女!男!うんざりだ!あらゆる‘暗黙の規範’から自由になろう!

「バイセクシュアル」について詳しく書いた、初めての文章です。最初だけあって荒削りですが、その分詳しく、意欲的に書かれています。もしかしたら今よりも丁寧かも(笑)
(ゲイフロント関西機関誌「ぽこあぽこ vol.6」 96年4月1日)

ぽこあぽこ
(ゲイフロント関西機関誌「ぽこあぽこ vol.6」 96年4月1日 全146ページ)

「ぽこあぽこ」の今回の特集のテーマは「セクシュアリティー」。編集部によるセクシュアリティーについてのアンケートの回答や、それをめぐっての座談会、投稿などで構成されている。また今号には、95年7月にゲイフロント関西アクションブランチが主催した二宮周平さん(立命館大学法学部教授)の講演会「ゲイ・カップル」の講演録も収録されています。とてもわかりやすい講演でした。
購入は、「ぽこあぽこVol.6 購入希望」と明記して郵便振替口座(01040-8-40540「G-FRONT関西」)に1部500円+送料(390円)の計890円を入金してください。
「ぽこあぽこ」は年2回発行で、次回の特集のテーマは「オネエ」です。

この号の目次は以下の通り。
特集:セクシュアリティー
 セクシュアリティーに関するアンケート
 座談会「セクシュアリティーをめぐって」
 「当り前」という窮屈(モリアイ)
 森田の寝言(森田真一)
 女!男!うんざりだ!あらゆる暗黙の規範から自由になろう!(日比野真)
 ボクのセクシュアリティー形成過程(花田実)
 エピローグ…………
ブルース・ロバーツ/ミスタア・ロバーツって誰?(こん太)
小説「カワサキハイツの戦争」(浮舟真)
第1回圧力釜講座講演録「ゲイ・カップル」(二宮周平)


女!男!うんざりだ!あらゆる‘暗黙の規範’から自由になろう!

日比野 真

まえがき

 少し前の話になりますが、ゲイフロント関西の学園祭企画「いったいゲイってなんやねん95」はどうでしたか?
 実はぼくは、ちょっと違和感を覚えていました。一言でいえば「ゲイフロント関西にはゲイしかいない」「ゲイのことだけを考えていればいい」という印象を受けたということです。えっ、ゲイフロント関西はゲイのサークルだから当然だって?実はぼくはゲイではありません。でもゲイフロント関西のスタッフをしています。これはどういうことでしょうか?
 でもそもそも、ゲイだけのサークルなんて存在するのかなあ。「ゲイだけのサークル」を求めるというのはどういうことなんだろう。それに「100%のゲイ」って誰のこと?じゃあ「ゲイである」っていうことはいったいどういうことなの………?

 というようなことを考えてみたいと思います。
 そして、今の日本社会に蔓延しているヘテロセクシズム(強制異性愛主義)をどうやって変えていくか、いやそもそも、ぼくはあなたはどんな社会を夢みるのか、などについて一緒に考えることができればと思います。
(本稿において「ゲイ」という言葉は原則として「男性同性愛者」の意味で使います。また、今回はレズビアンのことはとりあえず触れません。)

「ゲイってペニスフェチのことなの?」

 例えばこんな話はよく聞きます。
遠くから自分のタイプの人が歩いてきた。いいなあと思ってみていた。すぐ横ですれ違ったときによく見たら実は女の人だった。女の人だと分かったとたんイケなくなった(欲情しなくなった)。

 ぱっとみの外見だけで人の性別が“分かる/決めつける”ということについてはここでは触れません。ただぼくとは違うな、ということです。外見がイケルのに、相手が女だから・男だからという理由でイケなくなるということがぼくにはないからです。とても不思議な、そしてもったいない気がします。そして考えてみました。
「じゃあ“男でないとイケない”というのはどういうことだろうか、いったい彼らは何を必要条件として求めているのだろうか。」
「ジェンダー?戸籍上の性別?ペニスのあるなし?」
「ゲイってペニスフェチ(性器フェチ)のことなの?」

 ぼくの性的指向は「きれいな肌フェチの若専」です。
 ぼくがこのようにいうのには3つの意図があります。1つめは、ぼくの性的指向には性別はあまり関係ないということ・「どちらの性を指向するか、が性的指向である」という考え方にぼくが当てはまらないということを主張するためです。2つめは、性的指向とはたいそうなことではなく所詮フェチや趣味のようなものでしかないということ、そして3つめは、これら1と2の事項はしばしばリベレーションのなかでは「後回し」にされるのですが、そうではなくセクシュアリティーについて語ろうとするなら一番初めからこれらの2つのことを問題として対外的に訴えていかなければならないと思う、ということをいうためです。
 以下、この3点を中心に話を進めていきますが、まずその前に、話をわかりやすくするために「バイセクシュアル」について書きます。「きれいな肌フェチの若専」の話にたどり着くにはちょっと道のりがあります。

「バイセクシュアル」である、ということ–この項はバイリブの項です。

 「ぼくはバイセクシュアルだ」と言うとけげんそうな顔をする人がときどきいます。
 バイに対するイメージとして「ゲイのくせに自信がないものだから、バイだと偽って社会に媚びている」というものがあります。「そういう人もいる」ということに過ぎないのにねえ、困ったものです。でも、このような言い方で過度にバイを攻撃する人はちゃんと自問して下さい。「バイを攻撃せずにはいられないほど、自分自身の性的指向に自信がないのはなぜなのか」と。それとも、もしかしてあなたもバイなのでは?ゲイコミュニティーのなかではバイは居心地が悪いので「バイ」だとカムアウトできてないだけなんじゃないの?
 確かに「ゲイのくせに自信がないものだから、バイだと偽って社会に媚びている」バイもいると思います。「自分は昔そうだった。『ゲイだ』というのが怖くて『バイだ』といっていた」というゲイと話したこともあります。ぼくの場合は、男も女も以前に好きになったことがあったし、その時々のぼくの気持ちは本当だと思っていた(る)ので「バイ」だと自称していました。でもぼくが女の子に対して抱いた思いはさっきのゲイの場合と同様にヘテロ社会に強制されたものでしかないのかなあと一抹の不安も実はありました。ヘテロ社会の中で同性を好きな自分に自信が持てなくされるゲイがいるように、ぼくは性別に関わらず人を好きになる自分に自信を持ちにくかったといえると思います。異性を好きになるように強いる状況があるのが事実だからといって、たとえ同性を好きになることに自信を持つためであっても、バイであることを疑いの目で見たり非難したりするのは「バイに対する不当な弾圧」ではないでしょうか。それだけでなく、ゲイの中にある揺らぎ・多様性(例えば、セックスは男としかしたくないけど女の人と仲良くお話しするのはとっても楽しい、とか、ひとりエッチには女の人のイメージも出てくる、とか……)を抑圧してしまうしね。
 あと、ぼくが「バイセクシュアルだ」というとそれがどういうことか分からないという人がいます。どちらかの一方の性しか好きになれないという思い込みを持っているのでしょうか。しかしバイの存在は単なる事実です。どうこういう前にこの事実を受け入れて下さい。
 それから「バイはいつかは女の方にいってしまう」というのもあります。確かにそういう人もいます。でもそれはあなたがその人の気持ちを自分に向けさせ続けられなかっただけでは?ゲイでもバイでも自らを偽って(異性と)偽装結婚する人はいます。バイであるかゲイであるかではなくて、その人がどんな生き方をするかということでしょ。いつまでもヘテロ社会の被害者面して、自分自身で人間関係を創る努力をせずに甘えるのはやめましょう。(バイフォビアの本当の所の理由はこの辺にあるのかなあ。ヘテロ社会のせいなんだ、という口実を思わず使ってしまいたくなる自分の弱さが露呈してしまうことへの恐れとか。ゲイ同士だったら偽装結婚もヘテロ社会のせいにしてすませられるもんね。)
 それで現在、ぼくは完全にバイとして開き直っています。

ぼくはバイセクシュアルではありません!?

 ところが、バイとして開き直れば直るほど「バイ」というレッテルが不当なものだと思うようになってきました。
 ぼくの性的指向には性別(生物学的・ジェンダー的、いずれにも)がほとんど関係ありません。だから開き直れば直るほど相手の性別を気にするのがばからしくなります。なぜゲイやヘテロの人は、相手の性別にこだわるのですか。なぜそんなことが気になるのですか?—–このように考えてくると、指向する相手の性別と自分の性別との関係によって人を分類する物差しである「ゲイ-バイ-ヘテロ」の中にぼくをあてはめるのは筋違いもいいところという気がします。
 ヘテロセクシュアルを相対化するためには「ゲイ」という打ち出し方は確かにそれなりに有効です。〈男〉⇔〈女〉の関係だけが要求される状況のなかでそうでない形の具体例として〈男〉⇔〈男〉を提示するのは確かに説得力があります。しかしそれは性別に対して過剰な意味づけをしていないでしょうか。「相手の性別についてすべての人が重要な興味を持っている」という前提があるから初めて「あなたゲイなの?ヘテロなの?それともバイなの?……ヘテロ寄りのバイ?ゲイ寄りのバイ?」というたぐいの質問ができるのだと思います。繰り返しになりますが、ぼくは相手の性別にはあまり(全く、ではない)関心がありません。ペニスがあろうがなかろうが、ヴァギナがあろうがなかろうが、どうってことはありません。(ぼくに向かって「アンタはオマンコもイケルのね!」といってきたゲイの人がいましたが、全くの見当違いです。そのときは「?、えっ何がいいたいの?」と思っただけでしたが、「なるほど、彼はペニスフェチなんだ、だからそんなこと聞くんだ」と今なら分かります。)予想が外れても「あら、アンタじつは男/女だったんだ」という程度のこと。そんなことよりも、例えば「脱がしたら毛むくじゃらだった」というときの方がショックがはるかに大きいのです(毛深い方ごめんなさい。なお、「綺麗な肌フェチ」とか「ゲイ」とかのように性的指向を言い切ってしまうことの不自由さについてはここでは触れません)。
 あなたが性的指向について尋ねられたとき、例えばの話ですがこんなふうに言われたらどう思います?
「あなたは‘きれいな肌フェチ’ですか?‘毛深い肌フェチ’ですか?それとも‘あらゆる肌フェチ’ですか?……‘きれいな肌フェチ’寄りの‘あらゆる肌フェチ’ですか?‘毛深い肌フェチ’寄りの‘あらゆる肌フェチ’ですか?」
 どうでもいい人が多いでしょうね。ぼくにとって「バイ」というレッテルはそんな感じです。そして‘肌フェチ’かどうかをしつこく聞かれるのがうっとうしい人がいるのと同様に、「ゲイなの?バイなの?……」としつこく聞かれるのはぼくはうっとうしい。おそらく大切なのは、性的指向には人によっていろんな物差しがあり、その物差しはどれも対等だ、ということだと思います。

(蛇足ながら、バイといってもいろいろいます。すべてのバイが相手の性別に関心がないわけではないと思われます。)

性別って何?

   ぼくの性自認は「男」で、今のところそのことに(生物学的にも、ジェンダー的にも)違和感はありません。また自分の性別を変える/変えたくなる可能性について深く追求しようと今は思っていません。その意味ではぼくは「男」として生きることを選択しています。つまりぼくは、性別のない世界にではなく、性別が意味を持つ世界に生きています。(だから「バイセクシュアルである」というのは事実です。事実ですが、ぼくにはそのことはあまり重要ではありません。くどい!?)
 さて、実は性別とは「男」「女」の2つだけではないようです。「ヒジュラ日本」をやっているハッシー(ゲイフロント関西の会員でもある)が「性別の多様性」を訴えているのには、ハッ!とさせられました。また、生物学的な性別が仮に「はっきり」していても、その生物学的性別がその人の、思っている/自認している/希望する「性別」だとは限らないということも、トランスセクシュアルの存在によって教えられました。
 とすると、「男を好きになる」「男に欲情する」とは一体どういうことになるのでしょうか。ぱっとみの外見だけで人の性別が“分かる/決めつける”ことはできないということが分かったわけですから、本人に「あなた男ですか?」と聞いてから欲情するのかな?(ほんと!?)

私をあなたの世界観で分類しないで!

 「ホモセクシュアルな欲望」をヘテロ社会が抑圧している、というのは確かに事実だし、まっとうな批判です。しかしそれはone of them、性に関わる無数の理不尽な規範への批判の1つでしかありません。「男」か「女」かという相手の性別が重要という点ではゲイもヘテロも同じこと。しかもその点では、圧倒的な社会的多数派です。性別の二分法を自明とし、相手のその性別を特に関心事とする文化もまた、(ヘテロセクシズムと同様に)今の日本では支配的な常識・規範となっています。別にヘテロであってもかまわないし、性別に特に興味があっても構わないのですが、その自分の世界観を相手に押しつけないことは大切でしょう。

 「男女のどちらの性を指向するか、が性的指向である」という考え方・「ゲイ/バイ/ヘテロ」という分け方が、かなりおおざっぱなものでしかないということを感じてもらえたでしょうか。また、「ホモセクシュアルな欲望への抑圧」ということも、思わず「これこそが問題だ!」と思いかねないのですが、それも人によって違うということ、性に関わる無数の理不尽な規範への批判の1つでしかないということも分かってもらえたでしょうか。そのような考え方・分け方にすべての人をあてはめたり、そのような考え方・分け方で世の中のことを見て、すべてが分かったような気になるのはとても危険だと思います。

セクシュアリティーは趣味だ!?

 さて、「綺麗な肌フェチの若専」と「男フェチ(ゲイのことよ!)」とが対等な物差しであることが確認できたら次の問いです。

「綺麗な肌フェチの若専は社会的に認められるべき」なのか?
「綺麗な肌フェチの若専の権利」とは何か?

ちょっと間抜けな気がします。もちろんこれは、
「ゲイは社会的に認められるべき」なのか?
「ゲイの権利」とは何か?
という問いの置き換えなのですが、どうでしょう。

 確かに世間では(世間って何?)、異性を好きになり、愛し、関係を作ることが当然視され、かつ尊ばれています。異性を愛することが社会的に必要で意味があることとさえされています。だからこそ様々な社会的保障が異性愛の関係・家族に対してなされています。
 ではそこでわたし-たち-はどういう主張をするのでしょうか。異性愛者だけでなく「私たちゲイ/同性愛者」も異性愛者と同じようにに社会的に意味があるのだから、認められ、保障されるべきだ、と主張するのでしょうか。それとも、異性愛も同性愛や「綺麗な肌フェチの若専」と同様に1つのフェチ・趣味でしかない。だから特定のフェチ・趣味の人だけを優遇するのはおかしい、社会的に意味があろうとなかろうと、性的にどのような生き方をする人も(社会的な意味のあるなしに関わらず!)対等かつ大切に扱われるべきだ、と主張するのでしょうか。
 1つめの主張は、あくまで「被害者」の主張に思えます。例えばゲイであることを誰かに認めてもらわないと自分に安心できない、安心していられるシェルターが欲しい、社会的に同性愛を認めて欲しい……。そして関心はあくまで「ゲイである自分自身」にしか向いていません。また、そのような主張をするためには、その主張をしている人たちが皆同じ「ゲイ」であるということが暗黙の前提になっています。コミュニティーに関わり始めた初期に、自分と‘同じ’立場の仲間を求めそのように思うというのは、ぼく自身もそういうところがあったし、分からないわけではありません。しかし、しばらくするといろんな人との出会いの中で、セクシュアリティーなんてほんとは一人一人違うものだし、他者に認められないといけない代物ではないということが分かってきます。またそれに、社会的なお墨付きをもらう運動・ヘテロ並み(!)になろうという運動は、自分を社会的な多数派の側にしようということでもあり、多数派の許容するものになろうとすることでもあるので、世間(!)の窮屈な性道徳を受け入れることを余儀なくされます。例えば、ハッテン場やゲイサウナやウリ専の存在について「ゲイは淫乱ではない!あれは一部の人がしてることだ。」と否定的に言ったり、オネエに対して「そんなゲイばかりではない、ぼくはもっと‘普通の’男らしい男だ」などと「正しいゲイのあり方」をめぐって争い、世間に媚びをうるのはぼくはまっぴらごめんです。繰り返しになりますが、例えばクローゼットの時代とか自分に余裕のないときに、自分と‘同じ’立場の人を求めたり自分とは‘違う’人と話したくなくなることとかを悪く言っているのではありません。個々人にはそういうときもあるでしょう。しかし現実にはいろんな人がいるわけで、自分と‘同じ’人たちだけで社会を作るのは不可能なことです(異性愛者だけの社会があり得ないのと同様に同性愛者だけのコミュニティーもあり得ない)。少なくとも社会的な主張をするのであれば、自分と異なる、自分をある意味では脅かすとも言える他者(例えばヘテロにとってのゲイ、ゲイにとってのバイ、奥手な人にとっての淫乱な人、その逆……)と自分とが対等に共存できる内容のものを主張することは不可避だと思います。その意味で、自分のことしか考えず、自分を社会的な多数派の側にしようとする成り上がりの主張はやっぱりダサイ。名誉白人になろうとするのではなく、ちゃんと制度や規範や道徳と闘いたいとぼくは思う。
 性的指向は決して嗜好や趣味・フェチなどではない–という主張に、ぼくは2つの危惧を感じます。1つは、「ゲイは社会的に認められるべきものなのだ、ゲイにはその資格がある」という社会的多数派・権威への指向を。2つめは、「(性別二元論を前提として)ホモセクシュアルな欲望に対する抑圧」と闘うことこそが、セクシュアリティーに関わる運動の中で第一義的・中心的な課題なんだ、というゲイ(性的指向)中心主義のわがままの。
 というわけで、ぼくは自分のことを「綺麗な肌フェチの若専」と名乗り、「綺麗な肌フェチの若専」と「男フェチ(ゲイのことよ!)」とは対等な物差しだ、セクシュアリティーは趣味だと言ってきました。これは言い換えれば、特にゲイコミュニティーの中においては「ゲイ」とか「バイ」とかのように名乗らないことこそが、ぼくにとってはぼくの当事者性を引き受けることだ、ということを言いたいということでもあります。

再び学園祭の話

 さて、ゲイフロント関西の話に戻りましょう。
 ヘテロ社会の中にはヘテロ以外の人がこれまでもずっといたし、今もいます。それと同様に、ゲイのコミュニティーの中には、そしてゲイフロント関西の中にも、バイやトランスセクシュアルや両性具有者、そしてまだぼくが知らないようなセクシュアルマイノリティーなど、「ゲイ」以外の無数の人がこれまでもずっといたはずだし、今もいます。
 ゲイフロント関西では、ゲイ以外の人がいること初めから自由に話されていたようなので、ぼくはいい雰囲気だなあと思っていました。最も狭い意味でのゲイリブ(男性同性愛者の権利獲得・地位向上)の為に人が集まるというよりも、集まってきた人たちか抱える・考えている問題を一緒に考えて皆で応援し合う(ここまで言うとほめすぎ?)という雰囲気があったからこそ、「私はゲイじゃないわ。トランスセクシュアルよ。オネエはまぎらわしいのよ。」などと言っていたような人が会の代表だったり(「今は人格が変わってゲイになった」とこの前は言っていたっけ。ややこしいわ!)、障害者ブランチ(「健全者のゲイ」以外のこと・性的指向以外のことも扱う。そういえば「その他の性的少数者の問題」とも書いてあったことに最近気がついたわ!)ができたり、例会で手話をしたりもしたのだと思う。昔の一時期、「ゲイ」という言葉はレズビアンなども含み、ヘテロ社会になじめない人たちのこと全体を大まかに意味していた時代があったとも聞きます。ぼくは「ゲイフロント関西」という名前の中の「ゲイ」という言葉を今ではそんな意味で受けとめています。
 冒頭のまえがきでゲイフロント関西の学園祭企画の悪口を書いたけど、ぼくは企画に対して一歩引いた関わり方しかしていませんでした。だからある意味で、ぼくにとっては不十分な企画しかできなかったというのも当然です。実際ぼくは混乱していたのだと思います。「何か少し違う」とは思いつつ、何がどう違うのか、この違和感は何なのか、そしてそれをどう表現したらいいのかが分からなかった。そういう、それまでのモヤモヤを自分である程度整理できたというのが、この前の学園祭だったわけです。そしてようやく、ここにこうやってものを書くことができるようになったということです。

不一致の実り豊かさを認めよう!

 さて、そのうえで、ゲイフロント関西で具体的に何をするのかは人それぞれだと思います。
 いまだに、例えば学校や職場でカムアウトしたゲイに出会うのは難しいのが事実だったりします。まず人々が集まれる場を作るというのも大切なことでしょう。また、ホモを揶揄したテレビの番組などもいまだに後を絶ちません。東京都はいまだに同性愛者の公共施設での宿泊を認めていません。ときには激しく抗議することも必要でしょう。すでに私たちは多くのセクシュアルマイノリティーと出会っています。お互いの違うところと同じところを話すのも必要でしょう。セクシュアリティーの違うものたちが一緒に共同作業をすることも出来るようになってきていると思います。一人一人が抱える問題について、セクシュアリティーの問題に限らずに考えていくのもいいでしょう。その人その人で、しかもその時その時によって大切なことは違うこともあるし、それぞれを尊重したいとぼくは思います。それは、とりもなおさず、「ゲイフロント関西のはすでに確固とした(もしくは暗黙の)方針がある。だから、それに参加する」という態度・ゲイフロント関西に頼ろうという受け身の姿勢を脱して、自分はゲイフロント関西の中で何をしたいのかを各自が自分でちゃんと考えようということでもあると思います(自分のことでもあるわね)。
 そして、そうやって1つのノリ・1つの主張に収まりきらない活動の幅の広さ(それはよそから見ると分かりにくさでもある。例えば「男性同性愛者のグループ」の方がわかりやすい)をグループが持っているのであれば、グループのアイデンティティーとしてではなく対外的に打ち出す政治的スローガンとして「ゲイ」という言葉を使うことはあり得ることだと思っている。(ぼく自身も、「とにかくあなたと同じではない」ということを言うために自分のことを「ゲイ」だと名乗ることはある)
 たとえば、すでにフェミニズムの領域でも、フェミニズム=「男女の平等の主張」という単純な話ではないようです。ポルノをめぐって(禁止?反検閲?)、売春は労働か奴隷制か、などの議論。そして、開発の是非(「南」の国々における開発は女性の地位や生活を向上させるのか、それとも「北側」の国々への従属を一層強化し女性を一層搾取・抑圧するのか)など。すでに、あるフェミニストにはフェミニズムと思えないようなことが他のフェミニストにはフェミニズムの中心的課題だったりする事も珍しくないようです。「北」の国の、健全者の、異性愛者の、例えば日本人の「女」の問題だけがフェミニズムでありジェンダーの問題こそが中心的課題だ、というわけではないということが、例えばレズビアンのフェミニストや在日韓国朝鮮人のフェミニストなどの活動によって明らかになりつつあるようです。
 「ようです」が続きましたが、それはともかく、「今取り組みたいことが違う」「何を中心に活動したいかが違う」ということは何ら否定的なことではないと思います。むしろそういう違いをも肯定的に受けとめて、お互いが気づかなかったことを知るいい機会として受けとめていく事が、「私たち」の豊かさであり喜び(GAY!)ではないでしょうか。
 「不一致の実り豊かさ」とはイタリア左翼大衆党の言葉ですが、ゲイフロント関西の中でも、中心的課題が複数あることをどうやって保証するか、やりたいことの不一致がお互いをけなし合わないようにすること、異なるセクシュアリティーの者どうしでも共存できるということを示すこと、異論を出すことの恐れから解放されること、などのように努力することはとても大切だとぼくは思います。そしてそのことこそが、「海のように広い」セクシュアリティーの多様性の世界の中で、ものを考えるきっかけのあった「私たち」が、社会に対して訴えていける最大のものかも知れません。

女!男!うんざりだ! あらゆる「暗黙の規範」から自由になろう!

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