「相手が女か男か」で異なる態度をとり、取り扱いが違うのは性差別?性別差より個体差の方が大きい?–では、「相手が男か女か」で好きになるか・セックスをしたいかどうかが違うのは性差別?
(インパクション117号 特集「フェミニズムへのバックラッシュ」 2000年1月25日)
性別欄を廃止しよう!
「相手が女か男か」で異なる態度をとり、取り扱いが違うのは性差別?性別差より個体差の方が大きい?–では、「相手が男か女か」で好きになるか・セックスをしたいかどうかが違うのは性差別?
私たちは、私たちの社会は、女という性別と男という性別には根本的な違いがあると信じている。性別を根拠とした異なる取り扱い自体が性差別である、という認識は、実はない。私たちは実は極めて性別にこだわっており、「あの人は男か女か」ということをとても気にしている。これは、マジョリティーの文化、女性蔑視で強制異性愛の文化や社会だけではなく、フェミニズムやゲイリブといった性をめぐる様々な社会運動やその活動をしている人といえども、ほとんど例外はないのではないか。
私自身はいわゆる「バイセクシュアル男性」であり、性別を軸にしてものを考えるゲイリブに違和感を持っていた。例えば私のようなバイセクシュアルの場合は、性別以外の要素(例えば、背が高い/低い、太っている/やせている、若い/年をとっている、毛深い/毛深くない、など)といった基準の方が、性指向という点では重要だ。「女が好きか、男が好きか」「同性が好きか、異性が好きか」という形で相手の性別にこそことさら注目するという点においては同性愛と異性愛は実は全く同じであり、同性愛も異性愛も性別二元論の性別秩序を違和感なく共有している。「性別こだわる派」としての異性愛者と同性愛者は、「性別以外の基準が大事派」としてのバイセクシュアルなどに対して、性指向における性別二元論を無自覚に強いてしまうマジョリティーの位置にいる。そもそも「バイセクシュアル」という言葉自体が、性別を基準にして人を分類したがる「性別気になる派」の都合によって「性別以外の基準が大事派」を位置付けた言葉なのだ。
「バイセクシュアル」の話は性指向における性別二元論の問題を明らかにするのに過ぎない。しかしトランスジェンダーの友人やトランスジェンダーは名乗らないが性差をなくしたいという人との出会いによって教えられたことは、性別に対して私がとっていた中途半端な態度を根本から一新させるものだった。例えば公衆便所が男女別になっているのは、性別アパルトヘイトであり、性別二元論や性別本質主義に基づいた性別秩序を強化する性差別である、と言ったらどう思いますか?銭湯の女湯と男湯との間にある壁をベルリンの壁のように思っている人の存在、その壁を壊すことが革命だと思っている人のことをどう思いますか?
人間には「男」「女」という二つの性別があり、たいがいの人はそのどちらかに分けることができる、と考えているのはいったい誰だろう。公的な場における「女/男」の区別には合理的な理由がある、と主張しているのはいったい誰だろう。「男同士だったら話しやすい」「女同士だったら分かり合える」というように、「女」や「男」にはそれぞれ何となく共有されているものがある、と考えているのは誰だろう。それは、公衆便所で男子便所・女子便所のどっちに入っても落ちつくことができない、ということがが決してない、あなただ。それは、銭湯に行く度に女湯か男湯かを選択させられることに一度も違和感や嫌悪感を抱いたことのない、あなただ。それは「男が好きなの?女が好きなの?」と無邪気に聞くことのできる、あなただ。あなたは、女男別の制服(学校も職場も)、ランドセルの色、トランプの図柄における男女の対照的な描き分け、性別によって分けられた紅白歌合戦、などに対して、どれほどの違和感を持ちながら生活している?違和感を持たないのは、その価値観を共有しているからではないのか。あなたは今から二十四時間「彼女」「彼」という性別によって人を代表する言葉を使わないで生活をすることができるのか?もちろん私自身がこれらの点で性別にこだわってしまっている人(sexist ! )なのは言うまでもない。
体の性別(構造)・心の性別(性自認)・服装や言葉づかいなどの性別役割、などの様々なレベルでの様々な「性別たち(sexes,genders)」はすべて一致する。だから、女は女らしいし、男は男らしい?それ故、人は男か女のどちらかにわけられる?性別には他のことよりも重要な意味がある、という三つの思い込み(性別二元論)を信じているからこそ、自分が企画したイベントのアンケートにすら「女・男」の性別欄を設け、性別による意見分布に関心を示すのではないのか。あなたは「男の人」と言った時に、オッパイがあって日常的にスカートをはいている男の人、女として扱われ育てられてきた男の人、生理がある男の人のことをあらかじめ想定していますか?「女の人」と言った時に、オチンチンのある女の人、がたいが大きく髭のある女の人、振る舞いがとてもマッチョな女の人のことをあらかじめ想定していますか?そういった人たちを想定していないからこそ、性別欄には意味があると思えるのです。
最近私は、私たちの社会の中でも各種の運動の中でも、いかに性別がことさら参照され、性別二元論が根深く行き渡っているかを実感している。「女は感情的で話にならない」「男には女の気持ちは分からない」などという性別を基準にしたたわごとは、そもそも男/女の区別が可能だししかもそのことに意味があると思っていなければ出てこない発言だ。思い出してみれば「府中青年の家」において女男別室ルールを根拠として(男性)同性愛者の宿泊が拒否されたのも、男女別室ルールという性別二元論の典型のような社会制度の中には同性愛者を位置づける場所が初めからなかったからではないのか。トランスジェンダーが「ボクは生まれつき男なんだ」とカムアウトしない限り(した後でさえも)本人の性自認を尊重せず、オッパイやオチンチンやオマンコやがあること(または戸籍や外国人登録の記載)を口実に勝手に相手を女扱い/男扱いすることができてしまうのも、性別二元論を信じているおかげに他ならない。
そして逆に言うなら、ここまで広範に性別二元論が根付いているからこそ、その性別秩序を解体することによって様々な矛盾と差別を根本から解決していく可能性も生まれるのではないか。違いがある区別できるものとしての女男の性別の存在を自明の前提にした上での同性を好きになる権利や女性の権利は主張するけれども、決して性別自体のの自明性・確実性を問い返そうとしない、性別欄の廃止まではちょっとためらってしまう、というのは、「結局女は男と結婚するもんだ」「男と女は違うんだから、男は仕事に、女は家庭に」という性差別論者と実は根っこは一緒なのではないのか。性別にはことさら意味があるという性別二元論を温存していては、極めて不十分な変革しかないのではないか。
誤解があるといけないので繰り返しておくと、私が言っているのは「性別欄の廃止」であって「性別の廃止」ではない。人によって視力や背の高さに違いがあるように体の構造には違いはある訳だし、育ってきた地域や文化圏によって身につけている文化ももちろん異なっている。履歴書やアンケート用紙に視力や背の高さは記入させずに性別は記入させるのは、ことさら性別には何らかの意味があると思っているから、性別による異なる取り扱いを無意識のうちに意図しているからだ。しかし外性器の形状–想定されているのはこれでしょう–と就職やアンケートに何の関係があるのか。背の高い人には背の高い椅子と机が与えられるべきなのと同様に、生理のある人にはその人の性別に関わらず生理休暇を与えられるべきなのであって、ここで女性という言葉を使う必要は全くない。身体構造の差や文化の違いとしてのジェンダー差をないことにする必要はないが、性別がことさら参照されるのはおかしいという意味で、性別欄の廃止なのだ。だから冒頭に書いた性指向についても、性別による好き嫌いが何か特別なこと、特に重要な意味があると思われていること、そんな社会的な意識こそが問題なのであって、べつにペニスフェチであろうがオッパイ好きであろうがマッチョな文化や控えめな口の聞き方が好きなのであろうが、ほんとにどうでもいいことだ。
現実には、私たちの多くは男や女として相当ジェンダー化されてしまっており、例えば男としてジェンダー化されているのであれば感情を表現することや争わないでちゃんと人の話を聞くことなどを身につけるようにしないといけない。例えば女としてジェンダー化されてしまっていたらその場で直接相手に対して向き合って批判することや苦手な人から逃げてしまわないこと、自己主張してもいいんだということを覚えなくてはいけない。更にいうなら、ジェンダー化されるということはまさに性別に過度に意味を見いだす文化を身につけることに他ならない。また現実に性的な暴力が満ちあふれている状況下では、暴力の被害者が安心していられる場所をつくることの必要性は重大だ。その意味では、私たちはまず実は徹底的に性別にこだわっている自分自身、ジェンダー化されてしまっている自分自身に向き合う必要があるし、その過程と、自分が徹底的にジェンダーにとらわれ性別にこだわっているという自覚なくして、性別欄の廃止などありえない。私たち一人一人がジェンダー化されてしまっているからこそ社会的なジェンダー間の力関係もつくられていることを考えれば、なおさらだ。私は個人的には、ジェンダーミックスの場でお互いのディスコミュニケーションを修羅場のように共有しながら自己変革・相互変革をしていくのが趣味なのだが、全ての人にそういうやり方を強いるわけにもいくまい。その意味で、各種の自助グループを否定するつもりは全くありません。ただ、性別二元論の性別秩序の解体という考え方を参照することにより、フェミニズムで全てを解決しようとしたり、フェミニズムを中心にする発想を相対化でき、性別にこだわった自助活動や「女性の権利」を獲得する運動を、性に関わる大きな運動の中の一部分として逆にちゃんと位置付けられるのではないか。そしてまた、自分が切実に関心のある運動が不可避的に持つ弊害部分にも自覚的になれるのではないか。(本当はこういった提案はフェミニズムに対してというよりまず何よりゲイリブに対してこそしていかなければいけない位置に私はいると思っているし、そうしている)
よりましな性別秩序の獲得ではなく、性別二元論に基づいた性別秩序そのものの解体、分かり易く言うと、社会の中と私たち一人一人の心の中にある性別欄を廃止すること、という考え方が、様々なところでそれぞれに闘われている運動を相互に関連づけ、より根底的かつ全体的な変革のために、次の一歩を踏み出すためには有効なのではないかと、私は最近思っている。
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