ひっぴい♪♪スペシャル in 東京(2003年5月20日〜26日)について |
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1. 京都からマルチ・アクティヴィストの日比野真さんをお招きして催した「ひっぴい♪♪スペシャル in 東京」では2003年5月20日から26日まで、連日多彩なテーマでワークショップが行われた。この企画が立てられ、実行されるに至った経緯を簡単に説明したい。 一言でいえば、この企画は、アソシエーショニズムのひとつの実現である。セクシュアリティを中心にしたテーマ群と、エコロジーや農に取り組んできたカフェや運動体との出会い。関西の運動と関東の運動の出会い。アソシエーションとは、ざっくばらんにいえば、「出会い」を意味する。アナーキズムないしアソシエーショニズムとは、人と人との多層的で自由な出会いの連結の力が資本や国家や既成共同体の搾取・収奪(弾圧)・抑圧に抵抗し対抗できるという「信」である。この「信」に根拠はない。単に、この「信」を共有する者同士はアソシエートでき、そうでないものはアソシエートできないということだけである。(私がワークショップの依頼をしたのは日比野真さん一人に対してではなかった。多数のアクティヴィストや研究者に同様の依頼をしたが、大半は断ってきたか、無視した。受けてくださったのは日比野さん一人だった。偶然にも、日比野さんと私は、「出会い」の力を信じるこの奇妙な「信」を共有していたのではないかと思う。) 私は、繋がりえないもの同士が繋がる出会いを信じるアナーキストとして、連続ワークショップの企画を長い間温めていた。最初に企画書を書いたのは2001年の年末である。多忙や病気などの理由で二年以上もの時間が過ぎてしまったが、長年の希望を実現できて、私は、アソシエーショニズムの「信」━━縁(出会い)の精妙な潜在性への「信」を保持してきて本当に良かったと実感している。柳宗悦は『南無阿弥陀仏』(岩波文庫、ISBN:4003316940)のなかでいっている。 《しかも真実の祈りは、受け容れられる祈りを意味する。「叩けよ、さらば開かれん」といわれるが、「さらば」という言葉を中に挿入する必要はない。実には叩くことが開かれることである。否、開かれざる扉を叩くということは許されておらぬ。むしろ開くことが因で、叩くことが果だとさえいってよい。阿弥陀仏とは、その開く阿弥陀仏なのである。》(p90) これはほとんどカフカの『掟の門』を思わせる魂の態度である。叩くことは開かれることであり、開かれない扉を叩くことは許されていない。アソシエーショニズムの「信」も、叩くことが開かれることであるような、扉を叩く行為としてある。私は扉を叩き、そして開かれた。物事が動き始めた。それが事の次第であり、始まりの出来事だった。 2. 「ひっぴい♪♪スペシャル実行委員会」というグループを捏造したが、これ自身、混成部隊であり、出自も性向も思想も異にする多様な人たちの集まりだった。2002年に日比野真さんが行ったパレスチナ報告会の関係者、および、その翌日のレズビアン・ゲイ・パレードで日比野真さんらと一緒にパレードしたメンバーが中心で、それに加え私の知人が何人か参加してくれた。 混成部隊だけに、コミュニケーションも最初は難航した。出不精でひきこもりがちな私を、井形恭子さん、井形ユミ子さんが強力にプッシュし、引っ張ってくれなければ、そもそも企画が実現できたかどうかも分からない。飛弾五郎さんは資料の印刷を、石井和良さんは記録を、ヴォランタリーに引き受けてくださった。井形さんたちに加え、トッピーさんも、宣伝活動に力を注いでくださった。山王和子さんは、会場の一つである『あかね』との交渉を一手に引き受けてくださった。山田いく子さんは、国分寺での宣伝活動にお付き合いいただき、また当日の受付などを担当してくださった。実行委員会ではないが、会場の一つであるカフェダスの蛭田葵さんは、店側チャージを取らないことで、経済的にこの企画をバックアップしてくれた。カフェスローの店長の吉岡さんやスタッフの方々も、私の側の唐突な依頼に応じてくださった。これらすべてのことに、私は心から感謝している。 「ひっぴい♪♪スペシャル in 東京」は、このように多数で多様な人たちの出会いがあって、また幾つものオルタナティヴ・スペースの力があって、初めて実現できた。本当にささやかな勝利とはいえ、アソシエーショニズムの勝利である。危惧された赤字も出ず──残念ながら労働対価を出すところまではいかなかったが──、大きなトラブルもなかった。この一週間は、ほとんど奇蹟的な出会いの連続であり、至福の時としてあった。もちろんそれはいつまでも続きはしない。奇蹟の時は尽き、奇蹟の時は再び潜在的な時の環のなかに戻る。再び日常が、生活が始まる。それでも奇蹟は、日常を微かに生気づけ、生を生きるに値する何かを送信し続けてくれる。生活は続く。しかし、以前とは何かが違っている。ほんの些細な出来事がもたらした変異/偏倚が生を変えてしまったのだ。すべてが以前と同じであり、且つ、すべてが違っている。 3. 詳細は別項をご覧いただくとして、各日の企画について、簡単に報告する。 ●5/20(火) わたしとパレスチナの距離 セクシュアルマイノリティーとしての経験から 国分寺/府中のカフェスローで行われたこの会には、激しい夕立のなか、28人もの方々が参加してくださった。内容は、昨年、ISM(国際連帯運動)に日比野真さんが参加しイスラエル軍に逮捕されたときの報告会である。昨年東京ウィメンズプラザで催された報告会とほぼ内容は同一だったが、状況は当時に比べて深刻になる一方である。レイチェル・コリーをはじめ、何人ものISMの非暴力運動家が殺されたり傷つけられたりした。そのような緊張感のなかで、しかしユーモアも交えながら、報告会は賑やかに進行した。 ●5/21(水) 「男女という制度」ってなに? 早稲田のカフェダスで催された、「初心者向けワークショップ」である。ゲームを駆使した、楽しい展開で、「性別の自己決定権」の基礎篇が展開された。私は男か女か、或いはそのいずれでもないのか、そのように主張する根拠は何か──問いを論理的に詰めていけばいくほど、錯綜し分からなくなってくる。このようなアポリア(難問、行き詰まり)においてのみ、性は思考され生きられることができる。 ●5/22(木) 日本において、日本国籍を持つ日本人である私はどういう存在か 日比野真さんはパレスチナで逮捕されたとき、日本国籍を持つ日本人として日本大使館や外務省などの公的サービスを受けた。しかるに、日比野さんが日本「国民」でなかったとしたら、たとえば在日外国人、在日朝鮮人だったとしたらどうなっていたか──。そのような問いから、国籍と権利の問題を丁寧に話し合った一夜だった。日比野真さんの結論は、権利を行使するか否かは個々人の判断に委ねるとして、すべての在日外国人に日本国民と同等の権利(選挙権、被選挙権…)を保障すべきだ、ということである。 ●5/23(金) 全ての社会運動は迷惑だ -------いいこと、正しいことを言いながら間違ったことをしてしまう 失敗を避けるために何が必要か 自助グループ(当事者運動)と社会運動とを先ず区別しよう。前者は、何らかの特異性をもつ当事者同士が助け合い学びあう場である。後者は、外に、社会に向かって働きかけ、世の中を変えようとする運動である。この両者の混同から、多くの混乱や問題が生じてくると日比野真さんは言う。当日は、幾つかの団体が名指しで批判・分析された。「公的なもの」としてある社会運動の開かれた位相を保持するため、幾つもの厳しい倫理的・政治的ハードルを越えなければならないのである。例えば、次のような。 ・自分が参加や主催している会の名称や目的を、あとから参加した人が変えることができるか ・会の代表者を罷免することができるか ・会としての意志決定の場に誰が参加することができるかが対外的に明文化されて公開されているか ・会としての意志決定の場に、新規メンバーも既存メンバーと対等な権利を持って参加できるか また私たちは無謬では(原理上)あり得ない。過ち得る存在として運動したり休止したりしている、ということをしっかり頭に入れておくべきである、ということも強調されていた。 ●5/24(土) 『バイセクシュアル』への差別から見えるもの 5月のVIVID定例会として催されたこの会では、一枚の紙を折るという喩えで説き起こされた。異性愛者や同性愛者は、簡単にいえば、その紙を男/女というふうに折り、そのいずれかを性的対象にする。では、バイセクシュアルは、紙に折り目が無い人のことなのか。──そんなことはない、と日比野真さんは言う。性別を基準にした折り方のみならず、若い/若くない、背の高い/低いなど無数の折り方がある。バイセクシュアルとは、性別を基準にした折り方よりも別の折り方の優先度が高い仕方で紙を折る人のことなのである。しかるに、現状では、性別を基準にした折り方のみが特権化されている。その差別、力関係が、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー…)という枠組みではなく、レズビアン・ゲイ・パレードという枠組みとして現実に反映されているのだ。 ●5/25(日) あなたもトランスジェンダーになれる--もし望むのなら。 性別の自己決定権を確立しよう。 早稲田の『あかね』で催されたこのワークショップは、火曜日のワークショップの中級篇とでもいうべき非常に濃密な内容だった。簡単に要約することはできないが、その人自身が主張する性別を尊重すべきである、というのが根本的なテーゼである。日比野真さんの主張によれば、性的指向も性自認も、長い生/性の経験の過程で変わり得る。最初自分を男性だと感じていたのに、いつのまにかそう感じなくなっていた、ということも事実としてあり得るのだ。だから、あなたもトランスジェンダーになれる--「もし望むのなら」。 ●5/26(月) 性暴力はどこか遠い場所で起きている「事件」ではない。男/女(および男女の性別の枠組みに収まらないあらゆる存在)の間の力関係の差異、性差別があるかぎり、それはいつでもどこででも起きうる事柄なのだ。性差別の遍在から必然的に引き出される性暴力(の可能性)の遍在を自覚し、主催者や店員などその場の責任者は、できるだけ性暴力が起きないように努力すべきである。 4. ご来場いただいたすべてのみなさん、スタッフのみなさん、そして誰よりも日比野真さんに、このような濃密で充実した経験を過ごし得た僥倖を感謝したい。いつの日かまた、出会い━━奇蹟の時が現在時に浮上してくる機会が訪れるのを心より願って、稿を閉じることにしたい。 2003/08/01 |