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	<title>ひびのの主張/テキスト作品</title>
	<link>http://barairo.net/works</link>
	<description>ひびのがいろいろなところで表現したり書いたりしたテキスト作品です。</description>
	<copyright>Copyright 2007</copyright>
	<pubDate>Tue, 08 Apr 2008 14:10:43 +0000</pubDate>
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		<title>関西レインボーパレード2007</title>
		<link>http://barairo.net/works/index.php?p=84</link>
		<comments>http://barairo.net/works/index.php?p=84#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 20 Nov 2007 10:10:18 +0000</pubDate>
		
	<category>トランスジェンダ</category>
	<category>クイア</category>
	<category>社会運動</category>
	<category>レズビアン＆ゲイ・パレード</category>		<guid>http://barairo.net/works/index.php?p=84</guid>
		<description>　先月10月の28日（日）に、第2回関西レインボーパレード（公式略称は「関パレ」です）が開催され、1326人が参加しました。パレード当日の映像があります。（ちなみに、忘れ物もあります）
　今年は、私も始めから実行委員会に参加しています。



いろんな意見の人が集まって創ったパレード
　今年のパレードは、昨年度と違い、実行委員会の立ち上げ時から、誰でも対等に参加できる形でスタートしました。その観点から、閉鎖的に立ち上げられた昨年度よりも良い創られ方をしている、と思います。
　ただ残念ながら、映画祭の準備などで忙しくて実行委員会の話し合いに私自身が十分に参加できなかった時期がありました。そのため、他の実行委員のひととちゃんと意見交換する時間が取れず、実行委員会としての決定事項には私自身には同意できないものもあります。ただこれは、私自身がちゃんと関わりきれなかった時期があったため、そういう時に「決定」が実行委員会で行われてしまったという面があるので、その後の実行委員会の会議の場とML上で一度明確に私の意見を述べただけで、それ以上しつこく問題提起することはしていません。
　実行委員会形式でものをつくるということは、いろんな意見の人が集まって来るということです。ですので、自分としては納得できない決定が実行委員会でされてしまう、実行委員会の決定の全部に同意している訳ではない、文句も不満もいろいろある、ということは、私だけではなく、わたし以外の実行委員の人にとってもそうなのではないかと思います。今後も、私も自分の思っていることを言っていきますし、みんなの意見も聞きたいと思います。そして実行委員だけではなく、パレードに参加した人にもどんどん意見を表に出して欲しいし、他の人の意見も聞いてもらって、意見を交わし合いながらいろいろ考えて、よりよい合意を作っていけたらと思います。

　なにしろ、組織的な場づくりなどやったことのない人達が実行委員会でも多数を占めています。意見の違う人と話し合うことに慣れていないし、自分とは違うセクシュアリティーの人と深く意見交換したのもパレードが初めて、というような人だっています。みんなで不慣れなところを抱えつつ、素人が集まって創っている手作りタイプの企画なので、実は内部的には問題や不十分点は山積です。というか、正直に言うと、よく実行委員会が崩壊せずパレードをやりきることができたものだと感慨深いものさえあります（苦笑）。
　逆に言うと、生まれたばかりの未熟なパレードですので、まだまだより良くなる余地が山ほどあります！だからこそ、もし今の関パレに何か問題があると感じられたら、ぜひ直接その声をお寄せ下さい（「途上だから見守って欲しい」なんて事はいいません）。むしろ話は逆です。声を寄せるだけでなく、ぜひ実行委員会にも参加してください！パレードのことを大事に思う人達1人1人が声を上げて積極的に行動してくれることで、パレードは年々より良くなっていくものだと思うからです。（実際、去年の閉鎖的なパレード運営のあり方に対して批判の声を上げたからこそ実行委員会は公開されました。また今年のパレードは昨年の反省を踏まえ、第1回のミーティングから「誰でも参加できる」オープンな形で開催されてきました。実際いろんな意見の人が実行委員会には来ていて、結構ハードな議論もしました。まず声を上げること。人の意見に耳を傾けること。そして自分でも参加し、意見の違う人達同士で根気強く話し合っていくこと。それが、パレードをよりよいものにして行くには大切です）



「参加注意事項」について
　実行委員会での決定事項のうち私が同意できないものというのは、具体的には、パレード参加者に対して呼びかけられている「参加注意事項」の内容の一部です。

ゴミの問題などがありますので、パレードルート周辺でのビラやリーフレット、フライヤーなどの手渡しによる配布はできません。


　私は、上記の「注意事項」に反対するために、実行委員会のMLに以下の趣旨内容のメールを流し、会議の場で同趣旨の意見を述べましたが、実行委員会内部での多数派を形成することができませんでした。そのため、最終的には上記「注意事項」がガイドブックやウェブサイトにも実行委員会の意志として掲載されています。

　私としては、そもそも街頭におけるビラの配布は市民としての重大な権利であり、実行委員会はその権利を制限する権限がそもそもないこと、実行委員会の「注意事項」はあくまで呼びかけやお願いでしかないこと、私自身は上記の「注意事項」に同意していないので従う意志がないこと（必要であると私が判断すれば、「注意事項」を公然と無視する意志があること）を実行委員会の会議の場で明らかにした上で、実行委員会に参加するというスタンスを取っています。

※こう↑書くとすごく険悪な雰囲気の実行委員会だったと誤解する人がいるかもしれませんので、しつこいけどちゃんと書いておきます。実行委員会ではお互いに礼儀を持って話し合い、意見が違ったあとも一緒に協力し合ってパレードを創ることができました。お互いの意見が違うのは当たり前です。だから議論になるのも当たり前です。だから話し合うんです。意見の違う人とも一緒に歩くということこそが、パレードの醍醐味です。



以下、パレード実行委員会MLに投稿した文章です。今年の記録とし、来年の参考にするために、掲載します。


●論点は二つの方向であります。
【1】不必要な参加注意事項は、書かない方が良いのではないか
【2】もっと「みんな」に取っていいパレードにするための提案事項を書いてみてはどうか


【1】不必要な参加注意事項は、書かない方が良いのではないか

・私は、パレードは、実行委員会のものではなく、パレード参加者のものだと考えています。
　実行委員会は、当日のパレード参加者のための下働きをする人達だ、と考えています。
　そのことは、「関西レインボーパレード実行委員会では、パレードに参加される方々に特定の行動を強制したり誘導したりすることなく、それぞれの方が、それぞれの主張を尊重して、誰もが楽しんで頂ける「ステージ」を提供したいと考えます」というこれまでの確認からも言えると思います。
　なので、実行委員会からパレード参加者に対しての指示や命令は、基本的にできないと私は思っています。
　実行委員会がパレード参加者にできるのは、提案やお願いだと思います。
　その意味で、「スタッフの指示には従ってください」という記述は、無い方がいいと思います。そもそもそんな権限はないし、そういう書き方をする事自体が、一般参加者に対して威圧感を与えてしまうからです。

・「パレードルート周辺でのビラやリーフレット、フライヤーなどの手渡しによる配布はできません」というのは、市民の基本的な権利を侵害するものなので、書くべきではないと思います。公道や街頭におけるビラの配布は市民の基本的な権利だからです。
　街頭におけるビラなどの配布を巡っては、街頭での表現行為をしようとする人と、それを制限したがる警察との間で、ずいぶんと争いがあります。いくつか訴訟にもなっているはずです。
【参考】
http://www2s.biglobe.ne.jp/~reijo/data/taiho/gaisen.html
　しかしいずれも、基本として押さえるべきは、行動や街頭におけるビラなどの配布は、表現の自由として最大限尊重されるべきものであって、どうしてもやむを得ない、現実的かつ具体的な弊害が存在する場合に限り、極めて例外的に制限される事もありうる、ということだと思います。（例えば、集団で道を通せんぼするような形で、もしくはビラを受け取らないと通れないような方法で、ビラ配布をするのは確かに実際の弊害があると思います）

・実はこういうパレードやデモ行進は、街頭の一般の人に対する表現行為なのですが、一般の通行人にとってはプラカードや街宣車の言葉だけでは何のパレード/デモなのか、分かり難いこともよくあります。そういった不十分点を補うために、例えば一般的なデモを開催するときに、デモの主催者がデモの趣旨を書いたビラをデモと併行して街頭で配布することは、よくあることですし、また一定の効果もあります。
　パレードの立場からも、「一体何のパレードなのか」ということをちゃんと街頭の人に示すためにも、例えばパンフレットを道行く人達に配布するということなどは、検討する価値はあると思います。また、パレード実行委員会としての配布物を作るとなると、内容の検討など大変かもしれませんので、実行委員会としての配布物は作らないで、参加者の好きに任せるという手もあります。
・もしどうしても何か書きたいのであれば、「一般の通行を著しく妨げるような形でのビラ等の配布はご遠慮下さい」くらいが現実的だと思いますが（つまり、企業等による組織的なビラ配布を念頭には置いている）、そういうことを明示すると今度は警察が嫌がるはずなので、結局余計なことは何も書かないのが一番だと私は思います。

・「もちろん、セクシュアルマイノリティに肯定的なものに限ります」という表記は、違和感があります。というのも、何が「セクシュアルマイノリティに肯定的なもの」かについては、「私たち」の間でも意見が分かれることが決して少なくないからです。
　例えば私は尾辻さんの政治手法に批判的ですし、昨年のパレードでもその旨を書いたビラを配布しましたが、一部の人にとってはこのビラは「セクシュアルマイノリティに肯定的なもの」には見えない可能性もあります。パレードのような大勢の人が集まる場所というのは、自分と意見や感じ方が同じ人たちが集まるだけではなく、自分とは感じ方や意見が違う人も集まる場所ですので、「自分にとっては、セクシュアルマイノリティにとって肯定的ではない、と思えるもの」にもパレードの場で出会う可能性があるんだということを念頭に置いてもらうためにも、「もちろん、セクシュアルマイノリティに肯定的なものに限ります」という注意書きはいらないと思いますが、いかが？




以下は、関パレサイトに載っている文章です。関西レインボーパレード　注意事項
○列が止まらないよう、スムーズに進みましょう。できるだけ整列して、止まらないように進んでください。スタッフの指示に従ってください。
○車両の持ち込みはできません。個人による車での参加はできません。
○プラカードは各自で用意してください。実行委員会ではプラカードは準備していません。伝えたいメッセージがある場合は、各自で用意してください。もちろん、ＬＧＢＴ に肯定的なものに限ります。
○ゴミの問題などがありますので、パレードルート周辺でのビラやリーフレット、フライヤーなどの手渡しによる配布はできません。
○写真、ビデオ撮影の際は気を配りましょう。参加者の中には撮影されたくない人もいます。特定の個人を撮影する際には本人の許可をもらいましょう。
○パレードには写真撮影禁止ゾーンを設ける予定です。参加したいけれど、撮影は勘弁してほしいという人は、撮影禁止ゾーンへ（撮影されないことをお約束するものではありません。サングラスや帽子など、各自での準備も行ってください）
○御堂筋および市役所周辺では、市の条例により路上喫煙禁止区域となっており、パレード参加中は喫煙することが出来ません。違反者には１０００円の罰金が課せられます。
詳しくは…http://www.city.osaka.jp/akanzukin/kinshichiku.html

※注意事項には「プラカードは各自で用意してください。実行委員会ではプラカードは準備していません」と書きましたが、その後実行委員会で話し合って、実行委員会として段ボールに白地の紙を貼った自分で書き込む式の無記入のプラカードを沢山用意しました。本当はこれに各自で好きなことを書いてもらって持ってもらえると良かったんだけど、アナウンス/宣伝が行き届いていないこともあって、ちょっと余ってしまったみたいです。残念！


もっと反省（笑）

　上記の他、今年の反省点は挙げればきりがないですが、私個人としては特に以下の点が気になっています。

ガイドブック・フロート・セレモニーの出し物・関連パーティーなどが、圧倒的にゲイ系・男子系に偏ってしまった。もちろん特にそれを意図した訳ではなく、ゲイ系だけを優遇した訳でもないのだけれど、「LGBTと看板を掲げていても、普通に企画を作ると、いつも結果的にゲイ男子系に偏ってしまう」という「いつもの事」をなぞってしまったのが、ちょっと悔しい。実行委員個人のレベルでは、いろんな試みが模索はされたんだけど、結局こうなってしまった。（例えば、関西クィア映画祭で「関パレ協賛上映会」をしたのも、いろんなセクシュアリティーの人がパレードにもいるんだよって事を、もっとみんなで考えたかったからです）
　ただ、今年は初めて「実行委員会フロート」を作ってみたり、それでさえ十分にスタッフを割けず一部の人に負担が行ったりと、かつかつの状態ではあったのも事実です。なので、今年の実行委員会としては、できる限り最善のことをしたとも思います。
　だからこそ、来年はもっともっと良いパレードにしたい、と欲を出します。誰か例えば「女子フロート」とか、「（ゲイミックスではなく）女子ミックスのアフターパーティー」とか、やらないかなぁ。積極的にやる気のある人がいたら、「実行委員会としてそれを応援する」というくらいの合意なら、多分作れると思うんだけど。是非是非！！
実行委員会のありかた、意志決定の方法、どんなパレードをしたいか、といったことについて、実行委員会の会議の場で、もっとざっくばらんに話をできたら、もっと良かったなぁ。
個人的には「トランスジェンダーの可視化」の意味とか、「トランスジェンダーにとってのパレード」についてとか、ちょっと考えたい感じです。性別違和感を持つ人と持たない人との間にある違いについて、トランス嫌悪や「トランスではない人の持つ特権」について、パレードの中で十分に共有されていた訳ではないと思うし、やっぱり「LGBの可視化」と「トランスジェンダーの可視化」では現状ではやや意味が違うのではないかと。
　実際、実行委員会にもパレード参加者にも、GIDやトランスジェンダーやニューハーフの人など結構沢山いたんだから、もう少しそういうテーマもなんとか前面に出したい感じです。
車輌（トラック）の荷台に乗車して踊ったりすることについては、大阪府警が頑としてこれを認めませんでした。札幌のパレードでも、警察が「トラックから降りろ」と警告してきたのに現場で抗議をして荷台乗車を認めさせた歴史があるし、東京のパレードだってまず勝手に荷台にあがって踊り続ける人がいたからこそ、交渉を通じて警察に荷台乗車を公認させることができた訳で、やっぱりもっとみんなが勝手に荷台にあがったりして確信犯で荷台乗車を認めさせていく気概が必要だなと思います。神戸のパレードでも荷台の上で踊ることが公認されている訳で、日本のパレードで荷台乗車がないのは関パレだけ！なのです。（荷台乗車や警察への申請については8.5プレカリアート＠アキバや反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉2007や反戦生活も参考に。）




  </description>
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		<title>現にここにある矛盾を顕在化させ　イスラエルを自分の位置から批判するために</title>
		<link>http://barairo.net/works/index.php?p=83</link>
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		<pubDate>Mon, 19 Nov 2007 15:58:32 +0000</pubDate>
		
	<category>パレスチナ</category>
	<category>性的な暴力</category>
	<category>クイア</category>
	<category>社会運動</category>		<guid>http://barairo.net/works/index.php?p=83</guid>
		<description>

　ずいぶんと昔になりますが、インパクション誌132号（特集「暴力と非暴力の間─複数の場からの９・11以降」2002年発行）に寄稿した文章です。サイトに未掲載でした。



■はためくイスラエル国旗
　　六月二八日、イスラエルのテルアビブで、中東で最大規模のレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーのパレードがありました。昨年は約一万五千人が参加したと聞きました。イスラエル地区も、そしてパレスチナ地区も、性については保守的な考え方の人も多い中で行われるパレードの開放感は、私にとっても大きいものでした。集会会場やパレードの街道沿いには、巨大なレインボーフラッグが連なって掲げられており、壮観な眺めでした。
　しかし実は、よく見ると、そのレインボーフラッグとレインボーフラッグとの間に、なにやら他の旗が掲げられています。白地に青の旗、イスラエルの国旗です。
　あまりにショックでした。パレード会場に来るほんの二時間前、私は東エルサレムのアラブ地区の宿に泊まっていたのですが、そこではイスラエルの旗は侵略者の象徴の旗なのです。ナブルス近郊のバラタ難民キャンプで私はイスラエル軍に身柄拘束され、しばらく拘置所に収容されていたのですが、その拘置所に高々と掲げられていたのが、他ならぬ、白地に青のイスラエル国旗なのです。
　パレードに参加する多くの人にとっては、性的少数者の権利を訴えることと、イスラエル国家の生存権を主張することが、同じように人権の問題なのでしょうか。マイノリティーの権利を主張する場でイスラエル国旗が大々的に掲げられていたという事実の重みを、私は受けとめざるを得ませんでした。イスラエル人は自分たちのことをマイノリティーだと思っているのではないか、という印象を私は受けました。（パレードには、「占領が続く今はカラフルなお祭りをする時ではない」と主張して黒尽くめのいでたちで参加した「ブラックランドリー」というグループもあったのですが紙幅の都合上ここでは触れません。）

■マイノリティーの人権運動としてのイスラエル建国
　「ヨーロッパでユダヤ人が迫害された状況に対する闘いとして、ユダヤ人の生存権のために、ユダヤ人の国をつくる」という物語は現在でもそれなりに大きな力を持っています。マイノリティーの人権運動としてのイスラエル建国です。
　多くのイスラエル人の、パレスチナ人に対する信じられないくらいの想像力の欠如は、私-たち-が社会運動を行っていく中で誰でも陥りかねない過ちだと思いました。マイノリティーが社会運動をしようという時に、例えば「ゲイの集まる場所をつくりたい」「女のグループを作りたい」という欲望はしばしば表明されていますし、実際そのような場所やグループも少なくありません。そのような場所が、バイセクシュアルの顕在化を抑圧したり、トランスジェンダーを歓迎しなかったり、日本人中心の、健全者中心の、大学生の特権を不問にした、そういう場所になってしまうということは、決して少なくありません。また、例えば「戦争に反対」といった正しく必要な課題を掲げている場所が性差別や性的な暴力の問題に関心を示さないことも珍しくありません。社会運動のためにある課題を掲げた時に、課題を掲げることが、他の問題を考えないための口実にされてしまうということは、しばしばあることです。「自分が抑圧を感じているただ一つの問題だけを考えればいい」というのは単なるマジョリティーのわがままな特権なのですが、そういった自覚を持って進められる社会運動にはなかなか巡り会えません。
　制度や国家、差別や文化は、一人一人の意識の積み重ねで創られるものです。と考えるとき、私-たち-のつくる社会運動は、自身のマジョリティーとしての特権に果たしてどれだけ自覚的でしょうか。今の国家の中では私-たち-は少数派だとしても、もし自分たちが権力を持ってしまったときに、そこにどんな国家をつくるのかが、私たち自身が今つくる社会運動の中に現れているのです。だからこそ、もし私がイスラエルという国家を有効に批判することができるとしたら、それはマイノリティー運動を私たちがつくっていく中で「私-たち-自身」が陥りかねない過ちに対する自己批判としてではないかという気がしています。

■イスラエルだけが悪いとは思えない
　イスラエルはパレスチナに対する侵略によって成立した国家です。そして、現在も入植や「テロに対する闘い」を口実にした占領と破壊によって大々的に公然と侵略を継続しています。こういった状況に対して、「イスラエル=国家テロの首謀者=加害者、パレスチナ=被害者=正しい闘い」という単純な図式で私はものを考えていました。そして実際に自身でパレスチナ/イスラエルに行って国際連帯運動（the International Solidarity Movement/以下「ISM」）に参加してみて、本当にイスラエルは侵略国家なんだという認識を強くすると同時に、実は、単にイスラエルを批判すれば事が済むようなものの見方はやめた方がいいと思うようになりました。私は、何よりもまず、自身の立ち位置に思いを巡らせざるを得ませんでした。
　本当は皆が知っていることのハズなのですが、米国本土は全て、侵略による占領地です。アイヌ・モシリである北海道や琉球も、松前藩や薩摩藩と明治政府によって侵略・占領された土地です。現在進行形の侵略は非難され、百年前二百年前から続く侵略は免罪？アイヌの聖地である二風谷地区がダムの底に沈められたのはつい六年前のことです。沖縄県嘉手納町の面積の八〇％以上が今でも米軍に占領されています。いま私が生きる世界のルールが、侵略と占領はやったもの勝ちのまさにそんな世界だからこそ、イスラエルはパレスチナを侵略し続けられるのです。そのことに気がついたとき、まるで自分は何ら有罪ではないかのようなふりをして、イスラエルの「現在進行中の」「分かり易い」侵略だけを一方的に批判することは、私にはできません。

■「国際連帯運動」とは何なのか
　今から振り返ってみれば、自分のことを棚に上げてイスラエルを一方的に批判することはできないからこそ、ISMの活動には共感し参加できたのだと思っています。
　ISMは「非暴力直接行動」の運動です。実際の活動は、占領下の難民キャンプに行って民家に宿泊したり、住民が病院に行くのに同伴したり、イスラエル兵の行動の目撃者になったりということです。しかし考えてみれば、わざわざ戦場の最も危険な場所に出向き、わざわざ攻撃されやすい場所に居続けることで攻撃の邪魔をするというのですから、それほど過激なこともありません。時には、わざわざ戦車の前に居続けることで戦車の通行を阻止しようとすらするのです。だからこそここで言う「非暴力」とは、何かをしないこと、争いごとを起こさないこと、秩序が保たれていること、などを意味するのではありません。むしろ逆に、ISMは、本当は現にここにある矛盾を顕在化させよう、大きな力によって争いやトラブルが隠蔽されるのを阻止しようとしていると言えます。ISMの「非暴力」とは、物理的軍事的な暴力を使ってこちらの意志をイスラエルに押しつけることはしない、ということを意味しています。押しつけはしない、あくまで意見を明示し提案する。しかしだからこそ言うべき事ははっきりと言う（付言すると、ISMの活動は非暴力直接行動に依りますが、パレスチナ人が武装してイスラエルの占領と闘う権利があることも、ISMは明確に態度表明しています）。
　ISMの創立者の一人で、私と一緒にバラタ難民キャンプに出向いたネタは、イスラエル人です。強制退去処分に対して共に裁判を闘ったダーリーンも、米国籍のユダヤ人です。その他にも何人ものユダヤ人がISMに参加していました。「マジョリティーだから何もできない」ではなく、マジョリティーだからこそ、イスラエルと同じ侵略者だからこそ、できることがあるし、しなくてはならないことがある。自身を無罪の高見においてイスラエルを断罪するのではなく、最も困難な場所に出向いて、自分を相手と同じ場所に置いて、いけしゃあしゃあと、しかしはっきりと自分の意志を行動で示す。悪意や支配ではなく、希望を創り出す運動だと私は感じました。
　こういったISMの動き方が、私がここ数年ジェンダーやセクシュアリティーの問題を取り組む中で考え続けていたこととシンクロしたことは、私にとって、驚きであると同時に、納得のいくことでした。私たちは程度の差こそあれ、すでにジェンダー化されてしまっています。トイレ・銭湯・ランドセルの色・服装・言葉遣い、本当にありとあらゆるものが性別によって分けられ、人は「彼/彼女」と性別で表象される社会の中で、私-たち-は生活できています。性別秩序によるすり込みは、誰を好きになるかという感情のレベルの問題にまで性別が基準になるくらい、深く、全面的なものです。だからこそ、私-たち-のだれ一人として、差別意識のない人間は居ません。そして同時に、私-たち-はなくすべき制度や差別、相対化するべき意識や感情があることも理解しています。自身が無実ではない、ということは、他者の過ちを黙認しなくてはならない、ということではありません。「仲間だから」「事を荒立てると大変だから」「その人は精一杯やっているのだから」などと表面的な人間関係を維持することを口実にすることが性別秩序を支えていることを考えれば、むしろ逆に、加害/被害を曖昧にしない、場合によっては加害者に責任をとらせることも必要です。実はそういう取り組みに自身で参加することを通じてのみ、自身に染みついた「切実な」「心からの」自身の差別意識を相対化していくことができる可能性があるのではないでしょうか。
　無実の人が有罪の人を断罪するような方法ではなく、しかし問題を曖昧にするのではない、運動の方法が必要なのです。

■目撃者になろう
　例えば誰かが「私はAさんに性的な暴力を受けた」と話したときのことを考えてみます。残念なことですが「性的な暴力なんて大したことはない」とか「自分だってこんな事をされて我慢しているんだから」などと合理化して、被害の告発が無視されてしまうことが少なくありません。そんな時に、「暴力を受けたと言っている人の話をちゃんと聞こうよ」「誰がやったとしても、間違いは間違い」と言ってくれる公平な第三者が一人でもその場にいたら、どれだけ状況が良くなるでしょうか。
　実は私は「何の技術もない私がパレスチナに行っても足手まといになるだけではないのか？」という不安をずっと持っていました。ISMのホームページやメールグループには「パレスチナで会おう！」「目撃者になる」「まさに今こそが、私達が、どんな人でもここにいることを必要としている時」「難民キャンプの家庭に滞在して、市民に保護を提供する」「カメラ、ビデオ、E-mailやインターネットを通して発表される日記、によって、パレスチナで起きている事実を実証する」などと書いてありましたが、実は半信半疑でした。
　しかし実際バラタ難民キャンプに行ってみて、ISMが言っている「目撃者」には、さきに述べたような公平な第三者としての意義があるということに気がつきました。極端な言い方をすれば、「ここに単なる観光客が一〇〇〇人いたら、イスラエル兵も無茶はできないのに」とすら、思いました。
　往復航空券は一〇万円から一五万円程度。時間にして二四時間以内に行くことのできるところにパレスチナ/イスラエルはあります。
　私の泊まっていたファイサルホステルはISM活動家の拠点でもありましたが、それとは別に、日本人（もしくは、日本語を第一言語とする人）のバックパッカーに有名な安宿でもありました。特に何の政治的な意図もなくそこに宿泊していた人も、何人も飛び入りでISMの行動に参加していました。また現地に行って分かったことですが、日本からイスラエル/パレスチナに渡って生活したり活動している人も、実はかなりいます。そういった人たちから情報を集めれば、ISMに頼らないで、自分自身で占領地や現地のNGOを尋ねてまわることもできます。
　それは決して安全なことではありません。しかし、毎年3万人もの人が自殺することを強いられる日本で生活することもまた、決して安全なことではないとも私は思います。


*日比野のホームページ（http://barairo.net/）では、パレスチナ現地の写真を公開しています。また、「ひっぴぃ ♪♪の出張サービス&amp;hearts;」のご案内もご覧下さい。
*ISMが秋のキャンペーンを提起しています。詳しくはISMホームページ（http://www.palsolidarity.org/）で。






関連テキスト
たとえそこがどこであっても「バイセクシュアル」の主張と、パレスチナの国際連帯運動（ISM/International Solidarity Movement）の非暴力直接行動への参加、イスラエルで「No Pride in the Occupation」と掲げる反占領の立場のQueerグループのこと、セクシュアリティーの話と反戦運動について、総合的にまとめて書いた文章です。ここ数年のわたしの活動のまとめのような文章になっています。超長文。英語版もあり。
（2003年9月　イタリアの雑誌「DeriveApprodi」に寄稿したもの）


特集：パレスチナパレスチナで国際連帯運動の非暴力直接行動に参加したひびのの、パレスチナ情報ページです。
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		<title>LGBTと企業（その1）</title>
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		<pubDate>Thu, 30 Aug 2007 18:06:28 +0000</pubDate>
		
	<category>トランスジェンダ</category>
	<category>男女という制度</category>
	<category>クイア</category>
	<category>社会運動</category>
	<category>レズビアン＆ゲイ・パレード</category>		<guid>http://barairo.net/works/index.php?p=82</guid>
		<description>　「LGBTと企業」というタイトルで何か書けといわれたら、もしくは企業に対して「LGBTの立場から」何か書けといわれたら、あなたは何を書く？

　おそらく私なら、「トランスジェンダーなど典型的ではない性別の有り様の人が、そもそも就職できなかったり、働きにくいのを何とかしてくれ」「女性を正社員として雇わなかったり、雇ってもいろんな口実を付けて賃金を男性より低くしたり、職場の雰囲気が男性中心的だったりするのを改めてくれ」とかいうことを、まず書くと思います。
　だって、そうですよね。例えば「典型的GID・手術も戸籍変更も完了・完全にパスしている人」ならともかく、そうでない人はまず履歴書を書くときにどの性別で行くのか、まず悩む訳です。そして残念ながら、トランスジェンダーであることがばれたときには、職場で色々な嫌がらせにあったり、クビになったりしてしまうことも少なくありません。（例【自彊館裁判】）
　また、賃金に女性差別があるということは、もう確実に明らかなのに、今の社会は、企業は、それをなかなか変えようとしていません。（パートを除く社員だけを見ても、女性の賃金は男性の約3分の2しかありません【厚生労働省資料】）　大企業ほど、男女の賃金格差は拡大しています。（【連合のサイト】）

　もし私が、「LGBTと企業」というタイトルで何か書くのなら、やっぱりこういったことを取り上げて、企業に対して、差別に対する是正や、差別を企業の中から無くしていくための取り組みを求める、ということが中心になります。

　さて、そんな私ですから、東京プライドパレードの公式ガイドブックを見たときには、やっぱり私は、どうもこことはウマが合わないな、と思いました（苦笑）。
　そうなんです、東京プライドパレードの公式ガイドブックで、「フロント特集」として巻頭7頁にわたって特集されている特集記事のタイトルが「LGBTと企業」なんです。
　この特集記事では、LGBTマーケットのことを「比較的高学歴・高収入の人々が多く、自己のライフスタイルに敏感、可処分所得が高い……」などと書いています。確かに、トランスではないゲイ男性には、大企業の正社員も多いことでしょう。ゲイであることで後ろ指を指されても大丈夫なようにと敢えて医者になった人、弁護士になってからゲイリブを始めた人、そんなゲイも知っています。もしかしたら、本当に、トランスではないゲイ男性は「比較的高学歴・高収入の人々が多く、自己のライフスタイルに敏感、可処分所得が高い」のかもしれません。
　でも、でもね、それはゲイのことですよ。少なくともバイ女性やレズビアン、トランスジェンダーの人に関しては「比較的高学歴・高収入の人々が多く、自己のライフスタイルに敏感、可処分所得が高い」というような傾向は、全然ありません（苦笑）。どうして特集のタイトルは「LGBTと企業」なのに、内容は「ゲイと企業」のことしか書いてないのでしょうか。「LGBTと企業」の特集なのに、どうして企業による女性差別やトランス差別に一切触れていないのでしょうか。

　「東京レズビアン＆ゲイ・パレード」が「東京プライドパレード」に名称変更したことは、よいことだと思います。ただその時に「名前だけ変えても実態が変わらなければあまり意味がありません」「名前を変えただけで同性愛者以外の性的少数者が対等に扱われるように直ちになる訳ではありません」「（名称変更の以後も）これまで以上に困難な道のりであることは確実です」と私は書きました。今年の東京プライドパレードの公式ガイドブックは、そのことを非常に分かりやすく示してくれています。特集「LGBTと企業」は、現在の東京プライドパレードの中に男性同性愛を中心とする力関係（ゲイ中心主義）が存在していることを、とても分かりやすく示してしまっています。

　しかし、声を上げる人がいたことで、パレードの名前も変えることができました。東京プライドも学習会をするなど、完全にゲイ中心主義を開き直っている訳ではありません。ですので、確かに遠い遠い道のりだとは思いますが（苦笑）、これからも声を上げ続けることで、少しずつ問題点が改善されていくんだと、私は思います。
　ということで、反省会に行く方、がんばって下さい！！


参考テキスト
【米国便り11】ポートランドの「同性婚」
……これまで、（メインストリームの）ゲイの運動は、企業を味方につけるために「ゲイは金持ちだ」という宣伝運動を地道にしてきた。その結果、大企業からの広告が米国のパレードのパンフレットにはたくさん載っている。そんな運動の積み重ねのおかげで、レズビアン・ゲイが社会的に認知されてきたという面もあると私は思います。でも同時にその結果として「ゲイは金持ちなんじゃないか。ゲイは差別なんかされていないじゃないか」と、貧乏な人たちには思われているらしい。……
【米国便り７】カストロストリート
……カストロでホームレスになったりする人がいるんだけど、そういう若いゲイのコを、カストロストリートに実際に住んでいる金持ちのゲイが警察とつるんで排除したりしているのね。カストロストリートは、白人の中産階級の、金持ちの街だよ。……


※追記
　企画をするときにお金が必要なのは事実なので、企業からお金を集める事自体を完全に否定している訳ではないよ。誤解なきよう。ここは例によって、もし「LGBTと企業」と掲げるなら「ゲイと企業」のことだけが取り上げられるのはおかしいんではない？ということをまず言っているだけ。  </description>
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		<title>「レズビアン＆ゲイ」という看板は、いついかなる時でも許されないの？</title>
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		<pubDate>Wed, 07 Mar 2007 10:16:07 +0000</pubDate>
		
	<category>バイセクシュアル</category>
	<category>トランスジェンダ</category>
	<category>男女という制度</category>
	<category>クイア</category>
	<category>社会運動</category>
	<category>レズビアン＆ゲイ・パレード</category>		<guid>http://barairo.net/works/index.php?p=81</guid>
		<description>　｢東京レズビアン&amp;#038;ゲイ・パレード｣が｢東京プライドパレード｣に名称を変えました。このことについて私が｢これで、少なくとも日本国内で、『レズビアン&amp;#038;ゲイ』の看板で開催されるパレードは1つも無くなりました。とてもよいことです｣と書いたところ、佐藤博さんから鋭いツッコミを頂きました。日本には他にも｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣を看板にしたグループがあるけど、それはどうなんだ、というご指摘でした。



　佐藤博さん、初めまして。コメントをありがとうございます。レスが遅れてしまったこと、ご容赦下さい。


●｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣の名前も実はまだある
　佐藤さんもご指摘の通り、｢動くゲイとレズビアンの会（OCCUR）｣や｢東京国際レズビアン&amp;#038;ゲイ映画祭｣など、｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣を看板にしたグループも、実はまだ結構あります。
（札幌の｢NPO法人at｣のことは、頂いたコメントで始めて知りました。札幌ミーティングのサイトも｢Not found.｣だし、｢もしかしてこれは札幌で一悶着あったのかな？｣という想像はしようと思えば出来ますが、事情はよく分からないです）


●時代的制約の場合
　ごく一般的には、私は、｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣という看板は不適切な場合が多い、と思っています。
　ただ、時代的な制約というのがあるのも事実で、以前私が参加していた｢プロジェクトＰ｣も正式には｢レズビアン？ゲイ？バイ？ヘテロ？......？生と性はなんでもありよ！の会｣と言い、今なら必ず入る｢トランスジェンダー｣｢Aセクシュアル｣などが落ちていました。1995年の発足当時としては最大限広く枠を取ったつもりだったんですが、時代の流れの方が早かったんです（その後、改称しました）。
　そのプロジェクトＰの発足よりも前の1992年から継続的に開催されている｢東京国際レズビアン&amp;#038;ゲイ映画祭｣の場合は、まず何よりこの歴史的な側面が大きいと思います。


●実際に同性愛者しか居ない場合
　また、以前NOVさんに対するコメントでも書いたことがあるのですが、ごく小規模のグループであったり、メンバーが固定した数人の表現者のグループであったりした場合に、実際に居るメンバーが｢レズビアン&amp;#038;ゲイだけ｣もしくは｢ゲイだけ｣という場合も、実はあり得ます。
　例えば｢バイセクシュアルの不可視化｣という問題は、まずは何よりも｢実際に隣にいるのに、なんで無視すんの！｣という極めて現実的でプラクティカルな問題である以上、逆にあるグループにいるのが本当に同性愛者だけである場合には、その観点からは名称に文句を言うことは出来ません。

　ですので、｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣という看板をみたら、確かに｢怪しい｣とは私は直感的に思いますが、しかし単に看板が｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣であると言うだけで、直ちに不当になるというわけでは必ずしもない、とも思っています。ちゃんと、そのグループの事情を丁寧にみないといけないと思います。


●思想信条に基づく場合
　また、人権問題に取り組むような場合に｢同性愛者だけで集まりたい｣と考えることは、私はその考え方自体に不充分な点があると思っています。なぜなら、それは今｢私たちのコミュニティー｣が持っている豊かさを理解せず、また今すでに存在している繋がりや協力関係を破壊する行為だからです。｢同性愛者だけで集まりたい｣という考えは一見素朴そうに見えますが、実は｢私たち｣の場所から｢バイセクシュアル｣やトランスジェンダー、Aセクシュアルなどの様々な性的少数者たちを排除することを意味します。運動的にも不適切な方針だと私は思います。
　しかし、私と考え方が違う人が自身の考え方に基づいて活動することもまた、市民としての権利ではあります。これも以前書いたことがありますが、｢同性愛に反対する会｣を創る権利が人にあるのと同じ意味で、｢ゲイとレズビアンの会｣を創る権利自体は、法的には誰にでもあります。
　但し、当然ながらそういう会や活動は厳しい批判を受けることがあるでしょうし、そういった相互批判の中で社会全体が成長していくのだと思います。


●なぜ｢レズビアン&amp;#038;ゲイ・パレード｣が問題になるのか
　私が例えば｢動くゲイとレズビアンの会（OCCUR）｣には何も言わず｢レズビアン&amp;#038;ゲイ・パレード｣にこだわったのには、理由があります。それは、（1）東京のパレードは規模が大きく影響力が大きいから（2）パレードの主体は実行委員会ではなくパレード参加者だから、です。
　まず現在、｢動くゲイとレズビアンの会｣は日本のコミュニティーを代表するような性格を持っていませんし、またナショナルセンターのような機能もありません。つまり単なる小さな1グループでしかなく、全国への影響力も大きくありません（正確に言い直すと、OCCURが｢ゲイとレズビアンの会｣であり続ける限り、コミュニティー全体を束ねるようなことは出来ないということだと思います）。ひびのの分身が100人くらいいたら別でしょうが、私もそんなに暇ではありませんので、実害が大きくない場合にはそんなに気にしません（私が東京在住だったら、またもう少し違うのかもしれませんが）。
　特にパレードが問題になるのは、パレードの主体、社会に対してメッセージを発する主体が、パレードを呼びかけた人（実行委員会）ではなく、パレード参加者の一人一人だからです。
　もしこのパレードが、実行委員会の外部の人たちに対してパレードへの参加を呼びかけたりせず、｢パレード実行委員会｣に参加している人たちだけが自分たちの意見を社会に訴えるためのパレードであったのなら、OCCURに準じた扱いになったかもしれません。特定の思想信条を持った人たちが、自分たちの思想信条を社会に訴えるパレードなのであったら、その思想信条の内容への批判はしても、パレードの名称変更を求めるという言い方にはならないと思います。
　しかし実際には、実行委員会メンバーではない外部の人に対して、パレードへの参加が積極的に呼びかけられていました。このパレードは｢実行委員会のパレード｣ではなく、コミュニティー全体の包括的なお祭りが目指されていたし、事実としてそうなっていました。だからこそ、様々なセクシュアリティーの人が実際に参加して歩いているのに、なぜそれを｢レズビアン&amp;#038;ゲイ・パレード｣と呼ぶのですか？、という問がリアリティーを持っていたんだと思います。


●名前だけが重要な問題なのではない
　実は海外でも、歴史あるグループや映画祭が、その歴史から、現在でも｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣を看板にしていることが時々あります。そして看板は｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣ですが、実態はLGBTやセクマイ全般を扱ったものであることがほとんどです。（この点が、OCCURとは質的に違います）
　実は私は、話をちゃんと詰めていくと、名称だけが絶対に重要な論点である訳ではない、と思っています。私が大切だと思う問題は、例えばその場が｢同性愛者中心主義｣になっているかいないか、ということだからです。（参考｢日本人で健全者の同性愛者のパレード｣）
　例えば米国に｢the National Gay and Lesbian Task Force｣という大手のグループがあります。名前からして｢Gay｣が先に来ているところからも歴史を感じますね（一般に、男性中心主義に反対するという観点から、最近ではレズビアンを先に書くことが多い）。看板は｢ゲイ&amp;#038;レズビアン｣ですが、この団体は｢バイセクシュアル｣や｢トランスジェンダー｣に対する公的な方針を持っており、サイトにも載っています。せっかくなので、少し訳しておきます。

バイセクシュアリティー/Bisexuality
バイセクシュアルのコミュニティーは、他の人たちがLGBTの人たちを分断して抑圧してきた単純な二分法を拒否する。
バイセクシュアルの人たちは｢狭く定義された『ゲイ・アイデンティティーの政治』｣よりももっと包括的なビジョンを持っている。
バイセクシュアルの人たちは、LGBTの自由と平等を勝ち取るための闘いと不可分である。
性別に関わらずお互いに愛し合うことが出来るという考え方を持っている点で、バイセクシュアルの人たちは、セクシュアリティーやジェンダー、人間関係についての基本的な前提に挑戦し、また問を投げかける。
もっと多くのLGBTが連携できるよう、the Task Forceは、社会の中のホモフォビア、性差別、人種主義、バイフォビアなど全ての性差別に立ち向かう。

　また、2005年にニューヨークタイムズに｢バイセクシュアルは存在しない｣というトンデモ文章が載ったときも、｢バイセクシュアルについての固定観念を助長するNYTの記事を糾弾する｣という見解をthe Task Forceは出しています。

トランスジェンダー/Transgender Issues
the Task Forceは、全ての仕事においてトランスジェンダーを含むものにするよう努力する。トランスジェンダー特有の問題について取り組むことは、全てのLGBTの人たちの自由と公正、平等を実現するために重要であると信じる。
トランスジェンダーの人たちは、今も、これまでもずっと、私たちのコミュニティーの一部だ。
トランスジェンダーの人たちを保護する市民権を確立する闘いは、ゲイやレズビアン、バイセクシュアルの人たちの自由と平等を獲得する闘いと不可分のものだ。
the Task Forceは、市民権、憎悪犯罪、および健康についての政策において、トランスジェンダーの人々を含むよう、私たちのコミュニティーの定義を広げるため、全国的な努力を行う。

　また、既に何度も引用していますが、このグループの代表は2004年にはトランスジェンダーを含まない『性的少数者雇用差別禁止法案』は撤回せよ｣という自己批判もしています。

　そうなんです。これくらい話がハッキリしてさえいれば、会の名前が｢ゲイ&amp;#038;レズビアン｣になっていても、そんなに気になりません。こういう方針を公式に持つグループなのであれば、｢なぜレズビアン&amp;#038;ゲイの場所に来て『バイセクシュアル』の話をしようとするのか｣などという嫌がらせはあまり起きないでしょう。問題はそのグループの内実なんです。


※でも、米国でAセクシュアルの話がリブの文脈でほとんど出て来ないのは、なぜ？素直に不思議。
※おそらく私は、大手の団体である｢the National Gay and Lesbian Task Force｣とは意見が違うところが沢山あるはずです。なにしろ、米国LGBT運動の主流派の団体だしね（笑）そういうところでさえ、このレベルの事は言っている、というところが、この話のミソです。
　米国のメインストリームの運動については、例えば以下を参照下さい。
【米国便り７】カストロストリート
【米国便り11】ポートランドの｢同性婚｣
【米国便り12】Eugeneのプライド

macskaさんのサイトにも、メインストリーム（主流派）の運動のあり方に対する批判も含めて、いろいろ載っています。米国の情報について知りたい時には、とても参考になります。
●チャイナタウンで美味しいお昼御飯♪じゃなくて、Creating Change 2005 レポート
●急進派クィアグループ、米国最大のＬＧＢＴ系コンファレンスに挑戦状
●同性婚バックラッシュ/民主党内革命の希望

※「インターセックス」を「LGBT」に加えるべきかどうか、という話について、似たような話があります。
「LGBT」に「I」を付けくわえること：インターセックスは LGBT 運動の一員なのか？



●まとめ
　逆説的なような気がするのですが、例えば私が｢レズビアン&amp;#038;ゲイ・パレードは、同性愛者優遇なので、良くないよね｣と言った時に、｢うん、そうだね。今の名前はおかしいね。来年は変えたいね｣という反応ばかりという状況があったのであれば、別に名前だけ｢レズビアン&amp;#038;ゲイ・パレード｣でもよかったりもする訳です。
　でも実際は、永易至文さんのような古参ゲイ活動家が、無知であることも自覚できずに、典型的なバイセクシュアル嫌悪を披露しました。そういった同性愛中心主義の発言に対して、パレード実行委員会が｢パレードの多様性に対する攻撃｣｢パレードを分断しようという間違い｣であると永易至文さんを糾弾したり、公式に批判するということもありませんでした。また残念ながら砂川さんも素直に自分の選択の中に同性愛者中心主義の問題点があったことは認めていません。
　つまり、実はパレードの内部にも同性愛者中心主義を容認する雰囲気があることが、顕在化してしまったわけです。そのために、｢名称問題｣が一層の脚光を浴びてしまい、｢レズビアン&amp;#038;ゲイ・パレード｣という名称を改善するしかなくなったのだと思います。パレードの中にある同性愛者中心主義に反対するための過程として、名称の改善問題が浮上してきたのです。（一部の古参ゲイ活動家を除くと、パレード全体でみるなら、どちらかというと包括的で｢みんなで平等に｣参加できることが出来るようなものを目指していることは明らかなのですが。）
　ただ、実際に問題になったおかげで、いろいろと考えることができた人が沢山いるはずです。こうやって、少しずつ、コミュニティーも良くなっていくんだと、いつものように実感している次第です。

　ここまで見てきたとおり、実はパレードの名称問題の主要な争点は、名称それ自体、ではありません。そうではなく、パレードやコミュニティーの中にある同性愛者中心主義に対して、それに反対して改めていく立場に立つか、それとも同性愛者のワガママを容認するか、が問われていた訳です。
　そしてたまたま今回の場合は｢名称をどうするか｣がその争いの中心に来ました。
　実は、砂川さんが｢レズビアン&amp;#038;ゲイ・パレード｣を始める前の数年間は、全国的にも同性愛者以外の性的少数者が一層の可視性を獲得し、｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣という看板の問題点が認識され始め、団体名や企画名などに｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣を使うことがなくなりつつある時期でした。もちろんこれは、私にとっては意図していたことですし、また事実、コミュニティーの現実に根ざした変化でした。にもかかわらず砂川さんが、以前の同性愛者中心の看板である｢レズビアン&amp;#038;ゲイ・パレード｣をあの時期にまた懲りずに提案したという事情があります。ですので、名称自体の問題点が焦点化するのは避けられなかった、とも言えます。
　しかし、同性愛者中心主義に反対する立場に明確に立っているのであれば、｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣を看板にしたり、性的指向の権利の問題を中心にして運動することもまた、あり得ない訳ではありません。


　例えば、同性パートナーシップや同性婚の問題を、まるであたかも｢同性愛者の問題｣であるかのように扱うと、同性愛者中心主義だとして批判を受けることになります。
●【｢同性パートナーシップの保障｣=｢同性愛者の問題｣ではない】
●同性婚の映画｢誓いますか？/誓います｣コメント

　
　

　そして更に、どのようなグループにも、不充分な点があるのはいわば当たり前のことです。今回のもう一つの大きな問題は、その不充分な点を指摘されたときに、それにどう対応するかという点です。
　例えば｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣という看板に対して異議が表明された時。その異議の表明をグループに対する貢献であると扱うことが出来るかどうか。まずは異議の表明に対して感謝し、その人を含めた形で場を作り直すための努力をするかどうか。
　執行部や｢呼びかけ人｣に対する批判が｢場に対する貢献｣だと認識され、批判がが自由にでき、率直で風通しのいい話し合いが出来ているのであれば、あとはその場にいる人たちで丁寧に合意を創ればいいことです。
　会や企画の名称を変えるべきかどうかということは、そうやって一つずつ現場で話し合われ、同性愛者だけを優遇することが間違いだということが皆で納得され、合意が形成されていくことが大事なのであって、単に｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣という看板さえなくせばいい、という訳ではないのですから。
　
　


　

せっかくなので、以下は、個別のグループについてのレスです。
　
　

＞レインボーマーチ実行委員経験者さんが立ち上げたNPO法人に
＞｢レズビアン｣｢ゲイ｣という名称がついていることについて、
＞｢ゲイやレズビアンのいる場所には、バイセクシュアルも必ずいる。
＞だから『レズビアン&amp;#038;ゲイ』という名称をつけるのはよろしくない｣
＞
＞とおっしゃられてきたひびのさんは、どうお考えでしょうか？

　札幌の状況がよく分からない（例えば、現場の人たちでとことん話し合った上で｢今は別々にやろう｣と合意した可能性だってない訳ではない）のと、｢NPO法人at｣がどれくらいの規模のもので、誰がやっているのか、その基本的な方針など、分からないことばかりなので、ちょっといま判断が出来ません。
　
　

＞｢動くゲイとレズビアンの会｣

　OCCURについては、会の名称が問題なのではなく、そもそも主張内容や目指している方向性自体に同性愛中心主義的な傾向があると感じています。もし私が意見するとすれば、名称ではなく、そもそもそういう方向性はどうなのか、例えば｢OCCURはバイセクシュアルを常に同性愛者と対等に扱う気があるのか｣｢コミュニティーの中にあるバイセクシュアル嫌悪に対して、OCCURは主体的にどう取り組むのか｣を問うという論点になると思います。
　
　

＞東京国際レズビアン&amp;#038;ゲイ映画祭

　この映画祭の名称は、何より歴史に規定されていることだとは思います。
　また映画祭の場合、対社会的なメッセージのコンテンツは、映画祭の参加者であるお客さんではなく、映画そのものです。その点が、参加者一人一人が対社会的メッセージのコンテンツ/主体であるパレードとは質的に違います。
　また、｢レズビアン&amp;#038;ゲイの映画｣だけを上映するという方針が仮にあったとしても、その方針が民主的な手続きの中で決められているのであれば、そういう方針自体が不当である訳ではありません。政治を扱う場合と違い、表現の分野って、特定のテーマに絞ってこだわり尽くすことで何かを創る場合もあるからです。（逆に、お客さんを｢レズビアン&amp;#038;ゲイだけに限る｣とかしたら、｢じゃぁ『バイセクシュアル』は参加できないのか？なぜ？｣という話にはなると思います）
　更に、実際にはこの映画祭は、同性愛の映画だけを上映するという方針を持っている訳ではなく、例えばトランスジェンダーの映画も沢山上映してきました。なので、少なくともOCCURと同じような形での同性愛者中心主義は、この映画祭には感じません。
　もちろん私はそれでも｢レズビアン&amp;#038;ゲイ｣という看板自体が好きではありません。また、もっと同性愛以外の存在も積極的に顕在化させるアプローチをしたらいいのに、と思ってはいます。ですので、もし仮に私が東京の映画祭のスタッフになった場合には、おそらく名称の変更を提案したり、コミュニティー内部の多様性や少数派内部の少数派の問題についても、もっと積極的に取り組んでいこうと提案することにはなると思います。（名称を変えない場合には、the National Gay and Lesbian Task Forceのように、バイセクシュアルやトランスジェンダーについての公式な見解を出すことも有効かもしれません。）
（ただ｢コミュニティー内部の多様性｣と言っても、必ずしもバイセクシュアルやトランスジェンダーのことばかりではありません。例えば映画を集めるとき、自然と英語圏/欧米の映画ばかりが集まるというよくない傾向が一般的にはできてしまうのですが、去年の東京の映画祭は｢アジアの映画｣にこだわったプログラムラインナップでした。これも｢多様性｣です。実は正直、去年は｢やられた！｣と思ったのも事実です。上映する映画を選ぶときには、セクシュアリティー以外の要素も沢山関係するので、単にバイセクシュアルやトランスジェンダーの話をすれば済むという訳でもありません）

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		<title>クィア仲間と、野宿者排除について一問一答</title>
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		<pubDate>Sat, 10 Feb 2007 01:33:10 +0000</pubDate>
		
	<category>クイア</category>
	<category>社会運動</category>
	<category>レズビアン＆ゲイ・パレード</category>		<guid>http://barairo.net/works/index.php?p=80</guid>
		<description>　あるクイア系の人たちの中で、長居公園の野宿者の強制排除問題について話し始めた時の私の状況をみて、私の大切な友人が後からこう評しました。
「アレが起きている」
　そう、アレです。
　私たちがいつも、セクシュアリティーの話をしようとして、人々とのあいだに起きるアレです。
　セクシュアリティーの話をしようとする「わたし」の方は、その問題についてかなりの知識を持っていて、言葉遣い一つ、使う言葉一つについてさえ、気をつけていたり、留保を付けたりしている。だけど話を聞いている/聞かされている側は、そもそもが問題自体に関心がない。ちょっと聞きかじった知識で何か反論や共感すると、それはたいがいが的はずれで、「そうじゃないの！あのね、そもそもね…」「この言葉はこういう意味で…」と長い話が始まらざるを得ない。その長い話が面倒くさくて、「なんで今ここでそんな話をするの！」「忙しいの、その話はあとにして！（で、結局話さない）」とハッキリとは言わないものの、どことなく気まずい雰囲気が漂ってくる…。
　圧倒的な知識の差と、そもそもの問題についての関心の有無がある。それを、マイノリティーとマジョリティーとが出会ったときの出来事、だと言ってもいいんだけど。
　で、それと同じ事が、野宿者の強制排除問題の話題を巡って、起きていたという。
　もちろん現実の描写としては、このブログに書くためにデフォルメしてはいるけれど、でも確かに、その通りだと私も思った。残念なことだけれど、性的少数者の権利の問題について積極的に話ができる人が少ないのと同じように、野宿者の権利の問題について積極的に話をしようという性的少数者もまた、少ない。が〜ん（笑）
　私としては、「また、アレが起きている」という現状認識を友人と共有できたことは、とても嬉しかったです。でも、そういう認識だけじゃやっぱり不満なので、もっと先に進むために、いくつかの質問に私なりに答えてみたいと思います。

●「ひびのさん、またそんなマイナーな話をするんだから」
　野宿者の話、もしくは野宿者の性的少数者の話をする私に対して友達が言った言葉。私のお返事はいつものように。
　なぜ、「性別違和のない、日本人の、健全者の、男性の、野宿者ではなく家のある、正社員の…性的少数者」の問題だけが「『私たち』にとって中心的な課題」として取り上げられるの？なぜそういう「特殊」で「全体からみたら一部分」でしかない性的少数者の問題だけが、当たり前のように「中心的な問題」なの？「マイノリティーの中で力のある人たち」「マイノリティーの中のマジョリティー」の人の問題が「性的少数者みんなの問題」であるかのように偽装されるのはそれでいいの？
　私のしている話は、「中心的な話」だよ。もちろん「誰にとって中心的な話か」という問題はあるけれど。でも、野宿者の話をする時「だけ」ではなく、「日本人で健全者で帰る家のある性的少数者」の話をする時に「も」、「それが誰にとって中心的な話か」という疑問は持ってくれないと、フェアじゃないな〜！

●「野宿者の話はセクシュアルマイノリティーの話じゃないよね」
【回答例１】
　うん、もちろん。始めから性的少数者の話をしているつもりはないんだけど。単に野宿者の排除が不正だから、「社会で間違ったことが行われるのに反対しよう」と呼びかけて居るんだよ。野宿者の問題が性的少数者の問題でないことが、それになにか関係がある？それがどうしたの？
　もしかして、性的少数者の権利だけが守られればいいと思っているの？性的少数者に関係ないことなら、どこで誰がどんなひどい目にあってもいいの？
【回答例２】
　野宿者にも性的少数者は居るんだけど。あなただって家に帰れなくなって、野宿せざるを得なくなるかもしれないのよ。
　あなたが今「野宿者」ではないからといって、野宿しているかもしれない性的少数者を存在しないことにしてもいいの？自分と同じ生活をしている性的少数者のことしか考えなくていいというなら、女性同性愛者のことを考えようともしない男性同性愛者をどうやって批判するの？

●「野宿者という生き方は『多様性の一つ』として擁護すべきものなの？」
　この反応は、例の大阪市長宛の要請書に連名するかどうかということを考える時に、とて重要なものだと思いました。これはセクマイの話というより、ちゃんと野宿者の話なので、記事を改めます。改めて書く予定。

●「でも、それって、またもや男の人の話だよね」
　これ反応には、「その通りだね」としか言いようが無くて、困った！！
　という側面も確かにあります。
　つまり、外見の論理構成上は正しいことを言っているのだけれど、結局は女性が男性に奉仕させられる事って、実はかなり多いです。「同性愛者の権利を守る」と言いつつ実はゲイ男性のことしか運動の中で想定されていなかったり、「在日朝鮮人の権利を守る運動」が実は「在日朝鮮人の男性」の権利を守る運動だったり、「労働者のための労働組合」が「男性正社員のための組合」だったりすることは、決して例外的なことではなく、むしろその方が多いです。女性が痴漢に遭っていることはずっと社会的に放置されてきたのに、やっと痴漢の犯罪化が進んで犯人が逮捕されるようになると、「痴漢えん罪」のことは大々的に社会的関心事になる。女性がパートで低賃金労働を強いられていても社会問題にならないのに、男性のニートが増えると「非正規労働」のことがクローズアップされてくる。今の日本はそんな社会です。
　なので、「またもや、男の人の話だね」という微妙な距離感は、実はあたっているし、的確な指摘。
　以上を踏まえた上で、しかしでは、帰る家と寝るふとんがある人は、野宿する人に比べて社会的マジョリティーなのではないのか、という話は、やはりあります。例えば、不安定ながらも一応家賃を払える仕事があるレズビアンは、女性であり同性愛者であるという点では社会的マイノリティーなんだけど、家があって仕事があるという点で、やっぱり社会的マジョリティーです。別に、個別の野宿者に共感する必要は全くないんだけど、自身のマジョリティーである点についてどう取り組むのかということは、まず持って本人の課題だと思うんだけどな。

●私の感想
　「マイノリティー運動」が、もし、「社会的マイノリティーである『私たち』が、『私たち』の生活の向上のために運動する」というものであるなら、その認識枠組みの弊害がもろに出てくることがあるんだろうな、という印象。正確には、「私たち」というので誰のことを想定するのかという話なんだけど。
　「東京レズビアン＆ゲイ・パレード」をやりたいという人たちにとっての「私たち」が「レズビアン＆ゲイ」でしかないことを、私は強く批判します。そして、もし「私たち」が「日本人」「健全者」「家のある人」のことだけを指すのであれば、「レズビアン＆ゲイ・パレード」が批判されるのとと全く同じ論理構成で、批判を受けるわけです。
　「私たち」の中に何を含めて何を含めないか、などという議論は、私はいい加減おしまいにしたいです。そうではなくて、「私は、社会的な不正を（できるだけ）許さない」という姿勢を一人一人が持つこと、そのためにそれぞれの位置でできることを少しずつ努力することが必要、という風に私は考えたいのですが。
　「アイデンティティーの政治に反対」と私が言うときの意味も、こんな感じです。


　これで終わりじゃないよ〜、これから、こういう話をどんどんしていくんだよ〜それを「楽しみ」だと思ってね〜（笑）

※このトピックで出てくる例は、現実の出来事を参考にして書いては居るんだけど、話を分かりやすくするために誇張したり単純化したり歪曲したりして書いています。なので、具体的な個人や誰かの発言を揶揄するような意図で書いているのではありません。敢えて言うなら、「勝手にネタにしてゴメンね」「話の材料を提供してくれてありがとう」という感じ。ご容赦下され。  </description>
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		<item>
		<title>永易至文さんの発言は、精神障害者を差別するものだと思います</title>
		<link>http://barairo.net/works/index.php?p=79</link>
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		<pubDate>Wed, 07 Feb 2007 15:28:51 +0000</pubDate>
		
	<category>クイア</category>
	<category>社会運動</category>
	<category>レズビアン＆ゲイ・パレード</category>		<guid>http://barairo.net/works/index.php?p=79</guid>
		<description>　東京プライドが、実行委員の応募にあたってボランティアなりの経験があることを求めることに関連した永易至文さんの意見が、東京プライドの現職の理事としていかに無責任で厚顔無恥かは、既に書きました。今回は、永易さんシリーズの第2弾です。

　永易至文さんは、パレードなどのコミュニティー活動が「ごたごたする」理由として、「メンタル的に不安を抱えたり、あるいはメンタル的に傷つきやすい人が集まる傾向がある」「ある種、自分のなかの不全感や欠損感を抱えた人が、それを埋め合わせるものを調達しようとして集まってくる傾向」を挙げています。
　そして当然ながら、あまりに安易にこういう言い方をする永易さんは「精神障害者を差別するものだ」と批判を受けています。

　コミュニティー活動に、メンタル的に不安を抱えた人（など）が集まってくる傾向があることは、私は事実だと思います。しかし永易さんの最大の問題点は、永易さんご自身も「メンタル的に不安を抱えたり、あるいはメンタル的に傷つきやすい人」であり、永易さんご自身が「ある種、自分のなかの不全感や欠損感を抱え」ていて、「それを埋め合わせるものを調達しようとして集まってくる傾向」を体現している可能性に、真摯に向きあっていない（少なくとも私にはそう感じられます）という点だと思います。
　ここであわててつけ加えますが、このことは、特に永易さんだけがメンタル的に不安を抱えていると言っている訳ではありません。私を含め、そして永易さんだけではなく様々なコミュニティーの活動家たちも、一般的な話として「メンタル的な不安を抱えた人」であり、「自分のなかの不全感や欠損感を埋め合わせようとして」活動をしているという側面がある、と私は思っています。
　コミュニティー活動にメンタル的に不安を抱えた人（など）が集まってくるのは、いってみれば当たり前のことです。毎日の生活の中で差別され、疎外され、ないがしろにされているからこそ社会的マイノリティーなのですし、社会の中でそういう扱いを受けている人たちがメンタル的な不安を抱えるのもまた、至極当然のことです。
　だからこそ、コミュニティー活動は、そもそも始めから「メンタル的に不安を抱えた人（など）が集まってくる」ということを前提として、創り上げ、運営していく必要があると私は思っています。



　
「トラブルは他人が起こすもの」と考える傲慢さ

　にもかかわらず、永易さんは、自分以外の人に対して「メンタル的に不安を抱えている」「じつはものすごいエネルギーを持っています」などというレッテルを貼ろうとします。自分のことは棚に上げて、他人に「濃い人」とレッテルを貼り、まるで「トラブルは（自分以外の）そういう特殊な人が起こす」とでもいうかのような偏見を広めています。

　また、メンタル不安を抱えた人が、そうやってあちこちのサークルや活動でトラブルを起こしながら、それらを渡り歩くことも観察されています。あるいはまえのサークルでのトラブルを、つぎの場所でぶちまけては、つぎつぎにトラブルに巻き込んでいきます。（永易至文さんのコメント）

　正直に思っていることを書いているという点だけは評価してもいいですが、当然ながらこういう発言は「精神障害者を差別するものだ」と的確な批判を受けています。
　トラブルというのは、双方の関係の中で起きることです。もちろん場合によっては片方だけが間違っている場合もありますが、「自分の側にもトラブルの原因はなかったか」と問い返す謙虚さも少しは必要ではないでしょうか。
　もし永易さんがコミュニティー活動に参加したいのであれば、まずご自身が言うところの「メンタル不安な人」であることを認めることが必要だと思います。コミュニティーにおける様々なトラブルの原因を、誰かに「メンタル不安な人」というレッテルを貼って、責任を他人に押しつけて誤魔化すのは辞めるべきです。「メンタル不安な人」が居ない場を求めるのではなく、「メンタル不安な人」たちと一緒にどうやってコミュニティー活動を続けていくのか、そのために自分はどんな努力をしなくてはいけないのかを、自分自身の課題と責務として考えるべきなのです。

　
「連絡がつかなくなる」ことの原因は、「メンタル不安な人」だけにある？

　具体的な問題について、考えてみましょう。例えば「突然連絡がつかなくなるのは困る」ということは、集団で社会的な活動をするときには確かにその通りです。
　しかし私であれば、そういう問題に対しても、「突然連絡が付かなくなるのは困る」ということを、まず会の集まりの場で皆で話し合って、確認することを繰り返すことで、対処しようすると思います。もっと具体的対処方としては、例えばメールアドレスだけではなく現住所もお互いに交換するという方法もあります。
　それにそもそも、ちゃんとお互いの個人間の信頼関係ができれば、突然連絡がつかなくなるというようなことも可能性は大幅に減ります。会の内部で、各メンバーが言いたいことを十分に言い合えない雰囲気があるからこそ「突然いなくなる」ということが起きている面が大きいと私は思いますので、まず会のあり方を風通しのいいものにすることで、この問題に対処しようと私はすると思います。
　永易さんに即して言うなら、自分のことを棚に上げて他人のことを「メンタル不安を抱えている」「濃い人」「トラブルメーカー」だと見ているような人ですので、残念がらそんな人に自分のことを話そうと思わない人も多いのではないかと想像します。そんな、差別的で「上から人を見下ろす」ような雰囲気が会内部で容認されていると、（一部エリート活動家以外の）会のメンバーが自由に自分のことを話すことができず、結果的に「突然連絡がつかなくなる」人がいるということも一層起こりえてしまうような気がしてなりません。

　「突然連絡がつかなくなる」という例で考えてみても、組織のあり方や会の雰囲気、永易さんのようなものの考え方の方にこそトラブルが発生する原因がある可能性もある訳です。にもかかわらず、本当に一方的に、他人のことだけを「メンタル不安」と決めつけ、自分の立ち居振る舞いや組織のあり方への自己省察の姿勢も見せず、精神障害者への差別を開き直った上で、相手だけに一方的に責任を負わせようという永易さんの思考回路には、感嘆するばかりです。永易至文さまは、なんとご立派な方なのでしょうか。
　ゲイ男性として長年ご立派なご活動をなさって来られた永易さんはもうお忘れなのかもしれませんが、ごく一般の「ノンケ社会」のなかで、言いたいことを言えなくなったり、内心に反する行動を思わずしてしまったり、そういうことの積み重ねで鬱になってしまったり、その場に結局いられなくなって逃げ出さざるを得なくなったりすることは、多くのゲイ男性も経験していることではないのですか？そういうゲイ男性に対して、その場の構成員から「無責任だ」「精神的に不安定だ」などというレッテルが貼られたりすることもまた、決して珍しくないと私は思うのですが、いかがですか？
　永易さんは、それと同じ事をしています。自分が少し社会的な権力を身に付けたら、今度は自分がされてきたことを他人にするというのは、どこにでもよくあることであるとはいえ、本当に残念なことです。

　
永易至文さんの発言は、精神障害者を差別するものだと思います
　永易さんの考え方が自己中心的な傲慢なものであること、「メンタル不安」を口実として利用して他者だけに責任を転嫁するものであることはこれまで書いた通りです。では、これは精神障害者に対する差別的な発言なのでしょうか。
　ある他人に対して、その人の行動を具体的に検証するのではなく、「メンタル不安な人」というレッテルを貼って対等な対話から排除しようとしていること。自分自身を「メンタル不安な人」のカテゴリーからはずして考え、まるで「メンタル不安であること」が悪いことであったり、トラブルの原因であるかのように書いていること。自分の参加する組織や社会を「メンタル不安な人」でも安心して参加できるものにしていく方法を一切考えようとしておらず、むしろ逆に「メンタル不安な人」をトラブルメーカーだと罵倒し、「メンタル不安な人の引き起こすトラブルから組織を守る」という発想をしていること。
　言葉としては「メンタル不安な人」という言い方をしていますが、まさにここに書いたような被害や抑圧を精神障害者は受けているのではないかと思います。その意味で、永易さんのご意見に対して「それは精神障害者への差別に他ならない」という指摘があるのは、私には当然のように思えます。
（残念ながら私は、精神障害者に対する差別についてそれほど詳しいわけではありません。ですのでこの点について不充分なことを書いていたら、特に読者の方にご指摘頂けると嬉しいです。）

　
永易さん的な行動様式を一掃することが必要

　さきに私は、「問題は、TOKYO Prideによる恣意的な選別の可能性と、永易至文さんの無責任」のエントリーで、永易さんの意見を「結局は自分の特権を開き直るもので、「昔からの左派運動」によくありがちな、「運動内の二重規範」を実践する自己中心的なものの考え方となっています」と書きました。自分を特別扱いし他人とは別の扱いをする、という永易さんの行動様式は、自分のことを棚に上げて他人に「メンタル不安」とレッテル貼りをする事にも一貫しています。
　私たちがもし本当に社会のあり方を変えようと思うのであれば、必要なことは、こういう永易さんのような、しかし永易さんだけの問題ではなくコミュニティーや社会の中、そして「私たち」自身の中にいくらでもどこにでもある「ものの考え方」「行動様式」に反対しつづけることだと、私は思います。

　永易さんシリーズですが、次回は「永易さんのような『エリート活動家』が、ワガママと無責任を開き直るからこそ、コミュニティー活動がごたごたする」という内容の予定です。更に更に、楽しみにお待ち下さいませ♪

　

  </description>
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	</item>
		<item>
		<title>長居公園強制排除問題-33名の賛同人名を大阪市長宛にファックスしました</title>
		<link>http://barairo.net/works/index.php?p=78</link>
		<comments>http://barairo.net/works/index.php?p=78#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 04 Feb 2007 18:00:13 +0000</pubDate>
		
	<category>クイア</category>
	<category>社会運動</category>		<guid>http://barairo.net/works/index.php?p=78</guid>
		<description>　長居公園の野宿者とテント村を大阪市が強制排除しようとしています。そのことに反対する大阪市長宛の要請書の賛同人を、このサイトで募っていました。締切の2月4日24時までに計33名の方の賛同表明がありました。
　先ほど、大阪市市長室秘書課に宛てて、ファックスしました。
　もともとの要請書に、以下の賛同人名と追加コメントを付ける形で、ファックスしました。ご報告します。

　残念ながら、本日、大阪市による強制排除（代執行）が予定されています。詳しくは、釜パト活動日誌などで、報告されると思います。
　「大切なのは5日以降に私が何をするか、だと思っています」とわたし宛にメールで書いていただいた方がおられます。私も、そう思います。




要請書に賛同します。

賛同人
　青木茂（アイヌとシサムのウコチャランケを実現させる会）
　avemaria
　井形　和正（一橋大学大学院言語社会研究科博士後期課程）
　井崎　淳平（高校教諭）
　石塚 祐三（アーティスト）
　いちじゅ（ひきこもり九条の会呼びかけ人）
　太田　久眞（技術者）
　大平正巳（フリーター全般労働組合　執行委員長）
　岡部直人（無職）
　小川 悟
　小野政美（小学校教員）
　川合由香（実務翻訳者）
　木下直子（九州大学大学院生・元大阪市民）
　小松原宏美
　近藤ゆり子（９条の会・おおがき／世話人の一人　岐阜県大垣市在住）
　坂上香（映像ジャーナリスト）
　櫻田和也（記録と表現とメディアのための組織）
　塩安九十九（将来が不安な若者）
　杉村　直美（教員）
　関　千尋（音楽家）
　攝津正 Tadashi SETTSU a.k.a. "Linda"
　田中正治
　仲　晃生
　西川　悟（SATレインボーフラクション）
　noisette
　ぱく（フリーター）
　藤高和輝（大阪市民、学生）
　松平　隆史（精神保健福祉士）
　屋嘉比 優子(生と性はなんでもありよ！の会 プロジェクトＱ 「サバイバル・フェミニズム読書会」メンバー)
　山本眞理（全国「精神病」者集団会員）
　吉原ゆかり（大学教員）
　るか（地球人）
　他匿名1名
　（50音順）

（※実際の要請書には33名の賛同者名で出しました。一般公開時は、本人の意向により1名を匿名にしています。）


賛同人による大阪市長宛追加コメント

●ただただ、強制代執行しようとしてる側に「ふざけるな」と言いたい。絶対にこんな馬鹿げた事はあってはならない。（石塚 祐三）

●強制執行より前にもっとやることがあるはずです。
人の命をどう考えているのでしょうか。
排除して終わりというのであるならば、憲法違反であることは明白です。（小川 悟）

●野宿者を排除するのでは問題は解決しません。ともに生きる人として行政としても接してほしいです。（杉村　直美）

●追い出す前に、住む場所を確保するのが筋です。（関　千尋）

●今回の、野宿生活者に対する差別は絶対ゆるされるものではありません。精神障碍者当事者として言いますが、アメリカでは、精神病者を「精神病院から社会に出す」という目的で「社会に出した」ものの、実際には、ホームレスを増やしただけという実例があります。やはり、実例は、政策に大きく影響されるものです。（経済状態は政治状態に依存される、という考えは支持しませんが）（西川　悟）

●今真冬ですよ！？死ねって言ってるのと変わりませんよね。人権侵害もいいところですよ。法にのっとった方法で分担が決められている我々の税金で行政が行われている以上すべての成員が最低限の生活を営めるよう再分配するのがあなたたち役人の役目です。それとも野宿者の人たちは成員じゃないとでも？そもそもあなた方の政治の無策で野宿者になってしまった人が大半なんですよ。それなのにあなたたちを恨みもせず「自助努力」でがんばってやっておられる人々に感謝するどころか、税金を無駄使いして排除ってこれ以上無能をさらす気ですか？ちゃんと物を考えて「人間的に」仕事してください！！（noisette）

（※一般公開時は、本人の意向により1名の追加コメントを匿名にしています。）  </description>
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	</item>
		<item>
		<title>長居公園強制排除問題-要請書を送りました→ 引き続き賛同者を募集中です！→締切りました</title>
		<link>http://barairo.net/works/index.php?p=77</link>
		<comments>http://barairo.net/works/index.php?p=77#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 30 Jan 2007 16:24:45 +0000</pubDate>
		
	<category>クイア</category>
	<category>社会運動</category>		<guid>http://barairo.net/works/index.php?p=77</guid>
		<description>　長居公園の野宿者やテント村の強制排除（強制代執行）に反対する要請書を、1月29日に大阪市長宛に郵便で送付し、同時に市長室秘書課宛にFAXしました。
　もともとは私一人で出そうかと思っていた要請書なんですが、せっかくなので一緒に出す人はいないかなと思ってこのサイト他で少しだけ呼びかけをさせてもらいました。人数を集めることにはあまりこだわらなかったのと、「急いで出さなきゃ」と少し焦ってしまったため、私のサイトに載せてから24時間もない中で連名を締め切ってしまったのですが、結局9名の連名で出すことができました。
　今日の報道によると、残念ながら強制代執行の予定日が2月5日（月）に決まったようです。締切後に要請書に賛成の意志を示してくれた方もおられますので、せっかくなので、引き続き2月4日（日）の24時まで、要請書に賛同される方を募集します（締切りました）。お名前を出しても構わないという方は、是非メールフォームでご連絡下さい。
　なお、こういった意見はいろんな立場の人が自分の立ち位置から直接訴えて行く方が、一つの声明に人数をまとめるよりもいい場合もあります。ご自身で要請などをされる方は、以下の宛先にされるといいと思います。

●郵送
〒530-8201 大阪市北区中之島1-3-20　大阪市長　關　淳一

●TEL&amp;#038;FAX
Tel 06-6208-7231　Fax 06-6202-6950　（市長室秘書課）
　

●要請書に賛同していただける場合には、2月4日（日）24時までに、以下の情報をひびのまでお送り下さい（専用のメールフォームを創りました）（締切りました）。

1：大阪市に提出する要請書に記載する「名前」
　　　必ずしも、法的書類上の名前である必要はありません。
　　　（※法的書類上の名前とは違う名前で日常生活や社会生活を送っている人を想定してのものです。大阪市に提出するものですので、「誰のことか」をある程度特定できる名前でないと、あまり意味がないと思います。ーー2/3追記）
2：大阪市に提出する要請書に記載する「肩書きなど」
　　　職業、身分、団体名、その他なにか短く付け足したいことがあれば。
　　　例：大学生、○○大学文学部4回生、フリーター、○○の会参加者
　　　　　大阪市民、活動家、オカマ、などなど
3：要請書は提出後にインターネットその他で一般公開し、著作権を放棄して誰でも転送転載可能な状態にする予定です。要請書は既に提出されていますので、どなたでもご自由にご利用下さい。転載転送を歓迎します。また、賛同人名も一般公開を予定していますので、お名前を一般公開することを望まれない場合には、必ずその旨をお書き添え下さい。

●提出
・今回は事実上、強制排除の当日に抗議の意思を表明することになりますので、大阪市には、FAXの送付のみとします。
・要請書の本文に、賛同者名・肩書き（あればコメントも）などを付けて、2月5日早朝にFAXします。


　
以下が、大阪市に送付した要請書です。
・末尾に、連名した人の名前と、追加コメントが載っています。
・前回エントリーに掲載されていた要請書の誤字を直して、送付しました（誤：驚異　正：脅威）。
・PDFファイルでもダウンロードできるようにしました（約1MB）。


　


このページ及び要請書は、どなたでもご自由にお使い下さい。
　



　


要請書

大阪市長　關　淳一様

　初めまして。
　私たちは、性的マイノリティーの権利のために活動する個人です。
　今回、大阪市が、長居公園テント村の強制排除をしようとしていることを知り、大きな危惧を抱き、本状を差し上げることにしました。

【性的マイノリティーに対する大阪市の方針】
　關市長は、昨年10月に行われた「関西レインボーパレード」に際して、メッセージを寄せられました。そのメッセージで關市長は、多くの性的マイノリティーが「社会的な偏見」にさらされている事を認め、性的マイノリティーがパレードを通じて、個性を尊重し、多様性を認める社会を実現することを応援されました。
　またパレード直前には、ダブルの部屋に男性が２人で宿泊するのを拒否した市内のホテルに対して、旅館業法（宿泊させる義務）違反にあたるとして、大阪市保健所が営業改善を指導するということもありました。
　さらに、大阪市の創造都市戦略策定プロジェクトチームが昨年発表した「事業提案−中間報告資料」では、「本当に人にやさしいまち大阪」という項目があり、「行政が多様な人の生き方を積極的に認める姿勢を打ち出す」という目標の下、「多様な生き方に現在の法律が追いついていない様々な結婚の形態を行政の代表である市長が祝福することによって、市民のそれぞれの生き方の選択肢を積極的に行政が認めていく姿勢を示す」と明記されています。結婚にこだわる点では難があるとはいえ、性的マイノリティーを肯定する明確な方向性を感じることができます。
　こういった大阪市の姿勢は、長く社会的な偏見にさらされてきた性的マイノリティーにとって、とても心強いものでした。法律を口実にして少数者を差別するのではなく、逆に法律の範囲を超えて人権を広げていく立場に行政が立つことは、とても素晴らしいことであると共に、行政が本来果たすべき役割でもあります。
　行政の中には、例えば石原東京都知事が、オリンピック招致のため「新宿２丁目は美観とはいえないため、新たな条例を作り、規制をかけるつもりだ」などと述べている例もあります。性的マイノリティーが創り上げてきたコミュニティーや空間・文化を攻撃しようという首長もいる中で、大阪市の方針は、性的マイノリティーにとってのみならず、本当に多様な人々にとって魅力的なものなのです。

【野宿者に対しても想像力を】
　しかし私たちは、性的マイノリティーに対しては想像力を持ち、人権擁護の立場から接していこうという大阪市が、長居公園の野宿者に対して、世界陸上大阪大会のために強制排除という方針で臨むということに、失望を感じざるを得ません。これではまるで、オリンピック招致のために新宿2丁目を規制しようという石原知事と同じではありませんか。
　「多様な人の生き方」の中には野宿生活をする人は含まれないのでしょうか。「多様な生き方に現在の法律が追いついていない」という言葉は、そのまま野宿生活を強いられている人たちにもあてはまるのではないでしょうか。定職も定住する家もない状況に置かれた人たちが、自分たちの努力でやっと創り上げたコミュニティーである長居公園のテント村を、大阪市が敢えて強制排除するということは、「国際人権都市大阪」の名には相応しくありません。
　万が一大阪市が強制排除に至るようなことがあれば、それは野宿者に対する社会的偏見の上にあぐらをかいた暴挙です。若者による野宿者襲撃が全国で問題になっていますが、強制排除は、法律を悪用して野宿者を襲撃することに他なりません。

【野宿は人ごとではない】
　また、性的マイノリティーにとって、野宿は人ごとではありません。性別のあり方が典型的なそれとは異なっているということで、職場で差別を受けたり、不当に解雇されたり、もしくはそもそも雇用の段階で切られるということは、実に頻繁にあることです。典型的な男性や女性ではない人を、一体どんな職場が進んで受け入れてくれるのでしょう。残念ながら今の社会に於いては、性的マイノリティーであることで、安定した職に就けない人が沢山いるのです。
　だからこそ、野宿者を強制排除するような大阪市の方針は、性的マイノリティーにとっても脅威だということを知ってください。それは、もしかすると明日の私たちに対して向けられるものであるかもしれないからです。

【要請】
　私たちは、性的マイノリティーに対して人権尊重の立場から努力されている大阪市が、性的マイノリティーに対して思いを馳せているのと同じような態度で、野宿者に対しても接することを望みます。
　もし本当に大阪市が性的マイノリティーの人権を守ろうと考えるのであれば、野宿者に対する社会的偏見とも闘うことが必要です。法律を口実にして野宿者を強制排除するのではなく、逆に法律の範囲を超えて野宿者の権利を広げていく立場に立つことが、大阪市には求められているのです。

　私たちは、まず何より大阪市による野宿者の強制排除に反対し、長居公園テント村の存続を求めます。そして、野宿者を始めとする社会的マイノリティーを含む、全ての人に生きやすい政策をとられるよう、求めます。


　お忙しいところとは思いますが、「本当に人にやさしいまち大阪」を創るためにこそ、ご検討いただきますよう、お願い申し上げます。

2007年1月29日

　遠藤まめた（大学生　Rainbow Collegeメンバー）
　河野なお（学生）
　篠宮早苗（元大阪市在住者）
　竹上　幸（学生）
　Toppie!（ジェンダークィア活動者 / A-menace collective / 「持たざる者」の国際連帯行動）
　ひびの まこと（京都★ヘンナニジイロ祭スタッフ / 関西クィア映画祭実行委員）
　水上伸子（成人　選挙権あり）
　他匿名2名
　（50音順）
（※実際の要請書には9名の連名で出しました。ネット掲載時は、本人の意向により2名を匿名にしています。）
（追加意見）
　障害者が、本人の収入に見合わない介護費を負担させられ（介護費を負担させることにも疑問はありますが）、世帯を同じくする家族の収入も本人の収入とみなし強引にセケンの「自立」に組み込むことは、障害者や、共に生きる人をとても生きにくくします。
　母子家庭の生活保護が打ち切られることになりましたが、母子家庭で障害者と共に生きている人の生活はとても厳しいです。そのような生き辛い状況では、野宿というのは例外ではありません。他にも、自分の意志に反して様々な理由で野宿せざるを得ない障害者、や近しい人がいます。
　私は障害者と共に生きる者で、幸いにも悪法である自立支援法の施行された現在でも生活できています。また、家族の障害認定（勝手に決めんな）も重度なため負担額も軽いです。が、このように制度によって分け隔てられ、障害者や、共に生きる人をも分断する制度に反対します。
　その立場と、性的マイノリティーへの差別を反対する立場から、この要請書に署名しています。（河野なお）


●代表連絡先（※実際の要請書には、ひびのの住所と電話番号、E-mailアドレスを記載しました。ネットでは省略します。）

【資料】
「創造都市戦略策定プロジェクトチームによる事業提案−中間報告資料−」(PDF：1,418KB)
http://www.city.osaka.jp/keieikikakushitsu/keieikikaku/toshi_team/pdf/data.pdf



このページの以下のコメント欄は、長居公園強制排除に関する各自の意見表明などに使ってくださいませ。

  </description>
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	</item>
		<item>
		<title>長居公園の強制排除に反対する要請書ー連名募集中！（いったん締切）</title>
		<link>http://barairo.net/works/index.php?p=76</link>
		<comments>http://barairo.net/works/index.php?p=76#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 27 Jan 2007 18:56:36 +0000</pubDate>
		
	<category>トランスジェンダ</category>
	<category>クイア</category>
	<category>社会運動</category>		<guid>http://barairo.net/works/index.php?p=76</guid>
		<description>　長居公園の野宿者の強制排除が危惧されています。この件につき、大阪市長宛に要請書を送ろうと思います。
　以下に、私の文例を示します。もしこの内容に共感される方がおられましたら、よければ連名で出しましょう。
（締切は今夜！1/28（日）24時）

●連名していただける場合には、1/28（日）24時までに、以下の情報をひびのまでお送り下さい。（締切は今夜！）

1：大阪市に提出する要請書に記載する「名前」
　　　必ずしも、法的書類上の名前である必要はありません。
2：大阪市に提出する要請書に記載する「肩書きなど」
　　　職業、身分、団体名、その他なにか短く付け足したいことがあれば。
　　　例：大学生、○○大学文学部4回生、フリーター、○○の会参加者
　　　　　大阪市民、活動家、オカマ、などなど
3：要請書は提出後にインターネットその他で一般公開し、著作権を放棄して誰でも転送転載可能な状態にする予定です。お名前を一般公開することを望まれない場合には、必ずその旨をお書き添え下さい。

●提出
・大阪市には、印刷した要請書を郵送すると共に、可能であればFAX、メールでも同内容を大阪市宛てに送付します。


　


要　請　書

大阪市長　關　淳一様

　初めまして。
　私たちは、性的マイノリティーの権利のために活動する個人です。
　今回、大阪市が、長居公園テント村の強制排除をしようとしていることを知り、大きな危惧を抱き、本状を差し上げることにしました。

【性的マイノリティーに対する大阪市の方針】
　關市長は、昨年10月に行われた「関西レインボーパレード」に際して、メッセージを寄せられました。そのメッセージで關市長は、多くの性的マイノリティーが「社会的な偏見」にさらされている事を認め、性的マイノリティーがパレードを通じて、個性を尊重し、多様性を認める社会を実現することを応援されました。
　またパレード直前には、ダブルの部屋に男性が２人で宿泊するのを拒否した市内のホテルに対して、旅館業法（宿泊させる義務）違反にあたるとして、大阪市保健所が営業改善を指導するということもありました。
　さらに、大阪市の創造都市戦略策定プロジェクトチームが昨年発表した「事業提案−中間報告資料」では、「本当に人にやさしいまち大阪」という項目があり、「行政が多様な人の生き方を積極的に認める姿勢を打ち出す」という目標の下、「多様な生き方に現在の法律が追いついていない様々な結婚の形態を行政の代表である市長が祝福することによって、市民のそれぞれの生き方の選択肢を積極的に行政が認めていく姿勢を示す」と明記されています。結婚にこだわる点では難があるとはいえ、性的マイノリティーを肯定する明確な方向性を感じることができます。
　こういった大阪市の姿勢は、長く社会的な偏見にさらされてきた性的マイノリティーにとって、とても心強いものでした。法律を口実にして少数者を差別するのではなく、逆に法律の範囲を超えて人権を広げていく立場に行政が立つことは、とても素晴らしいことであると共に、行政が本来果たすべき役割でもあります。
　行政の中には、例えば石原東京都知事が、オリンピック招致のため「新宿２丁目は美観とはいえないため、新たな条例を作り、規制をかけるつもりだ」などと述べている例もあります。性的マイノリティーが創り上げてきたコミュニティーや空間・文化を攻撃しようという首長もいる中で、大阪市の方針は、性的マイノリティーにとってのみならず、本当に多様な人々にとって魅力的なものなのです。

【野宿者に対しても想像力を】
　しかし私たちは、性的マイノリティーに対しては想像力を持ち、人権擁護の立場から接していこうという大阪市が、長居公園の野宿者に対して、世界陸上大阪大会のために強制排除という方針で臨むということに、失望を感じざるを得ません。これではまるで、オリンピック招致のために新宿2丁目を規制しようという石原知事と同じではありませんか。
　「多様な人の生き方」の中には野宿生活をする人は含まれないのでしょうか。「多様な生き方に現在の法律が追いついていない」という言葉は、そのまま野宿生活を強いられている人たちにもあてはまるのではないでしょうか。定職も定住する家もない状況に置かれた人たちが、自分たちの努力でやっと創り上げたコミュニティーである長居公園のテント村を、大阪市が敢えて強制排除するということは、「国際人権都市大阪」の名には相応しくありません。
　万が一大阪市が強制排除に至るようなことがあれば、それは野宿者に対する社会的偏見の上にあぐらをかいた暴挙です。若者による野宿者襲撃が全国で問題になっていますが、強制排除は、法律を悪用して野宿者を襲撃することに他なりません。

【野宿は人ごとではない】
　また、性的マイノリティーにとって、野宿は人ごとではありません。性別のあり方が典型的なそれとは異なっているということで、職場で差別を受けたり、不当に解雇されたり、もしくはそもそも雇用の段階で切られるということは、実に頻繁にあることです。典型的な男性や女性ではない人を、一体どんな職場が進んで受け入れてくれるのでしょう。残念ながら今の社会に於いては、性的マイノリティーであることで、安定した職に就けない人が沢山いるのです。
　だからこそ、野宿者を強制排除するような大阪市の方針は、性的マイノリティーにとっても驚異だということを知ってください。それは、もしかすると明日の私たちに対して向けられるものであるかもしれないからです。

【要請】
　私たちは、性的マイノリティーに対して人権尊重の立場から努力されている大阪市が、性的マイノリティーに対して思いを馳せているのと同じような態度で、野宿者に対しても接することを望みます。
　もし本当に大阪市が性的マイノリティーの人権を守ろうと考えるのであれば、野宿者に対する社会的偏見とも闘うことが必要です。法律を口実にして野宿者を強制排除するのではなく、逆に法律の範囲を超えて野宿者の権利を広げていく立場に立つことが、大阪市には求められているのです。

　私たちは、まず何より大阪市による野宿者の強制排除に反対し、長居公園テント村の存続を求めます。そして、野宿者を始めとする社会的マイノリティーを含む、全ての人に生きやすい政策をとられるよう、求めます。


　お忙しいところとは思いますが、「本当に人にやさしいまち大阪」を創るためにこそ、ご検討いただきますよう、お願い申し上げます。

2007年1月29日


　ここに名前（ここに肩書きなどあれば）

●代表連絡先
（**ここにひびのの連絡先を書きます）

【資料】
「創造都市戦略策定プロジェクトチームによる事業提案−中間報告資料−」(PDF：1,418KB)
http://www.city.osaka.jp/keieikikakushitsu/keieikikaku/toshi_team/pdf/data.pdf


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		<title>自彊館闘争〜野宿者とセクシュアルマイノリティー</title>
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		<pubDate>Thu, 25 Jan 2007 11:18:07 +0000</pubDate>
		
	<category>トランスジェンダ</category>
	<category>男女という制度</category>
	<category>クイア</category>
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		<description>　先日長居公園に行ったのは、実はもう一つ目的がありました。行けば、自彊館闘争のKさんに会えるのではないかということ。実際、「プチ大輪まつり」でKさんにお会いし、少しお話しすることができました。
　自彊館闘争というのは詳しくは「ユニオンぼちぼち」のサイトからチラシをダウンロードしてもらうといいんですが、「性同一性障害に対するセクハラへの謝罪と雇い止め撤回を求める裁判闘争」のことです。（PDFではなくテキストで見たい人はこちら）


自彊館闘争とは
　チラシによれば、Kさんは、自分が性同一性障害であることを報告して採用されたにもかかわらず、「男か女かはっきりしろ」「野宿者から蔑視される」など差別的な言葉を浴びせかけられたあげく、仕事を取り上げられ、雇い止めにされてしまいました。性別という領域で、典型的ではないあり方を持っていた為に解雇されたということで、性的マイノリティーへの差別だとこの事件を位置づけられます。
　また、正社員であれば簡単には解雇はできませんが、非正規雇用の労働者の安易な首切りの典型的な方法である「雇い止め」が行われていることから、非正規雇用の労働者への差別という観点からも、この事件は位置づけられると思います。

　実はこの裁判、性同一性障害もしくは性的少数者の不当解雇という問題を提起した裁判としては、日本でまだ2例目ではないかと思います。「まず取りあえず当事者が集まる場を創る」「とにかく合法的に手術をできるように」といった本当に最初の最初の段階から、生活の現場の問題が具体的な争点として浮上できるような段階に来たんだと思います。「トランスジェンダー/性同一性障害の人を尊重しよう」というお題目では済まなくなってきたということ。そういう意味で、ヨシノユギさんの裁判闘争と並んで、いま大切な現場だと私は思っています。


自彊館とは
　ところで、この自彊館という名前、私には聞き覚えのある名前でした。
　以前、日雇労働者の街である大阪の釜ヶ崎で、労働運動（*注1）の支援や医療支援をしていた時に、自彊館の名前はよく出てきました。特に年末年始など現場仕事がなくなる時に、また取りあえず生活保護を取って一時しのぎをするために、野宿を強いられている人たちを屋根のある部屋で寝れるように、「自彊館に入れる」ということを「自彊館押し込み闘争」として、対行政闘争として、「私たち」はやっていました。
　そしてもう一つ皮肉なことに、その「自彊館」も両手を挙げて絶賛するような施設ではなく、アオカン（野宿）よりはマシ、という程度のものでしかなく、実際に自彊館に入ったことのある人たちからは悪口も聞こえてくる、そんな施設でした。


寄せ場・野宿者・セクシュアルマイノリティー

　寄せ場とは、日雇い労働者が仕事を得るために集まってくる場所です。大阪の釜ヶ崎は、日本最大の寄せ場でした。
　さて実際に釜ヶ策近辺を歩いてみれば、女装者、もしくはトランスジェンダーであると思われる人を何人も見かけることができるでしょう。ゲイバーで必須の「若さ」をうっていたママさんが、年を取ったとき、一体どういう仕事に就くことが出来るのでしょうか。服装や言葉遣い、過去の経歴などについてうるさいことをいわない現場系の力仕事しかできなくなってしまう性的少数者は、沢山いるはずです（但し私の知る限り、MtMかMtFがメイン）。理念の問題としてではなく、現実の問題として、寄せ場には、たくさんのセクシュアルマイノリティーがいましたし、今もいます。
　しかしそういったことは、私が関わっていた当時の運動の中ではほとんど話題になりませんでした（最近では、少しは話題になっているようです）。
　逆に、性的少数者の運動の中でも、話題としては、仕事を持っており、住む家がある、そういう性的少数者のことが話題の中心です。というか、日雇い労働や野宿生活をしている性的少数者のことが性的少数者の運動の中で話題になった事って、ほとんど無いのではないかしらん。

　わたし個人の運動歴でいうと、始めは学生運動やいろんな社会運動の中にいて、そこで性的少数者の権利の問題を訴え始めたんだけど、どうしても話が合わないというか、端的にいって「テンポが遅すぎる」ということがあり、セクマイ当事者色の強い運動現場に行き着いたという歴史があります（*注2）。釜ヶ崎の運動のことに戻すと、私の学生当時は、やっと運動内部の女性差別が公的かつ公然と問題化されてきたところでした。
　いろんな運動現場で性的少数者の話を持ち出すと、様々な理由を付けて後回しにされます。「ここは●●の問題を扱うために皆が集まっているんだ、性的少数者の話は大事だろうが、ここではなく、他でやってくれ」というのが、典型的なもの言いでした（*注3）。「●●」の問題の当事者の中にも性的少数者がいる事は無視され、「●●」の中のマジョリティーの問題だけが、まるで「●●」の問題であるかのように偽装されてしまうのです。
　そしてだからこそ、こういう「ものの発想」と闘うことこそが、私の活動家としての中心的なアイデンティティーの一つになりました。（「レズビアン＆ゲイ・パレード」の名称問題にこだわる私の理由の一つも、ここにあります。）


自彊館闘争と野宿者
　だからこそ、わたしは、これと同じ事（裏バージョン/セクマイだけのことを考えること）をしたくないのです。
　自彊館闘争は、おそらくまず、セクマイ差別に対する闘いです。しかしこの闘いについて語るとき、そもそも自彊館とはどういうところか、野宿者や日雇い労働者がどういう状況に置かれているのか、そういったことに触れないで、「セクマイ差別」の観点だけでこの問題について語ることは、私にはどうしても不充分に思えてならないのです。
　敢えて言ってしまうのなら、自彊館闘争は「仕事があった人がクビになった話」ですが、そもそも仕事にありつけずに生活保護を受ける人が来るのが自彊館です。ですので、簡単に野宿者の運動と自彊館闘争とが協力できる訳ではないとも思います。しかし、強制排除に反対するための長居公園での「プチ大輪まつり」でKさんにお会いできたこと、そして立ち話ではあったけれどこのページに書いたようなことを少し直接Kさんとお話しできたことが、私には何より嬉しかったです。



●リンク
ユニオンぼちぼち
大阪自彊館

釜ヶ崎パトロールの会
野宿者問題とは
釜パト活動日誌

釜ヶ崎支援機構

大阪市：野宿生活者（ホームレス）対策について



●注釈

（*注1）
　当時は、「野宿者」ではなく「日雇労働者」という言い方が運動では一般的でした。社会的に「浮浪者」「怠け者」というレッテルを貼られやすかったことに対抗し、ホームレスの多くは、実はビルや橋など生活に不可欠なものを実際に造っている労働者なんだ、そういう不可欠の人材が日雇いという不安定な状況に置かれているんだ、ということに重点を置いていたんだと思います。現在は高齢化が進み、職も減り、実際に仕事がしたくてもできないという人が増えてきたこともあってか、「野宿者」がよく使われているようです。


（*注2）
　詳しくはたとえそこがどこであってもとか、私の変わらぬ思いをご参照下さい。


（*注3）
　つい最近も、働く女性の全国センターの呼びかけ