NOVさんの「行動する主体とは」へのお返事です
実はこれまでも、「レズビアン&ゲイ・パレード」の問題点を話し合うというような流れの中で、NOVさんのように個人とグループとを同一視してしまい、「じゃぁ、ぼくが自分のことを『ゲイだ』と言うのもいけないのか」という勘違いをされる方が結構おられました。せっかくなので、記事にしておきます。
結論のところだけ簡単に書いておくと、誰か個人が自分のことを「ゲイ」だと自認したり、「1人のゲイ」という立場から社会に対して自分個人の意見を言ったりするのは、そのこと自体には全く問題がありません。しかし、実際にゲイ以外の人もいることが明らかな場所(グループ/パレード)を、「ゲイの場所(グループ/パレード)」と名付けることは、ゲイのワガママですし、間違った行為です。
● “みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その1)
【コメントでの議論のページ】
●“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その2)
●“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その3)
●“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その4)
●“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その5)
●“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その6)
● “みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その7)
【関連ページ】
●【資料】砂川さん(パレード実行委員会)宛の8/2付メールと、それへの返答
● NOVさんは、個人とグループ、個人とパレードとを分けて考えていないから、混乱している(このページ)
【2007年の議論】
●「東京レズビアン&ゲイパレード」について(意見)
●問題は、TOKYO Prideによる恣意的な選別の可能性と、永易至文さんの無責任
●「日本人で健全者の同性愛者のパレード」
●永易至文さんの発言は、精神障害者を差別するものだと思います
●「レズビアン&ゲイ」という看板は、いついかなる時でも許されないの?
【アイデンティティーは本人の問題】
まず、個人がいかなるアイデンティティーを持とうと、それは本人の勝手です。それが「ゲイ」であれ「オカマ」であれ、「レズ」であれ「ビアン」であれ、「変態」であれ「倒錯者」であれ、好きにしたらいい。
しかし同時に、何らかのアイデンティティーを持つように強いたり、もしくは持つべきだというような圧力や雰囲気があってもならない、とも思います。また、アイデンティティーは必ずしも一生を通じて一貫したものである必要もないです。
つまり大事なことは、アイデンティティーに関わることは基本的に本人が決めることであって、周りの人が勝手にあれこれすべきではない、ということです。
例えば仮に、ある男の人が、毎週末ハッテン場に通い、かつ男と同居し、毎月ゲイ雑誌を買い、同性の恋人がいることを親にも職場でもカムアウトしていたとしても、その人が「ゲイ」であるかは直接本人に聞かないとわからない、ということです。また、その人のことを第三者が勝手に「ゲイ」だと決めつけたり、勝手に「ゲイ」だとして扱ったり、まして「ゲイ」としてのアイデンティティーを持つように強いる/しつこく促すなどということはあってはいけません。
また逆に、法的書類上の異性と法律婚をしている人の中でも「ゲイ」「レズビアン」を名乗る人もたくさんいます。そういった場合も、少なくとも個人のアイデンティティーという観点では、本人の意向は尊重されるべきです。
【個人の行動の主体は個人・グループの行動の主体はグループ】
さて、個人としてはどういうアイデンティティーを持つのも自由ですし、それに基づいて発言するのも自由です。それが「個人の責任」である限りは。
しかし、複数の人が集まる場所(グループ/パレード)となると話が変わってきます。実際に場所をつくってみればわかると思いますが、どんな看板を掲げていても、そこにはさまざまなセクシュアリティーの人がいることの方が、多いです。特にパレードのような「歩く人一人一人が主人公」というような公開の場の場合は、ゲイ以外の人がいることはあまりにも自明です。また、例えば個人宅でのパーティーなどの閉鎖的でメンバーが特定された少人数の集まりでもない限り、「ゲイだけ」の場は実際には存在しません。
実際にはそのグループや場所にゲイ以外の人がいるのであれば、その場(グループ/パレード)の行動の主体は「ゲイ」ではありません。実際にゲイ以外の人がいるのも関わらず、「ゲイ」を看板にして場(グループ/パレード)のことを表そうとするから、「2級市民扱い」として問題になるのです。
【MSMやLGBTという言い方もある】
少し文脈が違いますが、例えばMSM(man sex with man / 男とセックスをする男)という言葉は、こういった事実を踏まえて創り出された言葉だと思います。つまり、実際に社会的な層として想定し、また働きかけたいと思う社会的な集団の人達のことを、「ゲイ」という言葉で表すのは不適切だということです。例えば、ハッテン場やその他広い意味での「ゲイコミュニティー」にいる人の中には、「ゲイ」というアイデンティティーを持っている人もいますが、そうでない人もたくさんいます。そういう人達に対して「ゲイというアイデンティティーを持つべき」と押しつけるのは不当ですし、また不可能なことです。ここで「ゲイ」という言葉を使ってしまうと、本来メッセージを届けたい相手にメッセージが届かなくなる可能性が増えてしまいます。だからこそ実際に「どのような行為をしている人達なのか」を具体的に述べることで、「ゲイ」アイデンティティーを持たない人を疎外しないようにし、また「ゲイ」アイデンティティーを押しつけることがないようにしているとも言えます。
そして、MSMの健康に関わる活動をしているゲイも、たくさんいます。MSMという言葉を使うことは、別に個人が自分のことを「ゲイ」だと名乗ったり認識することを妨げません。
また、わたしとはやや路線が違いますが、仮に「アイデンティティー語」を重視するという立場に立ったとしても、「ゲイ」にこだわるのではない選択が必要です。例えば英語圏では「LGBT」もしくは「LGBTI」という言葉が好んで使われています。これは、「アイデンティティー語」を使うという前提の中で、しかし実際にこの場所にいる人達をちゃんと対等に扱っていこうという方向で、使われている言葉だと思います。
【個人のアイデンティティーとグループの名前は、ずれていて当然】
個人のアイデンティティーの問題と、集団を表す時の言葉とは、ずれがあることの方が当たり前です。集団やグループ/場所などについて、確かに自分のアイデンティティーと同じ言葉を使うことは「気分がいい」のは確かですが、少なくとも、大きな規模の公的な企画をするような時には、実際にはそれは不可能なことです。個人のことを表す時と、グループのことを表す時とを、明確に区別して考えることができれば、「ゲイ」もしくは「同性愛者」という言葉に固執することの間違いに気が付くことができるのではないでしょうか。
なぜわたしがこのことにこだわるのか。それは、「少数派の権利の擁護」という「私たちの運動」の根幹に関わることだからです。「私たち」は、数十人の教室の中にいる「たった数人」の人達が「対等に」尊重される社会を求めるのではないのですか?社会では異性愛者の数が圧倒的に多数派であるという事実を承知の上で、「まるで異性愛者しかいないように」社会と社会制度を創ることに異議を唱えているのではないのですか?
仮にその場所でゲイが多数派であったとしても、仮にゲイがその場で中心的な位置を占めていたとしても、その場所自体を「ゲイ」で表象する(言い表す)ことには極めて慎重であるべきだと私は思うのです。
【「ゲイだけ」は可能か?】
それでもあえて「ゲイ」だけを特別に優遇した看板を掲げたい、「ゲイだけの場所」を創って「私たちゲイは」と言いたい、という人もおられるかもしれません。
もしそれが、メンバーの数が少なくてかつ固定したグループ、例えばお芝居をする集団などであれば、あり得ないことではないかもしれません。
しかし、規模の大きな、公的で開かれた社会運動の場を創る時には、「ゲイだけ」に固執することは、わたしにはまず現実的でないように思えてなりません。
これまでにも書いた通り、いま既に存在している「ゲイのコミュニティー」には、ゲイではない当事者がすでにたくさんいます。「ゲイ」と看板の付いている場所には、これまでも、いまも、「バイセクシュアル」がいると基本的には考えるべきです。そういう「ゲイというアイデンティティーを持たないけれど、コミュニティーにいる人」を切り捨てて行動することが、何か建設的なものを生み出すとはわたしには思えません。
仮に「ゲイ男性」の利害だけを考えるとしても、多くの「ゲイ男性」が「バイセクシュアル」として自身を位置づけるという歴史をたどることがあるのはご存じでしょう。「ゲイだけ」に固執することは、結果としてそういう人達をも切り捨てることになってしまいます。
【「ゲイというアイデンティティーを持っている人」が差別されるのではない】
いまの社会の中で異性愛中心主義によって引き起こされる差別は、その人が同性との関係を持つという事実に対して向けられているのであって、その行為をする人自身がどういうアイデンティティーを持っているのかには関係がありません。
つまり、「ゲイというアイデンティティーを持っている人」が差別されるのではなく、アイデンティティーに関わらず同性との関係を持つことが攻撃を受けるのです。
異性愛中心主義によって差別される人達はたくさんいますが、ゲイはその中の一部分でしかありません。社会の中の同性関係嫌悪と闘おうとする時、社会を変えようとする時に、「ゲイだけ」で集まることが事実上不可能なのは、実際に差別が実践されるその仕組みに理由があるのだと思います。
【「同性パートナーシップの保障」=「同性愛者の問題」ではない】
NOVさんが個人として発言する時に「ゲイとして」発言する事自体は問題がありません。「ゲイとしての経験」は、運動に貢献することと思います。しかし実は、その発言の際に、同性愛者だけを中心にした「ものの見方」をすると、間違いをおかすことがあります。
例えば今、法的書類上の異性間でしか婚姻を認めず、また異性間の関係しか社会的に認知/保護されていないという現実があります。このことにより不利益を受けている人は、同性愛者だけではありません。
何度も書いていますが、例えば、法律上の同性同士のカップルであっても、その人たちは同性愛者とは限りません。バイセクシュアルであったり、そういうカテゴリー分け自体を望まなかったり、異性愛者の場合もあります。異性間の関係だけを保護する制度は、そういったさまざまな人達を抑圧する制度なので問題なのです。
もし運動の目的が「異性関係のみを優遇する制度を改めること」であるのなら、まずもって運動の主体として想定され、まずつながっていこうと指向されるのは、「異性関係のみを優遇する制度によって不利益を受けている人たち」です。「ゲイであること」を出発点にする人がいるのは構いませんが、それは「異性関係のみを優遇する制度を改める運動」の中の一部分であって、全体ではありません。
もし仮に、人々に「ゲイアイデンティティーを獲得するよう促す」ことが本当の目的で、そのための手段/道具として「同性パートナーシップの保障」を求める運動を利用する、という立場なら、「同性パートナーシップの保障」を求める運動を「ゲイの運動」とみなしてそのように宣伝していくのは有効かもしれません。しかし、「異性関係のみを優遇する制度を改めること」が目的の中心であるのなら、どのようにして志を同じくする他の人とつながっていくか、「ゲイ」というアイデンティティーを持たない他のセクシュアリティーの人と一緒に運動を創っていくにはどうしたらいいか、をまじめに考えなくてはいけないはずです。だからこそ逆に、同性パートナーシップの保障の問題はゲイだけの問題じゃない、ということを積極的に打ち出していくことの方が、運動を広げていくためには大切だと私は思います。
【まとめ】
個人の意見を言うだけではなく、実際に社会的に何かを始めると、現実の問題として「ゲイだけ」で集まることは不可能です。ですので、そういう現実を踏まえた運動の作り方をすることが大切になると思います。
それはつまり、同性愛者だけを特別に優遇するのではない、ゲイもレズビアンも「たくさんある中の一つ」として、他のセクシュアルマイノリティーと同様に尊重されるような、場所と運動を創るということです。場のルール自体を、さまざまな立場の人に開かれた対等なものにすることで、むしろ逆にそこにいる一人一人が自分の個人としての立場から自由な発言ができるようになります。
何か社会的な運動をする時に、「自分とは違う人」と一緒に場や運動を創るということを肯定的に考えましょう。それは、大きな目で見れば社会的には「少数派」であることから免れえない「私たち」の運動としては、必須のことだと思います。
以下は直接のレスです。
日比野さんの議論を突き詰めていくと、
「レズビアン/ゲイである」という
アイデンティティによって
(一個人であれ、ある程度の組織体であれ)
考え、行動すること自体が
「バイセクシュアル排除」になりますよね。
NOVさんがものを考える時にゲイとして考え、個人として行動する時にゲイとして行動することは、「バイセクシュアル排除」にはなりません。
しかし、集団で何かをする時には、実際に一緒にいる人達がどういう人達なのかをちゃんと踏まえて行動しないと、場合によっては「バイセクシュアル排除」になります。
東京メトロポリタン 「ゲイ」フォーラムも
ダメってことですかね?
グループの集まりに参加したことがないので、わかりません。
一ゲイの視点で政治について書く
「赤杉康伸のごく私的☆政治観測」もダメ?
「一ゲイの視点で書く」こと自体は、全く問題がありません。
しかし「ゲイの視点で書く」その時に、ゲイではない人との関係のことについてちゃんと考えて書かないと、その書かれた内容に問題が含まれている可能性はあります。
誰も、自分の立場からでしか
考え、行動することができません。
その際に、重要な取っ掛かりになるであろう
「レズビアン/ゲイ」であることを根拠とした
思考・行動そのものが「差別である」と否定されたら、
どのように行動すればよいのでしょうか?
結局、行動の主体って一体どこに?
個人として行動する時は、個人のアイデンティティーを立脚点にする人はいるでしょう。
しかしその場合でも、自分とは異なる立場の人との共同なくしては社会を変えることはできません。
また、実際に集団的に行動する場合には、個人の行動の主体と集団としての行動の主体とがずれていることは、当たり前のことです。
同性関係嫌悪や異性愛中心主義と闘う運動の主体は、「同性関係嫌悪っや異性愛中心主義に反対する人達」です。ゲイだけが特別に差別されている訳ではありませんし、そういった運動を担っているのはゲイだけではありません。さまざまなセクシュアルマイノリティーの人達が運動を担っているにもかかわらず、それを「ゲイの運動」と認識したり、「ゲイのパレード」だと言い表そうとするから、問題になるのです。
個人個人、他人とは異なる「主体」があるからこそ、
他者と議論したり、連帯・協力ができるわけです。
その主体を否定されては、そもそも何も生み出せない。
個人個人、他人とは異なる「主体」がある人達が、実際に「パレード」には主体的に参加しています。にもかかわらず、「レズビアン&ゲイ」だけを特権的に優遇する名称を使うことを、少なくとも認識のレベルでさえ「望ましくない」と認識できないようでは、NOVさんは、そもそも自分とは異なる主体の人と連帯・協力する気があるのかどうかさえ、疑わしく思えてしまいます。
「バイセクシュアルの可視化」を
否定することができないように、
「レズビアン/ゲイの可視化」もまた、
否定することができません。
わたしは「レズビアン/ゲイの可視化」それ自体を否定したことは一度もありません。
しかし「レズビアン/ゲイの可視化」だけが特別に優遇され、「バイセクシュアルの可視化」が対等に扱われていない現在のあり方は、異なるアイデンティティーを持つ人どうしの共同の取り組みとしては不適当です。だからこそ、「コミュニティーにおけるバイセクシュアル差別の典型例」として「レズビアン&ゲイ・パレード」が批判を浴びるのです。
そこで、「バイセクシュアルが排除されている」
と思うのであれば、
バイセクシュアルの立場から行動を以って
パレード企画・運営の実際の場に
参加すればいいのだと思います。
そこでの行動に説得力があれば、
何らかの議論が生まれるはずです。では、現状を変えようとするため、
日比野さんの具体的且つ建設的な行動が
どのようなものなのか興味があります。
はい、ですから実行委員会に質問をし、パレード当日もチラシを配布しました。
パレードの名称を含む基本的な方針自体を決定する会議に、他のメンバーと対等の権利を持った形で参加できるような状況があったのであれば話は別ですが、わたしの知る限りそういう事実はありませんので、とりあえずの行動としては妥当なものだと思います。
また、今回の問題提起を受けて、さまざまなところで議論が行われています。コミュニティー内で何となく「タブー」のようになっていた問題について、表で議論する状況を創ることができたことは、第一歩としては大成功だと思っています。
わたしの立場からは、こういった議論を通じて、「レズビアン&ゲイ・パレード」というネーミングがなぜ不充分であるか、同性愛者を中心にすることがなぜいけないのかを理解する人が増えていっていることを、嬉しく思っています。
コメントを残す