「レズビアン&ゲイ」という看板は、いついかなる時でも許されないの?

 「東京レズビアン&ゲイ・パレード」が「東京プライドパレード」に名称を変えました。このことについて私が「これで、少なくとも日本国内で、『レズビアン&ゲイ』の看板で開催されるパレードは1つも無くなりました。とてもよいことです」と書いたところ、佐藤博さんから鋭いツッコミを頂きました。日本には他にも「レズビアン&ゲイ」を看板にしたグループがあるけど、それはどうなんだ、というご指摘でした。

 佐藤博さん、初めまして。コメントをありがとうございます。レスが遅れてしまったこと、ご容赦下さい。

●「レズビアン&ゲイ」の名前も実はまだある

 佐藤さんもご指摘の通り、「動くゲイとレズビアンの会(OCCUR)」や「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」など、「レズビアン&ゲイ」を看板にしたグループも、実はまだ結構あります。
(札幌の「NPO法人at」のことは、頂いたコメントで始めて知りました。札幌ミーティングのサイトも「Not found.」だし、「もしかしてこれは札幌で一悶着あったのかな?」という想像はしようと思えば出来ますが、事情はよく分からないです)

●時代的制約の場合

 ごく一般的には、私は、「レズビアン&ゲイ」という看板は不適切な場合が多い、と思っています。
 ただ、時代的な制約というのがあるのも事実で、以前私が参加していた「プロジェクトP」も正式には「レズビアン?ゲイ?バイ?ヘテロ?……?生と性はなんでもありよ!の会」と言い、今なら必ず入る「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」などが落ちていました。1995年の発足当時としては最大限広く枠を取ったつもりだったんですが、時代の流れの方が早かったんです(その後、改称しました)。
 そのプロジェクトPの発足よりも前の1992年から継続的に開催されている「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」の場合は、まず何よりこの歴史的な側面が大きいと思います。

●実際に同性愛者しか居ない場合

 また、以前NOVさんに対するコメントでも書いたことがあるのですが、ごく小規模のグループであったり、メンバーが固定した数人の表現者のグループであったりした場合に、実際に居るメンバーが「レズビアン&ゲイだけ」もしくは「ゲイだけ」という場合も、実はあり得ます。
 例えば「バイセクシュアルの不可視化」という問題は、まずは何よりも「実際に隣にいるのに、なんで無視すんの!」という極めて現実的でプラクティカルな問題である以上、逆にあるグループにいるのが本当に同性愛者だけである場合には、その観点からは名称に文句を言うことは出来ません。

 ですので、「レズビアン&ゲイ」という看板をみたら、確かに「怪しい」とは私は直感的に思いますが、しかし単に看板が「レズビアン&ゲイ」であると言うだけで、直ちに不当になるというわけでは必ずしもない、とも思っています。ちゃんと、そのグループの事情を丁寧にみないといけないと思います。

●思想信条に基づく場合

 また、人権問題に取り組むような場合に「同性愛者だけで集まりたい」と考えることは、私はその考え方自体に不充分な点があると思っています。なぜなら、それは今「私たちのコミュニティー」が持っている豊かさを理解せず、また今すでに存在している繋がりや協力関係を破壊する行為だからです。「同性愛者だけで集まりたい」という考えは一見素朴そうに見えますが、実は「私たち」の場所から「バイセクシュアル」やトランスジェンダー、Aセクシュアルなどの様々な性的少数者たちを排除することを意味します。運動的にも不適切な方針だと私は思います。
 しかし、私と考え方が違う人が自身の考え方に基づいて活動することもまた、市民としての権利ではあります。これも以前書いたことがありますが、「同性愛に反対する会」を創る権利が人にあるのと同じ意味で、「ゲイとレズビアンの会」を創る権利自体は、法的には誰にでもあります。
 但し、当然ながらそういう会や活動は厳しい批判を受けることがあるでしょうし、そういった相互批判の中で社会全体が成長していくのだと思います。

●なぜ「レズビアン&ゲイ・パレード」が問題になるのか

 私が例えば「動くゲイとレズビアンの会(OCCUR)」には何も言わず「レズビアン&ゲイ・パレード」にこだわったのには、理由があります。それは、(1)東京のパレードは規模が大きく影響力が大きいから(2)パレードの主体は実行委員会ではなくパレード参加者だから、です。
 まず現在、「動くゲイとレズビアンの会」は日本のコミュニティーを代表するような性格を持っていませんし、またナショナルセンターのような機能もありません。つまり単なる小さな1グループでしかなく、全国への影響力も大きくありません(正確に言い直すと、OCCURが「ゲイとレズビアンの会」であり続ける限り、コミュニティー全体を束ねるようなことは出来ないということだと思います)。ひびのの分身が100人くらいいたら別でしょうが、私もそんなに暇ではありませんので、実害が大きくない場合にはそんなに気にしません(私が東京在住だったら、またもう少し違うのかもしれませんが)。
 特にパレードが問題になるのは、パレードの主体、社会に対してメッセージを発する主体が、パレードを呼びかけた人(実行委員会)ではなく、パレード参加者の一人一人だからです。
 もしこのパレードが、実行委員会の外部の人たちに対してパレードへの参加を呼びかけたりせず、「パレード実行委員会」に参加している人たちだけが自分たちの意見を社会に訴えるためのパレードであったのなら、OCCURに準じた扱いになったかもしれません。特定の思想信条を持った人たちが、自分たちの思想信条を社会に訴えるパレードなのであったら、その思想信条の内容への批判はしても、パレードの名称変更を求めるという言い方にはならないと思います。
 しかし実際には、実行委員会メンバーではない外部の人に対して、パレードへの参加が積極的に呼びかけられていました。このパレードは「実行委員会のパレード」ではなく、コミュニティー全体の包括的なお祭りが目指されていたし、事実としてそうなっていました。だからこそ、様々なセクシュアリティーの人が実際に参加して歩いているのに、なぜそれを「レズビアン&ゲイ・パレード」と呼ぶのですか?、という問がリアリティーを持っていたんだと思います。

●名前だけが重要な問題なのではない

 実は海外でも、歴史あるグループや映画祭が、その歴史から、現在でも「レズビアン&ゲイ」を看板にしていることが時々あります。そして看板は「レズビアン&ゲイ」ですが、実態はLGBTやセクマイ全般を扱ったものであることがほとんどです。(この点が、OCCURとは質的に違います)
 実は私は、話をちゃんと詰めていくと、名称だけが絶対に重要な論点である訳ではない、と思っています。私が大切だと思う問題は、例えばその場が「同性愛者中心主義」になっているかいないか、ということだからです。(参考「日本人で健全者の同性愛者のパレード」
 例えば米国に「the National Gay and Lesbian Task Force」という大手のグループがあります。名前からして「Gay」が先に来ているところからも歴史を感じますね(一般に、男性中心主義に反対するという観点から、最近ではレズビアンを先に書くことが多い)。看板は「ゲイ&レズビアン」ですが、この団体は「バイセクシュアル」や「トランスジェンダー」に対する公的な方針を持っており、サイトにも載っています。せっかくなので、少し訳しておきます。

バイセクシュアリティー/Bisexuality

  • バイセクシュアルのコミュニティーは、他の人たちがLGBTの人たちを分断して抑圧してきた単純な二分法を拒否する。
  • バイセクシュアルの人たちは「狭く定義された『ゲイ・アイデンティティーの政治』」よりももっと包括的なビジョンを持っている。
  • バイセクシュアルの人たちは、LGBTの自由と平等を勝ち取るための闘いと不可分である。
  • 性別に関わらずお互いに愛し合うことが出来るという考え方を持っている点で、バイセクシュアルの人たちは、セクシュアリティーやジェンダー、人間関係についての基本的な前提に挑戦し、また問を投げかける。
  • もっと多くのLGBTが連携できるよう、the Task Forceは、社会の中のホモフォビア、性差別、人種主義、バイフォビアなど全ての性差別に立ち向かう。

 また、2005年にニューヨークタイムズに「バイセクシュアルは存在しない」というトンデモ文章が載ったときも、「バイセクシュアルについての固定観念を助長するNYTの記事を糾弾する」という見解をthe Task Forceは出しています。

トランスジェンダー/Transgender Issues

  • the Task Forceは、全ての仕事においてトランスジェンダーを含むものにするよう努力する。トランスジェンダー特有の問題について取り組むことは、全てのLGBTの人たちの自由と公正、平等を実現するために重要であると信じる。
  • トランスジェンダーの人たちは、今も、これまでもずっと、私たちのコミュニティーの一部だ。
  • トランスジェンダーの人たちを保護する市民権を確立する闘いは、ゲイやレズビアン、バイセクシュアルの人たちの自由と平等を獲得する闘いと不可分のものだ。
  • the Task Forceは、市民権、憎悪犯罪、および健康についての政策において、トランスジェンダーの人々を含むよう、私たちのコミュニティーの定義を広げるため、全国的な努力を行う。

 また、既に何度も引用していますが、このグループの代表は2004年にはトランスジェンダーを含まない『性的少数者雇用差別禁止法案』は撤回せよ」という自己批判もしています。

 そうなんです。これくらい話がハッキリしてさえいれば、会の名前が「ゲイ&レズビアン」になっていても、そんなに気になりません。こういう方針を公式に持つグループなのであれば、「なぜレズビアン&ゲイの場所に来て『バイセクシュアル』の話をしようとするのか」などという嫌がらせはあまり起きないでしょう。問題はそのグループの内実なんです。

※でも、米国でAセクシュアルの話がリブの文脈でほとんど出て来ないのは、なぜ?素直に不思議。
※おそらく私は、大手の団体である「the National Gay and Lesbian Task Force」とは意見が違うところが沢山あるはずです。なにしろ、米国LGBT運動の主流派の団体だしね(笑)そういうところでさえ、このレベルの事は言っている、というところが、この話のミソです。
 米国のメインストリームの運動については、例えば以下を参照下さい。
【米国便り7】カストロストリート
【米国便り11】ポートランドの「同性婚」
【米国便り12】Eugeneのプライド

macskaさんのサイトにも、メインストリーム(主流派)の運動のあり方に対する批判も含めて、いろいろ載っています。米国の情報について知りたい時には、とても参考になります。
チャイナタウンで美味しいお昼御飯♪じゃなくて、Creating Change 2005 レポート
急進派クィアグループ、米国最大のLGBT系コンファレンスに挑戦状
同性婚バックラッシュ/民主党内革命の希望

※「インターセックス」を「LGBT」に加えるべきかどうか、という話について、似たような話があります。
「LGBT」に「I」を付けくわえること:インターセックスは LGBT 運動の一員なのか?

●まとめ

 逆説的なような気がするのですが、例えば私が「レズビアン&ゲイ・パレードは、同性愛者優遇なので、良くないよね」と言った時に、「うん、そうだね。今の名前はおかしいね。来年は変えたいね」という反応ばかりという状況があったのであれば、別に名前だけ「レズビアン&ゲイ・パレード」でもよかったりもする訳です。
 でも実際は、永易至文さんのような古参ゲイ活動家が、無知であることも自覚できずに、典型的なバイセクシュアル嫌悪を披露しました。そういった同性愛中心主義の発言に対して、パレード実行委員会が「パレードの多様性に対する攻撃」「パレードを分断しようという間違い」であると永易至文さんを糾弾したり、公式に批判するということもありませんでした。また残念ながら砂川さんも素直に自分の選択の中に同性愛者中心主義の問題点があったことは認めていません。
 つまり、実はパレードの内部にも同性愛者中心主義を容認する雰囲気があることが、顕在化してしまったわけです。そのために、「名称問題」が一層の脚光を浴びてしまい、「レズビアン&ゲイ・パレード」という名称を改善するしかなくなったのだと思います。パレードの中にある同性愛者中心主義に反対するための過程として、名称の改善問題が浮上してきたのです。(一部の古参ゲイ活動家を除くと、パレード全体でみるなら、どちらかというと包括的で「みんなで平等に」参加できることが出来るようなものを目指していることは明らかなのですが。)
 ただ、実際に問題になったおかげで、いろいろと考えることができた人が沢山いるはずです。こうやって、少しずつ、コミュニティーも良くなっていくんだと、いつものように実感している次第です。

 ここまで見てきたとおり、実はパレードの名称問題の主要な争点は、名称それ自体、ではありません。そうではなく、パレードやコミュニティーの中にある同性愛者中心主義に対して、それに反対して改めていく立場に立つか、それとも同性愛者のワガママを容認するか、が問われていた訳です。
 そしてたまたま今回の場合は「名称をどうするか」がその争いの中心に来ました。
 実は、砂川さんが「レズビアン&ゲイ・パレード」を始める前の数年間は、全国的にも同性愛者以外の性的少数者が一層の可視性を獲得し、「レズビアン&ゲイ」という看板の問題点が認識され始め、団体名や企画名などに「レズビアン&ゲイ」を使うことがなくなりつつある時期でした。もちろんこれは、私にとっては意図していたことですし、また事実、コミュニティーの現実に根ざした変化でした。にもかかわらず砂川さんが、以前の同性愛者中心の看板である「レズビアン&ゲイ・パレード」をあの時期にまた懲りずに提案したという事情があります。ですので、名称自体の問題点が焦点化するのは避けられなかった、とも言えます。
 しかし、同性愛者中心主義に反対する立場に明確に立っているのであれば、「レズビアン&ゲイ」を看板にしたり、性的指向の権利の問題を中心にして運動することもまた、あり得ない訳ではありません。

 例えば、同性パートナーシップや同性婚の問題を、まるであたかも「同性愛者の問題」であるかのように扱うと、同性愛者中心主義だとして批判を受けることになります。
【「同性パートナーシップの保障」=「同性愛者の問題」ではない】
同性婚の映画「誓いますか?/誓います」コメント

 
 

 そして更に、どのようなグループにも、不充分な点があるのはいわば当たり前のことです。今回のもう一つの大きな問題は、その不充分な点を指摘されたときに、それにどう対応するかという点です。
 例えば「レズビアン&ゲイ」という看板に対して異議が表明された時。その異議の表明をグループに対する貢献であると扱うことが出来るかどうか。まずは異議の表明に対して感謝し、その人を含めた形で場を作り直すための努力をするかどうか。
 執行部や「呼びかけ人」に対する批判が「場に対する貢献」だと認識され、批判がが自由にでき、率直で風通しのいい話し合いが出来ているのであれば、あとはその場にいる人たちで丁寧に合意を創ればいいことです。
 会や企画の名称を変えるべきかどうかということは、そうやって一つずつ現場で話し合われ、同性愛者だけを優遇することが間違いだということが皆で納得され、合意が形成されていくことが大事なのであって、単に「レズビアン&ゲイ」という看板さえなくせばいい、という訳ではないのですから。
 
 


 

せっかくなので、以下は、個別のグループについてのレスです。
 
 

>レインボーマーチ実行委員経験者さんが立ち上げたNPO法人に
>「レズビアン」「ゲイ」という名称がついていることについて、
>「ゲイやレズビアンのいる場所には、バイセクシュアルも必ずいる。
>だから『レズビアン&ゲイ』という名称をつけるのはよろしくない」

>とおっしゃられてきたひびのさんは、どうお考えでしょうか?

 札幌の状況がよく分からない(例えば、現場の人たちでとことん話し合った上で「今は別々にやろう」と合意した可能性だってない訳ではない)のと、「NPO法人at」がどれくらいの規模のもので、誰がやっているのか、その基本的な方針など、分からないことばかりなので、ちょっといま判断が出来ません。
 
 

>「動くゲイとレズビアンの会」

 OCCURについては、会の名称が問題なのではなく、そもそも主張内容や目指している方向性自体に同性愛中心主義的な傾向があると感じています。もし私が意見するとすれば、名称ではなく、そもそもそういう方向性はどうなのか、例えば「OCCURはバイセクシュアルを常に同性愛者と対等に扱う気があるのか」「コミュニティーの中にあるバイセクシュアル嫌悪に対して、OCCURは主体的にどう取り組むのか」を問うという論点になると思います。
 
 

>東京国際レズビアン&ゲイ映画祭

 この映画祭の名称は、何より歴史に規定されていることだとは思います。
 また映画祭の場合、対社会的なメッセージのコンテンツは、映画祭の参加者であるお客さんではなく、映画そのものです。その点が、参加者一人一人が対社会的メッセージのコンテンツ/主体であるパレードとは質的に違います。
 また、「レズビアン&ゲイの映画」だけを上映するという方針が仮にあったとしても、その方針が民主的な手続きの中で決められているのであれば、そういう方針自体が不当である訳ではありません。政治を扱う場合と違い、表現の分野って、特定のテーマに絞ってこだわり尽くすことで何かを創る場合もあるからです。(逆に、お客さんを「レズビアン&ゲイだけに限る」とかしたら、「じゃぁ『バイセクシュアル』は参加できないのか?なぜ?」という話にはなると思います)
 更に、実際にはこの映画祭は、同性愛の映画だけを上映するという方針を持っている訳ではなく、例えばトランスジェンダーの映画も沢山上映してきました。なので、少なくともOCCURと同じような形での同性愛者中心主義は、この映画祭には感じません。
 もちろん私はそれでも「レズビアン&ゲイ」という看板自体が好きではありません。また、もっと同性愛以外の存在も積極的に顕在化させるアプローチをしたらいいのに、と思ってはいます。ですので、もし仮に私が東京の映画祭のスタッフになった場合には、おそらく名称の変更を提案したり、コミュニティー内部の多様性や少数派内部の少数派の問題についても、もっと積極的に取り組んでいこうと提案することにはなると思います。(名称を変えない場合には、the National Gay and Lesbian Task Forceのように、バイセクシュアルやトランスジェンダーについての公式な見解を出すことも有効かもしれません。)

(ただ「コミュニティー内部の多様性」と言っても、必ずしもバイセクシュアルやトランスジェンダーのことばかりではありません。例えば映画を集めるとき、自然と英語圏/欧米の映画ばかりが集まるというよくない傾向が一般的にはできてしまうのですが、去年の東京の映画祭は「アジアの映画」にこだわったプログラムラインナップでした。これも「多様性」です。実は正直、去年は「やられた!」と思ったのも事実です。上映する映画を選ぶときには、セクシュアリティー以外の要素も沢山関係するので、単にバイセクシュアルやトランスジェンダーの話をすれば済むという訳でもありません)

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