なぜ「QUEER JAPAN」は取り上げて「ファビュラス」は無視するのか?

ほぼ同じ時期に発行された2つの雑誌「QUEER JAPAN」と「ファビュラス」。両誌の批評的な紹介です。
(インパクション117号掲載 2000年1月25日)


 「QUEER JAPAN」というのは勁草書房から発行された雑誌で、ゲイのライターとして有名な伏見憲明さんが編集長だ。内容的には、第一特集として「メイル・ボディ」。「仮名手本忠臣蔵」などの浮世絵に描かれた裸体画に男女の性別の区別がつかないものが多い事実から、現代とは異なる近代以前のエロスの在り方を論じた文章や、男体と女体の両方を経験したことになるトランスセクシュアルの虎井さんの体験記、フィストファック(腕を入れる/入れられるセックス)指南の対談などが収録されている。また第二特集は「クィアの九十年代」として、全国で活動している人々に対するアンケートや、座談会が行われている。あと松沢呉一さんの「売買春肯定論」。その他「メイルボディ」の写真も多数収録されている。位置付けとしては「『QUEER JAPAN』は二一世紀の新しい性愛とライフスタイルの文化を創っていくためのムーブメント。その意志に賛同する人は誰でもクィア(変態)であり、誰だってクィア=「私」になれる」と「はじめに」に書いてある。決してゲイの雑誌とは謳われていない。
 インパクション誌からの原稿依頼はこの「QUEER JAPAN」についてだった。しかし実はほぼ同時期に「ファビュラス」という雑誌も創刊されている。こちらは「ゲイのためのまったく新しいスタイル・マガジン」と銘打っており、編集長は小倉東さん、出版元はゲイ雑誌大手のテラ出版。実はこの「ファビュラス」、旧来のゲイ雑誌とは路線が異なっている。小倉さんの言葉では「これは『ゲイ雑誌』ではなくて『ゲイスタイルの雑誌』。つまりセクシュアリティをアイデンティティの核に置かずに、ゲイというのを生き方の一つのスタイルとして提案していく。だから『ゲイ的』なる生き方を共有し得る人であれば、誰もが楽しめる本にしたい。(中略)今までは男性誌/女性誌、ゲイ雑誌……ってセクシュアリティによって分断されてきた雑誌界というのがあったので、そうじゃないところで広がりが持てる媒体がつくれたら面白い(『QUEER JAPAN』P.96)」とのことだ。なるほどそういえば、開いてまず第一ページ目にいろんな装いの何人ものチャッピーの絵が見開きで広がっていることが印象的だ。チャッピーの髪型(短から長)と服の色(青から赤)を左右に徐々に着せ替えていくことで、同じ顔のチャッピーが男っぽく見えるバージョンから女っぽく見えるバージョンまでグラデーションに変化している。実体のない装いとしての性別(ジェンダー)が楽しく表現されていて、私には心地よい。また既存のゲイ雑誌なら男性ポルノが掲載される冒頭部分はファッション特集になっており、ファッション誌という感じがするくらいメンズ・ファッションショーが繰り広げられている。各地のゲイナイトなどのイベント情報もあるが、特にミックスのイベントにはノンゲイの人もたくさん参加して楽しんでいるんだし実用情報だと言える。他にも「ゲイスタイル雑誌」の取材を拒否した店の実名がでてくる「今月の取材拒否」のコーナー、セックスワーカーアーティストの紹介、なども載っている。
 ちなみに「QUEER JAPAN」は一般書店の普通の本棚に並んでいるが、「ファビュラス」はゲイ雑誌取扱店の一部でしか置いていない(取り寄せは可)。
 ほぼ同じ時期に出版され、内容的にも似ている面もあるのにどうして「QUEER JAPAN」は取り上げて「ファビュラス」は取り上げないのですかとインパクション誌に問い合わせたところ、「それは何ですか?」との答えだった。「ファビュラス」も小倉さんの名前も知らなかったのだ。
 まず重要な問題がここにある。なぜ「ファビュラス」を知らないのか。不躾ながらはっきりと言うなら、インパクション誌が性的少数者(というより正確にはゲイ)の活動や文化・コミュニティーからとても遠い位置にある、ということだ。強制異性愛社会のまっただ中にいて、自分からはゲイの表現には関心を示さず、待っていて流れてくる情報を読むだけだったからこそ、「QUEER JAPAN」は知っていても「ファビュラス」は知らなかったのではないか。
 現実問題として、「ゲイ」がキーワードになっている雑誌は基本的には他人事、よくてもマイノリティーの問題として括られてしまい、一般には興味を持たれないことが多い。もちろんゲイリブの観点からいえば、異性愛ポルノに満ちあふれた異性愛ベースの雑誌(例えば週刊プレイボーイ)は「一般の」本屋の「一般の」本棚に並べられ、ゲイベースのそれはそもそも扱わない本屋の方が多い、ということこそがまさに強制異性愛社会の問題点の一つに他ならない(ゲイ雑誌よりもおそらく販売部数が少ない趣味の雑誌が何種類もあちこちの本屋には置かれているのはなぜ?)。そんな社会的状況の中で、性的少数者の事にそんなに敏感でも特に関心があるわけでもない人に対してさえその存在を知らしめられていること、「ゲイの雑誌」には見向きもしない本屋が多い中で場合によっては平積みさせることができていること、これらの点こそが「QUEER JAPAN」の最も素晴らしいところだ。英語のQUEERは本来は変態・オカマとかいうどぎつい侮蔑語なのだが、何故か日本ではおしゃれなかっこいい言葉として流通している。「マイノリティーの問題だ」と切って捨てられかねない「ゲイ」ではなく「QEUEER」をあえて使い広範な流通を獲得している手法は、見事だ。
 しかし、しかしだ。もしインパクション誌が性的少数者の運動に積極的に関心を持ち、または異性愛や性別二元論を強いる社会を変えることを常に自らの課題にしているのであれば、ゲイコミュニティーの中の大きな出来事の一つである「ファビュラス」創刊を知らないということがなぜあり得ようか。「QUEER」のような口当たりのよい言葉を使わなければ、本屋に平積みされるくらいにならなければ、インパクション誌でさえも関心を示さないのか。インパクション誌も異性愛者のための雑誌なのか。「ファビュラス」が単なるゲイ雑誌ではなくゲイコミュニティーと強制異性愛社会との関係のあり方を変えていこうという指向性を持っているにも関わらず無視されているのが、私は残念でならない。その他、もしゲイの問題といえば伏見さん(そしてアカー、掛札悠子さん)という発想があるのならそれは、現時点においては「何も知らない」にほぼ等しい。本当にインパクション誌はコミュニティー内で行われている様々な議論に少しでも関心を持っているのか?例えば「危険は承知(デレク・ジャーマン/大塚隆史・河出書房新社)」や「パブリック・
セックス(パット・カリフィア/東玲子・青土社)」「三一○人の性意識(性意識調査グループ・七つ森書館)」「男でも女でもない性(橋本秀雄・青弓社)」「知った気でいるあなたのためのセクシュアリティ入門(関修/木谷麦子・夏目書房)」そして「ファビュラス」でもなく、特に「QUEER JAPAN」だけに関心を示すのはなぜなのか。
 実は私は、例えばクィアと銘打っておきながらゲイ中心の構成であること、バイセクシュアルに対する無理解な発言を伏見さんがしていること、「編集長あとがき」において売買春論議を松沢さんとフェミニストとの争いとみなしていること、などいくつもの点で「QUEER JAPAN」は不十分であり、決してコミュニティーを代表しているものではないと思っている。が、そもそも誌面が足りず、ここに詳細を書く余裕はない。
  私にとってのリブとは、そして私にとってクイアであるための大前提とは、まず自分の生き方に責任を持ち、目の前にいる人とちゃんと向き合うこと。それができるのならある時点での知識の有無などどうでもいいことだ。「QUEER JAPAN」評というよ
りインパクション誌についての言及が多くなってしまったのには、かような事情があるのです。「QUEER JAPAN」批判については余力があれば「QUEER JAPAN」に直接投稿するかもしれないので、そちらを読んでいただければうれしいです(不採用なら最低限私のホームページには載せます)。


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