わたしがゲイフロント関西の役員をしていた最後の年(2001年)に、「ゲイ」を冠する会の名称の変更を要求して、会の中で議論をしていました。その議論の中で書いた文章です。組織のあり方や、会というものの性格、決定権やヘゲモニーについて考えるためにいい材料になると考え、公開します。

 もともとは、ゲイフロント関西で毎月発行されている会報「UP&UP(2001年3月号通巻86号)」にひびのが投稿した原稿です。改行を変更したり、個人名などを置き換えるなど、少しだけ手を入れています。(2003年11月掲載)

 

「ヒッピーの言っていることも分かるんだけど、それはなんか、中華料理屋に行ってフランス料理がない事に文句を言っているように思える」という意見について

 1月の運営会議で、ゲイ・フロント関西の将来についての話し合いが少し行われました(概略はUP&UP掲載の運営会議の報告でも読むことができます)。その中でわたしは、

「現在の私たちの会は、会則上の会の名称や目的などでゲイ男性のみをことさら特権化している。これまでの会内の話し合いの積み重ねでは、ゲイ男性の会を作るという話にはなっていないし、現実に会にはゲイ男性以外もたくさん参加している。だから、会則上の会の名称や目的を改正するべきだ。またそのために会内のゲイ男性は行動するべきだ」

などと主張しました。
 これに対し、Aさんから「ヒッピーの言っていることも分かるんだけど、それはなんか、中華料理屋に行ってフランス料理がない事に文句を言っているように思える」という意見を頂きました。この意見を私は、「ゲイの団体またはゲイのことをやる団体に来て、そもそもの目的外のことを要求しているように聞こえる」と言っているように理解しました。
 なるほど、そう考えている人も多いに違いない、せっかくだから、ちゃんと応えてみよう、と思い、返事を文章化してみました。
 文章化するという事は、

  1. 対面して口頭で話していると、雰囲気でごまかされた気になることがある。そういうことを避けやすい。
  2. 何度でも読み直し反芻することができるので、より正確に考えることができる。
  3. 自分の時間のあるときに考えることができる。お互いの時間を拘束しないで考えることができる。

    というメリットがあります。 しかし、同時に、

  4. 聞き手の表情や反応に直に応えることができないので、十分な説明を尽くすことが困難
  5. 直接対面していれば分からないことなどはすぐに聞いたり釈明したりして誤解を解くことができるが、文章だけだと誤解を招く危険性が高くなる

というデメリットもあります。そのデメリットを避けるため、誤解を受けないようにちゃんと書こうとすると、どうしても分量が多くなってしまいます。ということで、やたらと長文です。
 文章の長いのは苦手だ、という方がおられることは、承知しています(そう直接言ってくれた人もいました)。この長い文章を読むのが嫌だというのであれば、私としても直接口頭でお話しをさせていただければと思っております。ご連絡いただければ、お話しにお伺いします(日比野の宅配・交通費は出してね)。以下まで、お願いしますね。

E-mail (WEBでは省略しています)
tel/fax (WEBでは省略しています)
住所 (WEBでは省略しています)

日比野 真(ひっぴぃ ♪♪)


「ヒッピーの言っていることも分かるんだけど、それはなんか、中華料理屋に行ってフランス料理がない事に文句を言っているように思える」という意見について

■形式の話

1:そもそもの会の目的自体を変更できるものと考えることの是非

 もし私たちが、単なるお客さんでしかないのであれば、お店が自分の欲しいものを提供してくれない事に文句を言うのは「無い物ねだり」でしかないとも言えます。そういうお店にには行かなければいい、とも言えます。
 しかし、私たちの会が「中華料理屋である」と決めているのは一体誰でしょうか?それは他ならぬ私たちです。ゲイ・フロント関西の会員は毎年の総会で「中華料理屋」としての会の存続と運営を多数決で議決してきました。自分たちで「ここは中華料理屋である」と決めておいて、「ここは中華料理屋だからフランス料理の話をする場ではない」というのは、単に自分たちの内部(会内)における少数派との対話を拒否しているだけです。私たちは、ゲイ・フロント関西というお店の客ではなく、店長であり、株主であり、経営者であり、意志決定をする側の人間なのです。これは制度的にも、理念的にも、そうなのです。
 冒頭の例に例えるのであれば、私たちの会は南方に店舗を構えているお店なのですが、私の主張は、共同経営者として、または株主の1人として、このお店を繁栄させ存続させるために、メニューを改訂しよう(新しい料理を開発しよう、追加しよう、トッピングを変えよう)という提案、または、中華料理だけでなくフランス料理も提供する新しいお店としてやり直そう、という提案です。ゲイ・フロント関西の会員、その中でも特に運営委員(その中でも特に長くいる役員)は、お店側の責任者であり、現時点での経営者です。つまり、現在の時点で、このお店はどうあるのが一番望ましいのか、今ある店舗を最も有効・適切に使うためにはどういうお店をそもそも創った方がいいのか(どんな料理を出すかとか、閉店して別の場所でやり直した方がいいのか、分社・のれん分けした方がいいのか、、、)などということについて、一から考え、提案し、決める責任(と権利)を負っています。
 「そもそもゲイ・フロント関西はゲイのサークルとして創られたし、会則にもそう書いてあるし名称もそうなっているのだから」「私が入会したときは『ゲイ・フロント関西』だったのだから」という理由で、「『ゲイのサークル』というその目的自体に文句を言うのはおかしい」と主張することは、だから、誤りです。時代に取り残されず、存続と活発な活動を指向するのであれば、常に「現時点で」どういう会則・名称・目的を選択するのが最善かをあなた自身が自分で一から考えるべきです。
 現時点においても中華料理屋(ゲイのサークル)として営業(活動)するべきだと考えるのであれば、現時点でそうすることがいかに有効で効果的で必要であるかを改めて他の経営者(運営委員や会員)に対して説明する必要があります。そして、いま時点で、中華料理屋として今後も営業(活動)していこうと提案する際に、「7年前にそう決まったから」という理由を持ち出すのは、余りにも的外れです。

2:会内での話し合いの場において、現行の会則を根拠に「ゲイのサークル」を主張することの誤り

 いつも基本的なことを一から話し合うのは、時間もかかるしあまりに非効率的だから、会則という形で暫定的な合意事項が確認されています。
 しかしこれまでの数年間に渡る会内の話し合いを経て、当初「ゲイ」という言葉が会則に明記されていたアクションブランチはその言葉を削除して形の上でゲイの特権化をやめました。障害者ブランチはレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーを明示的に対等に扱っています。トランスジェンダーブランチの設立は、そもそもゲイの団体であるということをやめたという事と同じ事です。そういった積み重ねの中で、ゲイ・フロント関西は現実にミックスの団体として存在しています。そういった事実上の会のあり方の変更は、当然全て運営会議や総会などの話し合いと合意のもとで行われており、手続きも踏んでいます。但しもちろん、その時々で異論も出されていたのも事実です。
 こういった一連の動きで分かることは、現実には「ゲイのサークル」でいくのか「ミックスのサークル」でいくのかについての会全体の明示的な合意が実質的に存在しない、ということです。合意がないからこそ、ちぐはぐな状況になっています。様々な動きや問いかけが行われる中で、みんな色々考えてきた、というのが現実でしょう。会則というものはいつの時代にあっても暫定合意でしかないのですが、いまはその暫定合意ですら実質的には存在していません。そんな中で形式的に現行の会則上ゲイが特権化されているからといって、会の名称や目的の変更の提案を門前払いしようとするのは、単なる話し合いの拒否でしかありません。
 会則上は、会則の変更の提案がなされ、多数の支持により可決されたら会則が変更されます。私は、こういった手順自体が間違っているとは思いません。しかし、この会則を形式上尊重したふりをして、会則を変更するべきだと主張する者にのみ説得・立証責任を負わせている現状があります。これは、形式手続きを口実とした多数派の横暴以外の何者でもありません。

■内容の話

1:「ゲイ」とは必ずしも男性同性愛者のことではなかった

 以前Bさんがどこかに書かれており、Cさんも同意していましたが、ゲイ・フロント関西発足当時にゲイ・フロント関西で使われていた「ゲイ」という言葉は、必ずしも「性別違和のない健全者の男性同性愛者」と同義だという合意があったわけではありません。実際今でいうならゲイではないDさんも居ましたし、会の代表であった森田さんも「性別違和のない健全者の男性同性愛者」ではありませんでした。時代や社会的認識としても、ゲイ・インターセックス・トランスジェンダーそしてバイセクシュアルを厳格に分けるような余裕は、どこにもなかった、とも言えます(レズビアンは別という感じはあったらしい)。その意味で、発足当時に使われていた「ゲイ」という言葉は、そういった様々な性的少数者を含むニュアンスを持っていました。
 従って、ゲイ・フロント関西は「ゲイのサークル」として発足しましたが、その意味しているところは「性別違和のない健全者の男性同性愛者のサークル」ではありません。当時の意味に忠実に解釈するのであれば、ゲイ・フロント関西は元々始めから様々な性的少数者の団体として発足しました。そのサークルの位置付けを、「性別違和のない健全者の男性同性愛者のサークル」というように変更するべきだという主張は、これまでに全くなされていません。
 どのような言葉が使われていたかという形式的な問題を離れ、どのような意味を実際は持っていたかという現実から考えるのであれば、「ゲイ・フロント関西は性別違和のない健全者の男性同性愛者のサークルである」と主張するのは歴史的に誤りです。むしろ「ゲイ・フロント関西は性的少数者の団体である」と表現する方がどちらかといえば歴史に忠実だということになります。その意味で、「ゲイ」という言葉が「(性別違和のない健全者の)男性同性愛者」のことを主に指すようになった現在では、「ゲイ・フロント関西はゲイのサークルである」と表現するのは、裏技を使って(言葉の意味が変わったことを利用して)サークルの位置付けの意味をすり替える行為だとも言えます。
 ゲイ・フロント関西は、そもそも様々な性的少数者のサークルとして発足したのだから、いまさらそれを(性別違和のない健全者の)男性同性愛者のサークルだという風に位置付けを変えようとするのはおかしい。こういった言い方の方が歴史的にはどちらかといえば正確です。(しかしもちろん、私はこういった理由で何らかの主張をしているのではありません。なぜなら、もともとがどうであったとしても、それは現在もそうであるべきだという根拠にはならないからです。「今の時点でどうあるべきか」について、一から検討することこそが大切だ、ということは、「1:そもそもの会の目的自体を変更できるものと考えることの是非」で書いたとおりです。)
 冒頭の例えに戻るなら、中華料理屋として始まったお店が長年営業していく中で、これまで中華丼と餃子しかメニューがなかったところに、そういえば天津飯やラーメンも中華なんだからメニューに加えよう、これまではお客の要望があったときだけ特別扱いで天津飯も作ってきたけどこれからはちゃんとメニューにも載せよう、という話をしているだけです。つまり、バイセクシュアルやトランスジェンダーや障害者の話は、決してフランス料理ではないのです。「美味しい中華丼と餃子の店『中丼餃子屋』」というお店の名前を、「美味しい中華の店『中華何でも屋』」に変えようと言っているだけなのです。天津版を食べたくない人にとってはどうでもいい問題でしょうが、天津版をこそ食べたいという人にはとても重要なテーマなのです。

2:そもそも始めから力関係があった

 様々な性的少数者が参加していたにも関わらず、サークルの名前に「ゲイ」という言葉が冠されたという事実からも明らかなように、以前も今も、ゲイ((性別違和のない健全者の)男性同性愛者))は性的少数者の中では抜きん出て大きな力を持っています(別にそれが必ずしも悪いと言っているのではないよ)。
 もしくは、言い換えるなら、「ゲイ」という言葉が様々な性的少数者のことを意味していたにも関わらず、そういった様々な性的少数者の中では性別違和のない健全者の男性同性愛者が最も力を持っていたために、性別違和のない健全者の男性同性愛者に比べて力を持っていなかったものたちは自分たちの特徴を顕在化させる必要に迫られ、これまでに使われていなかった言葉を創り出す羽目になりました。
 「ゲイ・フロント関西」という会の名称が、会の発足時に採用された理由としては、こういう事情もあると私は考えています。だからこそ、なおさら、「そもそもゲイのサークルとして始まったんだ」ということを理由として現状を肯定しようとする行為は、性別違和のない健全者の男性同性愛者が持っている力をかさに着た行為に私には思えます。

■補足

1:これまでの場のルールや、その場で力を持っている者の意志にはそもそも従う必要はない

 私たちの今の社会では、一人一人の人が主体性をとても奪われている、と私は考えています。私たちが社会や状況を創り・変更する主体であるという意識は学校教育の中で徹底的に奪われ、管理される客体、まぜてもらう、入れてもらう、いさせてもらう受け身な客である、という意識は、ほんとうに様々なところで植え付けられています。
 学校での制服の強制に私が反対して制服制度廃止運動をしていた時によく出会った屁理屈が、「制服があることが分かっている学校に入学したんだから、文句を言うな」というものです。この話には、私は、「そもそも学校は、生徒が成長することを目的とした場所である。従って、制服がないほうが生徒にとってよいのであれば、廃止するのは当然」「服装の自由は表現の自由であり、基本的人権である。基本的人権を侵すきまりはそもそも不当なので、どこでだれが決めてもそれを無視する権利があるし私は無視する」などという趣旨で反論し私服登校をしていました。しかし、現実には、こういった場合に諦めてしまう人がほとんどでしょう。
 職場の賃金や労働条件にしても、そうです。それらは本来、労使の対等の交渉の上で決まるべきものですが、現実にはほとんど経営者の言いなりです。「決められた賃金が嫌ならやめればいい」といって現状を追認するのではなく、力を持った者(経営者)と闘って賃金を上げさせればいいのです。「セクハラが多いのだったら、辞めたら?」という助言は、外部の人が個人的にする限りで妥当なことも多いですが、同じ職場の人が被害者に対してそう発言することは、セクハラのある職場の現実に加担する(加害者を擁護し、被害者に黙らせる行為。セカンドレイプ)です。欧米では労働者のストライキなどを背景に厳しい交渉がしばしば行われ、会社の経営方針にも労働者の意見は大幅に入ってきています。
 世の中、強い力を持ったものたちのわがままがまかり通り、あまりに理不尽なことはたくさんあります。文句を言って、状況がよくなるということを想像するのは、とても困難な中を私たちは生きています。だから、おかしなルールがまかり通り場所からは、逃げる・立ち去るという選択をすることに私たちは慣れすぎています。そういった行動様式が身に付いてしまっているため、今度は逆に自分が権力を持ったときには、「嫌なら出ていけばいいじゃないか」「文句があるならわざわざ言っていないで、来なければいいじゃないか」などと、自分がされたことと同じ事を少数者に対してしてしまいがちです。こうやって私たちは、マジョリティーの文化の共犯者になっていきます。
 しかし、考えてみてください。府中青年の家裁判で問題になったことはなんだったんでしょうか?東京都は単に従来通り男女別室ルールを厳格に適用しただけのことです。形式的に「これまで通り」にしただけのことです。アカーの主張は東京都の「いつもの基準」によって門前払いされました。文句があるのなら東京都知事に自分がなればいいじゃないか、選挙で勝ってから文句を言ってみな、煎じ詰めれば、東京都の態度とはそういうものでした。教育委員会でも正式に話し合われ、アカーが宿泊できない理由も明示されており、形式上の民主主義には則っており、その点では全く問題はありません。そんなとき、「形式手続き上は問題がないから、東京都のやっていることには問題がない」と言いますか?アカーに対して、「そんなところで争うよりも、他の泊まれるところを探したらいいじゃない」とあなたは言いますか?事実、他の民間施設を探すことは不可能なことではなかったはずです。また、自分たちが同性愛者だとカムアウトしなければ、わざわざ名乗り出て市民としての対等な権利を主張さえしなければ宿泊できるんだから、いちいち権利を主張しなくてもいいじゃない、とあなたは言いますか?
 そもそも、府中青年の家を「異性愛者の青少年の健全育成」という目的で運営する事自体が間違いだったのです。施設の設置者が、自分の好きな利用条件を設けて任意の利用制限をする事自体、そもそも許されないのです。
 これまでの歴史や積み重ねがどうであろうと、相手が形式手続きを守っているか否かには関係なく、あなたや私は「いま・ここ」にいる権利があるのであり、理不尽な理由で立ち去ったり逃げる必要はありません。それだけでなく、「いま・ここ」で対等に扱われることを場にいまいる人たちに課すことさえも、全ての人の基本的な権利です。

2:説得責任は誰にあるのか

 私がゲイ・フロント関西に入会したときから、会の名前は「ゲイ・フロント関西」でした。その意味では、私は、「入会時点では」ゲイ中心の会の運営に、同意していました。
 だからこそ私は、なぜゲイ中心の運営を望まないのか、なぜ現状は変革されるべきなのか、なぜ現状のまま維持することが非現実的で得策でないか、といったことについて、極めて精力的に発言し、表現してきました。現状に不満を持つものが真っ先に声を上げ、主張し、自分の意見を他の人たち、現状に違和感や問題を感じていないものたち(これを多数派/マジョリティー/権力者という)に伝えるのは、必要なことだと私は思っていますし、そうしてきました。しかし、そういった「少数派による多数派に対する説得責任」というものを私が認めるためには、ある条件が不可欠です。それは、現状に違和感や問題を感じていないものたちが、少数派の意見に積極的に耳を傾け、自らすすんで対話し、自分のやりたい事自体を問い直す勇気を持っている場合に限ります。言い換えると、現状に違和感や問題を感じていないものたち・多数派が、現状を維持するために、現状のような選択を「現時点においても」なぜした方がいいのか、なぜそう考えているのかということについて、現状に違和感をもつもの(少数派)に対して説得責任をすすんで負っている場合に限ります。
 たまたまであれ、自覚的に選択してであれ、現状に違和感や問題を感じていない人は多数派の位置にいることになります。そして、少数派の立場のものだけが一方的に説得責任を負わされることを、私は「差別」とか「不当な権力関係」と言います。
 現状を変革しようという者だけが一方的に説得責任を負わされてはなりません。現状のままでいいと考えているものたち(多くの場合に多数派を形成しています)が変革に納得しない限り現状が維持される、という事実こそが、権力と差別の発生の元になります。現状を変革するべきであると主張する者が現状の維持に納得しない限りかならず変革は行われる、というまでいくと行き過ぎですが、現状を維持しようと考える者が、変革を求める者に対して「なぜ現状が維持されるべきであると考えるか」の説得と説明を自らすすんで行おうとしないことは、既得権の上にあぐらをかく傲慢な行為です。
 現状を変えたい、現状には不満がある、そう思う者は、声を上げ、他の仲間を説得することが必要です(そういったことを自分の時間とリスクを支払ってすることはしないで、ただ文句や愚痴を言うことには、私は全く共感しません)。それと同時に、現状に不満がない者は、現状に不満のある者の主張の内容について、応答する義務があります。あくまでも現状を維持するべきだと考えるのであれば、現状を維持するべきであるということを積極的に主張し、現状を変えるべきであると主張する者を説得する必要があります。
 説得責任・立証責任を負わされている方が損をする、ということは、社会的な経験を積めばおそらく多くの人が気がついていることだと思います。言い換えれば、説得立証の責任を負わされている人がいる、という事実こそが、そこに権力関係があることを意味しています。具体的な例に引きつけて言えば、例えば、ゲイだとカムアウトしないと(自分がゲイであると相手に対して立証しないと)ヘテロであるとみなされて扱われる、自分が男であるとカムアウトしないと(「実は性同一性障害があってホントはぼくは男なの!分かって!」)勝手に見かけや法律上の性別を根拠にして女扱いをされたり「彼女」と呼ばれたりする、などですね。自分が説明したら分かってくれた、よかったよかったという話ではありません。そもそも、本来は対等な意見の違いでしかないはずなのに、一方は自分の勝手な思い込みを相手に押しつけ、カムアウトがない限り相手にも自分の世界観を押しつけて安心していることができる。そういう立場のことを、マジョリティーというのです。
 様々なリベレーションの、人権や平等という考え方の運動の目的は、自分がマジョリティーになることではありません。自分が成り上がって、権力を持って、自分が説得責任を負わなくてもいいような地位と権力を手に入れようとすることは、あまりに情けない行動です。「人権」とか「平等」などといった社会的な言葉を語って、「みんなにとって大切なことだ」と嘘をついて、政治的主張の正当性を口実に利用して、自分の成り上がりをする行為は、「人権」とか「平等」などといった社会的な言葉の価値をおとしめ、社会運動そのものへの不信感をつくり出す行為であり、誤りであるだけでなく、害悪です。

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