“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その1)

バイセクシュアル」「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」など様々な性的少数者が参加しているのに……
なぜパレードの名称は「東京レズビアン&ゲイパレード」なのですか?

「対等なかたちで」パレードを このパンフレットは、2005年8月13日に行われた「東京レズビアン&ゲイパレード2005」で配布しました。本文にも書いてあるとおり、実行委員会の方に8/2にメールでお送りしたものを、更にバージョンアップ/改訂した内容です。
本文中にも書きましたが、実行委員会の方としても、誠実に応答しようとして頂いているとわたしは感じています。パレードの広報担当の砂川さんの方からは、パレード準備のお忙しい中にもかかわらず、「結局、パレード当日まで返事ができなくてごめんなさい。(中略)終ってから、ちゃんとメール送りますので、もうしばらくお待ちください」というメールをパレードの前夜にわざわざ頂きました。ある時点におけるお互いの選択や意見が異なることはよくあることですが、異なる意見の者とも向きあおうという態度をとられる実行委員会の方々には、とても共感できます。意見が仮に異なっていても、十分対話が可能だとわたしは感じています。その点で、例えば伏見憲明さんのように、ゲイ以外の性的少数者についての関心も知識もないにもかかわらず、傲慢で排他的な発言を繰り返すようなあり方とは全く異なると思っています。
是非皆さんも、ご自身の思いを、いろんなところで表現してみてください。無責任に罵倒したり、陰で悪口を言うのではなく、発言に責任を持つかたちで、是非発言してください。自分のサイトに書くのもいいですし、実行委員会宛てにメールするのでもいいと思います。「バイ」の声は、既にそうやってパレードのパンフにも誰かが投稿しています。そうやって、様々な人達が表現し、はじめはすれ違いや混乱があったとしてもお互いの意見に耳を傾ける過程を経て初めて、「みんな」がそれなりに納得できるものになっていくのだと思うからです。
このエントリーへのコメントも歓迎します。みんなで、「みんなのパレード」をつくっていきましょう。


 

“みんな”で “対等なかたち”で パレードを!

文責:ひびの まこと

 

バイセクシュアル」「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」など様々な性的少数者が参加しているのに……
なぜパレードの名称は「東京レズビアン&ゲイパレード」なのですか?

【はじめに】

●わたしは、何らかの形で、ジェンダーやセクシュアリティーをテーマとしたパレードが開催されることは大切なことだと思いますし、またわたしもそれを望んでいます。わたしはパレードについていろいろな意見を公にしていますが、それはパレードができるだけ多くの人にとって、よりよいものになるようにという願いからです。
●他の例でいうと、例えば「戦争反対のパレード」の中にある同性関係嫌悪や男性中心主義についての批判を、「戦争反対のパレード」の内部でもわたしは行います。「レズビアン&ゲイ・パレード」に対するわたしの発言も、それと同様、(わたしの立場からみて)よりよいパレードをつくろうという意図からのものです。
●パレードのような公的な企画のことについては、誰にでも開かれた形で議論することが一番大切だとわたしは考えています。「みんな」の前でそれぞれが意見を言って話し合い、「みんな」が自分の頭でで少しずつ考えていくプロセスこそが、トップダウンではないパレードとコミュニティーをつくるためには大切だと思うからです。

【バイセクシュアルについて】

●「全ての教室や職場には同性愛者がいます」というのは、有名なもの言いです。それと全く同様に、歴史的にみても、過去も現在も将来も、「ゲイ」「レズビアン」と名の付くところの全てには、バイセクシュアルがいたし、またいると考えるべきです。
●パレードについても同様に考えます。「東京レズビアン&ゲイパレード」には、一番はじめから「バイセクシュアル」がいたと考えるべきですし、そのことは当時から明らかなことでした。
●したがって私の問いは、「バイセクシュアルを仲間に入れて欲しい」というお願いではありません。そうではなく、そこにいることが既に明確に分かっているにもかかわらず、「バイセクシュアル」を「レズビアン・ゲイ」とは異なる取り扱いをするのはなぜか、(分かっていたにもかかわらず、そうしてきたのはなぜか)ということです。
●異性愛社会の中で異性愛者以外の存在が不可視化(隠蔽や無視)され、「2級市民扱い」されているのと同様のからくりが、「レズビアン・ゲイのコミュニティー」の内部にもあるとわたしは考えています。「バイセクシュアル」は、「レズビアン・ゲイのコミュニティー(特にゲイのコミュニティー)」の中で、一貫してその存在が不可視化され、「2級市民扱い」されてきました。残念ながら「バイセクシュアル」に対する抑圧の存在に敏感なレズビアン・ゲイ(特にゲイ男性)は、決して多くありません。(**注)
●「レズビアン・ゲイのコミュニティー」から「バイセクシュアル」を切り離すこと、つまり例えば「バイセクシュアル」を排除して「レズビアン・ゲイのパレード」をつくることは、原理的に不可能だとわたしは思います。例えば「ゲイ男性」の中には自身のことを「バイセクシュアル」だと認識する時期がある/あった人も一定数いるという事実からは、仮に「ゲイ男性」のみの利害を擁護する立場からみたとしても「バイセクシュアル」を排除することは適切ではないという結論が導かれるはずです。まずなにより、「バイセクシュアル」を排除することは、現実的な選択ではありません。
●「バイセクシュアル」は、「レズビアン」「ゲイ」といったアイデンティティーを獲得するための過程ではありません。「バイセクシュアル」の提示する問題は、「レズビアン・ゲイ」の提示する問題の部分集合ではありません。「バイセクシュアル」の提示する課題は、「レズビアン・ゲイ」と重なる部分もありますし、重ならない部分もあります。その意味で、「バイセクシュアル」と「レズビアン・ゲイ」とは、異なる利害関係を持っており、常に対等に扱われる必要がある、とわたしは考えます。「バイセクシュアル」の人が、「レズビアン」「ゲイ」のアイデンティティーを引き受けるように促されることは、本人にとって抑圧になります。
●「ゲイの人って○○なんだよね」「レズビアンって△△だね」と異性愛者が同性愛者のことについてよく知らないのにあれこれ言うのが不快な場合があるのと同様に、「バイセクシュアル」のことについて「レズビアン・ゲイ」が安易にあれこれ言うことには不快な場合があります。「レズビアン・ゲイ」中心の場のあり方や言説に対する違和感の表明は既に様々なところでされています。「バイセクシュアル」の話をするのであれば、まず「バイセクシュアル」の人が何を言っているのか、「バイセクシュアル」の人の発言や意見をまず知ろうとして下さい。
●「バイセクシュアル」を対等に扱うということは、例えばパレードが「レズビアン・ゲイのパレード」ではなくなるということです。もし本当は「レズビアン・ゲイのパレード」をしたいのであれば、どのような批判を受けようとも「レズビアン・ゲイ・パレード」という名称(と目的)は維持すべきでしょう。そうではなく様々なセクシュアリティーの人のパレードにするのであれば、「レズビアン・ゲイ」を中心とした発想や運営自体を放棄することを公式に確認する必要があると思います。「レズビアン」「ゲイ」は、「バイセクシュアル」と同様の敬意をもって扱われる、たくさんある少数派の中の1つでしかないことを、肯定的に確認するべきだと思います。名前だけ変えて実態は変わらないのでは、あまり意味はありません。(次項の「インターセックス」についてのところでも同様のことに触れています)

【「バイセクシュアル」以外のマイノリティー】

●わたしは、「バイセクシュアル」だけではなく、少なくとも「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」「カテゴリーしない、またはクエスチョニング」という存在もまた、「レズビアン・ゲイ」と対等な形で明示的に扱うべきだと考えています。
●なぜなら実際に参加者に、そういったアイデンティティーを持つ人がいることが明らかであり、かつそれらを排除もしくは2級市民扱いすべきではないと考えるからです。わたしは、1昨年にAセクシュアルの人とご一緒させて頂いたパネルの場で、実際に東京のパレードの実行委員会(もしくはボランティアだったかも)として参加していたAセクシュアルの方とお話をし、「やっぱり、もしパレードの名前に『Aセクシュアル』が入っているとうれしい」という趣旨のご意見をお聞きできました。
●インターセックスについては、LGBTAQとは置かれている状況が違う側面も大きく、単に名前を列記すればいいというものでもないと思います。もし可能でかつ関心があれば、まず当事者の方と丁寧なお話をすることが大切だと思います。(もちろん「BTAQ」もしくは正確には「LBTAQ」についても、単に名前を列記すればいい訳ではなく、以下のサイトに書かれているような趣旨の問題—独自の課題に対しての取り組みを実際に行うことの必要性—がありますが、ここではこれ以上触れません)

参考:「LGBT」に「I」を付けくわえること:インターセックスは LGBT 運動の一員なのか?
(**配布したパンフレットには収録しましたが、ここでは原文にリンクしておきます)

【実際に名前をどうするか】

●以上のようなことから、わたしは「レズビアン&ゲイ・パレード」という趣旨のネーミングは、望ましくないと考えています。簡潔に2点にまとめると、以下のようになります。

(1)「レズビアン&ゲイ・パレード」という趣旨のネーミングは、様々なセクシュアリティーの人が参加しているという現実にそぐわない。
(2)「レズビアン&ゲイ・パレード」という趣旨のネーミングは、性的少数者のなかで「レズビアン・ゲイ」が比較的力を持っている現在の社会的事実を反映しているが、こういった現実は依拠すべきものではなく、むしろ逆に働きかけて変えていくべき対象だ。「レズビアン・ゲイ・パレード」という趣旨のネーミングは、目指すべき方向とは異なっており、不適切だ。

●ではどういう名前がいいのかということについては、「レインボー」「虹」「セクシュアルマイノリティー」「クイア/Queer」「プライド/Pride」「LGBT」など様々な試みがありますが、それぞれ一長一短なので、わたしとしては何とも言えません。それぞれの現場で、開かれた形で相談するしかないと思います。
●対外的には通りのいい「レズビアン・ゲイ」を採用する、という選択も、あり得ないことではないとも思います。ただその場合には、主催者内部で「レズビアン・ゲイのコミュニティーの内部にバイセクシュアル差別があること、それは改めるべき事であること、同性愛者を中心としないように努力すべき事」等について公式に確認し、主催者側がパレード参加者に対してそのことを積極的に伝え、同性愛者を中心としない運営を実際に行っていくことが一層求められるとは思います。(例えば以前「ILGA(国際レズビアン・ゲイ連盟)」のスタッフに「なぜ名称がLGなの?」と聞いたところ、「これは改めるべき事で、将来には改められるであろう」とちゃんと答えていました)

【「東京レズビアン&ゲイパレード2005」について】

7月に東京で行われた映画祭に行った時に、たまたま「東京レズビアン&ゲイ・パレード2005」の方が「ボランティアやりませんか~」と声をかけてくれました。その声かけがとっても素晴らしいさわやかな笑顔だったこともあり、こちらも思わず思っている言葉が気軽・率直に出てきました。その場でのやりとりは責任のあるものでしたし、またその場におられた他のパレード関係者の方とも気持ちよく率直にお話ができました。
その時に私がお聞きした質問は、なぜパレードの名称が「東京レズビアン&ゲイパレード」なのですか、というものでした。後日メールでお返事を頂けるということでしたが、その映画祭でのやりとりの数日後には、パレード準備でお忙しい中にもかかわらず、「TOKYO Prideの理事会で改めて相談し、ご返答申し上げたいと思います」と広報担当の砂川秀樹さんから丁寧にメールも頂きました。
また、今年のパレードの冊子を拝見したところ、P.12のメッセージのページでも「バイ」の声を掲載するなど、今年のパレードのタイトル通り、「みんな」のパレードのために努力されているという印象をわたしは持つことができました(ただし、男性ばかりという印象もありはしますが)。「東京レズビアン&ゲイ・パレード2005」に限らず、もちろんどのような企画であろうと、必ず不十分な点があるものですが、不十分な点があったとしても、よりよい方向に向けて努力しようとしておられる実行委員会の方々には、希望を感じます。実際に東京の映画祭の場で直接対面した方々とのやりとりや、砂川さんから頂いたメールでも、排他的な感じはなく、むしろいい感じでパレードが創られようとしているなぁという印象も受けました。

実は、ここに掲載している文章は、砂川秀樹さんや「東京レズビアン&ゲイパレード2005」「TOKYO Pride」に宛てて、私が2005年8月2日にメールでお送りした意見を、少し手直しして再構成したものです。
「レズビアン・ゲイ」のネーミングの問題は、いろいろなところで議論になることなので、丁寧な対話をたくさん積み重ねていく以外に方法はないとも私は思っています。「パレードの名称問題」として、企画化したりして、開かれた形での話し合いの場所などをつくるのもまた、いいかもしれません。
ある時点に於いての選択が異なっていたり、厳しく対立したりする事があるのは、残念ですがどうしようもないことです。しかしそういった中でも、それぞれの人が意見を隠すのではなく、公の場で声を挙げ続けることがまず必要だと思います。そして、迷いながらも時間をかけて意見交換をし、ゆっくり直接対話し続けていくことが、大切だとも思います。そういう思いから、私はこのパンフレットをつくって配ることにしました。「東京レズビアン&ゲイ・パレード2005」という名前に違和感のあるあなたは、是非自分でもパレードの実行委員会に宛ててあなたの意見を書いてください。また、このパンフレットを読んだ感想も、私にも是非おしえてくださいね!
私たちのコミュニティーの中には、「バイセクシュアル」への2級市民扱いだけではなく、女性差別やトランスジェンダーへの差別、日本人中心主義や健全者中心主義、一部のギョーカイボスによる場の私物化など様々な問題がありますが、風通しのいい、トップダウンではないコミュニティーをつくるために、是非あなたも自分の意見を表現していってください!

「あなたの見ている真実を言うことが一番重要だということ。たとえその”真実”が一般的ではなくてもね」
(「パブリック・セックス 挑発するラディカルな性」パット・カリフィア著 東玲子訳 青土社)

(**注)「レズビアンのコミュニティー」においては「バイセクシュアル」に対してある程度適切な取り扱いがされてきた歴史もあります。「ラブリス」も「LOUD」も「レズビアンとバイセクシュアル女性のための」と当初から公式に銘打っていますし、実際にバイセクシュアル当事者の文章などもたくさん掲載されてきました。更に、「フリーネ」や「アニース」も、バイセクシュアルの萩原さんが編集をされていたこともあり、当然ながら「バイセクシュアル」は対等に扱われていました。こういった歴史は、ゲイコミュニティーとはとても大きな違いがあります。それは、バイセクシュアル女性ががんばって表現してきたということだけではなく、少なくない数のレズビアンたちがバイセクシュアル女性の声を聞いて、誠実に向きあってきたという事を意味します。


【参考サイト】

特集「バイセクシュアル」

トランスジェンダーが提起する問題とは何か

トランスジェンダーを含まない「性的少数者雇用差別禁止法案」は撤回せよ
LGBTの運動がゲイやレズビアンの権利に比べてトランスジェンダーの権利を下に置いている傾向があるという問題があるけれど、それについて過去に間違いをおかしたゲイの指導者がそれを反省した上で、どこが間違っていたのかを書いた文章です。

「LGBT」に「I」を付けくわえること:インターセックスは LGBT 運動の一員なのか?

「パレード準備会」開催にあたっての事実関係確認のための覚書
2000年5月20日に大阪でのパレードについて話し合う集まりが持たれました。その時に、「特定のコミュニティー・セクシュアリティー・グループの都合が常に優先されるような場にはしない」など、その後の話し合いにあたっての前提がいくつか全会一致で確認されました。

問うべきは私たち1人1人の「生き方のスタイル」。
「同性愛者」を中心としないクイア運動を目指そう!

わたしの意見がコンパクトにまとまっています。


Aセクシュアルについて、よく分からないという声をパレードでたくさん頂いたので、以下サイト掲載時に追加です。

Aセクシャルとは
非性愛的人生――Aセクシュアルの性的人権論序説


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コメント

““みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その1)” への21件のフィードバック

  1. おーつかのアバター
    おーつか

    直接、パレードについてのコメントではなくて申し訳ありませんが……

    いやはや、伏見さん言いたい放題ですね。それに比べて三橋さんは真面目だなぁ。

    「最初の前提としてLGBTでないといけないとか、そんなことを、何の権利があって言うのか分からない」
    とは、もはや権力者の言い分。いや、矢面に立たないからフィクサーかな。

    「セクシュアルマイノリティだけで「連帯」することだって、他を排除しているって批判も成り立つでしょう?」
    だから札幌はレインボーマーチに改称したんだよね。覚えてないのかな。

    しかし、この台詞には同意します。
    「抽象的にこうあるべきだというところではなく、具体的に何を一緒にやりたいのか。それがなければ仕方ない。必要なのはプランです」

    ところで
    「沖縄に暮らすバイでフェティッシュな男」
    って誰だ。なにやら強い悪意を感じるのはわたしの被害妄想か

  2. 江藤 英景のアバター
    江藤 英景

    どうかな?
    プレスリリース見てみると考えてしまうよ。
    同性愛者主体で、他のセクシュアルマイノリティに考慮しているとは言えない気がする。
    「・・・レズビアン(女性同性愛者)やゲイ(男性同性愛者)などのセクシュアルマイノリティ(性的少数者)の存在を強くアピールする。・・・」
    http://www.tlgp.org/pdf/tlgp2005pressrelease.pdf

  3. ひびの まことのアバター

    おーつかさん、こんにちは。

    「抽象的にこうあるべきだというところではなく、具体的に何を一緒にやりたいのか。それがなければ仕方ない。必要なのはプランです」

    というのは、それ自体としては私も賛成です。でも実際には、伏見さんにお願いしたい唯一のことは、間違った意見をばらまかないで欲しい、ということです。伏見さんの言説には実害があるので、それで文句を言っているだけで、私は伏見さんには特に関心がないです。
     もし伏見さんと一緒に何かするとなると、伏見さんの間違った考え方を変えて頂く必要があり、そういう手間をかけてあげてまであえて伏見さんと何かを一緒にしたいとは余り思わない(笑)

  4. ひびの まことのアバター

    江藤 英景さん、はじめまして。
     ご指摘のような不十分点は、山ほどあると思います。なので、私もパレード実行委員会をかいかぶってはいません。
     ただ最近もう一つ分かったことは、本当に全く何の悪意がなくても、ご指摘の「レズビアン(女性同性愛者)やゲイ(男性同性愛者)などのセクシュアルマイノリティ(性的少数者)」というような、不適切なもの言いをしてしまう同性愛者は実に多い、ということです。つまり、悪意はないので、「いちいち」指摘すると、「あっ、気がつかなかった、ごめん」となることも多いです。その辺で、ワタシ的には「悪意あってやっているんだろう」と思って、過剰に悲観したり、過剰に落胆したり、その反動で過剰に攻撃もしてきた面もあるのですが、今から振り返ると、同性愛者たちは本当に無自覚に不適切な発言をしていることも多いです(異性愛中心主義に鈍感なノンケと同じ)。
     もちろん、こういった事は「バイセクシュアル」をなめているからできることですし、いちいち「指摘してあげる」というサービスに労力を割かされる事自体が「バイセクシュアル差別」の現れです。なんですが、「マジョリティーとしての鈍感さ」は、決して「レズビアン&ゲイ」だけのものでもないというのも事実。ですので、相手のいい部分をほめて、でも必要な指摘はしていくということを繰り返していくしかないと思います。
     伏見さんのように傲慢な発言をする人はともかく、少なくとも「みんな」で一緒にいたいと思っていて、批判や意見にもちゃんと応答しよう、ちゃんと考えようとしている人達に対しては、意見を言っていく価値があると思うのです。

  5. スキゾー(shcizo)のアバター

     伏見さんは、他の性的少数者と出会いを重ねた上で結論されています。「性的少数者についての関心も知識もない」と断言するひびのさんの方が傲慢で排他的と返されませんか?
     別に看板が「レズビアン&ゲイ」としたからってパレードでバイセクシュアルが排除されたり、パレードに賛同するヘテロが排除されたりすることもないです。他のセクシュアリティの人にも開かれた場として存在しています。
    他のバイセクシュアルの人々が権力を恐れて沈黙しているようにも見えないし、果たしてひびのさんの主張がバイセクシュアルの主張として正当性を持っているのか分かりません。賛同する他のバイセクシュアルの人達の署名を集めるなりして、主張を通す政治的な戦略を考える方がが建設的なんじゃないでしょうか。
     ちなみに、僕自身は女性にも興味があるしバイセクシュアルともいえますが、パレードの看板は今のままでも耐え難い気分を持ったりすることもないし、パレードという貴重な場のある意義の方が重要なので、取り立てて異議を申し立てる気もないし、その必然性もないと考えています。
    スキゾー(shcizo) / URL / Aug 17th, 2005 11:11 /

    【このコメントは管理人の権限でここに移動したものです。もとはここ http://weblog.barairo.net/index.php?id=1124119906】

  6. 西ちづるのアバター

    コメントは「こっちに書いて」ってわざわざ書いてあるじゃん。
    何言うのも勝手だけど、それじゃ「読めてない」と思われても仕方ないよ?
    西ちづる / URL / Aug 18th, 2005 13:22 /

    【このコメントは管理人の権限でここに移動したものです。もとはここ http://weblog.barairo.net/index.php?id=1124119906】

  7. スキゾーのアバター
    スキゾー

    どうも失敬。ありがとうございます。>西さん
    スキゾー / Aug 18th, 2005 16:31 /

    【このコメントは管理人の権限でここに移動したものです。もとはここ http://weblog.barairo.net/index.php?id=1124119906】

  8. おーつかのアバター
    おーつか

    スキゾーさんへのレスなのでこちらに。
    伏見さんが今まで何をやってきたにしろ、この対談における発言は乱暴で挑発的です。
    また、「クィアジャパンリターンズ」やイベントでの発言を見ても、どうも最近の彼はゲイリブのフィクサー(お局というべきか?)という感じの発言が多くて辟易します。

    あと、わたしは3年前のパレードで、目の前に集まった群衆に対して「ここにあつまった多くのゲイとレズビアンのみなさん」と挨拶をはじめた某団体代表の挨拶から、はっきりと排除の意思を感じましたよ。
    おーつか / Aug 19th, 2005 16:04 /

    【このコメントは管理人の権限でここに移動したものです。もとはここ http://weblog.barairo.net/index.php?id=1124119906】

  9. ひびの まことのアバター

    スキゾー(shcizo)さんへのお返事です

    ●伏見憲明さんのひどさについて

     >伏見さんは、他の性的少数者と出会いを重ねた上
     >で結論されています。「性的少数者についての関
     >心も知識もない」と断言するひびのさんの方が傲
     >慢で排他的と返されませんか?

     リンクした伏見さんの発言を読むだけでも、そのひどさは十分に分かると思っていたんですが、スキゾーさんにとってはそうではないということのようですので、ちゃんと説明しないといけないですね。
     企画の場などで口頭で話したことは何回かあるのですが、文章でまとめて書いたことはないので、また改めて書いてみますね。

    ====================================

    ●「“対等なかたち”で」が今回のメイン

     >別に看板が「レズビアン&ゲイ」としたからって
     >パレードでバイセクシュアルが排除されたり、パ
     >レードに賛同するヘテロが排除されたりすること
     >もないです。他のセクシュアリティの人にも開か
     >れた場として存在しています。

     スキゾーさんは、本当に私の文章を読んでくれましたか?
     このチラシにおいて、私は、「バイセクシュアルやヘテロが『レズビアン&ゲイ・パレード』から参加自体を排除されている」とは一度も言っていません。
     私が問題にしているのは、むしろその逆で、実際に「レズビアン&ゲイ・パレード」には、バイセクシュアルなど「レズビアン・ゲイ」以外の性的少数者がたくさん参加しているにもかかわらず、そしてそのことははじめから分かっていたにもかかわらず、なぜタイトルがあえて「レズビアン&ゲイ・パレード」なのか、ということです。このチラシにおいて私が問題にしているのは、「レズビアン・ゲイ」と、「レズビアン・ゲイ以外の性的少数者」とが対等に扱われていないという問題、例えば「バイセクシュアル」に対する2級市民扱いの問題点についてです。だからこそ、チラシのタイトルも、パレードのスローガン「“みんな”で、パレード!」をもじって、「“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!」にしてある訳です。

    ●本当に“みんな”で一緒にいるために必要な条件はなにか?

     さっきも書きましたが、今回のパレードは、「“みんな”で、パレード!」が、実行委員会の掲げるスローガンです。わたしと実行委員会とのやりとり自体も、決して排他的/権威的なものではなかったことなどともあわせて考える時、実行委員会の人達は、かなり本心から、「“みんな”で」パレードをしたいと思っておられるのではないか、とわたしは感じています。だからこそ、こういうスローガンになったのではないかと思うの。
     そのことは、わたしはまず肯定的に見るのね。公的な企画をする時に、「バイセクシュアルの参加を認めるのかどうか」ということが、冗談としてではなくまじめに議題となるような差別的な状況(**注)は、過去に実際にあったし、今でも全くない訳ではないと思います。しかし、そういった低レベルの議論をする必要はとりあえずはなく、パレードへの参加自体は「当然の権利」としてあるような状況を創ることはできていると思うのです。そして次に、そういう状況になってきたからこそ、では“みんな”で一緒にいるということはどういうことなのか、が問題になる訳。そういうことを実行委員会の人にも、みんなにも、考えて欲しくて、私はチラシを配りました。
     実は、「排除されていない」「他のセクシュアリティの人にも開かれた場として存在している」のであれば、それで問題がないかというと、全然そんなことはないのね。例えば、ほとんどの学校や職場は、特定のセクシュアリティーの人を排除していないし、実際にどの教室にもどの職場にも、同性愛者を含むいろんなセクシュアリティーの人も参加できるよね。確かに、「排除」はしていない。でもそこには、ほとんどの場合、異性愛中心の文化と制度があり、女性差別や「男女という制度」が当たり前のように力を持っている。その場での多数派ではあるかもしれない異性愛者は、いろいろな場所で特別に優遇され、とどのつまりはいろんな場所を私物化している訳。そういった状況の中で、「多数派による社会の私物化」を告発し、「少数派の権利」を主張してきたのが、「私たちの運動」だと私は思うのです。
     つまり人々が「一緒にいる」のであれば、そこに差別があってはいけないし、不当な力関係があってはいけない。仮にそれが多数派であっても、いつも特定の人たちの都合だけがことさら優遇されたり、いつも特定の人たちだけが居心地よく感じたりすることがあってはいけない。人々の関係は、多数派であるか少数派であるかに関わりなく、対等なものでなくてはいけない。
     そして同じ事を、「レズビアン&ゲイ・パレード」でも考えて欲しいのです。「排除されていない」「他のセクシュアリティの人にも開かれた場として存在している」場合でも、だからといってその場の内部に差別や問題がないということにはなりません。もちろん、「バイセクシュアルの参加はお断り」というあまりに分かりやすくてひどい差別があるよりはマシではありましょうが、だからといって、仮に全く排除がなくても、「排除されていないから現状には問題がない」「排除がないから、今のままでいい」と主張する事はできないのですよ。

    ●「名前」はそれなりに重要

     もしかすると、「排除されていないから、いいじゃないか」というのは、実際には全く差別はないんだから、名前くらいいいじゃないか、という意図の意見なのかもしれません。しかし、まずパレードの名前における「レズビアン&ゲイ」とそれ以外の異なる取り扱いは、単にそれだけで、一定の人々に混乱や悩みを与えるという事実は、決して小さい問題ではないとも思います。
     「私はレズビアンでもゲイではないけど、レズビアン&ゲイ・パレードに参加してもいいのかな?」と思う人は実際に、そんなに珍しい話としてではなく、います。そういった不安感を与えるようなネーミングを「わざわざ」選択するのであれば、わたしは是非その理由を知りたいです。
     ちなみに、「レズビアン&ゲイ・パレード」で、そういった不安感を「レズビアン・ゲイ」が抱かされることはありません。「レズビアン・ゲイ」であれば抱かされることのない不安感を抱かされるというのは、間違っていると私は思います。
     例えば、東京のパレードの名前が「レズビアン&ゲイ・パレード」ではなく、「バイ・パレード」やもしくは「トランスジェンダー・パレード」「Aセク・パレード」で、かつ「このパレードは、様々な性的少数者のためのパレードです。どんな性的少数者でも大歓迎!是非一緒にパレードしましょう!」と呼びかけられていたら、どう思いますか?もちろん、何の疑問を感じない人もいるかもしれませんが、「わたしは参加してもいいんだろうか?」という不安を持つ人もいるでしょうし、そういうパレードを「自分のパレードだ!」と思えない人もいることでしょう。「わたしはバイセクシュアルでもないのに、何でそんな名前のパレードに参加しなくちゃいけないの」と思う人だっていると思います。
     「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前を付けるということは、まさに、そういうことをしているんです。

    ●「レズビアン&ゲイなどの性的少数者」

     「レズビアン・ゲイ」を中心にし、それ以外の性的少数者を二義的に扱うというようなあり方は、本当に「タイトルの中」にしか存在しないのでしょうか。「レズビアン」「ゲイ」も「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」も、パレードやコミュニティーの中では対等な存在としてあって、名前だけが例外的に同性愛者を中心とした名前になっているだけなのでしょうか。
     残念ながら、そんなことはないです。2番目のコメントで江藤 英景さんも書いてくれていますが、「レズビアン・ゲイなどの性的少数者」という言い方はよく見かけますが、「バイセクシュアルなどの性的少数者」「トランスジェンダーなどの性的少数者」「Aセクシュアルなどの性的少数者」という言い方を、私は一度も聞いたことがありません。実際には、「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」は、それぞれ社会的に対等な位置にある訳ではないのです。

    ●でも本当に「バイセクシュアル」って差別されているの?

     理屈が多くなってきたので、例をいくつか挙げておきますね。

    (1)例えば、男性とも女性とも性的な関係を持つ人に対して、「どっちつかず」「中途半端だ」「根性なし」といったたぐいの悪口は、周りにありませんか?「特定の性別の人だけを好きになる」という「性別フェチ」の人がいるのは別に構わないのですが、そういう趣味を押しつけられるのは私には迷惑です。でも、こういう言い方で馬鹿にされた経験を持つ人は、結構います。これは、ノンケ社会でも、クイアコミュニティーでも、どちらにもあります。
     この前テレビを見ていたら、たぶんゲイの芸人さんが、「●●(名前)!男も女も好きだなんて、オマエはなんて中途半端なんじゃ!」とかはっきり言っていて、ちょっとびっくりしました。
    (2)コミュニティーで知り合った友達…友達だと思って仲良くしていたのに、異性の恋人ができたり異性とつきあい出したりしたら、「裏切ったな」みたいな感じで関係が切られちゃったり疎遠にされたりすると、やっぱり悲しいですよね。
     こういうことがあると、やっぱり本当のことを言ったり、自分のことを話すよりも、相手の受け入れられる範囲のことだけ話して、半分仮面をかぶって関係をつくった方が楽だと思いがちです。そう、ノンケ社会の中でそうさせられて/そうしているのと同じようにね。
    (3)「私はバイだよ」というと、信じてもらえず、聞き流されることもよくある。実はゲイやレズビアンの人には、以前にはっきりと自分のことを「ゲイ」「レズビアン」だとカムアウトするのが怖くて、もしくは自分のことがよく分からなくて、「自分はバイだよ」と言っていた時期がある人が結構います。で、それと同じだと誤解されるワケ。
     すごかったのは、東京の一部のゲイ活動家の間で、「ひびのは隠れゲイだ(本当はゲイなのに、勇気がなくてバイだと言っている)」といううわさが流れていたらしいこと。違うんだけどな~5年たっても10年たっても私が「特定の性別だけを好きになる」ということは多分ないと思うんだけどな~(笑)
    (4)「私はゲイじゃないよ!」と何度も何度も直接言っているのに、そういう私が目の前にいるのに、勝手に私のことを「ゲイ」でくくる人も多かったです。「今日ここにいるゲイの皆さんは~」とか言われると、存在を無視されているようで悲しいです。
    (5)ノンケ社会では、カムアウトしないと異性愛者だと勝手に思われる。でもゲイコミュニティーでは、カムアウトしないと勝手にゲイだと思われる。どっちもうっとうしいんですが…。
    (6)「男が好きなの?それとも女が好きなの?」と無前提に聞かれることは、「どんな女の子が好き?」と聞かれるのと同じくらいうっとうしいです。「どんな女の子が好き?」では、「人は異性を好きになるもの」という前提が押しつけられていますが、同様に「男が好きなの?それとも女が好きなの?」は、「人は性別フェチである」という前提を押しつけられているから。

    (**もちろん、こういう変なことを言ったりしたりしないレズビアンやゲイの人もたくさんいます。また、いろんな失敗をしながら一緒に考えたり、一緒に成長してくれるレズビアンやゲイもいます。)

    ====================================

     
     >他のバイセクシュアルの人々が権力を恐れて沈黙
     >しているようにも見えないし、果たしてひびのさ
     >んの主張がバイセクシュアルの主張として正当性
     >を持っているのか分かりません。

    私の意見をちゃんと読んで、その内容を具体的に検討して、正当性があるかどうかを考えてもらえませんか?
    別に私は「バイセクシュアル」の代表でもありませんし、私とは違う意見の「バイセクシュアル」の人がいるのも、当然です。ゲイの中にも間違った意見を言うゲイもいますし、「バイセクシュアル」だって同じです。マイノリティー当事者だからといって、必ずしも正当なことを言うとは限りません。
    つまり「主張の正当性」は、その人の属性ではなく、その主張の内容に依拠すると私は思います。

     
     >賛同する他のバイセクシュアルの人達の署名を集
     >めるなりして、主張を通す政治的な戦略を考える
     >方がが建設的なんじゃないでしょうか。

    「数を頼って圧力をかける」という方法をとらなくてはいけないような状況だと判断すれば、署名集めとかもするかもしれません。でも、少なくとも今のパレードの実行委員会は、現時点では対話を拒否しておらず、むしろ誠実に考えようとしてくれていると私は思っています。そういう経過や私の認識も、ちゃんとサイトでも書いています。そんな中で、あえてわざわざ「数を頼って圧力をかける」必要性を私は感じていません。対話をしながら合意ができるなら、それでいいじゃん。(それにこれは推測ですが、「レズビアン&ゲイ」では問題があることに気がつきつつあるからこそ、主催団体の名前は「TOKYO Pride」という名前になったんだと思いますよ)
     それから、私は「バイセクシュアル」のことだけを問題にしたいのではないです。そうではなく、「私たち」の内部に差別やおかしな力関係があること、「多数派による場の私物化」はどこにでもあること、そういったことを問題化したいのです。仮に署名をするとしても「バイセクシュアルの人達の署名を集める」というよりも、「もっといろんな様々な少数派が対等に尊重されるパレードにしよう!」みたいなものを、セクシュアリティーを問わないで賛同してくれる人を対象に集めるみたいな感じじゃないと、私にとっては面白くないです。

     
     >ちなみに、僕自身は女性にも興味があるしバイセ
     >クシュアルともいえますが、パレードの看板は今
     >のままでも耐え難い気分を持ったりすることもな
     >いし、パレードという貴重な場のある意義の方が
     >重要なので、取り立てて異議を申し立てる気もな
     >いし、その必然性もないと考えています。

     ということは、私とは意見が違う「バイセクシュアル」だ、ということですね。例えば「オカマ論争」とかみれば分かると思うけど、ゲイの中でもいろんな意見の対立があるように、「バイセクシュアル」だからっていろんな意見の対立があるのは当たり前。
     スキゾーさんも、私の主張の内容について、ぜひ具体的に反論なり意見なりを書いて欲しいです。スキゾーさんもブログお持ちのようだし、是非いろいろ書いてトラバしてください。いい議論ができることを期待してます!
     それから、

     
     >パレードという貴重な場のある意義の方が重要な
     >ので、取り立てて異議を申し立てる気もないし、
     >その必然性もないと考えています。

     これですが、パレードの内容や名前に批判的な意見を述べたり、いろんな異議を申し立てることは、パレードという貴重な場を一層よいものにしていくための、とっても建設的でいい行為だと私は思います。もし仮に私が主催者側だったら、わざわざ労力を割いてまで批判してくれた人には、まずなにより感謝するんだけどなぁ。陰で悪口を言ったり、匿名で変なうわさを流すようなことをするのなら、それは場合によってはよくないと思います。でも、公的に責任を負うかたちで、直接実行委員会やパレード参加者に対して、意見を述べたり異議申し立てをすることが、なぜパレードの存在に対立することになるのか、私には分かりません。

  10. スキゾーのアバター
    スキゾー

    ちょっとすいません。今は手が離せないことがあるので後ほどレスします。

  11. スキゾーのアバター
    スキゾー

    僕自身がどうしようもなく、ひびのさんのやり方に違和感を覚えるのは、戦術方法です。
    看板や建前が仮に他のカテゴリーの人も入って平等になったからと言って、内実も対等に扱われるのだろうか?マジョリティが過剰に配慮されてしまうことによってかえってマイノリティは遠ざけられないだろうか?人数が少ないのに互いのカテゴリーが平等に扱われることによって、相対的によりマイノリティの人々が狭いコミュニティ内で得をすることで、狭いコミュニティ内のマジョリティが不公平感をかえって強めないだろうか?その結果として、かえって別々のカテゴリー間における関係を損なうことになってしまわないだろうか?という懸念です。パレードの看板を変えるのが当然の権利だという態度で変えることによって、かえって人と人との実際の関わりにおいて弊害が出てしまう方法を取ってしまっているように見えます。
    もっとも僕自身はパレードの看板を変えることは、お互いの合意が取れてそうなるならば、それはそれで素晴らしいことだと感じます。ただ取りたてて自分の中には変えなければいけないという切実感や危機感はないので自分からは動くつもりはありません。

     あと、バイ差別ですがゲイの間でそんなに激しいものでしょうか?ゲイ雑誌でも既婚でバイの里見満さんが活躍してるし、どんなバイでも一律に差別される訳ではないです。僕も女もイケると他のゲイに言っても、蔑視されたり嫌がられたりしたことはないです。バイ・バッシングの言説と内実は全然違ってました。しかし、僕自身は、バイ・バッシングの言説の流通のせいで、「女性にも興味があるのでバイとも言える」と認識するのにブレーキがかかってしまっていたせいで、自分が十全ではなく、自由だと感じる気分を損なってしまった経験を持っています。もっともこれは、個人的なできごとです。ただ、差別や権利を持ち出すときの抑圧的な政治的効果について、もう少し認識なさっていただければと思って書きました。

  12. takashiのアバター
    takashi

    こんにちは。日比野さんが今年の東京パレードで、チラシを配布したということをきき、久しぶりにホームページをのぞいてみました。
    思うところがあるので、ちょっと長くなりますが、コメントさせてください。
    ちなみにわたしは、日本を離れて9年以上経ちますが、今年の実行委員長をはじめとして実行委員に知り合いがいるので、今年の3年ぶりの復活を心から喜んでいる者です。

    さて、日比野さんの上の文章は、これ自体については、私も特に反対する理由はありません。
    ただ、日比野さんのこの主張には私、素直にふんふんと聞けない、ざらっとした違和感があるのです。それは私がゲイであるから、「レズビアン・ゲイパレード」という名称に一番自己同一しやすいこともありますが、日比野さんはこれまでの東京での10年以上にわたるパレードとコミュニティーについての歴史的経緯を知っているのに、それについてまったく触れていないことについてです。

    私も“年寄り”なりに、自分で分かっていることを書きますので、もし間違いや誤認があれば訂正してください。
    1994年から始まった南定四郎さん呼びかけのパレードは、「政治的デモ」か、「お祭りパレード」かという、鋭い路線の対立を内に孕みながら、年々盛況になっていったのですが、1996年の「紛糾」(パレード 東京レズビアン&ゲイパレード2000の記録 ポット出版 P188)以降、大規模なものは開催されなくなりました。
    東京ではみんなが、「パレードがまたあったらいいよね」と思いつつ、でも「またあんな大変なことになったら困る」と誰もやろうと言い出さなかったときに、砂川さん(現東京Pride代表)が、火中の栗を拾ってくれたのでした。
    当時のパレード企画書には、「1990年代は、ゲイやレズビアンが顕在化した時代ながら、パレードという象徴的な場での対立や分裂により、ゲイやレズビアンの「つながり」に禍根を残してしまった時代でもあった。だから、多くのゲイやレズビアンが、それを乗り越えたいと思っている。そして、それも、「ゲイ/レズビアンらしく」楽しい方法で。それが、今回東京で開催するゲイ&レズビアンパレードだ。」(同P132)とあります。
    そして、砂川さんの文責による「「東京レズビアン&ゲイパレード2000」の名称について」という文章も発表されました(同P137)。
    これは結構長いものなのですが、私は心情を率直につづられた”名文”だと思うので、読まれたことのない方は、是非原文をお読みいただきたいです。
    簡単に要約すると、
    「ゲイ&レズビアンだけでなく、クィアやセクシャルマイノリティーという名称で、バイセクシャル、TG/TS 、インターセックスの人たちの声が上がってきたことに対応しようとする動きがあり、その必要性を強く感じてきたこと。しかし、ゲイである自分(砂川さんですね)は、呼びかけ人の個人としてセクシャルマイノリティーパレードあるいは、クィアパレードとしてパレードを組織運営することはできない。また、いったん休止してしまったパレードを復活させるには、現実的に人と金を集めることが大切だが、それには一番核になるゲイにどれだけ参加してもらえるかが鍵で、名称にセクシャルマイノリティーあるいは、クィアといった言葉を全面に出すことは、少なくとも現時点では「得策」ではない。だが、TG/TS 、バイセクシャル、インターセックス、セックスワーカー等々のいろいろな人々との出会いがあり、ゲイの間でのTG/TSへの誤解や差別感が根強いことを実感し、それに対し強い問題意識をかんじていた(いる)から、ゲイ&レズビアンパレードと名称を決定してからも、セクシャルマイノリティーのためのパレードであるという言葉を中途半端な形でいれることになり、いまだに答えの出ない問題である。このあり方に疑問を感じ、新しいビジョンを持つ人たちが、この問題を乗り越える新しいパレードを、今後自らの手で作り上げて言ってくれるとうれしい。」
    すいません、ぜんぜん簡単じゃなかったです。でも、お読みいただければ、日比野さんも問題にしている論点のほとんどが、かなり明瞭な形で、語られていると思います。
    その後のパレードも、「お祭りでいいじゃない、楽しくいこう」という動きを中心に、でも、「集まるからには何かしらの意義が必要なのではないか」という意見や、反対に「みっともないから、昼日中に裸で公道をあるくべきではない」という意見を受けながら、2002年まで続きました。ところがあまりにも各実行委員個人への負担が重すぎ、また毎年、前年の解散した実行委員会を再度招集するというやり方への消耗から、2003年の休止、2004年の中止をへて、今年満を持して復活したのでした。
    1月の末に恒常的組織である「東京Pride」と、2005年の実行委員会が発足し、いろいろな困難を乗り越えて、やっと8月13日のパレードの日を迎えることができたのです。

    さて、日比野さんは上の経緯を重々承知の上で、今年のパレードの名称問題を8月2日に実行委員会でメールし、当日パンフレットを配布していますね。
    私は、開催直前の一番忙しい時期を狙ったかのようなこの問題提起の方法に、あなたの主義主張を表明するのに都合がよいからという、便宜主義的な意図を感じざるを得ないのです。7月の東京の映画祭参加の際に、実行委員との会話から、「これはいける」と感じられたからでしょうか。
    それは次のあなたの文章からもうかがえます。

    > スキゾー(shcizo)さんへのお返事です 
    それから、私は「バイセクシュアル」のことだけを問題にしたいのではないです。そうではなく、「私たち」の内部に差別やおかしな力関係があること、「多 数派による場の私物化」はどこにでもあること、そういったことを問題化したいのです。仮に署名をするとしても「バイセクシュアルの人達の署名を集める」と いうよりも、「もっといろんな様々な少数派が対等に尊重されるパレードにしよう!」みたいなものを、セクシュアリティーを問わないで賛同してくれる人を対 象に集めるみたいな感じじゃないと、私にとっては面白くないです。

    >「バイセクシュアルマーチ」だったら?
    自分のことしか考えない、自分さえよければいい、人の不利益のことに関心がない、自分が力を持ったらワガママなことをする、といったような 人のあり方は、別に「鈍感な異性愛者」の専売特許ではないということ。「誰だって」自分が持っている力には鈍感だし、「誰だって」自分がマジョリティーに なったらちょっとワガママしたくなる(笑)。その辺の話をするのに「バイセクシュアル」からのアプローチはいま有効だと思っているの。

    もちろん、便宜主義的なパレードの利用も、一つの参加の仕方だと思います。それに、もともと実行委員会も日比野さんとそんなに意見の方向性が違っているわけではありませんよね。だから日比野さんも、実行委員会の対応には満足されているようです。
    また、次のようにも書かれてますよね。

    >スキゾー(shcizo)さんへのお返事です
    パレードの内容や名前に批判的な意見を述べたり、いろんな異議を申し立てることは、パレードという貴重な場を一層よいものにしていくため の、とっても建設的でいい行為だと私は思います。もし仮に私が主催者側だったら、わざわざ労力を割いてまで批判してくれた人には、まずなにより感謝するん だけどなぁ。陰で悪口を言ったり、匿名で変なうわさを流すようなことをするのなら、それは場合によってはよくないと思います。でも、公的に責任を負うかた ちで、直接実行委員会やパレード参加者に対して、意見を述べたり異議申し立てをすることが、なぜパレードの存在に対立することになるのか、私には分かりま せん。

    これは、この文章単体で見ればそのとおりですが、先にも述べたとおり、10年以上の経緯を承知のうえであえて無視し、3年ぶりの復活パレードの準備に忙しい実行委員に、開催2週間前にぶつけるのは、「パレードの存在に対立することになる」とまでは言いませんが、あまり「建設的でいい行為」とは思えません。なにも主体的に「東京の」パレードにかかわり、実行委員などと一緒に作り上げていく中で、この問題を改めて提起しなければならない、などとは言いません。でも、実際にイベントの準備をしたことがある人間ならわかると思いますが、このタイミングでの提起は、実行委員に対して結構酷なことではないかと思います。

    パレードは今、若年層を中心に、「パレード?なにそれ、なんか意味あるの」という無関心層や、「どうせお祭りだったら、レインボー祭りの方が楽しい」という層に、どう積極的に呼びかけていくか難しい時期に来ていると思います。しかし、現在の非常に細分化された東京の”コニュニティー“の接木として、また一般社会へのセクシャルマイノリティー存在のアピールとして、非常に有効に働く可能性も秘めています。
    そうした中で、復活したばかりのパレードには、伏見さんの言う、「抽象的にこうあるべきだというところではなく、具体的に何を一緒にやりたいのか。それがなければ仕方ない。必要なのはプランです」という言葉が結局一番大切なのではないかと考えます。
    日比野さんの問題提起が、パレードに真に建設的に働くよう願ってやみません。

  13. KDMのアバター
    KDM

    日比野さんの問題提起、興味深く読まさせていただきました。

    名称にこだわると、この問題はなかなかむずかしいですね。
    東京レズビアン&ゲイパレード ではなく、
    東京バイセクシュアル、トランスジェンダー、Aセクシュアル、レズビアン&ゲイパレード でもなく、
    おっしゃるように、もっと別の、抽象的な、あるいはそれらを象徴するような言葉/名称に変えてみてもいいのかもしれませんね。

    それこそ、貧困撲滅のためのホワイトバンドや癌で戦う人達を支えようというイエローバンドのような
    この運動を盛り上げる小物などもあったらもっと一体感あるんじゃないかな。
    赤い羽や緑の羽とかああいった感じで。(虹色じゃなくてもいいと思います。)

    結局はバイセクシュアルもトランスジェンダーもAセクシュアルもレズビアンもゲイもストレートも同じ人間。
    ですが、それぞれがうまれもったもの、その背景、経験や知識は違いますよね。
    色んな意見があって当然です。

    大切なのは社会で声をあげるその行為/精神そのものなのではないでしょうか?

    個人的にはこのパレードが、
    セクシャルマイノリティだけじゃなく、その友達、家族などにもひらけたものであればいいなと思います。
    そして、楽しいものじゃないと意味がないと思います。
    その楽しさがお互いの壁を取っ払う力をもっていると私は信じております。

  14. たなべのアバター
    たなべ

    はじめまして。
    ざっと拝読いたしました。

    そもそも、
    ひびのさんのスタンスってものにまるで共感できません。
    当事者云々いってるわりに、ひびのさんはなぜ外野からものを言うっていう立場になんの疑問ももたずに居られるんですか。
    先日のパレードだって、実行委員がこういうパレードをやろうという意志で始めたもので、それに賛同する人が実行員をボランティアでやって、それであれだけ人が集まったわけじゃないですか。別にお上からのお達しでやってるんじゃなくて、あれこそまさに当事者主催のイベントそのもの。それに反対する立場なら、別にコミットしなけりゃいいだけの話です。
    いまひびのさんがやっていることは、シーフードカレーを作ろうと思って海老とかイカを買っている主婦に、「牛肉も買え!」って言ってるようなものです。
    別にひびのさんが主催者になって、おっしゃるような明確なコンセプトの元に、実行委員とか参加者を集めてパレードすればいいだけのことじゃないですか。そうする意志もない程度の主張ならば、あんまりしないほうがいいんじゃないかと、僕は思いますよ。

  15. macskaのアバター

    > いまひびのさんがやっていることは、シーフードカレーを作ろうと思って海老とか
    > イカを買っている主婦に、「牛肉も買え!」って言ってるようなものです。

    ここで「主婦」というジェンダー・コード丸出しの言葉が出てくるところも興味深いのですが、それはともかくあなたはパレードを何か私的な夕食会かパーティのようなものだと誤解しているようです。私的な夕食会やパーティであるなら、公道を占拠して利用するのも非営利団体を設立するのも認められませんし、そもそも不特定多数を招いたりしないものですよ。運営方針について他者の意見を聞きたくないのであれば、勝手にどこかの私有地でパレードやって、不特定多数を招くような宣伝はしないでください。

    > 別にひびのさんが主催者になって、おっしゃるような明確なコンセプトの元に、実
    > 行委員とか参加者を集めてパレードすればいいだけのことじゃないですか。そうす
    > る意志もない程度の主張ならば、あんまりしないほうがいいんじゃないかと、僕は
    > 思いますよ。

    あなたがそういう考え方なら、おっしゃるような明確なコンセプトの元に、他人の掲示板にコメント書いたりせず、自分で勝手にウェブサイトを開いて意見を発表すればいいじゃないですか。そうする意思も無い程度の主張ならば、あんまりしないほうがいいんじゃないかと、わたしは思いますよ。

  16. ひびの まことのアバター

    ●スキゾーさん

     >僕自身がどうしようもなく、ひびのさんのやり方に
     >違和感を覚えるのは、戦術方法です。

    ということは、「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前は望ましくないという私の主張内容には、基本的には賛成して頂けるんですね。
    それはうれしいです。

    ●看板だけ変えてもダメ
     >看板や建前が仮に他のカテゴリーの人も入って平等
     >になったからと言って、内実も対等に扱われるのだ
     >ろうか?

     この指摘は、まさしくその通りで、大切な指摘だと思います。
     例えば、いまのパレードは「レズビアン&ゲイ」ですが、にもかかわらず、パレード実行委員会は女性が胸を露出するのを禁止するという女性差別政策を公式に採用しています。
     現実には、看板が変わっても、やっぱり同性愛者中心のパレードになるであろう事は十分予測できます。だって、いまのコミュニティーや社会のあり方がそうなんだから、それとは無関係な場にはなり得ない。
     ただ、パレードやコミュニティーの状況を変えていこうとする時、まず公式に建前を変更/確認していくことは、大切なステップの1つだとは思うのです。
     ですので、これからもずっと続くであろう、変革を求める闘いの1つの通過点として、パレードの名前の問題があると思っています。

    ●「バイセクシュアル」の数は少なくないはず
     >人数が少ないのに互いのカテゴリーが平等に扱われ
     >ることによって、相対的によりマイノリティの人々
     >が狭いコミュニティ内で得をすることで、狭いコミュ
     >ニティ内のマジョリティが不公平感をかえって強め
     >ないだろうか?

     あえて人数の話をするのであれば、「バイセクシュアル」の数は、もしかすると同性愛者よりも多いかもしれない(笑)。
    現状では、「バイセクシュアル」よりも人数が少ない(かもしれない)同性愛者が、人数比に反して、コミュニティーの中で「過剰に得をしている」のであって、それを人数比に応じたかたちに戻せと言っているだけだ、とも言えたりして。
     ただ実は、私は、性的少数者の運動というのは「少数派の権利」を擁護する運動だと思っています。なので、仮に「バイセクシュアル」の方が数が多いとしても、「バイセクシュアル」の都合ばかりがいつも優先されるのはよくないと思っています。
    参考:「バイセクシュアルマーチ」だったら?
    http://weblog.barairo.net/index.php?id=1124524610

    ●多数派が不快感を持つのは当たり前
     >その結果として、かえって別々のカテゴリー間にお
     >ける関係を損なうことになってしまわないだろうか?
     >という懸念です。パレードの看板を変えるのが当然
     >の権利だという態度で変えることによって、かえっ
     >て人と人との実際の関わりにおいて弊害が出てしま
     >う方法を取ってしまっているように見えます。

     そもそも、平等や対等を求める運動をマイノリティーがしたとき、その場でのマジョリティーは、ほぼ間違いなく不快感を抱き、反発すると思います。これは、別にセクシュアリティーの話に限ったことでもなく、様々な社会運動の現場で、「いつもの、よくある話」だと思います。というのも、マイノリティーが平等や対等を求めるということは、現在の状況が間違っているという告発ですし、社会的な資源や社会的な力関係の移転、、社会的な優先順位の変更などを求める主張だからです。つまり、「いま、ここで」力を持っている人から力を奪い、「いまここで」優遇されている人からその優遇を手放させることだからです。そりゃあ、普通は反発するでしょう。
     で、それがどうしたのでしょうか。(と、正直に書くと、きつすぎかな(笑))
     まず、「不公平感」「不快感」ということで言えば、「レズビアン&ゲイ・パレード」という不適切な名前でパレードをするという事自体が、たくさんの「レズビアン&ゲイ」以外の人に不公平感と不快感を与える行為です。スキゾーさんは強い違和感がないということですので、それはそれで構わないのですが、この間の私のサイトへのの書き込みだけをみても、「レズビアン&ゲイ・パレード」というネーミングに違和感を持つ人が一定数いることは、分かります。「レズビアン&ゲイ」に過剰に配慮し、「レズビアン&ゲイ」のご機嫌を伺おうとして「レズビアン&ゲイ・パレード」という不適切な名前にすること(そして、そういう不適切なネーミングを容認すること)こそが、実際に「人と人との実際の関わりにおいて弊害」をつくりだしている「もともとの原因」であるという事実をこそ、みて欲しいと思います。この問題を議論する時に、まず始めに文句を言うべき相手は、不適切な名前を付けたパレード実行委員会です。

     以上のことを前提とした上で、では実際に実行委員会に意見を伝えていくそのやり方は、できるだけ丁寧で、誠実で、相手を尊重したかたちでする方がいいと私も思っています。また意見を言う以上、その内容には責任を持つべきだとも思います。ただ、どんなにオブラートに包んでやさしげで媚びたフリをしたもの言いをしても、最終的には「同性愛者を中心とした状態」から「同性愛者を中心にはしない状態」をつくれと求める訳ですから、誤魔化しきれるものではないと思います。
     ですので、私は、はじめから丁寧に言葉にして説明していく方が、相手に対しても誠実なのではないかと思って、そうやって意見を言うようにしています。また今回の実際の実行委員会への私の行動の仕方も、特に問題視されるような点はないと思っています。(実行委員会に対する意見の伝え方の話は、takashiさんのコメントへのレスでもっと詳しく書きますね)

     >もっとも僕自身はパレードの看板を変えることは、
     >お互いの合意が取れてそうなるならば、それはそれ
     >で素晴らしいことだと感じます。

    うん、私もそう思います。

     >ただ取りたてて自分の中には変えなければいけない
     >という切実感や危機感はないので自分からは動くつ
     >もりはありません。

    はい、それでいいと思います。
    問題だと思う人が動けばいい。

    ●バイ差別
     >あと、バイ差別ですがゲイの間でそんなに激しい
     >ものでしょうか?ゲイ雑誌でも既婚でバイの里見
     >満さんが活躍してるし、どんなバイでも一律に差
     >別される訳ではないです。僕も女もイケると他の
     >ゲイに言っても、蔑視されたり嫌がられたりした
     >ことはないです。バイ・バッシングの言説と内実
     >は全然違ってました。

     個人の経験という話でいうと、それは、その人の置かれる状況によって、いろいろだと思います。よくあるのが、「私は女性として、特に差別されてこなかった」と言う人はとても多いですが、そのことと、いまの社会に女性差別がたくさんあることとは、両立することです。例えば私のコメント9番で書き込んだ事例は全部事実です。また、ゲイの人だっていろいろなので、バイを嫌う人も、そうでない人もいる。以前、関西で「バイセクシュアル」を2級市民扱いするパレードをやろうと一部の同性愛者などが言いだした時に、そういうやり方にはっきりと反対してくれたゲイの人も何人もいました。同性愛者だって、いろいろいるわけです。
     また、例えば自民党が女性候補者をたくさん立てて女性閣僚がいたりするという事実があっても、決して女性差別的な政党ではない証拠にはならないのと同じで、バイで活躍している人がいたとしても、それを理由にしてバイ差別がないとは言えない。
     あのーこう言っては何なのですが、少なくとも関西では、少なくともリブギョーカイでは、私を含めたくさんの「バイセクシュアル」の権利の主張の積み重ねの歴史が、ここ10年間にはあります。「私たち」は状況を変えてきたし、また変わりつつあるんだと思います。実際、今後いつか関西でパレードをするって事になった時に、「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前のパレードになるなんて事は多分あり得ない。そういう状況を「私たち」は努力してつくってきました。ですので、スキゾーさんが特に蔑視されたり嫌がられたことがないという話をお聞きすると、それはそれで、少しは状況がよくなってきているんだなと、素直にうれしいな、とも思います。
     あと、ゲイを中心にした上で「バイセクシュアル」も居てもいい、という力関係自体を承認する限りにおいて、「バイセクシュアル」がゲイからわざわざ攻撃されることはあんまりないかも。

    >しかし、僕自身は、バイ・バッシングの言説の流通
    >のせいで、「女性にも興味があるのでバイとも言え
    >る」と認識するのにブレーキがかかってしまってい
    >たせいで、自分が十全ではなく、自由だと感じる気
    >分を損なってしまった経験を持っています。もっと
    >もこれは、個人的なできごとです。

    これは、「バイ・バッシングの言説の流通」が理由なんですか?
    例えば、ゲイだとカムアウトするかどうかとっても迷っていた、悩みに悩んでやっとカムアウトしたら、すぐ受け入れてもらえて、全然問題がなかった。悩んでいたのが杞憂だった。—こんな事は、よくありますよね。その場合、カムアウトした相手には同性関係嫌悪はなかったのかもしれない。でも、そういうことが続いたからって、社会が異性愛中心主義という問題を抱えているという事実は変わらないです。
    ゲイコミュニティーの中における「バイセクシュアル」差別も、それと同じだと思います。

    >ただ、差別や権利を持ち出すときの抑圧的な政治的
    >効果について、もう少し認識なさっていただければ
    >と思って書きました。

     うん、これは難しい面もありますね。
     「こんなに差別されている」みたいな書き方をすると、「異性愛者は全員、同性愛者を差別する」「同性愛者は全員バイ差別をする」みたいな、事実とは異なる印象を与えてしまいますよね。
     でも、「こんなに差別されている」みたいな書き方をしないと、考えてもらえなかったり、また話をしても分かってもらえなかったりもします。
     難しいですね。知恵をお貸し頂ければうれしいです。

  17. ひびの まことのアバター

    1人ずつお返事書いてます:lol:
    しばらくお待ち下さい:roll:

  18. takashiのアバター
    takashi

    一人ずつお返事を書いていただいているようですが、スキゾーさんへのお返事の内容で、私の言わんとしたことがまったく伝わっていなかったことがわかったので、がっかりしました。日比野さんがバイセクシャル差別がゲイの中にもある、パレードの名称変更が変革への長い闘いへの第一歩である、というなら、これはもうお門違いです。だって、みんなは途切れてしまった、TLGPの復活のために日夜努力していたのであり、その努力は、ひとつは社会に対してゲイ&レズビアンの存在をアピールし、私たちの抱える問題点を提示していく、一方で実はこっちの方が大切だと私は思うのですが、まだ確固たるものを持たない、東京のゲイ&レズビアンコニュニティーを、パレードを通じて作り上げていこうというものであると私は理解しています。
    日比野さんが無前提に持ち出している、「セクシャルマイノリティーコニュニティー」は、はっきりいってまだ存在していないんです。だからそれをつくるためには、個人個人がそれぞれのセクシャリティーや立場に拠って、積み上げていくしかないのです。で、まずはゲイ&レズビアンの人たちからそれがやっと始まったばかりのところなのです。だから、もしそのほかのセクシャリティーの人が声を上げ活動を積み上げていき、その中から交流が生まれひとつの大きなコニュニティーとよばれるものになっていくなら、それはすばらしいことかもしれません。オーストラリアでもそうなるのに20年以上かかっています。
    それを最初から、まだありもしないコニュニティーの中での「平等」をあなたの仮想敵国であるゲイに対して訴えても、まだ関係さえちゃんとできてないところに対話は成り立つでしょうか。単なる言いがかりと思われてしまうんじゃないですか。
    あなたのいう、「長い闘い」が、「一緒に何かしようというときの提案」でなく、ある意味直接関係のないよその土地のイベントの名称を”不適切である”と、「被差別者のバイセクシャル」という不可侵の立場から裁断するのはいかがなものでしょう。前にも書いたようにTLGPになった経緯にもそれなりの理由と歴史があるのです。
    続けていこう、積み上げていこう、という流れに掉さすものでしかないんじゃないですか。いやもちろん、不快だから参加しない、また参加して自分の意見を表明する、というのもやり方です。ただ、意見は相手が受けれるかどうかまた別の問題で、「ご意見拝聴」のあと、相手があなたの意見を受け入れなかったからといっても、すぐ「差別!」になるとは限りません。まさに、「対話」なのだから、自分の意見が受け入れられるかどうかも相手次第なのじゃありませんか?
    >「同性愛者を中心にはしない状態」をつくれと求める訳ですから
    どうして、一緒につくろう、または自分はつくっていくから一緒にやろう、といえないで、「つくれと求める」ことができるんでしょう。ぜんぜん対等じゃないですよ。
    一番残念だったのは、関西での有志のバレードの呼びかけが結局日の目をみなかったことにたいする評価です。パレードの話がなくなったことがあなたの運動の成果であり勝利なのですが?
    >今後いつか関西でパレードをするって事になった時に
    って他人事のようにいってますが、私にはいつになるやら見当も付きません。
    正直今のままではあなたの意見は、実行委員会には届かないように思えます。

  19. ひびの まことのアバター

    ●takashiさん(「コメント12」へのお返事)

     こんにちは。丁寧にコメントをありがとうございます。
     takashiさんが抱かれた「素直にふんふんと聞けない、ざらっとした違和感」についてですが、問題になっているのは、「パレード直前の、この忙しい時期に」ということですよね?
     この、「時期の問題」は特に私も気になっていて、8/2に私から砂川さんに宛ててお送りしたメールには、実は以下の文章を末尾に添えていました。

     ある時点に於いての選択が異なっていたり、厳しく対立したりするのは、残念ですがどうしようもないことです。しかしそういった中でも、お互いが意見を隠すのではなく、公の場で声を挙げ続けることがまず必要でしょう。そして、迷いながらも時間をかけて意見交換をし、ゆっくり直接対話し続けていくことが、大切だとも思います。

     東京のパレードももうすぐで、準備が大変なところと思います。これまでに書いたとおり、わたし宛のお返事は時間をかけて率直に話し合っていくことが大切だという側面もあると思いますので、当面のパレード準備の方を優先して頂いても構いません。急いで結論を出してしまうより、疑問や異論を、素直かつ直接的にお互い出しあって行くこともまた、大切だと思うからです。
     今後とも、よろしくお願いいたします。
     また、今年のパレードの成功を、心よりお祈り申し上げます。

     こういったやりとりをする場合、回答期限を設けるというのはよくあることです。しかし私も、パレード準備で忙しい時にそれをするのは本意ではなかったので、上記のように「当面のパレード準備の方を優先して頂いても構いません」と書きました。これは、トップダウンでいつの間にか名前が変わるようなことではよくない、ちゃんといろんな話し合いを経て変わらないといけない、と私が考えているからでもあります。その意味でも、たったの2週間で結論が出るような問題ではないことは、私も重々承知していますし、だからこそゆっくりと対話できればいいなと思っていました。
     そして、パレード前の回答を特に求めているのではないにもかかわらず、パレード前夜にもご一報頂けるというような実行委員会のあり方には、わたしは誠実なものを感じています。私の文面に、実行委員会に対する非難めいたもの言いがないのは、こういった流れがあるからです。
     確かに、私が砂川さんに宛てて送っているメールの全文を私のサイトに掲載していた訳ではないので、「何で忙しい時に!」という印象をtakashiさんが持たれたのも仕方がないと思います。

  20. ひびの まことのアバター

    takashiさんの「コメント12」への違和感

     私は、takashiさんの「コメント12」を読んで、いくつかの違和感を感じました。
     それは、「レズビアン&ゲイ・パレード」自体に対して、takashiさんがあまりに無批判であること、もしくは言い換えると、「レズビアン&ゲイ・パレード」がまるで全面的にいいものであったかのような印象をtakashiさんのコメントから受けた点です。しかし、その後の「コメント18」を読むと、私の違和感は杞憂ではなかったようです。

     少なくともわたしの位置から見た場合、「レズビアン&ゲイ・パレード」は、肯定的な側面があると同時に、否定的な側面も併せ持った存在です。「レズビアン&ゲイ・パレード」というネーミングは、LGBTコミュニティーの中で同性愛者だけを特権的に扱い、同性愛者以外をないがしろにするという、明確に差別的なネーミングです。ジェンダーやセクシュアリティーをテーマとしたパレード(≠レズビアン&ゲイ・パレード)の必要性や、ジェンダーやセクシュアリティーをテーマとしたパレード(≠レズビアン&ゲイ・パレード)を欲する人達の思いが強いことを利用して、同性愛者を中心とするパレード(レズビアン&ゲイ・パレード)をつくったことは、やはり当然批判されてしかるべき事です。

     砂川さんたちのパレードが始まったのは、2000年のことでした。その4年間に札幌で開催されたパレードの名前では既に「バイセクシュアル」を意味する「ビ」が明示的に入っていましたし、その後の札幌の動きは、砂川さんの文章でも触れられています。また、パレード実行委員会のあり方が問題になった南さんたちの1996年の「第3回レズビアン・ゲイ・パレード」において、中心的な問題点となったことの1つが、「バイセクシュアル」など「レズビアン・ゲイ以外のセクシュアリティー」の取り扱いでした。確かに、さらにその10年も前の段階では、各地のグループの名前も「レズビアン・ゲイ」と冠したものもいくつかあったかもしれません。しかし既に2000年の段階では、「レズビアン・ゲイ」という冠で「わたしたち」「コミュニティー」を表現することが不可能であることは、かなり明らかなことでした。そのことは、新しく発足する各地のグループ(特にリブ系)の名前に「レズビアン・ゲイ」というかたちで同性愛者だけを特権的に扱う名前のものがほとんどみられなくなってきていることからも、明らかです。
     過去から将来に渡る日本における「バイセクシュアル」運動の観点、すなわち、LGBTコミュニティーの内部における「バイセクシュアル嫌悪」と闘い、コミュニティー内部における平等を実現し、同性愛者だけを特権的に扱うという差別的な政治を変えていくという観点から考える時、1996年は大きな歴史的な年の1つです。札幌がパレードの名称に「レズビゲイ・プライドマーチ」と掲げたこと。東京の「レズビアン・ゲイ・パレード」という位置づけに対して公式に抗議の声を挙げて問題化したこと。「アニース」のサブタイトルが、うろ覚えで正確でないかもしれませんが「女性を愛する女性のための」から「レズビアン&バイセクシュアル」に変わったのは、確かこの年です。「バイセクシュアル」として「レズビアン・ゲイ」とは異なる利害があることを明確に訴えるチラシ「私は誇り高き『バイセクシュアル』」というチラシが配られたのも、1996年です。私の参加していた京都のプロジェクトPもそうですが、それだけではなく、各地の「バイセクシュアル」の人達も、地元で活動する会の名前を付ける時に、同性愛者だけを特権的に扱うということのない、「みんな」を表せるいい名前を探して、いろいろと努力していました。こういった努力は決して孤立したものではなく、「そうだね、レズビアンでもゲイではない人もいるね」ということは認識として広まってきており、「レズビアン・ゲイ」という表象を採用しないことに同意する同性愛者も、増えてきていました。そういった各地のそれぞれの努力が進められて来たという歴史的な状況から見た時、2000年の段階にもなって、わざわざ「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前を付けるということは、これまでの様々な努力に逆らうものですし、時代錯誤的な、差別的で間違った選択であるとしか、私には思えません。

  21. ひびの まことのアバター

    【管理人よりお願い】
    このページ、たくさんコメントを頂くことができて、相当長くなってきました。ナローバンドの方もおられますので、続きは次のエントリーでお願いします。:roll:
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