**注釈

(**注1)「京都大学・同和・人権問題委員会」が99年春に全学生に配布した文章には「性的指向による不当な差別や人権侵害のない環境を作ってゆかねばなりません」との記述がある。また、「相手の性的指向をとりあげて、相手が返答に窮するような性的または下品な冗談を言ったり、からかったりすること」などが、「相手方の意に反する性的な言動を行なうことにより、就学、就労、研究、教育の環境を損なう環境型セクシュアル・ハラスメント」であると具体的に書かれている。(出典:[aml 11267] 京都大学のセクハラ防止対策。amlについては「http://www.jca.apc.org/~toshi/aml/intro.html」参照)

(**注2)一部の同性愛者は「同性愛は生まれつきだ」「性的指向は一生変わらない」「同性愛は趣味ではない」「同性愛は選択できない」などと主張している。しかし、「私は同性愛を選択した」「性的指向は趣味の一つだ」「性的指向は時期によって変化する」と主張している人はコミュニティー内にも存在する。どちらの言い方にもそれぞれの理由があるのも確かだが、その対立もまたシビヤでもある。有名人の書いた本を丸飲みしてはならない。自分で考えて、あなたの自前の結論を見つけることこそが大切だ。

(**注3)バイセクシュアルについては、ゲイ・フロント関西発行「ポコアポコ12号・特集「『バイセクシュアル』である/ない、ということ」を参照。例えば、ゲイ・フロント関西やQFFの中にも「バイセクシュアル」はいるが、企画名や団体名には「レズビアン・ゲイ」は明記されることはあっても、「バイセクシュアル」が明記されることは極めて少ない。これは「国際レズビアン・ゲイ連盟(ILGA)についても同様。このことは、「バイセクシュアル」の置かれる位置と扱われ方を示唆している。

(**注4)性別はプライバシーであり公的な場で安易に人に聞くのはプライバシーの侵害。また性別欄の存在は性別によって異なる取り扱いを行うことを暗黙のうちに示唆する行為であり性役割の強制・性差別である。しかも、男と女の二つの性別しか認めず「第3の性別」「中性」や「半陰陽(インターセックス)」「間性」を認めていない。また、ある場所を「男/女」用に二つに分ける行為は、その二分が可能だと考える背景には、体の性別(sex)と見かけの性別(gender role・服装や仕草などの性役割)、心の性別(gender identity・性自認)の三者の一致を前提とする考え方がある。従ってその思想(イデオロギー)の社会的表現物であるトイレや銭湯は、全ての人に対して様々な性別の一致を強いる暴力装置に他ならない。(参考:ゲイ・フロント関西発行「ポコアポコ12号」収録・「『女?男?いちいちうんざり!』と言い続けていくために必要不可欠な主張」

(**注5)行政などの公的機関に出す書類については「いかなる場合においても元号の使用は強制されない」ということが「元号法」制定時に国会でしつこく何回も確認されている。実際私も、願書に「西暦で記入してはならない」と明記されていた共通一次受験願書や、マークシート式で生年月日を記入するようになっていて西暦の欄がない運転免許試験、パスポートの申請、その他様々な書類を全て西暦で通してきた。ほとんどの場合「こんな事をする人は初めてだ」と言われて一人別室に通され、「これでは受理できない」「お願いだから書き直しをしていただけないでしょうか」などとしつこく言われるのだが、頑として「このまま受理せよ。私は天皇制を廃止するべきだと考えており、元号の強制は私の思想の自由に対する侵害だ。元号法制定時に元号の強制はしないと決まっている。本庁に問い合わせなさい。もし受理しないのなら訴訟を起こすので、あなたの名前と職責、そして不受理の理由を文書にして交付せよ。私は必ず勝つので、その際は交通費も出すように。私は絶対に書き直さない。」と場合によっては30分から1時間以上言い続ければ必ず受理される。なお、私は別にクリスチャンではないが、現在の日本においては「天皇制を廃止するべきだ」ということを表現することが、「キリスト教文化圏による文化侵略は不当だ」という事を主張することよりも「比較的」重要だと考えているので、私は西暦を使用している。

(**注6)ソープランド、遊郭、ストリップ劇場、ウリ専など様々なところで性的なサービスを提供することで賃金を得ている労働者は、売春防止法、刑法、青少年健全育成条例、風俗営業法などの法律によってその仕事が違法とされ、また様々な規制を被っている。時々見せしめのために逮捕されている。それだけでなく、売春者であるということで社会的な差別意識に基づいて暴力を受けることも少なくない。裁判所でも、売春者であるということを根拠として性暴力を受けるのはやむを得ないと判断されるなど、性労働者は日々暴力の中を闘いながら生き抜いているとも言える。また性労働者の多くは、社会的にある性労働に対する差別意識や偏見などによって、自分の仕事のことを友人や恋人、親などに話すことができず、孤立を余儀なくさせられている(人もいる)。(「買売春について」も参照して下さい)

(**注7)友達とやっているサークルのような小さなものであれ、クラスや職場といったものから京都府や日本といった大きなものに至るまで、趣味や意見の異なる複数の人が対等に何らかの目的のために集まった(ことになっている)る「社会(公的な場・グループや組織など)」をつくる場合には、ある人物に関して、「個人的に好きか嫌いか」ということと、「言っていること、やっていることが正しいか間違っているか」ということを分けて考えることが、とても大切です。つまり、「個人的には趣味が合わなくていけすかない(好・悪)」けれども、「言ってること、やってることは正しい(当・不当)」ような人と、共同で何かをし、「社会(公的な場・グループや組織など)」の在り方について合意をつくり何らかの決定をしていくことは、様々なレベルで必要なことです。例えば具体的には、「個人的には会話を交わしたくないし、顔も見たいと思わない」けれども「お互いが対等な会議において、言いたいこと言い合ってプロジェクト(合意)を作ってゆく」というようなことです。「社会(公的な場・グループや組織など)」においては、その人に対する好き嫌いとは関係なく、「ある目的について」共同作業をすることが大切なのであり、「メンバー同士が仲良くなること」は二次的結果的に起こりうるおまけでしかありえません。それに比較して、公的な性格・公共性(つまり、趣味や意見の異なる複数の人が対等に何らかの目的のために集まるということ)を持たない私的な「仲良しグループ」は、「メンバー同士が仲良くなること」をこそ目的にしている人の集まり方です。こういった「仲良しグループ」のほうがたいていの場合は居心地がよく、本当は公的であるはずの「社会(公的な場・グループや組織など)」が、いつのまにか「仲良しグループ」に変わってしまうことは、そんなに珍しくありません。しかし「仲良しグループ」が何らかの社会運動をする場合には、自分が友達を作るために、何らかの社会的正義の実現を口実にすることになります。また「自分の居心地の良さ」こそが目的ですので、「嫌いな人」「趣味が違う人」「意見が対立する人」は当然のごとく排除されることになります。そういう運動団体が権力を持つことほどこわいことはありません。

(**注8)QFFのメンバー募集・オリエンテーションの際に全参加者に配布されるQFFの公式資料である「QFF'99」の3頁に鬼塚哲郎さんの署名で「L&G映画祭そしてQFFはどうやって生まれたか」という文章が掲載されています。そこでは映画祭開催に至った背景として、1:東京での映画祭開催の実績と、2:京都の「アートスケープをめぐるもの」という2つの大きな流れがあったと書かれています。この文章の半分以上が「アートスケープ(**注10)」における個人的な経験で埋められており、読む者には、あたかもQFFや関西での映画祭がアートスケープの人脈を中心にして、「アートスケープ」の活動の中から生まれたかのような事実に反した認識を与えるものとなっています。しかしQFF発足時のメンバーであり、当時は運営副委員長でもあった日比野には、この様な誤った歴史認識を植え付けQFFを「アートスケープ」の元に囲い込む宣伝には、事実で反論していく必要があるように思われます。
 実際は、例えばQFF発足直後に作成された95年12月14日付けの名簿によれば、肩書き欄に一番たくさん登場してくる団体の名前は「プロジェクトP」です。その他にも、「アートスケープ」とは何の関係もない人たちが何人も参加していました。そしてそういった人たちの全てが、別に「アートスケープ」の活動や人脈に惹かれて来たのではなく、「映画祭をやりたかったから」集まってきたのに過ぎません。「アートスケープ」の人脈が映画祭には不可欠であり、QFF内で最大の権力/ヘゲモニーを握っていたのは確かですが、それと全く同様に、「アートスケープ」とは全く関係のない様々な人たちが何人も必要不可欠な関わりをしていました。「アートスケープ」での個人的経験やそこでの様々な活動の動きの「外部に」いる人たちが大勢参加し、少なくとも形式的には「アートスケープ」の私的な人脈の拡大に利用されるものではないものとしてQFFがつくられたからこそ、映画祭はそれなりに開かれたイベントとして多くの人に認識され、成功を収めたのです。実際、一番初期に対外的にQFFとして使用していた企画書にはこう書かれています。

『東京国際レズビアン&ゲイ・フィルム&ビデオフェスティバルin京都・大阪(通称クイア・フィルム・フェスティバル)』は、これまで東京で行われてきた『東京国際レズビアン&ゲイ・フィルム&ビデオフェスティバル』の事務局と、関西をベースに活動する団体OGC、OLP、AIDS Poster Project、プロジェクトP、Art-Scape、ゲイフロント関西のメンバーおよび個人の共同作業によって開催する映画祭です

つまり、「アートスケープ(Art-Scape)」は数多くある関連団体の一つに過ぎません。
 しかし残念ながら、こういった様々な立場の個人や団体が対等に参加して運営するというルールは実際にはあまり守られず、QFFの公式会議以外の場所で、「アートスケープ」によくいるメンバー間で個人的に交わされた会話でしかないことがいかにもQFFの意向であるかのように押しつけられたりということが多くあり、私は見切りを付けてQFFへの参加をやめました。そして聞くところによれば、現在のQFFにも、最近になって新規に参加をした「アートスケープ」とは何の関係も興味もない、単に映画祭をしたいだけのQFFメンバーが何人もいるのですが、いまだにQFF公式ホームページには「QFFが『あーすけ(注・「アートスケープ」のこと)』コミュニティに存在することに変わりはありません。」という記述がみられます。(注・2000年1月現在はこの記述は削除されています)「アートスケープ」中心の誤った歴史認識の宣伝をQFFが公式に行うといった在り方と同様に、QFF内の一部メンバーでしかない「アートスケープ」メンバーの個人的な都合や趣味が、他のQFFメンバーに押しつけられ続けています。体質は以前と何も変わっていません。私がこれまで発言してこなかったのは「レズビアン・ゲイ映画祭は必要だ」との思いからです。しかし、こういったQFFの体質、「多数派や権力を持っているものの個人的な都合や経験でしかないものをあたかも全体の意向であるかのように振る舞い全体に押しつけるやり方」、これこそが強制異性社会の中の多数派の流儀と論理に他なりません。(単に多数派でしかないはずの異性愛者の都合が全ての人に押しつけられ、全ての人が異性愛者である事を強いられたり、異性愛者でないマイノリティーがカムアウトを強いられたりします)「レズビアン・ゲイ映画祭」という名前を使用しようというのであれば、こういった現在のQFFの在り方こそが、まず最初に俎上に載せられなくてはなりません。
 第3回レズビアン・ゲイ・パレード実行委員会がパレードを私物化しようとしてコミュニティーにそっぽを向かれたこと(**注11)を思い出して下さい。QFFにおいて一部の「アートスケープ」メンバーが行っていることは、パレード実行委員会のやっていたことと何ら変わりありません。パレード実行委員会のやり方は「男ジェンダー」の手法による権力掌握の試みですが、QFF内の話は「女ジェンダー」のやり方でそれをやっているに過ぎません。

(**注9)今年の映画祭パンフレットの「協力者およびスタッフ」のページをみて下さい。一人(日比野 真)を除いてローマ字表記になっています。他の人は全て、ローマ字表記を望んでいたのでしょうか。実は私は数年前からこの問題点を指摘し、少なくとも私の名前を掲載するのであれば私の希望する表記法で記述することを求めてきました。昨年まではずっと完全に無視され勝手にローマ字表記をされてきましたが、今年はあまりにも腹に据えかねた私の強硬な抗議により、やっと、私の名前だけは私の希望する文字種で記述されるに至りました。しかし他の人にはローマ字表記を強いたままですし、過去に私の名前に対して、つまり私に対して失礼で強権的な態度をとってきたこと、名前の自己決定権を侵害し続けてきたことに対しては何の謝罪もありません。名前は、いうまでもなく本人以外が決定することはできません。そして、名前は、それが記述される文字の種類にも意味があります。「Hibino Makoto」「Makoto Hibino」「日比野 真」「ひびのまこと」「ヒビノマコト」は、もし本人がそれを使い分けていたり文字種に意味を見いだす人であるのであれば、それぞれが別の意味を持つものです。例えば映画祭パンフレットの3ページの左端の広告を見て下さい。「UNITED ARROWS」「AOL」「ABSOLUT VODKA」はロゴとして名前が扱われています。「UNITED ARROWS」は「ユナイテッド アローズ」ではないし、「AOL」は「aol」ではありません。字体としてローマ字を、大文字を使うことが広告主の意向であるからこそ、そうしているのです。文字種やその配置、文字の大きさにまでアイデンティティーが存在し、表記法にも自己決定権がおよぶということは、パンフレット作成者も知っているのです。分かっていてここ数年間私の抗議を無視してきたのはなぜなのでしょうか。
 ついでにいうなら、「国際」映画祭を名乗るのであれば、日本語を第一表記とした上で、次に来るべき言語は韓国語(朝鮮語)であるべきだと私は考えています。アメリカ合州国が世界最大の帝国主義国であるという事実、その植民地として今の日本があるという事実などから、英語が現実に多く(権力を持つものたちによって)使われているというのも現実ですので英語表記もあり得るとは思いますが、それは少なくとも日本語表記があった上でのことでしかありません。

(**注10)アートスケープ」が何者であるかは直接関係者に聞いて下さい。私もかつてはいくらか縁があり、何回か顔を出した私の個人的な印象では、そこが閉鎖的な単なる仲良しグループ(**注7)であり、私的ネットワークであって、誰でも参加できるような場所やネットワークではありません。逆に言うと、これまでに何人もの人がそこから排除され閉め出されてきたという事を意味します。「誰でも参加できる」様な雰囲気を「APPペーパー」などでは醸し出していますが、それは「アートスケープ」に「まぜてもらう」という卑屈な態度を自ら進んでとる者に対してだけです。あ、あと既存メンバーに個人的に気に入られた人もOKかな?いずれにせよ、立場や考え方の違いを認めあって様々な人が対等に関係をつくることのできる場所ではないという印象を私は持っています。以上は私の経験を元にした印象ですが、あなたにとってはどう感じられるのでしょうか?

(**注11)詳しくはプロジェクトP発行の「第3回レズビアン・ゲイ・パレード資料集(500円)」参照のこと。WEB版もある「http://barairo.net/special/3rdParade/」。

(**注12)今回、「レズビアン?ゲイ?バイ?ヘテロ?......?生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトP」「ホモフォビアと闘うための講座」「変態左翼活動屋」「変態生活舎」に対するブース出店のお誘いがQFFから私のところに郵送されてきました。この4団体の選択がどのような基準で決まったのかをQFFに私が問い合わせたところ、

「現時点でQFFは『公益を目的とする』団体ではなく、これまでの私的なコネクション>やコミュニケーションをもとに呼びかけをしていますので、特に基準はありません。」

とのお返事が帰ってきました。この件について再度に質問したところ

「現時点で、QFFでは『社会公共の利益。広く世人を益すること』を目的とするよりも、メンバー個々人が『自分(たち)が主体的にあるような映画が観たい! 自分(たち)がまず楽しめるお祭りの場が欲しい!』というような欲望を達成するために運営がなされております。」

という回答(抜粋)をQFFから戴きました。これは、公的な運営をする意志がない、自分の趣味のためだけで映画祭をやっている、と言っていることになります。しかし現在もQFFは自らをNGO(非政府組織)だと公式に文章で名乗っており、「レズビアン・ゲイの映画」などという理由で映画祭の寄付金を集めるなど、いかにも公的な、関西の性的少数者のコミュニティーに支えられた「お祭り」として映画祭を実施しているような外見をつくっています。しかし問いつめていくとこのように「『公益を目的とする』団体ではない」「自分(たち)がまず楽しめる場をつくりたくてやっているだけだ」と開き直るというやり方は、嘘をついて一般大衆を騙す行為であり、正しくありません。映画祭が「公益を目的としていない」「公的な団体ではない」と開き直るという事は、例えば「私たちはバイセクシュアルが嫌いだ」「SMは気持ち悪い」「○○さんは私をふったから会いたくない」「○○という団体が来ると私は楽しめない」という個人の趣味「だけ」を理由として、バイセクシュアルやSMの運動団体、一部の人や団体などをQFFや映画祭から排除することがあり得るという事を意味します。例え関西で精力的に活動する活動家であったとしても、既存のQFFのメンバーと個人的にウマが合わないような人、例えば「アートスケープ(**注10)」が大嫌いな人は、ただそれだけの理由でQFFに参加すること自体がしにくいとか居づらいということにもなりかねません。(というのも、実際にQFFのホームページには「QFFが『あーすけ(注・「アートスケープ」のこと)』コミュニティに存在することに変わりはありません。」と書かれてさえいます。)仮に誰かからそのことを批判されても、「QFFは自分たちがやりたいことをやっているだけだ。何であなたに理由を説明しないといけないの?何で趣味が違うあなたを入れなければいけないの?」と言ってしまえばそれで終わりだということになるのです。(こういう団体のことを私は「単なる仲良しグループ」と呼びます。)そして実際、「バイセクシュアル」や「SM」の団体がレズビアン・ゲイ・パレードから排除されたりする事態が現実に米国では起きており、これは決して杞憂ではありません。もし映画祭が、関西の性的少数者のコミュニティーに支えられた文字どおりの「お祭り」としてあろうとするのであれば、QFFは公的な団体として作りなおされねばなりません。