クィア仲間と、野宿者排除について一問一答

 あるクイア系の人たちの中で、長居公園の野宿者の強制排除問題について話し始めた時の私の状況をみて、私の大切な友人が後からこう評しました。
「アレが起きている」
 そう、アレです。
 私たちがいつも、セクシュアリティーの話をしようとして、人々とのあいだに起きるアレです。
 セクシュアリティーの話をしようとする「わたし」の方は、その問題についてかなりの知識を持っていて、言葉遣い一つ、使う言葉一つについてさえ、気をつけていたり、留保を付けたりしている。だけど話を聞いている/聞かされている側は、そもそもが問題自体に関心がない。ちょっと聞きかじった知識で何か反論や共感すると、それはたいがいが的はずれで、「そうじゃないの!あのね、そもそもね…」「この言葉はこういう意味で…」と長い話が始まらざるを得ない。その長い話が面倒くさくて、「なんで今ここでそんな話をするの!」「忙しいの、その話はあとにして!(で、結局話さない)」とハッキリとは言わないものの、どことなく気まずい雰囲気が漂ってくる…。
 圧倒的な知識の差と、そもそもの問題についての関心の有無がある。それを、マイノリティーとマジョリティーとが出会ったときの出来事、だと言ってもいいんだけど。
 で、それと同じ事が、野宿者の強制排除問題の話題を巡って、起きていたという。
 もちろん現実の描写としては、このブログに書くためにデフォルメしてはいるけれど、でも確かに、その通りだと私も思った。残念なことだけれど、性的少数者の権利の問題について積極的に話ができる人が少ないのと同じように、野宿者の権利の問題について積極的に話をしようという性的少数者もまた、少ない。が~ん(笑)
 私としては、「また、アレが起きている」という現状認識を友人と共有できたことは、とても嬉しかったです。でも、そういう認識だけじゃやっぱり不満なので、もっと先に進むために、いくつかの質問に私なりに答えてみたいと思います。

●「ひびのさん、またそんなマイナーな話をするんだから」

 野宿者の話、もしくは野宿者の性的少数者の話をする私に対して友達が言った言葉。私のお返事はいつものように。
 なぜ、「性別違和のない、日本人の、健全者の、男性の、野宿者ではなく家のある、正社員の…性的少数者」の問題だけが「『私たち』にとって中心的な課題」として取り上げられるの?なぜそういう「特殊」で「全体からみたら一部分」でしかない性的少数者の問題だけが、当たり前のように「中心的な問題」なの?「マイノリティーの中で力のある人たち」「マイノリティーの中のマジョリティー」の人の問題が「性的少数者みんなの問題」であるかのように偽装されるのはそれでいいの?
 私のしている話は、「中心的な話」だよ。もちろん「誰にとって中心的な話か」という問題はあるけれど。でも、野宿者の話をする時「だけ」ではなく、「日本人で健全者で帰る家のある性的少数者」の話をする時に「も」、「それが誰にとって中心的な話か」という疑問は持ってくれないと、フェアじゃないな~!

●「野宿者の話はセクシュアルマイノリティーの話じゃないよね」

【回答例1】
 うん、もちろん。始めから性的少数者の話をしているつもりはないんだけど。単に野宿者の排除が不正だから、「社会で間違ったことが行われるのに反対しよう」と呼びかけて居るんだよ。野宿者の問題が性的少数者の問題でないことが、それになにか関係がある?それがどうしたの?
 もしかして、性的少数者の権利だけが守られればいいと思っているの?性的少数者に関係ないことなら、どこで誰がどんなひどい目にあってもいいの?
【回答例2】
 野宿者にも性的少数者は居るんだけど。あなただって家に帰れなくなって、野宿せざるを得なくなるかもしれないのよ。
 あなたが今「野宿者」ではないからといって、野宿しているかもしれない性的少数者を存在しないことにしてもいいの?自分と同じ生活をしている性的少数者のことしか考えなくていいというなら、女性同性愛者のことを考えようともしない男性同性愛者をどうやって批判するの?

●「野宿者という生き方は『多様性の一つ』として擁護すべきものなの?」

 この反応は、例の大阪市長宛の要請書に連名するかどうかということを考える時に、とて重要なものだと思いました。これはセクマイの話というより、ちゃんと野宿者の話なので、記事を改めます。改めて書く予定。

●「でも、それって、またもや男の人の話だよね」

 これ反応には、「その通りだね」としか言いようが無くて、困った!!
 という側面も確かにあります。
 つまり、外見の論理構成上は正しいことを言っているのだけれど、結局は女性が男性に奉仕させられる事って、実はかなり多いです。「同性愛者の権利を守る」と言いつつ実はゲイ男性のことしか運動の中で想定されていなかったり、「在日朝鮮人の権利を守る運動」が実は「在日朝鮮人の男性」の権利を守る運動だったり、「労働者のための労働組合」が「男性正社員のための組合」だったりすることは、決して例外的なことではなく、むしろその方が多いです。女性が痴漢に遭っていることはずっと社会的に放置されてきたのに、やっと痴漢の犯罪化が進んで犯人が逮捕されるようになると、「痴漢えん罪」のことは大々的に社会的関心事になる。女性がパートで低賃金労働を強いられていても社会問題にならないのに、男性のニートが増えると「非正規労働」のことがクローズアップされてくる。今の日本はそんな社会です。
 なので、「またもや、男の人の話だね」という微妙な距離感は、実はあたっているし、的確な指摘。
 以上を踏まえた上で、しかしでは、帰る家と寝るふとんがある人は、野宿する人に比べて社会的マジョリティーなのではないのか、という話は、やはりあります。例えば、不安定ながらも一応家賃を払える仕事があるレズビアンは、女性であり同性愛者であるという点では社会的マイノリティーなんだけど、家があって仕事があるという点で、やっぱり社会的マジョリティーです。別に、個別の野宿者に共感する必要は全くないんだけど、自身のマジョリティーである点についてどう取り組むのかということは、まず持って本人の課題だと思うんだけどな。

●私の感想

 「マイノリティー運動」が、もし、「社会的マイノリティーである『私たち』が、『私たち』の生活の向上のために運動する」というものであるなら、その認識枠組みの弊害がもろに出てくることがあるんだろうな、という印象。正確には、「私たち」というので誰のことを想定するのかという話なんだけど。
 「東京レズビアン&ゲイ・パレード」をやりたいという人たちにとっての「私たち」が「レズビアン&ゲイ」でしかないことを、私は強く批判します。そして、もし「私たち」が「日本人」「健全者」「家のある人」のことだけを指すのであれば、「レズビアン&ゲイ・パレード」が批判されるのとと全く同じ論理構成で、批判を受けるわけです。
 「私たち」の中に何を含めて何を含めないか、などという議論は、私はいい加減おしまいにしたいです。そうではなくて、「私は、社会的な不正を(できるだけ)許さない」という姿勢を一人一人が持つこと、そのためにそれぞれの位置でできることを少しずつ努力することが必要、という風に私は考えたいのですが。
 「アイデンティティーの政治に反対」と私が言うときの意味も、こんな感じです。

 これで終わりじゃないよ~、これから、こういう話をどんどんしていくんだよ~それを「楽しみ」だと思ってね~(笑)

※このトピックで出てくる例は、現実の出来事を参考にして書いては居るんだけど、話を分かりやすくするために誇張したり単純化したり歪曲したりして書いています。なので、具体的な個人や誰かの発言を揶揄するような意図で書いているのではありません。敢えて言うなら、「勝手にネタにしてゴメンね」「話の材料を提供してくれてありがとう」という感じ。ご容赦下され。

“クィア仲間と、野宿者排除について一問一答” への1件のフィードバック

  1. 野宿者の問題と関わったセクシャルマイノリティとして私は少し貴重な存在かもしれません。
    私の経験から言えるのはセクシャルマイノリティの野宿者は行政の福祉的対応を非常に受け入れにくい人たちだということです。
    たとえば、トランスジェンダーが特別な配慮なしに自立支援センターに入ることができるかといえばそれは難しいと思います。
    トランスジェンダーがハローワークに通う事だって並大抵ではできない相談です。
    性同一性障害という病気に関しては二次的にうつ状態になっているような場合には本来の性同一性障害の治療を受けにくいという問題もあって贅沢病扱いされているようなところもあるような気がします。
    本来はどんな人であってもその人のセクシャリティは尊重されなければならないのだろうけどなかなかそうはなっていないですね。

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