●きっかけ
よろしくお願いします。
実は、今回「ひっぴいスペシャル」ということで、一週間こちらの方に来て色々やらせていただくことにしたんですが、非常に大きなきっかけがありまして。それが同性愛者として難民申請をしているシェイダさんの裁判に行って、あの裁判勝たなきゃいけないと今でも思ってますし、全然そこはぶれてないんですが……ところでこの裁判のこと、知ってます?
イラン人のゲイ男性であるシェイダさんという人が日本で難民申請をして、難民として受け入れてくれということだけれども、日本政府がそれを認めなかったので、それの裁判をしています。それでシェイダさん側の主張はすごく正しいな、と思って。ちょうど私、この間パレスチナに行って、捕まって、イスラム文化圏とホモフォビアのことが気になったりしていて、それでちょっと裁判とか、その時、証人として出た方の話を聞くために東京に来ていて、ある飲み会の場で話をしてたら……。
●『バイセクシュアル』はセクシャルマイノリティでない
あるゲイと喋っていたらですね、「『バイセクシュアル』はセクシャルマイノリティでない」と(笑)言われたの。「ああ、懐かしい」とか思ったんですけど。で、その人、割とそれを自信たっぷりに言わはって…そこにいる人の中でみんながそうだったという訳ではないんですけど。
ああ、ちゃんとそういうこと、「バイセクシュアル」のことは主張として出していかないといけないのか、と思い直しました。最近おとなしくしてたんですね。「バイセクシュアル」というやり方で出すのはあまりしてなかったんですが、主張する人がいないと、へんなこと言う人が出てくるんだ、と思って。「ああ、これは出すだけちゃんと出していかないといけないかなあ」と思い直しました。それから、あと、最近、伏見憲明さん、ちょっと色んなところで、私から見たら極めて問題のある文章を書いていますので、その辺もはっきり意見を言って、少なくとも、みんなで討論するような場を持てたらなあ、という風に思いますので。バイネタは割と論争になるテーマですので、是非思ったことを言って考えるという場にしたいなあと思ってます。よろしくお願いします。
●性的な暴力について
それで、私、まえがきがいつも多いんですが、緑の紙を見てください。公の場所でお話をする時にいつも配らせていただいています。説明をちゃんとやるとこれで数時間かかるのでそういうことはしませんが、全ての場所で、つまり、たった今、この場所で、もしくはこの後、帰りしなに、もしくは二次会があったらそこで、性的な暴力は起こり得るんだ、という風に私は考えています。要するに、それは人と人との関係の中でいつでも起こり得ることだと考えています。そして、そういう場合に一番加害者になりやすいのは、主催者であったり、パネラーであったり…だから私がここで喋っているというのは、私が権力を手放すための一環でもあるんだけど、私が喋っていると私が権力を握っちゃうという問題もあるんですが…が、加害者になりやすい。つまり、何となく力を持ってる人や、その人がいない場が成立しないような人に対して「No」って言いにくいんですよね。「嫌だ」とか「それ違うと思う」とか、そういうのすごく言いにくいです。そういうことがすごく状況を悪くすることがある。「No」と言ってもいいし「嫌だ」と言ってもいい、と。これはすごく大事なことだし、あと、自分が「なんか嫌だな」と思うことをされたら、みんなに「嫌だ」ということを言って助けを求めてもいい、とか。それは大事な問題だから話をしなきゃいけないと、少なくとも私は考えている、ということだけ、お伝えさせていただいて、これはおしまいです。
● 「バイセクシュアル」という言葉にフォーカスします
じゃあ、ちょっと「バイセクシュアル」の話をさせていただきます。それで、あらかじめ言っちゃいますと、とりあえず「バイセクシュアル」という言葉に割とフォーカスをして今日は話してしまいます。同性も異性も、男女、もしくはそれ以外の性別の人も好きになる人の中で「『バイセクシュアル』だ」というアイデンティティを持たない方がたくさんおられます。で、そういう人達のことを排除したい意図がある訳では全然ないんですが、話を特化するために、一応「バイセクシュアル」という言葉を巡って性別というものを考えていきたいという風に思います。
まず、クイズ。このレジュメ、なんか順番が変なんですが、このクイズをちょっと書いてみてください。レジュメの一番分厚い閉じてある奴の右側にあります。 あれ?レジュメがない?これです、これ。そのクイズを良かったら、みなさん…
(スタッフ「レジュメが足りなくなって」)
ああ、今、作ってるんだ。ごめんね。じゃ、みんなでしようよ。
(レジュメ作成・配布。 その後レジュメの1ページ目にあるクイズをしてみる)
このテキストを読まれる方にも、
実際にクイズをしてみてから、
この先を読まれることをお勧めします。
(クイズA)
恋愛やセックスという点で、どんな条件の人をあなたは好きになりますか?
あなた自身の基準/条件を、とりあえず気楽に3つ書いてみてください。
1)
2)
3)
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(クイズB)
(クイズB)
あなたが好きになるタイプの人とそうでないタイプの人とにあえて人類を二つに分けるとしたらどうなりますか?
図示してください。
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本当にどこかに実際に書いてみてね!
●(クイズA)について
これはどういうことを考えてもらうための問いかっていうと、まあ、ここで聞きたいことは一つで「性別は条件として入っていますか?」ということを聞くための問いです。で、バイネタをやる時に割とホモフォビアの話がないがしろになることがあるので、それを避けるためもあって、これをやるんですが。
「どんな人を好きですか?」と言った時に性別を挙げなかった人達がもしおられたら、ちょっと考えて欲しいんです。「本当に性別は関係ないから挙げなかったんですか?」…イントロダクションとして簡単に言っちゃうと、性別に本当に関係ないからここに性別を挙げなかったんでしたら全然、勿論ごく普通にそれだけのことなんですが、非常に今のヘテロ社会…強制異性愛の社会では「好きな人、どんな人?」と言った時に、性別の条件を挙げないで、それは異性であるというのを前提として振る舞うというのが、とても頻繁になされています。それは非常に困るし、良くないよ、ということを考えていただくための話です。…というのがひとつですね。
性別のことに関しては前提にしちゃってて。多分、このミックスの場所でゲイやレズビアンの人がこういう問いをされたら、ジェンダーを当たり前のようにすっと入れるかも知れないけど、逆にレズビアンだけの場所…というのがあるかどうか…たとえば、ゲイだけの場所、コミュニティの中で同じような質問が出された時に「ちゃんと性別を入れますか?」っていうことも、ちょっと考えてもらえるとうれしい。…でも、まあ大概自覚的な人はいれるんですよね。
●(クイズB)について
では、二つの目の(クイズB)です。…ええと、書いた?(笑)
確かにプライバシーなので、書く必要はないといえばないですが。横の人も見れるしね。書かないのかなあ、と思って。
「バイセクシュアル」っていう話をする時に、よく分かりやすくやるんですが、まあ、まずこの紙全体が人類全体だとします。

一般的に多くの人は、これをまず男か女かに分けるんですよね。

で、世界を男か女かに分けて、こっちを好きな人は…まあ、主語がどっちになるか知りませんけど…異性愛だったり同性愛だったり。こっちを好きだった人は異性愛だったり同性愛だったり、と。要するに「人類、まず誰を好きになりますか?」っていう話をする時に、人類をこの二つに分割して「どっちなの?」っていうアプローチをする方が非常にたくさんおられるんですね。
「バイセクシュアル」のことは「男も女も好きな人」という風に見てはる誤解があるなあという風に私は思ってて。私は,実はそうではないよ、「バイセクシュアル」であるということは、基準がこういう風に引かれるんだと思う。

これの上と下に引かれるんだ、と。…ということなんだという風に思ってます。それのことを分かりやすく示すための図を2ページのところに描きました(レジュメとは違いますが、最新版の図示)。人類をいくつかに分ける分け方というのはいっぱいあります。つまり、「あなたのいけるタイプといけないタイプに人類分けて」と言われた時に、何故「男か、女か」という問い、その分割線だけが特別な意味を持つのか、ということを考えて欲しい。そういうことです。それに尽きてしまうというか、これで大体バイネタの話、基本的に終わり…という話ではあるんですが。
●性自認の方が揺れる「バイセクシュアル」
実はもう一つあって、私、最初そういう人の話を聞いた時に、すごい違和感と「何、それ?」とか思って、すごい険悪な感じになったのは、実は性自認の方が揺れる人の話なんですね。今私がしてた話というのは、性自認…大丈夫よね、ここでは。その言葉。説明しなくても。今言った話というのは、割と性別違和のない人のワールドの話をしてた訳で、性別違和がある人がいて、その人の中には、たとえば自分が男であると今も思っているとか、女であると今も思っている…それが日によって変わったりするような人がいますよね。それから「どちらでもない」とか、要するに明確な(典型的な)男女でない人達。そういう人達がある特定の性別を好きになる人だったらどうなるか。…本人としては「それは『バイセクシュアル』なんだ」と言っていたけれども、私のあり方とは違っていたものですから、「え? アンタは男が好きなの? 女が好きなの? 何が好きなの? はっきりして。誰が好きなの?」って最初は詰めちゃったんですけど(それは私が未熟だったってわけで)、そういう話ではなくて、確かに言葉の定義的に言って、性自認の方がゆれる場合も「バイセクシュアル」っていう風になるなあと思わされたことがあります。
私がその辺、自分のことを中心にして進めるきらいがこの件に関してもあるものですから、以降の話は、性自認の揺れがないという人達の話がベースになっちゃってます。その辺はちょっとご容赦ください。でも、そういうアプローチもあるんだ、ということだけ覚えておいてください。
●「バイセクシュアル」は別の問題を提起している
「バイセクシュアル」ということで問題提起していることというのは、単純にホモフォビアを問題化するとか、強制異性愛を明らかにするとかいうことではない、という風に私は考えています。
ちょっと飛ばしすぎたかな。もうちょっと戻って説明しておきましょう。どのレベルの話をすればいいのか分からないんですけど、「『バイセクシュアル』って男も女も好きになって、誰でも好きになれるから、いいね」と思ってたら、それは誤解ね。だいたい性別以外の線があるので。その辺も誤解しないでね。…これはヘテロ向きの説明かな?
で、「バイセクシュアル」の話を考える時に、私がよく縁があったのはゲイのコミュニティなんですが、ゲイのコミュニティの中ではホモフォビアの問題、強制異性愛の問題が中心で、「強制異性愛の問題を考える」っていう風に言うと、「男も女も好き」って言うと、どっちつかず、中途半端な扱いをされるんですね。「お前はどっちが好きなのか。男が好きなのか、女が好きなのか」ということを言われる。要するに「同性を好きになるっていうことに誇りを持とう」とか、「異性を好きになることを強いられている社会だ」とか、そういうことを中心にして考えると、「男も女も好き」とかいうのは、二次的な問題になってしまうんです。だからそういう問題群とは別の問題を提起しているんだ、という風に言うことが、「バイセクシュアル」について語る時には分かりやすいのかなあと思って、最近はこんな風に考えています。
●一枚ずつ皮が剥がされてきた
人は…(黒板に描く)…ノーマルっていうワールドで生きてる訳ですね。

世界はノーマルで普通で、いつものように生きている。強制異性愛/異性愛中心の世界ということなんですが、「性」っていうことで考えた時に、この「当たり前」っていうものがどういう順番で異議申し立てがなされてきたかということをみてみます。
まず始めにウーマンリブやフェミニズムの方から、まず「ジェンダー」という言葉が作られましたよね。

これは生物学的な性別と社会的な性別というのは違うんだ、ということを明らかにする。つまり、男は男らしくして、女は女らしくして、男は女を好きになって結婚してという「当たり前」のワールドに対して、多分最初にはっきりと「それは違う」というのを出したのはジェンダーという言葉だと思います。それで、生物学的な性別の問題と社会的な性別の問題は別だ、と。だから、男だから男らしくするとか女だから女らしくするというのは違う。「ノーマル」というものに対して、そういう異議申し立てがまず一つあった。
ところが、この枠組み、つまり、ノーマルな世界に対しての「ジェンダー/性別は社会的なものなのだ」という問題提起。ノーマルな世界が実は「女性差別の社会である」ということ。このことは明らかになったんだけど、でもこれだけではやっぱり不十分で。実はこのワールド自体が強制異性愛/異性愛中心のワールドだったと、次に明らかにしたのが「性指向」の概念だと思います。
これは要するに、一つずつ皮が剥がされるというか、「ノーマル」というのがどういうものであったというか、明らかになってくる訳ですが…。

つまり、「性指向」という概念がつくられて「強制異性愛/異性愛中心主義」というものが社会の中にあるということが明らかにされた。
更にすすんで、「ジェンダーの強制がある」、さらに「強制異性愛/異性愛中心主義」というものがあるというのに対して、実はこのワールドというのは、たとえば「性別違和のない人のワールド」である、性別違和がないことを「当たり前のこと」としていた、各種レベルの性別の一致を強いていた、ということを明らかにしたのが性自認、という言葉。

付け加えると、私がそうであったように、私も人が人を好きになる時に「男が好きなの? 女が好きなの?」っていう、そういう文脈で「バイセクシュアル」っていうものを考えてたのを、自分の性別(性自認)がずれるっていう形で「バイセクシュアル」になるよっていう形で、私がいた世界がどういう限界があるのかっていうことを明らかにしてくれたのが「性自認」という概念であったりもします。
そして次にすすみます。実は「性指向/性的指向」っていうのは、これは実は「性別指向」であった、と。これを明らかにするのが「バイセクシュアル」っていう問題領域なんじゃないかという風に私は思います。

つまり「性指向」は「あなたは性についてどう思いますか」「どんな性別の人を好きですか」という質問をしているようで、言っていることは「男女という性別についてあなたはどう思いますか」「男女のどちらが好きですか」っていうことを言ってたんですよね。だから、そもそも人が誰を好きになるかっていうような話をする時に、「男なのか、女なのか」という問いがいつも重要な中心的な問題として必ず来なきゃならないのか。そうじゃないんじゃないのか、と。人を好きになる時のメインとなる評価軸は「男/女」である必要はないんじゃないのか。むしろ、「男/女」が大事で「お前はどっちが好きなんだ?」というのを強いてくること、つまり性別の二元論の中で「お前は何組なのか?」というのを聞く事自体がおかしいんじゃないか、なぜいつも「男か、女か」が問題になるのか、というのを明らかにすると思う。
このあとでも述べるけど、実は「バイ」という言葉も「性別は、男か女しかいない」という性別二元主義を「当たり前」としている言葉でしょ。「バイセクシュアル」の話をするとその辺も実は問題になる。それから、「男でも、女でもない存在」としてのトランスジェンダー、性別をトランスする存在としてのトランスジェンダーの位置からは、性別二元主義が直接問われてくる。

ええと、私が「性別の二元論」「性別二元主義」という風に言っているのは、
- ) 人は男か女かのいずれかである
- ) 身体・心・服装など対外的に演じるもの・法的書類上のものなど、様々なレベルでの性別があるんだけれども、それは全部一致している/すべきだ
- )「お前は男なのか女なのか」ということは「常に」重要な問題である
大体その三つくらいを合わせて私は「性別二元論」「性別二元主義」という風に言わせてもらっています。
で、まだまだ進んで、実はこのワールド自体が、色んな、たとえば、この紙自体が、例えば健全者のジェンダー観に基づいているんじゃないか、とか。実は日本人のジェンダー観を表しているんじゃないか、とか。勿論、そういう形でどんどん入ってくるんですけど。そういう感じで、「私達が何を当たり前にしているのか」というのが明らかになってきたという歴史があるんじゃないかな、という風に思っています。だから、それがこの絵です。

●苦肉の策
さて、さっきも簡単に触れたんだけど、「バイセクシュアル」っていう言葉がそもそも矛盾している訳なんですよ。「バイ」っていうのは「2」っていう意味なんですね。「2」っていうのは「男も女もいけます」っていう性別二元論の世界にのっとっている…。

こういう風に言いきる勇気がなかったというか、説明が出来なかったから、とか色んなことが考えられるんですけど。要するに、世界はこの線のように、「男/女」のように分けるものである、と。そういう世界観というか「ものの見方」を前提として、私が自分のことを説明しようとしたら何て言うかっていったら「両方好き」って言わざるを得ない訳ね。そういう力関係の中で、私達が苦肉の策として使わされてる言葉が「バイセクシュアル」という言葉だ、という風に思ってます。だから、極めて居心地の悪いターム(言葉)というか。「『バイセクシュアル』じゃないよ、わたし」っていうのは、そういう意味。だけど、説明するためには「わたし、『バイセクシュアル』」って言わないと通じない。だから、私、「男女のどっちかだけが好きなのか?」って言われたら、それは違うんだから「バイです」って答えになっちゃうんだけど。そのアンビバレンスな感じっていうのは、こういう理由で出来てるんだと思います。
非常に残念ながら「世の中は『男か女か』で出来ている」という線引きをすること自体を疑うというのは、やっぱりなかなかされてない。しかも、これ、男女の真ん中のグラデーションとか、「(男女以外の)その他の性別」とか、色々あるという話も全然入っていないんですが。性別二元論をちゃんと相対化するっていうのは、されてない。
さらに、どういう風に言われるかっていうと…まあ、関修さんの文章にも書いてあったりするんですが、「プリファレンスである」と「それは趣味の問題でしょ」と。だから、たとえば「若い」であるとか「太っている」であるとか、色んな線引きがある筈なのに、「お前は男が好きなのか、女が好きなのか」という線引きは、他の線引きに比べて特権的なものであるべきだ、という思いこみを相対化してくれないんですね。それが「当たり前である」と。「『男が好きか、女が好きか』というのが問題なんだから」、「ホモフォビアが問題なんだから」と。そうすると、それ以外のことでも線が引けますよと言うと、「それはプリファレンスであって、たいしたことはない」とみなされてきた歴史があるのね。だから、そうではないと。「この分割線とこの分割線は対等である」ということを言いたい。

ただ、その上でもう一つあるのは、私達は身も心もジェンダー化されていると思っています。…そう、身も心もジェンダー化されていて、だから、性別によって私達が受けるイメージであるとか、具体的にどういう関係を作るのかという時に、相手をどういう性別の人だと思ってるかということは、やっぱり少なからず影響は与えている部分もある。だから、性別に本当に何の関係なく人が生きているという理想の状態とか思わない方がいい。だから、順番として、みなさん、線を引く時にね、一番大事な線だけで生きてませんよね。ほとんどの人は「男が好きか、女が好きか」ということで、一番最初の線引きがこういう風になるんだけど、男だったら誰でもいいかというと、そんなことはない訳ですよ、勿論。それと同様に、他の人だって、この線引き、若いかどうかってだけが全てじゃないから、当然、ジェンダーという要素が入る場合もあります。ということもちょっとお忘れなく。
●「バイセクシュアル」の受ける差別
じゃあ、「バイセクシュアル」という人がどういう差別を受けるのか、ということを考えるんですが、まず同性同士で関係を作ろうとすると、ばっちし、ホモフォビア、重なる感じで来ます。というか、私自身も、一番最初にコンタクトをとった団体はアカーだったんですが、その当時は私は男でしたので、当時に好きになった男の人との関係がなんか…単に恋愛がうまくいなかったというそれだけなんですが、今から思うとね(笑)
その辺の話(男の子との関係)で「もやもや感」があって、ちょっと相談をしたいなと思って行く、という感じがあって、だから、実際、同性同士の関係の問題というのは、ゲイやレズビアンの人達と重なるという風に思います。だから、ホモフォビアの影響っていうのは、そのままずばり、全部。
で、更にそれに加えて、レズビアンやゲイのコミュニティに行った時に何と言われるのか。ベタな言い方をすると「二級市民」扱いをされる。リブ系は特にその匂いが強いんですよね。リブ系が一番その匂いが顕著なんですが、やっぱりバイというのは二級市民扱いされることが多いなあ、という風に思います。それは、性別二元論を問うっていうことは、少なくともゲイのコミュニティとかではそんなにちゃんとされていないっていうか、同性を好きになるということ、「お前は同性が好きなのか、異性が好きなのか。同性が好きな自分に誇りを持つことが大事だ」ということを中心に回っているので、そうすると、同じ問題を共有しているにも関わらず、ゲイの都合でことが動くことが多い訳です。それがすごく困るなあ、という感じ。それをもうちょっと具体的に見ます。
よくに言われるのね。「お前さんは男が好きなの? 女が好きなの? どっちが好きなの? はっきりして」と。そんなこと言われることがあるんですが、その問い自体がある前提に乗っかってる訳ですね。「男が好きなの? 女が好きなの?」というのは、さっき言った性別二元論、世の中には男か女かしかいなくて、しかも明確に分けられて、性別違和がなくて、しかもそれは一番大事なことで、人にとっては第一の関心事である、というワールドがあるから「あなたは男が好きなの? 女が好きなの? はっきりして」という問いが成立するんですよね。その人が本当に「あなたは男が好きなの? 女が好きなの? はっきりして」と思っているということはわかるんだけど。でもそう聞かれてもすごく困る…困るなあ(笑)
それから、これを一回やってしまうと分かるんだけど、性別を基準にして問いを発するというのは、一定数の人達にとってはリアリティがあるから、それが有効な人もいます。私はそれを全然否定していないし、好きにしはったらいいけれども、常に人類を「男/女」に分けるという線の引き方のワールドと、そうではない横の引き方のワールドは対等じゃなきゃおかしいでしょ? …ということを言いたいです。だから、性別にこだわる人達であっても全然構わないし、全然ネガティブにそういうことは思わないですけれども、少なくとも、それと同じようにこういう「男/女」とは異なる線引きを扱ってください。…っていうのが、お願いというか…お願いという言い方をしておきましょう、ここでは。

●「ひびのは本当はゲイ」説
それから、よくもう一つ出てくるのが、「『バイセクシュアル』って本当はレズビアンやゲイなのにプライドがなくてカムアウト出来ない人なんじゃないの?」…これも良く出てくる問いでね。で、アタシ聞いたことがあるんだけど、東京のある有名なゲイの活動家達とかがね、私のことを「ゲイのくせに」「プライドがなくてようカムアウトせん人だ」とか、そんなことを噂で聞いたのですが、本当にそう思って、言ってたらしくって。本当にそう思ってるからバイ・バッシングが出来るんだと思いますけど。で、多分ね…分かります。よく分かります。ゲイの活動家やレズビアンの活動家で、自分がレズビアンやゲイだと言えない時期があった人の方が多いでしょう。あっ、でもそれは時代があるかな(笑)
今の若い人はバイっていうのは流行で問題にならないのかなあ。でも、逆にだからこそね…逆にバイっていうのが全然ヘテロ社会で違和感がなくなったんだったら、なおさら「ゲイ・プライド」や「レズビアン・プライド」を獲得するっていうのは、作為的というか、ちょっと頑張らないといけないのかなあという気もするなあ。同情してしまう…。そうですねえ。同情というより…私の経験からいくと、やっぱりゲイの人達みんなそういう怨念があるし、もう一つ、盗られるんじゃないか、結婚するんじゃないかというのもあるんですね。
やまじえびねさんの漫画なんかを読ませていただくと、その辺の危機感、恐れと揺れる感じが非常に丁寧に描かれてあって、まあ、それはそれで面白く読ませていただくんですが、この人やっぱりバイ嫌いみたい(笑)とか思いながら読むんですけど。
(注:あとがきには、バイ的な生き方に共感する感じのやまじえびねさんの記述もあるのですが、複数の、もしくは様々な性別の人を好きになったり関係を持つ事自体を、肯定的な存在としては積極的に書いていないのを見て、私はちょっと残念に思っていたりします。)
たとえば、男の場合でいきますが、男同士のカップルがいたとします。

この男同士のカップルがあって、そのカップルの片方の男の人が別の女の人と結婚するということになったとします。

この「男B」を指して、「だからバイは信用ならん」という風に物事を整理して見はる人がいはるんですけど、これはちょっと違うんですね。ゲームのようにしてやります。男(A)・男(B)・女(C)です。ここ(A-B)別れて、ここ(B-C)くっつくってなった時にね。この二人(B-C)が本当に大好きでお互い好きあってくっつくんだったらね、ここ(B-C)がくっついてここ(A-B)が別れるのは、この人(B)がバイだからじゃないです。単に(A)が振られたんです。(もし仮にCが)男であったとしても(A)は振られたんです。それだけのことです。
で、ここ(B-C)が実は好き合ってなかった場合。本当は望んだ結婚ではなかった場合。偽装結婚をするゲイ男性なんていくらでもいます。ほとんどそうです。この人(B)がそういう偽装結婚の事例だった場合に「だからバイは信用ならん」のか、と。違いますね。この人(B)が、社会の結婚圧力に負けただけのことであって、「バイだから結婚した」のではないです。
これ(B)が仮にゲイ男性だったとしましょう。同じように結婚しますよ、好きでもない女の人と。それは圧力に負けたから。この人の生き方の問題ですよ。「バイだから」ではなくって、社会の中で自分の生き方を貫き通すのを選択するのか、社会の圧力に…負けてと言ってもいいし、色んな言い方はするでしょうが…そういう生き方をするのかという、この人の生き方の問題。それはこの人がバイだからではないですね。
でも、やっぱり、ゲイの場合はルサンチマンが入る訳。気持ちはよく分かるし、ルサンチマン入ると思います。
●経済的理由
それから、もう一つ言っておくと、経済の問題ってすごく大きくてね、これは女の人同士の場合はもっとはっきり出ると思うんですが、結婚ってみんな食うためにしてるでしょ?(笑)
そこまで言うと言い過ぎかなあ。でも、ヘテロのカップルの一定数は確実に食うために結婚してますよね。レズビアンカップルっていうか、女同士のカップルって極めて大変………。
あっ、そうそう、平均賃金の話をしましょう。
日本国内で賃金労働していて、厚生労働省に把握されている人達の間で、パート・アルバイトを含む統計で、全職種で、法的書類上の全男性の賃金の平均を100とした場合に、法的書類上の女性の平均賃金は、さて次のうちいくつでしょう?四択です。
50
70
95
105
|
ハイ、ちょっと手を挙げてみましょう。意味分かったよね? ハイ、50だと思う人。…降ろしてください。70だと思う人。…降ろしてください。95だと思う人。105だと思う人。…でね、これは私のインチキじゃなくて、厚生労働省の数字(パート・アルバイトを含む統計)です。50です。日本の中の男女差別・女性差別は度が過ぎていてですね、
さて、本当はこれ図式的にやると恐ろしい話なんですが。組み合わせが「男女」の場合は合計が150になりますよね。「男男」の場合200になりますよね。「女女」の場合は100ですよ。これ、生きていくのどれだけ大変かっていうのを考えた時に、経済的理由で恋人を男に持って行かれる/とられるというのがあって、だから、人が誰かを好きになるっていう時に、当然経済的な条件っていうのは関係があると私は考えていますので、この辺の恨み辛みには根拠があるとは思いますけど。
でも、そういう恨みは、バイ・バッシングに持っていくのではなくて、女性差別を強いる社会はおかしいという風に考えて欲しいなあ、私は…という風に思います。
だから、さっきの「プライドがなく」って…もういいのかな? 私の世代だとね、「プライドがなくてバイと名乗ってるんじゃないか」って本当に思ってる人がいはるし、私のことを本当にそうだと思っていはる人がいて、すごいびっくり。すごい楽しいというかね。多分、思ったんでしょう。あの時代、5年ぐらい前に、「私はバイです」って言って、ガンガン、ゲイの企画とかもやって、バイの企画とかもやって、顔も出して住所も出して名前も出してやっている。「そこまでやるのはゲイに違いない」って(笑) 多分、思ったんだと思います。いや、あんまり…(会場の人みんな)笑ったけど、すごく悔しい訳。時代がいまとは違う。本当に大変な時代。本当に悔しいなあ(笑)…うーん、だから、そう。ちょっと悔しい感じ。
あと、実際ゲイのコミュニティとかに行くと、「あなた本当はゲイなんじゃないの?」と言われることはある。特にリブ系のサークルに一番多いと思いますが、そういうことはある。…あるなあ、うん。
●「私たちのコミュニティ」
もう一つ、これ、すごい大事なことなんですが、たとえば、「ゲイバーとかレズビアンバーとか、ゲイのサークルとかレズビアンのサークルとかの名前が付いている場所に来て、わざわざ『バイセクシュアル』の話をしなくてもいいじゃない」「同性を好きということをテーマにして集まっているんだから、その話をすればいいじゃない」という言い方。これは比較的今でもあるのではないか、という風に思うんです。それっていうのは、その場所を「自分達」の都合で動かそうという…言ってみたら、そういう圧力ですね。
すごく私は本当にこのことは大事だと思っているんですが、「私たちのコミュニティ」っていうのは、レズビアン・ゲイのコミュニティ…私もそういう言い方をします。だけど、歴史的に、レズビアンとゲイのコミュニティ、もしくはレズビアンだけのコミュニティ、もしくはゲイだけのコミュニティというのは存在しなかったということが本当に忘れられていると思っていて、私は頭に来ています。
歴史的なことを思い起こしてください。たとえば、新宿二丁目、ゲイタウンと言われますね。ゲイ・コミュニティだと言われますね。そこにいたのは誰ですか?男性同性愛者だけではない訳です。そこには、「バイセクシュアル」も始めからいた…つまりね、みんなどうやって集まったかというと、強制異性愛とか、この「ノーマル」…いっぱい剥がされましたけど、この「ノーマル」の「男は男らしく」「女は女らしく」「男は男で女は女なんだから、それらしく生きていこうぜ」っていうワールドが、嫌な人達が集まったのがコミュニティだった筈です。それが、今、分類されている言葉を使うんだったら、例えば「ゲイ」であったり、「バイセクシュアル」であったり、「トランスジェンダー」であったり、「ニューハーフ」であったり、「おかま」であったり、「おなべ」であったり、「女装者」であったり、「クロスドレッサー」であったり、「アセクシャル」であったり、名前の名付けのない人達だったり、そういう人達がみんな、この「男女という制度」、ノーマルな世界が嫌だから、コミュニティを作ってた訳です。これは歴史的な事実としてそうジャン!!
知ってるよね? だから、名前が分かりやすく「レズビアンとゲイのコミュニティ」、まあ「レズビアンのコミュニティ」と「ゲイのコミュニティ」と面倒くさいから分かりやすく言いますけど、歴史的な事実として「私たち」と言われている場所には…ただし、男女のジェンダーの分けはあったと思います。男の方のコミュニティとか女の方のコミュニティとかの差はあったと思いますが、少なくともゲイのコミュニティには、昔から「バイセクシュアル男性」とトランスジェンダーがいましたよ。それが事実です。
だから話はむしろ逆で、そういういろんな人がいた場所や社会的空間をゲイ男性が私物化しようとして言っているのがさっき言った台詞。順番が逆だと思う。
で、これは実はヘテロ社会がやっていることと一緒です。私達は知っていますよね、全ての教室に、全ての職場に、同性愛者がいる筈だ。あなたの隣にも同性愛者。カムアウトしていないから分からないだけ。昔からいたの。あなたは今までにゲイやレズビアンに会ったことはありますか? 「いや、会ったことはないです」…ほーら、見てご覧。あなたは何も分かっていないわと思いながら「会ったことはある筈ですよ」。そういう言い方を私達はずっとしてきました。それは正しいと思います。
で、同様に、ゲイのコミュニティの中にいたんですよ。昔から。それをいないことにさせ続けよう…というか、私物化して追い出そうとする人達の台詞は「嫌だったら来なければいい。ここはゲイの場所だ」…だと思ってて、すごく頭に来てる、私はね。
問うべきことがあるとしたら、何故そういうわがままを…だってゲイの人の言ってるのはすごいわがままな訳です。
(■図を入れる--しばらくお待ち下さい■)
こういうコミュニティがあったとして、そのうちの一部分の人が集まって、一部分の人達だけを指す言葉であるところの「ゲイ」でもって、「ここは私達の国だ」「私のコミュニティだ」。タチが悪いっていうか…でも、これがいつものやり方だったよね、私達の社会の。一部分の人である、力を持っているヘテロが、全部がヘテロのワールドだと思って暮らしていますよね。それから、日本には色んな外国人が住んでる。知ってるでしょ? 知ってるけど、日本人が住んでると思ってるよね。だから、これは例外的な思考方法ではなくって、私達自身が持ってしまっている間違ったway of thinking、考え方…そういう考え方で生きちゃうのに慣れちゃう。でも、それをやめよう、というのをちゃんと考える。
●「バイセクシュアル」もいろいろ
それで、一つだけ、でも実は普通に暮らしているゲイとかレズビアンの人にはそんなにバイ嫌いじゃない人もいっぱいいて、全然…うん、いっぱいいるの。
それから、実はね、バイっ子だからってみんな仲間な訳でも全然なくて。たとえば、言われた訳。「ぽこあぽこ」でバイ特集をやった時に、あるゲイの人がちゃんと感想を言ってくれて、その人からとか言われたのは「だって、私の会うバイの人ってこんな人だよ」って。「ハッテンバに行くでしょ、セックスするでしょ、セックスした後でこんなこと言うの。『オレはバイだからいつでも結婚出来るんだ。お前も早く足を洗ったらどうだよ』」(笑)
十分いるでしょう。そういう人はいくらでもいるでしょう。で、多分、そういう人に会ったりすると頭に来るでしょう、誰でも。
こんなこともあるので、勿論、「バイはみんな味方」だとか「バイはいい」とか言うつもりは全くございませんので。すごく大事なことは「差別をなくそう」だということだと思ってますので。一応、それだけ言っておいた方がいいかな、と。
●伏見さんの発言
時間の経つのはなんと早いということで…。ちょっと伏見さんのやつだけ見ておくのがすごくいいかな、という風に思います。
これは資料で付けましたが…閉じてあるところに付いてますが「ひっぴい♪♪スペシャルin東京」11ページ。これはアドレス(URL)が書いてあります。ここを見てもらったら載っています。それから、『ブックガイド』ですね、青い、小さい奴。ちょっと今日は持ってこなかったんですが、パソコンに伏見さん書いてる文章と多分同じだと思います。それから、あと、色んなところに『クイアジャパン』の1号、「クイア」と銘打っておきながら、「メイル・ボディ」って特集をする、あの「クイアジャパン」の1号の対談でもそういうことを言っています。で、伏見さん…いやあ…というか、これ…逐一やろうか、折角だから(笑)
伏見さん…困った人で…まあ、順番に1からいきます。揚げ足取りはしたくないんだけど、一応、伏見さんにもメールは個人的に送りました。「こういうタイトルで企画をやりますので、良かったらお客さんとして来てください」というのは、個人的にメールを送っておきました。それから、実は以前にも、伏見さんの言ってることって間違ってることが多いので、特にバイネタに関しては明らかに間違ってることをガンガン言っているので、ちょっとそれは変わってもらわなきゃ困ると思って、私、昔、『ぽこあぽこ』の「バイセクシュアル」の特集号をね、ゲイ・フロント関西という、今は辞めたところで出した時に、伏見さんとの対談を編集委員会が要求する…要求というか、提案させていただくということをしました。意見が違ってても、ちゃんと意見をたたかわせて、分かり合えればいいな、と思ってたんですけど、断ってきたのね。…で、その…うん、まあ、人のことを知らないくせにエラそうなことを言うのは…いいんですけどねえ。困ったもんですと思ってます。だから、ちょっと意地悪く添削をします(笑)
まず、1番(resume-1.pdf, P6)、「さらにゲイライターとして活動していく中で、実際に私の周りに同性愛者以外の性的少数者の人たちが現われるようになっていった」…ちょっとこれ、ひどいんじゃないかなと思うんだけどさ。「あなた、カムアウトしないといないことにするのはなしでしょ」っていうのは誰の台詞? っていうことね。トランスジェンダーはあなたの以前の知り合いでいた筈ですよ。見かけがジョソコ(女装子)ジョソコしてなかったら、トランスジェンダーじゃないんですか? 違うでしょ?
あと、バイも同じですよね。カムアウトしないでいた訳ですよね。伏見さん、自分が少数派であるっていうことに甘えすぎ。あと、ゲイの人達と話をしていて話が通じなかった…ゲイの人がいたらごめんなさい。みんなの悪口を言いたいんじゃなくて、私の知り合ったゲイの何人かが悪かったんです、多分(笑)
何人かのゲイの人達と話をしていて、すごい不思議なのは、レズビアンとゲイとトランスジェンダーと「バイセクシュアル」は横並びの関係である、という風に思ってはるみたい。それぞれ別の抑圧のされ方をしている少数派だ、と。そういう感覚を持ってはるゲイの男性というのは、私、特にゲイ・フロント関西の人達とはそれなりに話をしたんですが、すごく多かったです。で、頑としてゲイ男性達が受け入れなかったのは、ゲイとバイ男性との関係が、「マジョリティ‐マイノリティ」の関係であるということは頑として受け入れなかったですね。
私がどう思ってるかというと、ゲイっていうのはマジョリティですよ。バイ男性に対しては。私ははっきりそう思っているんですけど、それを頑として受け入れなくて「対等だ」っていう出し方をして来はるんですね。これのことを分かってくれないということなんですね。あと、「セクシャル・プリファレンスである」という言い方をして、問題を二義的に扱うということを自明視している。それがネックになっています。伏見さんも、多分自分がマジョリティ側になる、たとえばインターセックスやトランスジェンダーや「バイセクシュアル」に対しては、ゲイ男性はマジョリティ側になる訳…レズビアンに対してもゲイ男性はマジョリティ側になると思ってるんですが、まあ…マジョリティ側になるということを基本的に理解してないから、こういうことが書けるんじゃないか。でも、これ、伏見さんだけじゃないですね、ゲイ男性に非常に多いなあ、と。だから、こういうのが出てくる。
…ええと、どこにしましょうかね。…2番。「今の私は、性的少数者どうしの関係は、必要なときに助け合えばいいが、そうでなければあえていっしょに行動する必要はない、と考えている」。後、8番も読んじゃいますと「『被差別者どうし共闘すべき』とか『弱者である彼らを助けましょう』といったスタンス」…「弱者である彼らを助けましょう」(笑)…これはちょっと世も果てで終わってると思うんですが…ごめんなさい、口が悪くてすいません。この辺の感じは、本当に、ゲイ男性というのは「バイセクシュアル」やトランスジェンダーに対して……正確に言うと、性別違和のないゲイ男性は性別違和のある人に対してマジョリティ側に立っているということを理解していないんだと思います。
10ページを見てください。私、最近、「男女という制度」という言葉を使うようになりました。これは斎藤美奈子さんという人の書いた本からとっているんですが、性に関わる色んなテーマを…みんなね、性の話する時ってさあ、自分の話をしたい訳よ。「私が損しているところ」の話をしたい訳ね。それをやって、とりっこする訳ですよ。みんなでこう。それをなんとかやめて、全部をトータルに言うってことが出来ないかと思った時に、この言葉、すごいいいなあと思って。「男女という制度」。しかも、これだと「ジェンダー」って言葉を知らなくても対話が出来るんですね。つまり、知識の有無とは関係なしに話が出来るキーとしていいんじゃないかなと思って、最近、使ってます。
で、とりあえず、「男女という制度」っていうのは何によって構成されているかっていったら、順番で見た通り、まずセクシズム、女性差別で成り立っている。これははっきりしている。それから、「男女という制度」はジェンダリズム、性役割の強制から成り立っている。これも確か。それから、三つ目、ホモフォビア…「私は性役割の一つとしてホモフォビアがある。性指向は性役割の一つである」と考えています。これも日本ではっきり言っている人は日本語の文献で一つも見たことがないんですが…意見があれば知りたいと思ってますが…そのホモフォビア、強制異性愛っていうのがある。それから、性別二元論、そもそも人間を男か女かに分ける。で、性別違和がない。それから、性別というのは一番特権的なものだ。
こういう色々な切り口があって…(紙を手に取る)
(■図を入れる--しばらくお待ち下さい■)
だから、これをまた人類にするとね、この人類の中にある色んな差別が「男女という制度」の中にある訳。だから、女性差別という観点でみたら、基本的に得してるのは男で、微妙に…(黒板に描く)…「損してる」ところに書くのが「女」と書くか「男でない」と書くか色々あるので…多分「男でない」というのが正しいので。そういう形で、得してる人と損してる人の力関係というのは、こういう風に線が引かれますよね。
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でも、この人類の中で、ホモフォビア、強制異性愛ということで考えたら、今度はこういう風に線が引かれますよね。
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たとえば、要するにこれは微妙ですけど、異性愛ヘテロと、ノン・ヘテロ。という形で分割線が引かれる。で、性別違和がある人、ない人、ということで言うんだったら、これまた別の線が引かれる、と。
(■図を入れる--しばらくお待ち下さい■)
だから、一個一個、問題としては独立している筈で、要するに一つ一つの課題をとっていったら、そこでマイノリティとマジョリティという力関係があるということが、私達が明らかにしてきた知識だったし、そのことを私達は理解してきた筈だった。
だからつまり、性別違和のある人と性別違和のない人には明確な力関係がありますよ。今一般的に「ゲイ男性」と言われている人は性別違和のないゲイ男性を指すことが多いんですが、性別違和のないゲイ男性は性別違和のあるゲイ男性に比べてマジョリティですね。そうするとね、「弱者を助ける」とか「必要があれば連帯すればいい」なんて話ではない訳。アンタはマジョリティとしてどういう責任をとるのかということが問われる訳ですよ。
性別違和の話でいきますと、ゲイ男性のほとんどっていうのは…でも、微妙でね。ちょっと…面倒くさい話はちょっと後にして。…伏見さんが性別違和があるかどうかはっきり言っていませんが、書いている文章を読む限り、なさそうな印象を持って読んでいるんですが、性別違和のない人は性別違和のある人と付き合うかどうかは任意で、一緒に手を組むかどうかは好きにしたらいいなんていうのは、私はマジョリティの傲慢だと思う。…そう。だから、ちょっと堪忍というかね。
それから、折角なんで明日のネタなんだけど、私、さっき性指向は性役割の一個だと言いましたよね。実は、同性愛、同性を好きになることって、トランスジェンダーの一種だと思ってるんですね。…ちょっとやめようかな、やっぱり(笑)
…まあ、いい。それはちょっとやめます。それは明日のトランスジェンダーの回でやりたいと思います。
●「レズビアン・ゲイ・パレード」問題
それから、伏見さんの話に戻っていくと、4番、「同性愛者と他の性的少数者がいっしょに行動することが『正しく』て、例えば、レズビアン&ゲイだけでパレードをするのは他の性的少数者を『排除している』と言うような主張がネットワークの中で出てきたことも問題だった」…書いてあります。…いやあ、ここまで開き直って言われるとですねえ、批判をすることの躊躇の必要性もなくなってしまうという印象を私は持つんですが、「排除」!! 排除してるから問題なんですよ。ということは、現場にいたらみんな分かりますよね。
仮に「レズビアン・ゲイのサークルをしたい」と言ったってさあ、もしくは「ゲイのサークルをしたい」と言ったって、そこに色んな人、来るでしょう。それは今の社会の中でゲイというキーワードがそういう効果を持ってるから来る訳ですよ。当然です。しかも、歴史的なことを見たら、ゲイのコミュニティっていうのは、「バイセクシュアル」いたし、トランスジェンダーいたし、クロスドレッサーいたし、当たり前にいたじゃないですか。そういうコミュニティの中にわざわざ分割線を引いて、いっぱいのコミュニティの中でゲイだけが集まろうと…しかも「レズビアンとゲイは同性愛者だか分かり合える」って。…私は絶対ゲイとバイ男性は生活圏は近いと思ってるんですが。要するに、一部だけで…レズビアンとゲイだけで集まろうなんて呼びかけをするっていうのは、そもそも排除以外の何物でもないですね。
言いたいこと全部言っちゃって、後、繰り返しになるような気がするんですが…。
それから、5番、「それぞれの主体を立てる自由を認めないような『セクシュアル・マイノリティ』という共同性の問題」。
「それぞれの主体を立てる自由を認めない」なんて、いつ、誰が言いましたか。日本で公然と「レズビアン・ゲイ」という出し方やアプローチはおかしいってオフィシャルに出してる人はあまり知らないんですが、私は明確に出してるんですけど、他にもいっぱいいはるのかなあ。…少なくとも私はゲイというアイデンティティを個人が立てることに関してケチを付けたことなんて一度もないです。当たり前…当たり前…そんな当たり前のことを。
で、もう一つその下にあるのが「少数派の立場にのみ正当性の根拠を置くような批判の仕方」とかって…これは実は多分「オカマ論争」のことを指していると思うんですが、オカマ論争に関しては伏見さんの言ってることは正しかった、と。基本的には正しい。すこたん企画の路線は間違っていたと基本的には考えてますので。だから、そういうのをごっちゃにして書いても…いやらしいとか思う(笑)
しかも6番。これがすごい。「『ゲイ』『レズビアン』という共同性が問題とされるのならば、『セクシュアル・マイノリティ』という共同性だって、同じロジックで立てられなくなってしまう!」…しつこく書いてるから気になってるんでしょうね、伏見さん。私、これよく分からない。よく分からなくて。
●ゲイだけの場所
本当にね、ゲイだけの場所なんてあると思いますか? 話をピッと戻します。本当にレズビアンだけの場所なんてのは、原理的に成立しますか? しないでしょう。…しないって、不可能だとは言いませんけれども、少なくとも大衆的な場所、開かれたような場所、多くの人が参加出来るような場所をそういう風にして作るのは原理的に不可能だと思ってます。だって…これも論争がありますが…人の性自認とか性指向は時期によって変わります…って、私はそう考えています。これ…だから論争になるんですね(笑)
…とかもあるし、実際そうジャン。全員がそうではないけれども、そういう人がたくさんいるって言えばいいですかね。性自認や性指向が変わる人がいる。…ということだけ言えば十分ですよね。そういう人達、変わる人を排除して場所を作ることを求めるんですか? そういう問いでもあります。
それから、みんなやっぱり最初…これは世代の問題があるのかも知れないけど…迷いますよね。「私は同性が好きなのか、異性が好きなのか」「私が人を好きになる時に性別というのはどういう意味・価値を持ってるのか」って迷って、最初の頃、ゲイかバイか分からないじゃない、みんな。もし「バイセクシュアル」を排除したら、そういう人を排除しますよね。「ここはゲイだけの場所です」「レズビアンだけの場所です」。だからやる訳です。つまり、大勢で集まる時には「レズビアン・ゲイ」というタイトルにしておきながら、「興味のある人は誰でも」っていう言い方をするんですよ。はっきり言えばいいじゃないですか。「ゲイとレズビアン以外参加お断り」と明示的に言えばいいじゃないですか。そんなことしたら人が集まらないし、本当にコミュニティを必要としている人を排除することになるのを分かっているからしないんでょう? 二枚舌ですよね。私は原理的にレズビアンだけの場所、もしくは、ゲイだけの場所というのは成立しないし、有り得ないという風に考えてます。
でも、個人としてはある訳ね。「私はゲイです」「私はレズビアンです」、全然OK…というか当たり前で。自分のことは自分で決めるものですから。その辺を区別してないなあ、という風に思います。
「ゲイという共同性」って言うけど、これも同じことの繰り返しね。「ゲイ」って言われてたのは、昔は「ゲイボーイ」っていうので、色んなものを包括してたでしょ?
これは昔、ゲイ・フロント関西の森田MILKが分かりやすく言ってたんだけど、「『ゲイ』という言葉の意味が変わってきた歴史がある」と。ゲイというのは昔は本当に幅広い人達を含んでいた。ゲイの中にトランスジェンダーがいた。つまり、ゲイのという言葉で現された人達の中にはウリ専の人もいたり、オカマの人もいたり、クロスドレッサーの人もいたり、ニューハーフもいた、と。「バイセクシュアル」も男性同性愛者もいた、と。ところが、時間が経つにつれて、その中で「ゲイ」という言葉の意味が変わって、「ゲイ」が男性同性愛者を指すようになってきた。だから、まるで別の存在であるかのような言い方…。そういう歴史を多分知らない…知らない訳ないのに…卑怯ですよね。…という風に考えます。
●誰だって間違いや失敗もある
そして、最後、7番ね。「ともあれ、相手の現実を知らないでは何かで取り組むことも、批判することもできないわけだから、私たちには自分たちにとっての他者を理解する努力も必要だろう」。…私、心の底からそう思いますよ。…(笑)…伏見さんが、自分のことを「バイセクシュアル」ではないと考えるのであれば、「バイセクシュアル」の人に話を聞く以外に「バイセクシュアル」のことを理解する方法はない筈です。もしくは、「バイセクシュアル」の人が言っている発言を他のところで読む以外に「バイセクシュアル」のことについて理解する方法はない筈です。ところが、基本的になめてかかっているから、話を聞こうという立場やスタンス自体が残念ながらないです。それが非常に残念で…。誰だって間違いを犯すし、人のことは分からないし、先頭に立って色んなことを言ったら、間違いや失敗もある。それは別に構わないと思うんですが、折角批判してあげる…というか、お話しして教えてあげると言ってるのに、それを「お前と口をきく義務はない」って…そういうことですね。「ここはレズビアンとゲイの場所なんだから、ゲイである私は、わざわざ「バイセクシュアル」である日比野と口をきく必要はない」という言い方で自分の権力を守ろうとする。…というのは非常に「男らしい」ですね(笑)
今のが伏見さん…ごめんなさいね、私の好き嫌い、感情が入ってるというのは、ごめんなさい…今のが伏見さんに対するやつです。
●砂川さん
伏見さんはすごいこういう馬鹿なことを書いてますけど、少なくとも砂川さんはそこまで無茶苦茶なことは言ってなかった。ということもちゃんと見ておかないといけないと私は思いました。
砂川さんが東京のパレードを作られた時の、最初の作り方に私は大きな批判を持っていますし、あれが出た時に「してやられた」と思って、すごい頭に来たんですが。つまり、本当だったら、「私達は『レズビアン・ゲイ・パレード』をやりたいんだ」と。それで「どうだろう。ちょっとみんなで話し合おう」と言って場所を作るというのが本当のやり方だと思うんです。つまり、コミュニティの合意を作ろうという姿勢を示すこと。少なくとも、力を持っている人や、何かを作ろうとする人はコミュニティの合意を作ろうという姿勢で、「私は」と主語を立ててね、砂川さんが「私は」レズビアン・ゲイ・パレードがやりたいと思うんだったら別に構わない。それに対してみんなで話をしてみよう、と。で、決裂したら仕方がないから別々にやればいいんですけど、はなっから「レズビアン・ゲイ・パレードをやります。これでいい人だけ来てください」っていうやり方は、私はちょっと卑怯だな、と思ってたんですが、その後、あのパレードもまた行って「なんかすごく嫌だな」と思ってたんですけど、東京のレズビアン・ゲイ・パレードのホームページに砂川さんの文章が載りました。それ、(資料として)付いてる筈です。それがすごい謙虚で素直だったし…まあ…私は砂川さんをよく知らないんですけど、まあ、私もケンカするの嫌いですので…もう、いいやと思って。せめてこれぐらい悩みを表に出すことをしてくれれば、伏見さんもまだ可愛いというか、話をしようというか、意見は違っても友達になれるかな、とか思うんだけど、ちょっと最近の伏見さんのはひど過ぎると思います。
●関さんの文章
で、関さんのやつは12ページにあります。この人、同じくフェティッシュという風に言っています。つまり、性別以外の問題はフェティッシュの問題であって、性別こそがオリエンテーションであると言っていますが、それは単に性別指向というものを特権化したいという風に言っているに過ぎない。でも、ゲイの人、多いよね…困ったね。
もう一つ、それは意見の違いとしていいとしても、「筆者に対する反論を期待する。しかし、その際筆者を納得させるような理路整然とした説明が必要だが」って。「あなたよく書くよね、こんなこと」って思いまして。
関さん、お話を一回しましてね。まあ個性だといえば個性で(笑) こういう人かなあという気もするんですけど。これ、すごい傲慢ですよね。つまり、決めるのは私である、と。何が正しいのかを決めるのは私である、ということを言っていて、少なくとも、自分とは異なる意見を持ってる人に対して、むしろ逆で、関さんこそ、オリエンテーションとフェティッシュなものを区別するということが何故必要なのかということを理路整然と説明してもらわないと私はちょっとよく分からない。こういうことをしはるんなら。
で、なめてはるねえ。バイっこの発言というのは、舐められる…というのはどこ行ってもそうみたいで。
間違ったことをいうバイの人もいっぱいいる。つまり「オレはバイだから結婚出来る」…確かに実数としてかなり多いとは思いますが、そんなのだってゲイっ子だって言うじゃない。…とかもあるし。
やっぱり、この時代の人っていうのは、ホモフォビアと戦う、強制異性愛と戦うってことで精一杯で、それで全身全霊を使ってしまったから、それ以外のことを重要だって言われると、すごい心外な気持ちがするのかも知れないな、と。
でも、まあ次の時代を作るんだったら、同性を好きになること、ホモフォビアの問題だけではなくって、性別二元論、Binary Gender System、「男女という制度」、つまり、二つに分けるということ自体をちゃんと相対化するような視点を持って私達は運動や表現をしたいなと思うし、本当にその際に、みんな自分のことだけ言うんじゃなくって、私は「男女という制度」という言葉を使いますが、女性差別、性役割の強制、ホモフォビア、性別二元論、それぞれ別々のものとしてとりあえずは抑圧関係があるので、その一つ一つに対して、自分はどうなんだろうなという風に考える謙虚さを持てたらいいなあと思います。
ということで演説おしまい。(拍手)
(■Aセクシュアルについての会場からの発言を、できれば承諾を得て掲載したい■)
日比野真談
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