手放すのはより難しくなります。

     賛成です。アイデンティティー語を使いたい人には、是非覚えておいて欲しい認識です。
     パレードの名前とかだと既にアイデンティティー語を使わないでもうまくいくという実績があるので、そうした方がいいとは思います。
     でも、全ての場所でアイデンティティー語を全く使わないのを目指すのもちょっと難しいかもしれません。とりあえず/やむを得ずとして使う時には、「その言葉にアイデンティファイできない人を抑圧するかもしれない危険性」と「アイデンティティー語の使用が暫定的/便宜的なものであること」とを自覚して公式に場で確認すること、その危険性を減らすために具体的に方策をとること、というあたりが現実的かも、という気もします。
     あと、個人として自分のことを言う時にアイデンティティー語を使う場合と、運動なりなんなりの公的な場においてアイデンティティー語を看板にすることとを区別することも、大切かもしれないと思います。

     私の経験として、異性愛中心主義について「トランスではない異性愛者」の人と話を煮詰めていった時にも、なかなか「マジョリティーとしての異性愛者」という認識に同意してくれず、それどころか「ボクだってこんなにしんどいんだ」と返されることがあります。実際、異性愛男性であっても社会的に「勝ち組」になれるのはごく一部ですし、学歴や、雇用形態、国籍や民族などいろんな基準からみた時には社会的に損をさせられている側である場合も多いです。異性愛男性だからといって、個々人をとってみれば「ウルトラマジョリティー」というわけではありません(ただ、だからといって異性愛中心主義という間違った社会的力関係を開き直られても困りますが)。そして、こういったやりとりのパターンは、このサイトに書き込まれる一部のゲイの方たちの私への反応とも似ているのがまた面白いです。
     そういう中で私が思うのは、「自分のことだけを考える」ということの弊害です。抑圧された存在(マイノリティー)である自分のことだけにしか目が向いていないから、自分が持っている権力に気が付かないという構造は、この異性愛者の例や、このサイトのゲイを始め、いろんなところにあります。永易さんが「ゲイ以外のセクシュアルマイノリティへの差別だけでなく、セクシュアリティ以外の文脈の差別についても」あまり敏感ではないという理由を、私なりに解釈するとこんな風になります。
     ほとんどの人は、ある面ではマイノリティー(抑圧される側)ですが、同時にマジョリティー(強者の側)としての面も併せ持っていることがほとんどです。その一方だけをみるのではなく、どちらの面に対してもそれぞれ誠実に自分で向きあっていくことが、人の生き方の問題として考えても、運動のあり方として考えても、大切なんではないかと、改めて思いました。

  18. ●accaさんによる永易さんへのコメントを受けて

    >私もそのときは、歓喜の涙にほほを濡らしつつ、右手にレインボーフラッグ、左手に日比野さんの肖像画をもって、日比野委員長マンセーと叫びながら御堂筋でも烏丸通でも行進しますから。

     この永易さんのコメントですが、人を揶揄する時にわざわざ「北朝鮮的全体主義のイメージ」を持ち出すあたり、永易さんがどういう位置から書いているのかが気になりました。というのも、今の日本で北朝鮮をこのような形で揶揄することは、北朝鮮や朝鮮人に対する否定的イメージを助長/拡大し、日本における朝鮮人差別に加担するする効果も持ってしまうことが多いと思うからです。
     ただ、もし例えば永易さんご自身が朝鮮人であったり、もしくは(在日)朝鮮人の権利のための運動に尽力しておられるとしたら、言い方は雑だったとしてもご自身の位置から「北朝鮮的全体主義」に嫌みを言うことはあり得るでしょう。でもそうでないなら、やはり永易さんのような形での「北朝鮮的全体主義のイメージ」の持ち出し方は、日本社会にいまある「反北朝鮮キャンペーン」に加担してしまっているという印象を持ちます。
     「深い意図はなかった」とのことですが、深い意図がなく「反北朝鮮キャンペーン」と区別できにくい表現を選択できてしまうというところが、永易さんの認識を表してしまっていると感じました。(的はずれでしたらご容赦下さい)
     永易さんは、社会のマジョリティー(権力者)がマイノリティー(社会的に抑圧されている人たち)の異議申し立てを封じるためによく使う言葉である「原理主義」という言葉を安易に使ったりもしていますので、もしかすると本当に「ゲイ」差別以外には興味をお持ちでないのかもしれません。

  19. 皆さま、いろいろとコメントありがとうございます。
    長くなってきたので、(その7)をつくります。

    (その7)http://barairo.net/works/index.php?p=58

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