クイアー(Queer)ってなあに?

プロジェクトPで「現代京都における変態生活者の実態と棲息状況について(抄)」という冊子を創りました。その冊子に掲載された座談会です。
なお「基礎知識」のところの記述は、今から見ると不十分なところがありますが、当時の記録としてそのまま掲載しています。
(「現代京都における変態生活者の実態と棲息状況について(抄)」1996年5月11日)

変態パンフ

「現代京都における変態生活者の実態と棲息状況について(抄)」

  • 編集:プロジェクトP
  • 発行:プロジェクトP
  • 定価:300円
  • クイアーってなあに?
  • 「変態」「オカマ」とも訳す言葉、「クイアー」についてのプロジェクトPメンバーによる座談会

  • 「クイアーってなあに?」を読むための基礎知識

(いずれもプロジェクトP発行の「現代京都における変態生活者の実態と棲息状況について(抄)」?に収録)

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クイアー(Queer)ってなあに?

参加者:キム、ミゲル、ヒッピー、みあ、モリアイ、ユーリ

▼キム:では、はじめさせていただきます。本日の座談会のテーマはクイアーです。最近、日本でクイアーという言葉が注目されていますが、これはもともと海外のレズビアン・ゲイ運動の進行につれ、両性愛者、両性具有者等、レズビアン・ゲイという囲いからはみ出す存在が多数あることが明らかになり、そういった人々、広い意味でのセクシュアルマイノリティを示す言葉として使われ始めた言葉です。私が初めてクイアーという言葉を聞いたのは、ドラッグ・クイーンが自称「私はクイアーよ」と言ったときなので、クイアーという言葉には明るくポジティブなイメージを持っています。「みんな同じだ」と考える社会に対して、「私は違う」ということを唱える、「意識的に自ら考えるものとしてクイアーな人になろう」と、そういう風に私はクイアーという言葉を考えていますが、皆さんはどういう風にクイアーという言葉を捉えていますか?もしくは、クイアーにまつわる話を聞かせて下さい。
▼ミゲル:クイアーという言葉は私にとってもポジティブに聞こえます。レズビアン・ゲイ運動の範囲を広くしようとする言葉だからです。
▼ヒッピー:レズビアンとかゲイとか、そしてバイ・トランスセクシュアル・両性具有者等のセクシュアルマイノリティーを総称して「クイアー」と呼ぶのには極めて大きな違和感があります。「クイアー」という言葉は、その人の属性やアイデンティティー、何者であるかといった意味で使うべきではなく、例えば「クイアーな振るまい」等のように形容詞として使ったほうがいいと思います。もちろん、レズビアンやゲイのコミュニティーがいろいろな人を受け入れようとする動きはとてもいいと思うのですが。ぼくはそこにどうしてもヘテロ社会の被害者としての同質性・仲間意識・なれ合いを感じてしまいます。
▼キム:仲間意識っていうのは具体的にどう悪い面を持っているの?
▼ヒッピー:「私たちは同じ立場だから解り合える」っていう形で「私たち」という集団の内部にある違いを覆い隠してしまうような気がする。と同時に、ヘテロセクシュアルの人を「私たち」とわざと切り離すことによって断絶を余計に作っているような気がする。ヘテロセクシュアルな振る舞いを強要する雰囲気や文化が悪いのでしかないのに、ヘテロセクシュアルの人を攻撃することによって、自分達の仲間意識を作ったりしていない?それに、名前を「クイアー」に変えても運動の中身がかわらなきゃダメよ。「ゲイの運動」を応援したり「ゲイの問題」考えたり、またそういう人を増やすために「クイアー」っていうくくり方をするんじゃないのよ。ゲイはゲイ以外の人の問題を考えなきゃいけないの。むしろ今考えるべきことは、ゲイの運動がゲイ以外の人と共同して何かをするときに「ゲイ中心主義」とでもいうものからどう降りることが出来るのかということだと思う。
▼キム:それは、ヘテロセクシュアルの世界からゲイがはじき出されたみたいに、ゲイの世界からもいろんな人がはじき出されている、ってことだよね。セクシュアルマイノリティーを「クイアー」とくくっていいの?
▼ヒッピー:さっきから駄目だと言っているでしょ!!
▼ミゲル:確かにつまらないところがあるでしょうが、とりあえず、このヘテロセクシュアル中心の社会だから、ゲイ・レズビアンのカテゴリーに入らないいろんな人を切り捨てて認められようとするより、自分を主張しながら出来るだけ多様な人と共生していきたい。
▼キム:共生するために「クイアー」という言葉が役に立つ?
▼ミゲル:「クイアー」には多様性を祝おうというニュアンスが入っていると思うから、そうじゃない?
▼ヒッピー:でも、所詮、ノン・ヘテロでしかないわ!
▼ミゲル:ノン・ヘテロより、あえて言えば、ノン・ヘテヘテじゃない?
▼みあ:「ヘテヘテ」って何?
▼ミゲル:つまり、ヘテロ以外の存在を認めようとしない態度。
▼みあ:認めようとしないってことはホモフォビアのこと?ヘテロ以外の存在を考えようともしない、もしくは知るきっかけすらもなかったヘテロもヘテヘテと言うの?
▼モリアイ:そうじゃない?自覚しなくていいと言うこと自体が状況の差を物語っていると思うし。その鈍感さは「知らなかった」では済まされない。無知は罪よ!
▼キム:鞭?
▼モリアイ:(無視して)ただし、ここでハッキリさせないといけないのは、ヘテヘテ、つまりそれはヘテロセクシズム(=強制異性愛社会)を指しているのであって、ヘテロセクシュアルを指しているわけではないのよ。ヘテロであること自体は問題ではない。問題なのは、マジョリティであるということを正当性の根拠にすることであって、マジョリティであることがそれ自体罪であるわけではないのよ。同じように、マイノリティが他のマイノリティと自分との差異を考えない事は傲慢だし、マジョリティになることで、社会に認められようとすることはつまらないと思う。
▼みあ:人間なんて、2人以上存在すれば、絶対に同じなわけないのに、なんで、「あなたはあなた、私は私」という前提のもとで人間関係が築かれないのかなぁ。「同じだから安心」って言う人、私には理解できない。
▼キム:それはマイノリティーの中にも、「クイアーじゃない人」っているし、マジョリティの中にも「クイアーな人」いるってことだよね。「クイアー=セクシュアルマイノリティ」とするはじめの意味づけとは違ってくるね。
▼モリアイ:そうだよね。確かに、「同じ」と言うことに安心するところが私にもあるけど、いろんな人の違うところを知るのはとても刺激的だし、少し怖いかもしれないけど面白いことだと思う。「変=普通じゃないこと(普通って?)」は蔑まれるべき事でもないし、別に誇らしげに見せびらかして特別な存在として自分を格上げする為に使われるものでもないと思う。
▼みあ:差異があって当然だし、もしその自分との違いが自分の価値観と全く合わないとしても、それを否定するのはちょっと違うよね。
▼モリアイ:「違う」っていうことと、対立することは別ですものね。これって大事やわぁ。
▼ヒッピー:私もさんせ~い!ところでねえ、こんなのはどお?「クイアー」ってのはさ、その場、その場で当たり前とされていること、自明だと思われてて意識すらされていないこと、そんな予定調和を壊すような振る舞いのことだと思うの。これはアートスケープである人が言ってたんだけど「思わずハッとして実は僕たちは一人一人なんだと気付かせてくれる振る舞い」のことさ。だいたい、街中でも教室でも電車の中でもぼくたちは一定の身ぶり・振る舞いの様式を強要されているわけじゃない?無自覚すぎて強要されたとすら思ってないのよ。そういう、ある意味ではわかりにくい強制・社会的な権力、つまり文化からいかに自由になるかってことだと思うの。ヘテヘテな場でゲイだと名乗ることはクイアーな行為だけど、同じ人がゲイコミュニティーでゲイだと名乗っても何でもないよね。
▼キム:う~ん、ずいぶん政治的な話だねぇ。
▼ヒッピー:そういう風に考えることによって「セクシュアル・オリエンテーションの話だけが特別に重要な事だ」という傲慢が避けられるし、どのような立場の人も自分の社会の中での生き方の問題として共通にかつ対等にものを考える土俵が出来ると思うの。
▼キム:じゃぁ、ヘテロセクシュアルが多くの人に当たり前とされている社会において、セクシュアルマイノリティが自己主張するときに「クイアー」という言葉を使うことはどう考える?
▼ヒッピー:何回も言うけど、セクシュアルマイノリティの総称として「クイアー」を安易に使うのはやめた方がいいと思う。というより、レズビアン・ゲイ・バイ・ヘテロといったどんなカテゴリーにも入る必要はないのだ、どんなに変態でもいいのだ、他の人と同じ必要はないのだ、ひとりだけ違ってもいいのだ、今ここで異論を唱えてもいいんだ、少数派が損をすることこそが不当なのだ、等という事を、様々なカテゴライズすらできないようないろんなセクシュアリティの人たちとの出会いの中で気付いた人たちが、他の様々な領域(性・セクシュアリティーに限らず)で同じ様なことを考えている人たちと共に、(もちろん、ゲイかどうかヘテロかどうかに関わりなく)社会に訴え、共に祝っていく、そういう中で「クイアー」という言葉を使うのだったら、いいかも知れない。でもそれは、「私たち(当然ここにはヘテロセクシュアルの人たちを含んでいる!)」の総称と言うよりも「クイアーなあり方・生き方」を一人一人がそれぞれに提案するって事なのよね。決してセクシュアルマイノリティだからクイアーなのではない。「クイアーな生き方」は本人が自分の意志で選択するものだし、ぼくはそれを目指したいってこと。あら、フーコーの受け売りね。ところで、ここまで言っておいてなんだけど、「クイアー」ってオシャレすぎてリアリティがないのよね。「クイアー」ってそもそも向こうではセクシュアルマイノリティに対する蔑称だったのよね。日本で言うなら、「オカマ」とか、「変態」って言葉がそれに近いはずなの。だからぼくたちもこのパンフレットのタイトルには「変態生活者」って言葉を使ってみたのよね。
▼キム:「変態」はまあ、いいけど、「運動」のやり方も見せ方も考えるとき、一体オシャレの何が悪いん?それ自体はもっと認めてもいいんじゃない。参加する人も増えるかも知れないし、何といっても、自分が心地よいスタイル・ファッションで私は動きたい!やっぱりラバーよ!やっぱりレザーよ!
▼ヒッピー:それはそれでいいんだけどさ、現実にがんとして存在する、例えばヘテロセクシズムの社会をね、「クイアー」と言うことによって風穴を空けたり揺らしたりするのはちょっと無理だと思うの。外国では「クイアー」は蔑称だったからこそ本人たちが逆に開き直って使うことがインパクトがあったんだし。「そうさアタイはまさにアンタが蔑んでいるような人間さ。で、それがどうしたの?」って感じでね。だからとりあえず「変態」って日本語で言ってみたんだけど。難しいよねぇ。
▼キム:じゃぁね。今までProject Pはセクシュアリティーをキーワードにイベントとかやってきたけど、じゃぁ、これからキーワードをセクシュアリティーに限定しないで広い意味での「クイアー」にしましょうか?
▼モリアイ:それって例えば、レズビアン・ゲイパレードの名前も「クイアーパレード」にするって話?
▼ヒッピー:う~ん、難しいねぇ。でも、いずれにせよ、ゲイとレズビアンだけが主体であり、ゲイとレズビアンのことだけをやるパレードってことにはこれからはならないと思うんだけどな。

▼モリアイ:ちょっと固かったかしら?皆さん、いろんな事をお話ししたりしましょうね。待っているわ!
▼みあ:いろんな違いを見て欲しいよね。
▼モリアイ:雑多な変態どもがお待ちしてるわ!

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「クイアーってなあに?」を読むための基礎知識

 南アフリカ共和国の新しい憲法では、「第3章 基本的権利」の中の「第8条 平等」の項の中で、いかなる人も「gender(社会的・文化的性差)」「sex(生物学的性差)」「sexual orientation(性的指向)」にって差別されないことを定めました。ここでは、性をとりまく状況についての基礎的な解説を、この3つを軸にして書いてみます。
 ただし、この文章の文責はすべて書き手であるヒッピーにあります。性の問題はそれぞれにとって真に切実な問題であることもあり、アプローチの仕方も本当に人の数ほど有ります。また、概論的なものを書く都合上、かなり乱暴な書き方や断定調になってしまうこともあるかと思いますが、ご容赦ください。ご批判お待ちしています。(ヒッピー)

CHAPTER 3 FUNDAMENTAL RIGHTS (ss. 7-35)
8 Equality
(1) Every person shall have the right to equality before the law
and to equal protection of the law.
(2) No person shall be unfairly discriminated against,directly
or indirectly, and, without derogating from the generality of
this provision, on one or more of the following grounds in particular:race,gender,
sex, ethnic or social origin, colour,sexual orientation, age,
disability, religion, conscience, belief,culture or language.
(CONSTITUTION OF THE REPUBLIC OF SOUTH AFRICA, ACT 200 OF 1993
[ASSENTED TO 25 JANUARY 1994] . . . .[DATE OF COMMENCEMENT: 27
APRIL 1994])

gender(社会的・文化的性差)

 今の社会の中で女・男に割り振られている役割(性別役割分業)は必然的で「自然な」ものなのではなく、いかに不平等・恣意的なものであって、変えなければならない/変えられるものであるのかということを示すために、「ジェンダー」という考え方は有効です。
 長い間、人の性別は生物学的に決まっている(人は男として/女として生まれる)と信じられてきました。しかし人の性自認(ジェンダーアイデンティティー・自分をどの性別だと自分で思っているか)は、その人の生物学的な性別とは別につくられます。
 例えば、生まれたときに生物学的な性別と異なる性別(例えば男)を誤って与えられた人が、男として育てられてきて、大きくなってから自分の体の生物学的な性別が実は女であることに気がついた場合。生物学的な性別が性自認を決定するのであれば、その人は「男として」育てられようがどうであれ、自然に、「女としての性自認」を獲得するはずです。しかしそうはなかなかなりません。また、誤った性別判定をされなくても、自分の体の(生物学的に与えられた)性別に違和感を感じて性転換をしようとする人もいます。これらのことから分かるのは、性別の生物学的決定論はまちがいだということです。
 またそのような場合、性自認を変えてからだの性別と一致させるより、体をつくりかえて(性転換手術)性自認と一致させようという人が多いという話しです。これは、人にとって大切な性別(性自認)とは生物学上のそれ(セックスアイデンティティー)ではなくジェンダー(ジェンダーアイデンティティー)であるということを示しています。そしてまた、ジェンダーが社会的・文化的な性別であるとはいっても、そう簡単に自分で変えることのできるものではないということでもあります。
 さて、人にとっての性別が社会的・文化的なものであるとするならば、社会にあふれる「女は**すべきだ」「男とは**だ」などの意味付けはすべて文化的なものであって、変えることができるということになります。
 欧米では、社会的に無意識のうちに男・女に割り当てられた職業(例えば看護婦、消防士、スチュワーデス、現場監督、など)に逆の性別の人が応募したら優先して採用することによって、本来の公平な女男比に近づけていこうという試みもなされています(アファーマティブ・アクション)。そもそも男女の人口比は半々なのですから、女男のどちらかの人数が極端に多い職業のあり方には性差別的なところがあるので、それを是正していこうということです。またそのように現実を先行させることによって、「わたしは女なんだからこれは向いていないんじゃないか」などといった無意識のうちに行われる社会的なウソの刷り込みをも、変えていこうということだと思います。また、それに伴い、言葉自体を変えていく試みもなされています。(例:fireman?fireperson)

 私の友人のTS(トランスセクシュアル)は「生物学的な性別に男と女との中間があるのなら、ジェンダーにも女と男との中間があってもいいじゃない。わたしの性別はニュートラルジェンダーよ!」と言っています。なるほど。

sex(生物学的性差)

 ジェンダー上の性別が「男か女」に明確に分けられてしまっているためセックスも女と男の2つしかないと思われていますが、生物学的にいえばセックスはけして2つではありません。遺伝子でもX遺伝子とY遺伝子との組み合わせで性別が決まるといわれていますが、現実にはXXXゃXYYといった遺伝子も存在していますし、そういう人が特に女らしかったり男らしかったりするわけではありません。また、外性器の形(オチンチン・オマンコがあるかないか、両方あるか、など)、ホルモンの分泌量、卵子・精子ができるか、など遺伝子の組み合わせ以外にも様々な要素が組み合わさり、男と女との間は無数のグラデーションになってなだらかに連続しているとみるのがよいと思います。自然界には女-男の2項対立はありません。それに対して男-女の2項対立を意味づけるのは人間の文化的なレッテル張りです。
 わたしは、半陰陽者・両性具有者の自助グループ「ヒジュラニッポン」をやっているハッシーが「性別の多様性を認めよ!勝手に人を男か女に分類するな!」というようなことを言っていたのを聞いて、ハッとさせられました。

sexual orientation(性的指向)

 この考え方は、「人は異性を好きになる」ということが自明なのではないということ、そして人の性的指向は様々だということを示すのに役にたちます。
 始めは、ゲイやレズビアンたちが、自分たちが同性に惹かれるのは異性愛者が異性に惹かれるのと同じことだ、ということをいうために使われだしました。異性間の関係が元の自然な形としてあって、そのおまけ・付け足しとして同性愛を認めて欲しいのではなく、同性愛も異性愛もその対象がただ違うだけで同じことだ、だから差別するな!ということ。
 しかしながら最近では、性的指向を「相手の性別(男か女か)」に限定して考えることに疑問も出されています。人が何に性的な魅力を感じるか、その場合何が一番重要かということを考えると、人によっては性別が一番重要であるとは限りません。私の場合は「若いコのきれいな肌」に惹かれるのであって、相手の性別にはあまり関心がありません。そのような人に「あなたは男と女のどちらが好きなのか」を聞くのはやぼというものです。その意味で、性的指向という言葉は「あなたは男と女のどちらが好きなのか」という意味でではなく「あなたは何に性的魅力を感じるのか」という意味で使われるべきだと思います。それはつまりあなたにとっての性的魅力とは何かを考えることであり、あらゆる性的指向(革フェチ・紙に欲情する・ペニスフェチ・女フェチなどなど)を対等に扱うということでもあります。

 「gender(社会的・文化的性差)」「sex(生物学的性差)」「sexual orientation(性的指向)」の3つはそれぞれ関連は持ちつつ、しかしそれぞれ別の問題を提起しています。例えばゲイの男性にとっては自分の性別が男であることは自明のことですし、社会的に女の人が置かれる立場とかにはあまり関係がありません。でもレズビアンと一緒になにかやろうと思ったら、セクシュアル・オリエンテーションのことだけを考えるわけにはいきません。レズビアンのその人自身が自分の問題を考えるときには、当然ジェンダー(男性優位主義の)問題も切実ですし(だいたいまずいい稼ぎの仕事が少ない!)、ジェンダーの問題を切り離してセクシュアル・オリエンテーションのことだけを考えるということになればそれは単にレズビアンがゲイの都合にあわせている(あわせられている)に過ぎません。そのほかにも障害を持ったゲイにとっては障害者が置かれる問題をはしょって行われる(セクシュアル・オリエンテーションのことだけを考える)ゲイの運動は単に健全者の運動に過ぎない訳だし(介護がいなければゲイサークルの集まりに参加することさえできない)……。だから例えば「セクシュアル・オリエンテーション」のことだけを考えることで済む人というのはゲイの中でも(数は多いかもしれないけれど)一部分でしかありません。もちろん自分の問題だけを考えても悪いわけではないのですが、それは実はよく考えてみるとヘテロ社会の中でセクシュアルマイノリティーがされていることと一緒だったりすることにもそのうち気がつかざるを得ません。自分のことで精いっぱいなのに人のことなんて!–と言って、セクシュアルマイノリティーのことは黙殺されてきました。
 今の社会の性にかかわる規範を変えていきたい、という意味での「私たち」という枠組みは果てしなく広がっていきます。レズビアン・ゲイ、半陰陽者、トランスセクシュアル、バイセクシュアル、フェチ、女、性暴力の被害者……。その1つ1つのくくりどうしでも抱える問題は違うし、そしてその各々のくくりの中でさえ、一人一人抱える問題は違います。
 ここまで考えたとき、「私たち」1人1人がお互いに出会っていくこと、共同して今の社会の性にかかわる規範を変えていこうとするときに使われだしたのが座談会でテーマになっている「クイアー」という言葉です。

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