そういえばサパティスタも「支援してくれ」とは言っていなかったかも(長居公園の話)

 1月21日は、展覧会を観たあと、長居公園へ。
 長居公園では現在テント生活をしている人がいて、テント村ができているんですが、大阪市によるテント村の強制排除(強制代執行)が危惧されていて、1/21に急遽小さなお祭り(プチ大輪まつり)が開かれていました。

 大阪市といえば、関西レインボーパレード大阪市長がメッセージを寄せたり、「男性同士が2人で宿泊するのを断ったのは、旅館業法に違反する」として改善命令を出したり同性愛者らの「結婚」市長が祝福など、なかなかいいことするじゃんと思っておられる方もおられるかもしれません。確かにそういう点ではそれなりに評価できるんですが、しかし野宿者のテント村の強制排除はいただけないです。ちゃんと抗議をしていきたい、と思いました。

 さて、「プチ大輪まつり」に参加していてちょっとやりとりになった時、テントに住んでいる人が言っていた言葉が頭に残っています。正確な言い回しは忘れましたが、「オレは、目の前で『支援している』と言われると頭に来るんだ」。
 非常に端的に言っていたのだけれど、ちょっと考えてみれば「全くその通り!」な訳。わたしだって、「ボクはセクシュアルマイノリティーの人たちを支援しています」と言われたら、(いつもはあまり顔には出さないけど、内心は)頭に来る。「アホか。人の支援なんかする暇があったら、自分の問題をやれ。あなたが自分のしたいことをして、それがわたしと重なったら一緒に何かができるかもしれないけど、別に支援なんていらない。恩着せがましく言うな」と、実は思うよね。
 そういう意味で、ストレートに思っていることを言い合っている/言い合える長居公園のテント村の雰囲気は、とても風通しがいいなと思いました。
 でも実は、この「支援」という言葉、便利だから、運動の中ではよく使ってきたのよ。「プチ大輪まつり」の時も、実際に公園に住んでいる人と、強制排除に反対しに来た人たちとの、立ち位置の違いを明確化するために「支援者」と「当該」というような言い方をしていた訳。実際に公園に住んでいる人と、結局は帰る家が別にある人とでは、いくら目指す方向が同じ/近くても、強制排除の持つ意味は全然違うわけで、そういう意味で「立ち位置の違い」を明確化する事自体は大切なことだと私は思います。
 でもさ、それでも「当該」は誰のことかっていう話は残る訳。実際長居公園では、ある種の共同体みたいな感じができている。長居公園のテント村が、多くの人たちが集まり、交流し、助け合い、話し合い、出会う場になっている。「プチ大輪まつり」の後も、わたしは終電で帰宅したけれど、ずっと語り合っている人たちはかなりいたし、おそらくテント村に泊まって行く人も沢山いるはず。そうなってくると、テント村が強制排除されるって事は、そういう「みんなの場」が無くなる訳です。すると問題は、単に公園のテントに住んでいる人だけの問題ではなくて、帰る家はあるけれど、テント村にも来ている人たちの問題であるとも言える。そういう人たちを簡単に「支援者」と呼んで、住んでいる人との間に分割線を入れることがいいのか悪いのかというと、そう簡単に答えがある訳でもない。
 こういった「立ち位置」の問題は、明確化することが必要であるのと同時に、簡単に線引きできる訳ではないという事もまた、事実。例えばQueer/クィアという言葉や考え方、関西クィア映画祭について語る時に「(主催者である)私たち」というのは誰のことなのか。性別違和のない異性愛者だけれど実行委員会である人も「私たち」は対等な仲間として一緒に活動している訳で、実は言葉「私たち」は「性的少数者」を指している訳ではなかったりします。でも、事実上はQueerという言葉は、「性別違和のない異性愛者」を含まない形で流通しているものまた事実です。
 そういった曖昧さというかいい加減さこそが、実は私たちの力の源であり、いまの社会に対するオルタナティブ/対案なのではないか、という直感を思い出しました。(その対極にあるものとして、「アイデンティティーの政治」や、その実践としての「LGBTの権利運動」とか。こう書くと少しは伝わるかしらん。)

 さて話を戻すと、実は「マジョリティーがマイノリティーを支援する」なんて、おこがましいというか、恩着せがましいというか、まさにそういう関係のあり方こそが問題になっている訳です。それぞれの人が、自分の立ち位置で、自分のやりたいことややるべき事を自分の責任でやりきることこそが核心なんだ、という原点を、改めて確認したやりとりでした。実はこの日の長居公園には、最近ご無沙汰している野宿者/ホームレス/日雇労働者の運動の現場の様子を久しぶりに見に行こうかというお気楽な感じで出向いただけだったんですが、結果的にとても充実した時間になりました。

(報告は、更に続く…自彊館闘争のこととか…)

※タイトルの「そういえばサパティスタも「支援してくれ」とは言っていなかったかも」ですが、そういえばサパティスタ(メキシコの先住民を主体とする武装ゲリラ)も、声明の末尾はいつも「民主主義を!自由を!正義を!」みたいな感じでした。わたしが以前参加していた日本の運動では、末尾は「注目、支援、連帯を呼びかけます!」だったので、その違いに気が付いたんです。運動って、言葉に固執する面もあるので、その意味で「支援」という言葉をどういう意味で今後使っていくのか、もしくは使っていかないのか、ちゃんと考え直さないといけないなと思います。

“そういえばサパティスタも「支援してくれ」とは言っていなかったかも(長居公園の話)” への1件のフィードバック

  1. ざっと書いた記事なので、書き漏れが沢山(笑)
    ●「支援」のうっとうしさというか、嘘ぽっさは、「サバイバー支援」という言葉にも感じていて、支援者がサバイバーを利用する為に「支援」という言葉が使われているような気がすることが、実はよくあったりする。
    ●そういえば「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」にも「支援」が使われている。この法律は、野宿者を公園から追い出すための法律でもあるので、「自立支援」を押しつける=野宿者を公園から追い出す、というカラクリがよく出ているかも。

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