「男ジェンダー」とホモフォビア

ぽこあぽこ Vol.10

特集:リベレーション  アクティビスとがゲイリブを離れるとき?/そして、映画を作ることがリベレーションになった!/同性愛は「趣味」でも「嗜好」でもない!/セルフヘルプグループとしての役割機能について/「男ジェンダー」とホモフォビア/アクティビスとに花束を  ほか

 B5版 140ページ リソグラフ印刷  

 1998年4月1日発行

 発行:ゲイ・フロント関西

 価格:500円



「男ジェンダー」とホモフォビア

 日比野 真

■はじめに

 なぜ今日、男性であると思われる人たちの間で親密なもしくは性的な関係や行為を持つこと(以下「男性であると思われる者たちどうしの関係」とする。**注1)が「気持ち悪い」とされるのか。今一度その理由を考えてみたいと思います。もちろんいつの時代にも「ホモ嫌い」の人はいた/いるだろうし、確信犯的な「ホモ嫌い」全員を「ホモ嫌い」だという理由だけで強制収容所に入れることなどはできないし、できてもすべきではありません。しかし、歴史的にみて、時代によっては、「男性であると思われる者たちどうしの関係」がごく当たり前のものとして大多数に受け入れられていた時代があったというのであれば、今を生きる私たちも諦める必要はないのです。「同性であると思われる者たちどうしの関係」や同性愛に対する嫌悪感や恐怖感、つまりホモフォビア(**注2)の原因をはっきりさせ、私たちやそのほか多くの人たちが、周りに対して表現し訴え、共に考え続けていくことによって、今よりもはるかにホモフォビアの少ない社会をつくることは可能だと私は思うのです。ホモフォビアをもったままの社会の中に媚びを売って居場所を探そうとするのではなく、心の中に高い壁をつくって何者にも侵される危険のないホモの独立国をつくるのでもなく、今の社会の直中においてホモフォビアの原因をちゃんとつきつめ、それと闘い続けていければと私は思っています。
(なお本稿は、男の問題に固執して書いてあります。女性の中におけるホモフォビアや「女ジェンダー」の影響などについては一切触れられていません。また、「男ジェンダー/らしさ」「女ジェンダー/らしさ」とは社会的な役割の問題であるので、実際に生きている1人1人のことを考えれば、それを比較的多く身につけている者もそうでない者も、両方ある者もない者も、その他も考えればいろいろです。また人種/民族などによってもジェンダーの中味が違うと考えられますが、本稿は日本人(**注3)男ジェンダーを扱っていることになるのでしょう。ん〜ほんとかなあ?)

■「男らしさ」とは何か

 事実として、現在の日本(**注3)では、一時的にしろ恒常的にしろ、公然と「男性であると思われる者たちどうしの関係」をもつことは他の男性から嘲笑されることが多くあります。それどころか、「(車が)オカマ掘られた」などのように、「オカマ=受動的なアナルセックス=嫌なこと」は慣用句にまでなって日常的な光景として攻撃にさらされています。
 ではどうして、男であると思われるものどうしの親密な関係が、そして受動的なセックスが、こんなに多くの男達の動揺を引き起こすのでしょうか。

 ここで少し、「男らしさ」について考えてみます。
 実際は、「男らしさ」がなんであるかについてどこかに定義があるわけではなく、今を生きる私たち1人1人がなんとなく勝手にそう思っているに過ぎません。厳密な合意などどこにもありません。そもそも「男/女」の性別二元論自体が一方が他方を支配するためのイデオロギーに過ぎず「男ジェンダーは存在しない」と言うこともできます。しかし実際に、多くの場合、私たちの多くは男と女を区別しており、また区別できると思っているのも事実です。もし仮に、生物学上の性別(sex)やジェンダー上の性自認(gender identity)が生まれつきのものであるとしても、また、性別二元論がそもそも恣意的かつ不要なものであるとしても、現在の日本において社会的に男/女にどのような役割が割り当てられているか(gender role)という問題は、私たちが自分のことを考える際には、そして私たちがどのような社会をめざすのかということを考える時にも有効なものだと思います。
 というわけで「男ジェンダー」について考えてみたとき、つねに強く正しくあらねばならない、弱音を吐いてはならない、仕事はちゃんとできて成功しなくてはいけない、人には頼むのではなく指示を与えなくてはならない、受動的であってなならない、常に自分が話題の中心でなければならない、女性を所有してやっと一人前の男だ、などといったことが、「男らしさ」として求められているように私は思うのですが、どうでしょう。
 また例えば、E・バダンテールさんは「男とは何か」(上村くにこ・饗庭千代子訳・筑摩書房・2800円・1997年)という本の中でこう述べています。

「男である」とは、女らしくないこと、同性愛者ではないこと、従順でなく、依存的でも従属的でもないこと、外見の容貌も物腰も女性的でないこと、男性とは性的な関係も親密な関係ももたないこと、女性との関係で不能ではないこと、などである。(p.147)

 私にはかなり納得のできる話です。
 そして、今の日本の社会の中で男性が被るこのジェンダーの刷り込みは、確実に私たち男性(**注4)を生きづらくさせています。アメリカ合州国(以下、合州国。**注5)のメンズリブの中ではこんなことも言われています。

 ぼくたちは、不可能で抑圧的な男性像---強くて、寡黙で、冷静で、ハンサムで、非情緒的であり、成功しており、女の主人であり、他の男に対しては指導者であり、富を手にし、頭脳明晰、スポーツ万能、そして重々しさを持つ男---を達成しようと苦悩し、競争しあうことを望まない。(中略)温かさと感受性、情緒、正直さを持って、他の男や女たちと人間的に結びつきたい。ぼくたちは、自己の周りにつくった壁を打ち壊すことによって他の人々と感情・経験を共にし、男どうしの破壊的競争を終わりにし、女性と対等な関係をつくりたい。自分自身のためにも、他の男たちのためにも、また女たちのためにも、男自身が今、これらの失われていたものを回復し、男どうし互いに愛し、慈しみ、サポートすることが大切である
(**注6)

 結婚しなくてはいけない(もちろん異性と)、いいところに就職して家族を養い立派な家庭を作って子孫を残さなくてはならない......。「本物の男」になろうとするのは、なかなか大変なことです。というより、ほとんどの男達にとってはかなり困難なことです。しかし「男らしくない」ということは、かなりのプレッシャーになります。(これは、「結婚できない/しない」「就職できない/しない」ということによって例えばゲイが持たされるストレスを想起すれば十分でしょう。できないからしない人、よりも、できるくせにできない人、の方がおそらくもっとしんどい)そして、本当は「男らしく」なんかなりたくてもなれない多くの男達が自分の男らしさを証明するために発動されるのが、ホモフォビアです。「俺は、ホモなんかじゃない!」

■ホモフォビアと「男らしさ」との関係

 「男性であると思われる者たちどうしの関係」を攻撃すること、もしくは自分が「男性であると思われる者たちどうしの関係」を欲しない/持っていないことを公言することは、男らしくあるための条件です。幼かった頃そして現在でも、男同士の集団でいるときに「男性であると思われる者たちどうしの関係」を攻撃することが暗黙のうちに求められていると感じたことはありませんでしたか?あなたが仮に男性同性愛者であったとしても、また「同性関係(**注7)」を持っていても、それをおもてに出さず、表面的には「男性であると思われる者たちどうしの関係」を攻撃しさえすればあなたは攻撃されず「男仲間」に入れてもらえるといったことはありませんでしたか?97年9月21日にNHKで放送された中学生日記「スタンド・バイ・ミー」の中で、ホモだという噂を立てられた中学生の男の子が、仲良しだった相手の男の子に対して自分の手で石を投げる(投げさせられる)ことによって、周りの「ホモ疑惑」を打ち消して攻撃から逃れようとする話(この番組のビデオはゲイ・フロント関西の西村糾さんから借りることができます)は、典型です。社会的に「立派な男」だと認められるためにはホモフォビアが必要なのです。

■「男らしさ」と女性蔑視

 自分が「男の中の男」であることを社会的にアピールする方法は、ホモフォビアの他に、もう一つあります。それが、女性蔑視です。
 象徴的な例を考えてみましょう。例えば、体育会の運動部や、旧来の「革命的な活動家」といった「男の中の男達」がつくりだす社会においては、お互いの暗黙の共有幻想としての女性蔑視が色濃くみられるのではないでしょうか。それだけでなく、うだつの上がらないサラリーマン達が愚痴を言い合うべたべたした関係の中にも、女性蔑視はみられます。「女なんかには俺達のことは分からない!」「男なら男らしくしゃきっとしろ、めそめそするな!」「俺達が社会を支えているんだ」こんな意識を前提にして、女性や女々しい男は2流市民扱いです。そして、そういう女性蔑視に基づいた男達の同質的な社会(これをホモソーシャルな社会という)の中では、男達が肩を組み合うことも許されています。「女々しくない」ということは「男らしさ」には不可欠であり、女性蔑視という共犯関係を結びさえすれば「男同士の友情」が讃えられたりさえします。しかし一見男同士が仲良くしているそういった関係が、実はホモフォビアが最も激しい場であることもまた確かです。なぜなら「ホモなんかは本当の男ではない」からです。
 例えば、「他者への無関心(ホモの置かれる状況に興味がない)」「自分の問題を中心にすることを当然としている厚かましさ(全ての人が異性愛者だと勝手に決めてかかっている)」「他者の問題のために自分の時間を使わないでも済むということ(話そうとしても真面目に取り合わない)」---こういったものは、「男らしい男」とされる異性愛男性に社会的に割り当てられた特権です。たしかにこれは、ホモフォビアの原因でもあります。しかしこれはこうも言い換えられるのです。「他者への無関心(女性の置かれる状況に興味がない)」「自分の問題を中心にすることを当然としている厚かましさ(自分がしんどいからといって、いつも、まず、どこにいても、自分の話が優先されるものだと信じて疑わない))」「他者の問題のために自分の時間を使わないでも済むということ(女性に対する就職差別やセクハラについて話そうとしても真面目に取り合わない)」。ただ単に「男である」というだけで男達が持っている特権は、実は膨大なのです。「同じ同性愛者」だというのであれば、なぜレズビアンのライターが、活動家が、サークルが、お店が、ゲイのそれに比べて圧倒的に少ないのでしょう。なぜそうであるかについて自分で考えたことがありますか?テレビや教科書の中に例えばゲイやバイセクシュアル男性が登場せず、自分に自信を持ったりカムアウトするのが困難なのは社会の中の、そしてそこに生きる1人1人の持つ、ホモフォビアのせいです。そして、テレビや教科書の中に、例えば女の人が主導権を持ったり主人公だったりする話が少なく、女性だからといって就職できなかったりセクハラを受けても社会的に支援されず放置されているのは、社会の中の、そしてそこに生きる1人1人の持つ、女性蔑視の意識のせいです。女性が巻き込まれる性暴力のような「些細などうでもいいこと」について考えたり時間を割いたりしなくてもいいということこそが、男の特権なのです。
 ホモフォビアと女性蔑視は密接な関係があります。どちらも「男らしい男」には必要不可欠なものです。逆に言うと、「男らしさ」なんかにこだわるからこそ、ホモフォビアと女性蔑視は引き起こされているのです。

■「男らしさ」のアイデンティティー

 「男らしくあらねばならない」という刷り込みは性的指向などを問わず全ての人に対して行われており、例えばゲイやバイセクシュアル男性といった「同性関係」を(も)多くもつ人とて例外ではありません。実は既に自分自身でも、暗黙のうちに「男らしくあらねばならない/ありたい」と思っている場合が多いのです。ということは、自己肯定しようとするときに深刻なアイデンティティーのトラブルになる可能性があります。「男である」(正確には「男を演じる」)ということは社会的成功そして社会的な権力と結びついており、社会的な評価や認知などを受けることができる(更に言うと、社会の中で社会的経済的な権力関係でいえば「女である」ことに比べて有利に生きることができる)ということなのですが、自分が「同性関係」を多く求めているということは、「男らしさ」とは相容れないものなのであり、社会的な評価やうしろだてを失う可能性があるからです。
 しかし、「男らしい男」を演じ続けるということは、女性蔑視を基にした男性間の同質性に基盤をおくホモソーシャルな男社会に参加しようと努力し続けることであり、不断に「男らしさ」という多数派のあり方への同化が求め続けられるということです。「男らしく」あるためには、他の人とは違った「変な人」であってはならないし、本当の自分の気持ちを捜したり大切にすることも許されません。これは途方もなく大変なことです。だからこそ、「男らしさ」に同化しようとこんな大変な努力をしている人は、「他者の問題」にかかわり合う時間も関心を持つ余裕もなくなってしまうのです。また本当に「男らしく」生きるのが無理だからこそ、評価や認知を社会的な権力の裏付けによって得て、自分の「男としての」アイデンティティーを補完しようとするのです。従って「男の特権」「男性異性愛者の特権」と外部には見えているものも、その中にいる当事者にとっては、自分が自分であり生き延びていくためにやむを得ずとっている最小限の切実なものでしかないのです。そんな方法で自分を守っても絶対救われないのに!「男らしさ」の病は本当に深刻です。(そしてそれだけでなく他者への実害があるから一層問題なのです。)
 この病を克服することを考えることもなく、「男らしい男」として社会に認められることを欲したりするからこそ、例えば同性愛者のことだけをことさら優先したり強調したがるのではないでしょうか。

■異性愛男性並の特権の獲得をめざしてはならない

 「同性愛者と異性愛者は、単に性的指向が同性を向くか異性を向くかの違いだけで、あとは全く同じだ」という主張があります。思わず実感としてこのような言葉を言いたくなる、例えばゲイやバイセクシュアル男性の1人1人の感覚に、わたしは共感できると思っています。「ただ、その点がフツーの人と違うだけのことなの!」。確かに自己認識としてはそういう場合が多いでしょう。しかし社会運動としてこのような発言が、表現が、主張がなされるとき、わたしは強い違和感を抱かざるを得ません。特にそれが男性の同性愛者から発せられるときは、なおさらです。運動的な表現でいえば、「まず同性愛者の権利、性的指向の権利の確立」「まず同性愛者の存在のアピールを!」という方針を前面に出して運動しようという一部の意見が、その典型です。
 「男らしい男」なら手に入れることのできた特権を自分たちが享受できないことを差別だとして、自己の地位の向上を訴えるということは、「自分は女ではない!」ということを主張して男らしさを証明しようとする運動になる危惧が大きいと私は思っています。構造としては、(例えばうだつの上がらない一見男らしくない異性愛男性が)「俺はホモじゃない!」といって、ホモをだしにして貶めて自分の男らしさを証明しようとするのと同じです。
 「ホモも男なんだ!」と男社会のまっただ中で開き直ってカムアウトすることは「男らしさ」の押しつけに亀裂を生じさせる可能性があります。しかし「ホモも男なんだ」と懇願して男社会の仲間に入ろうとするのは、「男ジェンダー」による支配を一層強化することにしかなりません。それは、またしても自分たちで、まさに自分たちを苦しめていたホモフォビアや女性蔑視を再生産してしまう行為なのです。大切なのは、「男らしさ」によって得られる社会的なうしろだて、社会的な評価や承認などなくても自分が自分でいられるような仲間と自信と、生き方の方法や存在の仕方を身につけることです。社会的な異端者であるかもしれない「男らしくない男」のままで公然と開き直って生きる自信を獲得することです。「僕達も性的指向が違うだけであとは普通の男と変わらないのだから、男の仲間に入れてくれよ」と言うことではなく、「男らしさの押しつけなんていらないよ、私は好きに生きるわ」といけしゃーしゃーと言い切ってしまえるようになることです。自分が1人になったときにそう言い切る自信ないからといって、国家による法的保護を求めようとするなどというのは、自分一人では生きていけない情けない男の最後のあがきでしかありません。これを男の病、権力志向というのです。やってることは今のマジョリティーと同じです。(**注8)
 つけ加えるなら、「男らしさ」の押しつけを問題にせずに自らの地位の向上をめざした場合に、「運動上の戦略としてオネエを隠そう」という名目のもと、オネエ差別が運動の内部に温存されるのはあまりにも明らかです。(ゲイの中のオネエ差別はゲイの中にある「男らしくあれ!」という思い込みの強制=女性蔑視の現れです。)

■男らしさの強制とも闘う運動とは

 私(たち)は、たまたまゲイやその他であったために、コミュニティーと接点を持ち出会うことができました。ところがここでの出会いも、同じ仲間との出会いというよりは、本当に1人ずつ異なる他者なんだということの確認の繰り返しであるということが、だんだん分かってきました。社会の中で「オカマ」と一口に言われていても、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなど、実は悩みも利害関係も、同じところもあるけど違う部分もとても大きいということがばれてしまいました。もう「私たち」は一枚岩ではありません。そしてこのことに気付くことができたということこそが、大切なのです。「私たちのコミュニティー」が、全員が同じなにかを共有しているという暗黙の了解がある同質的でホモソーシャルなミニ社会なのではなく、一人一人が異なる少数派どうしのつながりなんだという認識の仕方。だからこそ、気を付けないとそこにも○○中心主義がはびこる危険性があること。皆と同じ文化を持っている必要もないという確信。そういう「私たち」が一緒にいるために必要な丁寧なコミュニケーションの方法。自分の話をするだけでなく、人の話や問題に関心を寄せることの重要性。「ゲイのサークル」であったゲイ・フロント関西が、会の目的や名称の変更さえ検討することが提案されようとしている現在だからこそ、それらは一層重要です。「他者への無関心」などの社会的に割り当てられた「男らしさ」というものが、私(たち)自身の中にもそれが巣くっている以上、これは他人事ではありません。
 そしてこれは、もちろんゲイ・フロント関西の中だけではなく、まさに今の社会の問題点であり、私たちが社会の中で本当に望んだことだったと思うのです。仮に親や友人や教師が異性愛者であっても、「私」の話を丁寧に聞いて、一緒に考えてくれていたら、持ち上げるのでも貶めるのでもなく、単に少数者の1人として認めてつき合い、最低限必要なフォローをさえしてくれれば、あとは自分でできます。それで十分なのです。「まず同性愛者(もしくはバイセクシュアル)の存在のアピールを!」といった言い方は、「私たち」の持つ多様性を見えなくしてしまいます。確かに「あなたとは違う他者がここにいる」ということをはっきりさせるために、自分が「同性関係」を持っているということをカムアウトする必要があることもありますが、それは、今ここの場に様々な人がいる可能性があるということに気付かせるきっかけの一つでしかありません。大切なのはその先です。社会は異性愛者だけでも、異性愛者と同性愛者だけでも、相手の性別が重要な人とそうでない人だけでも、「異性関係」と「同性関係」だけでも、GIDがある人と無い人だけでも、ないのです。いつまでたっても名前が挙がってこないような本当の「ヘンタイ」はおそらくいるし、その可能性をこそ大切にすべきなのです。だからこそ私たちに必要なのは、自分の身に染み着いた「男らしさ」の弊害を見つめなおし、「私たち」の中にあるかもしれない差別に敏感になり、「私たち」の中の多様性をこそ大切にし、そういう「私たち」のあり方を隠すことなく社会に表現していくことだと思います。
 そういう私たちのあり方をみた社会の多くの人たちが、社会の中にある多様性をこそ大切にしようと思ったときにはじめて、ホモもレズもバイもトランスもその他も、単なるその人の個性の一つとして扱われるようになる可能性があるのだと思います。

■まとめ

 「男ジェンダー」の問題を取り上げることによって、ホモフォビアを、異性愛者をも含めた多くの人が当事者として関わることのできる問題として、認識することができるようになります。「同性関係」は、誰もが持つ可能性があるのです。ホモは男性同性愛者だから攻撃されるのではありません。「男のなりそこない」だからこそ攻撃されるのです。その人たちが本当は男性同性愛者であろうとなかろうと、「男性であると思われる者たちどうしの関係」を肯定的に公然と振る舞う限り、攻撃は誰に対してもあるのです。
 それだけでなく、私(たち)が自分自身の中に巣くう「男らしさ」を洗いなおすこともできます。多様な仲間と手をつなぐことの重要性が再確認できます。そしてなによりも、「男らしくない自分」に悩んでいるあなたが、「男らしくない自分」を自身で受け入れより自由になる手助けになるのは間違いありません。


■注釈

(**注1)「男性であると思われる者たちどうしの関係」
 一般には「男性同性愛者が気持ち悪いとされる...」と書かれるようなところだが、安易に記述してはならない。まずこの言い方で重要なのは、「男であると思われる」の部分。本人の本当の生物学上の性別や、性自認がなんであるかに一切関係なく、他者にとって「男であると思われる」者の間の関係がホモフォビアに攻撃される。また次に大事なのは、その「男であると思われる人たち」は男性同性愛者である場合もあるが、そうでない場合も、本人たちが良く分からない場合もあるということ。そういう様々な場合を全て一くくりにして勝手に「同性」「同性愛」であると決めつけるのは、人を勝手に異性愛者であると決めつけるのと同様に不当だ。
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(**注2)「同性であると思われる者たちどうしの関係」や同性愛に対する嫌悪感や恐怖感、つまりホモフォビア
 決して「同性愛者に対する嫌悪感や恐怖感」のことではない。思うに、大切なのは、例えばここに「同性愛者やバイセクシュアルや...に対する嫌悪感や恐怖感」という形で同性愛者以外を同性愛者の土俵に引きずり込むことではなく、同性愛者を中心にして世界を観て構成していく作風を脱することではないか。なにも同性愛者だけがホモフォビアの犠牲者ではないのだ。
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(**注3)日本人/現在の日本
 あなたはこの「日本人」「現在の日本」という言葉を読んで、何を考えましたか?
 確かに現在、北海道と沖縄を実効支配しているのは日本政府であり、「現在の日本」といえばそれらを含んでいる。しかしこの現在の状況がシャモ・ヤマトンチュによる侵略と支配の結果であること、二風谷ダムの建設強行によるアイヌ集落の抹消や合州国軍事基地の密集などに象徴される侵略行為が現在も続いていること、日本政府は国内の先住民の存在を公式に認めていないこと、などを考えると、現在の日本政府の主張する国境を自明のものとみなしてものを書くのには、私には抵抗もある。
 また、「日本」や「日本人」という言葉は「やっぱり日本人は○○だ」というような形で本当に安易にかつ頻繁に発言されることが多い。しかし、日本で生まれ、日本で育ち、日本国籍を持ち、第一言語が日本語で、日常生活も日本語を使っているけれども、日本人ではないという人がいるという事実に、私(たち)はどれくらい敏感だろうか。例えば、内地に嫁いで/嫁がされて以来アイヌであることを隠したまま死んでいったおばあさんの子供や孫、太平洋戦争中に日本に来た/連れてこられた韓国人が戦後やむをえず帰化して/させられて日本国籍を取得しその子供や孫に自分の歴史を教えなかった場合、はたまた混血で本人の民族アイデンティティーがあいまいであったり不明であったりそもそもアイデンティティーを1つに決めろといわれること自体が嫌だった場合、などの1人1人の事情をどれだけ考えた上で、「日本」や「日本人」という言葉を使っているだろうか。いやそもそも私(たち)は「日本とは/日本人とは何か?」ということを自分のこととしてちゃんと考えたことがあるのだろうか?考えたこともないのに「日本人ならこうに違いない」などと勝手に思い込んでしまっているのはなぜだろうか。(オリンピックは最悪!日本人意識と国威のデモンストレーションとしての側面が大きすぎる。)
 私は自分のことを「日本人ではない」とは思ったことがありません。実の所、これらの話は現在のところは私自身が「うにゃうにゃとしている」ものでしかなく、まず第一に私が自分で考えるべきことです。ただ現段階でもはっきり言えることは、「安易に日本という言葉を使うのには違和感もある」ということです。そしてもう一つ、「私のことを日本人だからといって同じ仲間だとは勝手に決めつけないでください」。今後の私の課題です。
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(**注4)私たち男性
 私の性自認は男で、今のところ揺らぎがありません。本文中では「男ジェンダー」の悪い点に主に焦点をあてましたが、必ずしも悪い点ばかりではありません(これは「女ジェンダー」も同じ)。利害関係の異なる他者と一緒にパブリックな場や組織をつくる技術の訓練と経験、積極的に言葉にして自己主張するという訓練と経験、などの点では、わたしは「男としての」自分がかなり気に入っています。「男らしい男」である必要も、「男でない」必要もないと思っています。
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(**注5)合州国
 「the United States of America」は、「アメリカ合衆国」ではなく「アメリカ合州国」訳すのが正しい。また、「アメリカ」は一般には南北アメリカ大陸全体を指す言葉で、略称としては「アメリカ」ではなく「合州国(=U.S./the United States)」の方が適切だと私は思います。
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(**注6)バークレー1973年宣言(Barkeley Men's Center , 1973)。「オトコが『男らしさ』を棄てるとき」(豊田正義著・飛鳥新社・1400円・1997年)を参考にしてください。
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(**注7)「同性関係」
 「同性関係」は、その人の性的指向がどのようなものであっても関わりなく、「同性の間で親密なもしくは性的な関係や行為を持つこと」という意味で使うことができる。「同性愛」よりも私はこちらの言葉の方がいい。まず、「愛」という言葉が私にはあまりしっくり来ないので使いたくない言葉だ。そして、アイデンティティーの獲得を中心にして考えることはとても不自由なことなので、状態や行為を中心にして考えるためにも「同性関係」という言葉は有効だ。
参考までに:「ゲイ・オカマ・ホモセクシュアルなど、これらの名前には限界がある。私はこれらの言葉を使うのを止めたいとも思っている。我々はどのような言葉を、どんな場合に使うかを決めていかなくてはならないだろう。『同性関係』(same sex relationships)というのはどうだろうか?多分これがベストだろう。」(by Derek Jarman デレク・ジャーマン)
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(**注8)
 社会的なマイノリティーであったり、社会の多数派とは違う考えを持っていたりするということが、必ず悩みやアイデンティティーの混乱に行き着くというわけではない。例えば私は天皇制を廃止するべきだと考えているし、合州国は世界最大の帝国主義国家だし、日米安保条約は破棄し自衛隊は解散するべきだと思っている。こういう考え方をする人は決して多数派ではないということ、場合によっては「アカ」「過激派」「危険だ」と言われて人に避けられることがあることも承知の上で、別に隠そうとは思わない。
 私がこんなに余裕を持って落ちついていられるのは、そういう考え方を持つ父親の元で育ち、そういう考え方をする友人が小さい頃からおり、数年前には一緒に学生運動をした仲間と経験があって、今でもいざとなれば一緒に闘えると思える仲間がいると思えるからではないだろうか。社会的な少数派でも、確信犯的な仲間との人間関係があればそんなに深刻な問題にはならない。
 「同性関係」を持つ経験のある人は本当に多いだろうが、しかしゲイやレズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー、インターセックスなどは社会の中の少数派であろうことは今後も間違いない(人数の点で)。また、「ホモ嫌いの人」が全くいない社会も想像しにくい。そんな状況の中で、私(たち)がタフに生きていくためには、特に必要なことがいくつかあると思う。まず、できるだけ若いうちに「同性関係」についての肯定的な情報を得ること。できるだけ若いうちに、様々な経験をしたり、友人に出会うこと。いつでも必要な時には共に闘えると思えるような仲間を持つこと。変な恨み言や怨念を持たないで済み、「どうせ奴等には僕のことはわかんないんだ」なんていじけてしまうのではなく、等身大の自分を受け入れ、他者と対等に余裕を持って向き合えるようになるためにも。
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(**謝辞)
本稿の草稿を読んで貴重なアドバイスをしてくれたプロジェクトPの友人達に感謝します。





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