【パレード4】尾辻かな子さんについて

政党との関係について

 mixiなどネット上で、尾辻かな子さんがパレードの事務局長をしていることへの否定的な言及がかなり見られます。しかしその意見の多くには、私は賛成できません。
 例えば尾辻さんが社民党や「みどりの会議」との関係を持っているということを問題視する人がおられますが、パレードや実行委員会には、その人の思想信条や所属団体に関わらず、誰でも参加できるのが当然だと私は思います。右翼であっても、左翼であっても、宗教団体に参加している人であっても、誰であっても対等に、パレードや実行委員会には参加できるべきです。性的少数者にはいろいろな考え方の人がいるわけですから、パレードにも実行委員会にもいろいろな考え方の人がいることは、喜ぶことではあっても、いかなる問題もありません。
 特定の政治家が事務局長として対外的に露出するということですが、今回のパレードで問題があるのは、その事務局長という役職の選出過程が密室政治だったということだけです。もし実行委員会が公開された民主的な形で開催され、話し合いのための時間も十分確保され、異なる意見のやりとりを踏まえての結論なら、その実行委員会が特定の政治家を事務局長や代表に選ぶということには、何の問題もないでしょう。
 今回のパレードは、議員としての尾辻さんの選挙のために利用されたものなのか。少なくともこれまでの実行委員会に参加してきた私の印象では、そういう認識には同意できません。例えばパレードのパンフレットがまるで尾辻さんの宣伝パンフであったりしたら「尾辻さんがパレードを利用している」とも言えるでしょう。そもそもパレード当日の式次第でも、尾辻さんの挨拶は予定されていません。
 確かに議員というのは社会的な権力を持っています。ですので「パレードが議員によって介入されること」を警戒したり、議員によるパレードの私物化が行われないように監視をすることは、大切なことです。もし仮に、今後、パレードの実行委員たちが尾辻さんの選挙運動に一斉動員されたり、尾辻さんの選挙を支援することが当然であるかのような雰囲気がパレードで創り出されたり、もしくは尾辻さんを批判する人が実行委員会やパレードに居づらくなったりすれば、「議員によるパレードの私物化」として大きな問題になるでしょう。
 確かに、現在の実行委員会のあり方には危惧がないわけではありません。例えば会議中の発言時間の半分以上が尾辻さんの発言であるというような現状は、今後は改めていった方がいいのも事実でしょう。現状がベストではないことは誰もが認めることだとは思いますので、「尾辻さんのパレード」ではなく「みんなのパレード」を創るために、今後はもっと多くの人が実行委員会に参加し、積極的に関わっていくことが大切だと思います。
 大切なのは、尾辻さん(やそれ以外の議員)に対しても是々非々で対応すること、尾辻さんに対する批判があれば自由にそれを公の場で述べてもいいような雰囲気をパレードの内外で創ること、尾辻さんを支持しない性的少数者も存在することを隠蔽しないこと、などだと私は思います。

「大事なことはみんなで決める」

 私が、政治家としての(現在の)尾辻かな子さんを支持できないと考える理由は、だから上記のようなものではありません。
 「大事なことはみんなで決める」「生活に影響を与えるような意思決定の場に、当事者が直接参加できるシステムを整えるのは民主主義社会の基本です」これは、尾辻さんのHPに掲載されている尾辻さんの政策の一部です。私は全くその通りだと思います。
 問題は、そのように正しい主張を政策集に書いている尾辻さんが、関西に住む性的少数者の生活に大きな影響を与えるパレードを、当事者であっても直接意志決定の場への参加が許されない閉鎖的な形で作ろうとしたことです。

 実は2000年にも、今回のパレードと全く同様に閉鎖的な形でパレードをやろうとして、そのことが強い批判を浴び、結局パレードが実現しなかったという出来事がありました。その時も関西のコミュニティーの中に混乱と不信感が創られてしまったのですが、その時の教訓が文章になって残っています。

「パレード準備会」開催にあたっての
事実関係確認のための覚書(抜粋)
2000年5月20日(土)

1)少数者の意見に積極的に耳を傾け、異なった意見をもつ他者と向き合い、ていねいな話し合いに基づいたパレードを作る。
2)準備の段階も含めて、パレードに参加する意志のある人は誰も排除しない。
3)特定のコミュニティー・セクシュアリティー・グループの都合が常に優先されるような場にはしない。
4)できるだけ広い範囲の個人や団体に呼びかけるよう積極的な努力をする。
5)開かれた会議以外の場所で一部の人だけで重要なことを決定しない。
6)個人のプライバシーを尊重し、傷つけないよう最大の努力をする。

http://barairo.net/special/kansai-parade/oboegaki.html

 この2000年の失敗を踏まえて、丁寧に、開かれた民主的なやり方で創られたのが、関西クィア映画祭です。この映画祭は、先にも書いたAさんが呼びかけたものですが、関西の様々なグループや個人にも実行委員会への参加が呼びかけられ、また途中からでも、いつでも誰でも実行委員会に対等なかたちで参加できます。誰に対しても公平なやり方で創られた映画祭は、上下関係のない風通しのいい運営に徹し、今年で2回目を迎え、多くの入場者を得て成功裏に終わっています。
 尾辻さんは、この2000年のパレードの失敗も、その失敗を教訓とした関西クィア映画祭の成功も知っていたにも関わらず、あえて同じ間違いをおかしました。2000年の失敗を知らなかった若い共同代表の人たちはともかく、全てを知っていて閉鎖的なパレード運営を選択した尾辻さんの犯した誤りは、極めて深刻だと私は考えています。閉鎖的なやり方をするとコミュニティーの中に混乱と不信が創られること、誰にとっても気持ちいいの公平な企画の作り方もあることを知っていて、あえて閉鎖的で問題のある方法を選択したからです。

社会運動の中のダブルスタンダード(二重基準)

 表では「大事なことはみんなで決める」「パレードは、歩く『あなたのもの』」といいことを言いながら、実際には「大事なことは一部の人で決めて、他の人に対してそれを前提として押しつける」というトップダウン型のやり方をする。とても残念なことなのですが、こういうダブルスタンダード(二重基準)は尾辻さんだけの問題ではありません。「人権」「平等」「民主主義」を訴える運動、日本の左派の社会運動の中には、隠れた入会審査があったり、みんなと違う意見を言うことがはばかられたり、運動の内部には民主主義がなかったり、意志決定過程が公開されていないようなものも少なくありません。運動の中に問題やおかしな事があることに気が付いても、「そのことを言ってしまうと、運動自体が壊れて無くなってしまうから」といって運動の中の不正が黙認/容認されてきた面が少なからずあると思います。
 つまり、何らかの社会運動に参加するということが、その場にある間違ったことを黙って受け入れるということを意味してしまっている。私は、そういった社会運動の体質を変革することが出来なかったことこそが、日本における社会運動それ自体のもっとも基本的な「信用」を喪失させてきたと認識しています。「人権」とかいっているけど、口だけじゃん。自分にとって都合のいいときだけ「民主主義」って言うんでしょ!
(言い換えると、社会運動を組織する側が、社会運動自体が対外的及び対内的にもっている権力に対して鈍感で、その権力を民主的な手法で監視するシステム構築に失敗してきた、ということ。自身が持っている「ミニ権力」に対する責任をちゃんととってこなかったということ)

尾辻さんにみんなの意見を伝えて

 こういう形で尾辻かな子さんに対する批判的見解を明らかにしなくてはならない状況にがあることを、わたしは残念に思います。
 尾辻さんは、日本で初めてレズビアンとしてカムアウトした府議会議員でした。尾辻さんのカムアウトによって励まされた人たちが沢山いることは、間違いありません。
 一般社会の中においても、性的少数者の運動の現場においても、どちらにおいても男性中心主義/女性差別が幅を効かしているという現実。「男性としての自身が持っている特権」に気が付かない振りをしている無邪気なゲイ男性の活動家が、大きな顔をして「少数派の権利」を云々しているという現実。そんな現実の中で、女性でレズビアンである尾辻さんが登場したことで、尾辻さんに大きな期待を寄せる人が多いであろうということも、よく分かります。
 しかし、カムアウト第一号だから、せっかくのレズビアンの議員だからといって、自身の政策集にも反した、民主主義とはほど遠い、トップダウン型のパレードをつくろうとした尾辻さんの行動を甘やかすことは、本人のためにもなりません。
 特に、議員としての尾辻さんを支持される方にお願いします。「大事なことはみんなで決める」「生活に影響を与えるような意思決定の場に、当事者が直接参加できるシステムを整えるのは民主主義社会の基本」ーーこういった正しい政策を、まず何より自分が作る企画で、まず関西レインボーパレードにおいて、地道に実践することが大切なんだということを、本人に伝えてあげてください。閉鎖的なパレードの作り方をした事で、コミュニティーに混乱と不信をつくり出したこと自体が間違いだったとまず明確に認めること。そして、一部の人が密室政治でものを決めるのではなく、本当に誰にでも開かれた「みんなで考え、みんなで決めるパレード」をつくる側に、これからは尾辻さんが立ってくれるよう、話をしてみて下さい。

意見の不一致は、私たちの豊かさ

 尾辻さんの政治家としてのあり方について、率直に私の意見を書いてみました。もちろん、私とは意見が合わない人もおられるでしょう。しかし「パレード」のいいところは、意見の違う人たちで場を共有できるというところです。
 「私たち」の内部にはたくさんの不一致があります。「私たち」の内部の意見の違いは、私たちの多様性であり、私たちの豊かな財産です。これからも、率直に意見交換をしていければと思います。


【全体目次】

サヨナラ、おまかせ民主主義~まず関西レインボーパレードから

開かれた、民主的な、多様性のあふれるパレードを、みんなで創ろう!

■ 今度の日曜日、あなたも関西レインボーパレードに行こう!

■ これまでの経過(ひびの史観)

■ 関西レインボーパレードの何が問題なのか
●閉鎖的な「立ち上げ時の実行委員会」
●パレードは公的なイベント
●実行委員会内部に序列をつくるのは何故?

■ 尾辻かな子さんについて
●政党との関係について
●「大事なことはみんなで決める」
●社会運動の中のダブルスタンダード(二重基準)
●尾辻さんにみんなの意見を伝えて
●意見の不一致は、私たちの豊かさ

■ サヨナラ、おまかせ民主主義~まず「私たちのパレード」から
●声を上げたから実行委員会は公開された


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コメント

“【パレード4】尾辻かな子さんについて” への5件のフィードバック

  1. tnのアバター
    tn

    >「議員によるパレードの私物化」

    え、「尾辻祭り」だとばかり思ってましたが違うんですか?
    政治家があくまで一参加者として参加するならともかく、尾辻さんが「事務局長」で、パレードの打ち合わせが(開催地の大阪市でない堺市の)「尾辻事務所」で行われてるのを見たら、このパレードは政治家の政治活動ではない、といったい誰が信じてくれるでしょうか。

    どうみたって「尾辻さんの政治活動の一環」であり、尾辻さんに政治的に賛同できる人はパレードに参加し、そうでない人は参加しない、それだけの話です。

    私が尾辻さんだったら、もし政治活動と言われたくないのなら、「事務局長」についたり、自分の事務所を使うような真似はしないですね。それと、パレードであれば多額のお金が動くわけで、それが事務所を経由することになれば、「政治資金流用」の疑いを掛けられても仕方ないといえます。尾辻さんがそこまで覚悟されているかどうかは知りません。

  2. 永易至文のアバター
    永易至文

     前略
     このかん関西パレードコミュで職業的クレーマー(あら、ここにいた>tnさん)が、さかんに事務局長の政治的立場をうんぬんして、「李下に冠」とやら持ち出して、パレードの本質とは無関係な個人攻撃をつづけてきました。多くの人は、政治利用とやらがおよそ荒唐無稽な言いがかりでしかないことに呆れながらこれを見つづけていたと思います。

     ところで、関西有数の論客であり実行委員のお一人でもある日比野真さんは、ここでこうして「パレードや実行委員会には、その人の思想信条や所属団体に関わらず、誰でも参加できるのが当然だと私は思います」、また政治利用については、「これまでの実行委員会に参加してきた私の印象では、そういう認識には同意できません」とも言明しています。
     こうしてご自分のブログでは政治利用説に筆誅を加えている人が、なぜパレードのスレッドでは沈黙を決め込むのか疑問に感じてコメントしました。

     私は実行委員諸氏、なかんづく渦中の事務局長がどのような中傷にもあえて反論をしない態度に敬服しておりますが、日比野さんに限ってはこれはあてはまりません。こうしてえんえん5章にわたる詳細な実委批判を公にし、そのリンクをコミュ内にも張っています(このこと自体を私はとくに咎めだてる意思は毛頭ありません。意見表明として十分尊重されるべきです)。ですので、あえて日比野さんの対応を問うしだいです。こうして多弁な人が、なぜパレードコミュのスレッドではおなじ主張でもって政治利用説なる中傷を論破されないのだろうか、と。

     日比野さんは、立ち上げ当初の(また現在をもふくめて)実行委員会に批判的な立場であることは公にされています(くりかえしますが、このこと自体は意見表明として十分尊重されるべきです)。さすれば、そのお立場からああした誹謗中傷放送もみずからの立場や意見を補強する、あるいは景気をつける効果音とでも考えて看過されていたのでしょうか。Natsumixなるクレーマーさんは「(パレードは)メディアには無視されてほしい」とも述べていた人です。日比野さんはそういう人といわば密通しているのか、とさえ思ってしまいます—-たとえ下司の勘ぐりと言われても。

     どこでどのように発言するかは自分で決めることで、あなたの指図は受けない—-これも反論としてはあり得るでしょう。
     しかし、日比野さんのご主張には、「知らないことは罪であり、沈黙することは加担することである」とでもいうきわめて倫理的態度も私は感じております。そうした論理で、私も日比野さんにパレード名称問題のスレで在日朝鮮人をめぐって批判を受けた記憶もあります。とすれば、やはりあちらのスレで政治利用説を放任していることには、それなりの意図があってのことと思ってもゆえなしとはならないでしょう。

     なにかしらのご意見がいただければ幸甚です。

  3. ひびの まことのアバター

     「閉鎖的な形でパレードを作ることには問題があり、2000年にはそのことで問題になった(http://barairo.net/special/kansai-parade/oboegaki.html)」ということを承知の上で、敢えて閉鎖的な形でパレードを創ろうとしたこと。自分の政策集には「大事なことはみんなで決める」と書いておきながら(http://www004.upp.so-net.ne.jp/otsuji/policy1.html)、パレードのあり方を一部の人で勝手に決めて、コミュニティーに対して自分の意見を上意下達的に押しつけようとしたこと。2006年度は途中から実行委員会を公開したが、不必要な前提条件を設けたことで実行委員会に主体的に関わろうとした人たちを実質的に排除してしまったこと。2006年度のパレードを立ち上げた経過について十分な説明責任を果たしていないこと。これらはいずれも、尾辻さんに大きな責任のあることです。
     そして、尾辻さんによるこういった間違ったもしくは不充分な行為は、関西のコミュニティーに混乱と不信を実際につくり出しました。こういった経過を踏まえれば、尾辻さんを実際に知らない第三者が尾辻さんに対して一定の猜疑心を持ち、もしくは尾辻さんによる政治利用の疑いを持つ事自体は、一定の合理性があり、充分有り得ることだと思います。
     私自身は、パレード実行委員会や尾辻さんに対する様々な人の意見に対しては、個別に賛否があり、その全てに同意するわけではありません。しかし、そういった批判が出てしまう隙のある行動を取ったのは他ならぬ尾辻さん自身なのです。様々な批判に対しては、まず尾辻さん自身が誠実に応答をし、信頼を獲得できるよう努力するべきだと私は思います。

     私の立場を再度書いておくなら、尾辻さんが今回主導したようなパレードの作り方は、日本の左派の運動が歴々と積み重ねた誤りを再度なぞるようなものだと思っています。外部に対しては「民主主義を!」と言っておきながら、自分で運動を創るときや自分の関わる運動の内部では民主主義を実践しない。そういう二重基準(ご都合主義)を内包し続けた日本の実際の左派の運動こそが、日本に於ける左派の社会運動自体の最も基本となる社会的信頼を破壊してきたと私は考えています。
     パレードに関心を寄せ、実際にパレードに参加した人には、尾辻さんを支持しない人だっている訳です。そういう人をも含んで、意見が異なる人たちと一緒に創るからこそ「みんなのパレード」なんです。コミュニティー内の合意を創り上げる手順を一切踏まないで、トップダウンの閉鎖的なパレードの作り方をしたからこそ、「政治利用をしている」という言い方が一定の説得力を持ってしまっているのです。(例えば、尾辻さんは事務局長を自称しておられましたが、その選出過程が不透明で、かつ反対意見を言う場は設けられていません。そういう決め方をすれば、反対派からはありとあらゆる批判が来るのは当然ですし、しかも有効に反論することはできません。最も好意的に見てもそれは「あまりに下手」ですし、中立的にみてもそれは間違った方法だったと思います。そもそも、代表制民主主義の形式的な要件すら満たしていないんですから。)
     ですので、永易さんが「知らないことは罪であり、沈黙することは加担することである」と思っておられるのであれば、まず何より尾辻さんに対して、間違ったやり方でパレードを創ろうとしたことを反省するよう意見していただきたいと思います。尾辻さんの側から明確な反省と謝罪がない限り、尾辻さんを非難する言説に対して有効に反論することは困難です。

  4. トップダウンとボトムアップ
    MBAの経営管理方式には、トップダウン方式とボトムアップ方式というのがある。 元々、この二つの方式はアカウンティングの用語で、予算管理の手法を意味する。トップダウン方式…

  5. ひびの まことのアバター

    上の堀田信弘さんの「トップダウンとボトムアップ」について。

    ●「トップダウン」と「ボトムアップ」をご自身の文脈で説明してくれていますが、まず、パレード運営の問題と、企業の「経営管理」の問題とは、全然意味が違います。パレードは「参加するみんなのもの」ですし、人権や平等、多様性という看板の元で行われる政治的な意味を(も)持った企画です。利潤を上げることを第一の目的とする企業の「経営管理」の問題とは、自ずと判断基準や優先順位、何が大切で何はないがしろにするかが違ってきます。
     例えば、堀田さんは経営者を「上」と位置づけておられるようですが、政治や社会運動の世界では、一番「上」なのは一般大衆です。最終的な決定権は市民の一人一人にあるということが民主主義の基本です。そしてその権利を具体化するために、例えば選挙で議員を選ぶなどの制度が作られています。議員や政治家・政府というのは、決定権を持つ市民によって命令/指図される存在なのであって、けっしてその逆ではありません。
     ですので、企業の「経営管理」についての考え方を、パレードや社会運動の文脈にそのまま当てはめようとするのは、そもそも無理がある思います。

    ●仮に、企業の管理経営の問題として、「会社は誰のものか」「最終決定は誰が行うか」「責任を負うのは誰か」という観点から考えても、堀田信弘さんの考え方はあまりに単純化しすぎだと思います。
     経営者というのは私の言い方では「執行部」にあたりますが、そもそも執行部というのは民主的な手続きを経て選ばれないといけません。そして仮に現行法に依拠したとしても、経営者というのは絶対的な決定権があるのではなく、取締役会や株主総会によって罷免できます。株の売買が公平に行われているかどうか(株主になる権利)についても、法による監視があります。
     また、経営者の決定に納得できない時に労働者が団結して交渉をし、場合によってはストライキなどで方針を変えさせることだって、(残念ながら日本ではあまり多くはありませんが)当然ありうるべき事です。
     更に最近はやりの「企業の社会的責任」という観点から考える時、形式的に決定権が執行部にあるという制度になっていたとしても、その経営者の方針自体について社内や社外から批判を受けたりして事実上の一定の制約の下に置かれることだってある訳です。

    ●とはいえ、堀田信弘さんの意見にも妥当な面もあります。組織としての意志決定に対して責任を負う人をハッキリさせておくことは、必要なことでもあると思います。単に「みんなで決めよう」だけでは、実質的に無責任体制になってしまうことがあるからです。そういう意味で、組織の意志決定の機関を設置したり、意志決定の手続きを定めておくということは大切なことだと思います。

    ●パレードのことに話を戻すと、意志決定の機関として実行委員会を設置すること、実行委員会が決定の責任を負うこと、などは、私も大切なことだと思います。そしてその時に大切なことは、実行委員会に参加する権利が全ての人に対等にあるかどうか、ということです。
     これを「実行委員会によるトップダウン」と言えないことはありませんが、もし実際に民主的な運営がされているのであれば、こういうトップダウンに問題があるとは私は思いません

    ●尾辻かな子さんの件でいえば、尾辻さんは、関西の性的少数者の人たちに委任された訳でも承認手続きを経た訳でもないのに、勝手に「トップ」であるかのように振る舞い、自分とは意見が違う人を排除した上で、性的少数者の看板を使って自分の思う通りのパレードをしようとした、というところが問題になる訳です。もし意志決定機関としてのパレード実行委員会が誰にでも開かれた形で開催され、実行委員会での民主的な討論を経て実行委員長や事務局長に選ばれたのであれば、その点では問題はありません。そういう民主的な運営が担保されるのであれば、逆にいつでも尾辻さん(に限らず誰でも)を罷免することができる訳ですから。

    ●更に、尾辻さんの問題点は、自身の公約に反した行動を取っているということです。「大事なことはみんなで決める」と政策に書いているのは、他ならぬ尾辻さん自身です。「大事なことは一部のエリート活動家で決める。その方がより効率的に運動ができる」と公約に書いていたなら、それはそれであっぱれなことだったとは思うのですが。

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