2種類の「同性愛者のアイデンティティーの政治」

 tummygirlさんが、「バイセクシュアルの不可視化を可視化する」という観点で、素的な文章を書いてくれました!
 ずいぶんと間があいてしまいましたが、それへのお返事にあたる記事です。前回の「日本における「バイセクシュアル」の可視性の歴史に続き、今回は「2種類の『同性愛者のアイデンティティーの政治』」について。

 

2種類の「同性愛者のアイデンティティーの政治」

 「同性愛者のアイデンティティーの政治」と言ったとき、二つに分けて考えると分かりやすいのかもしれません。一つめは、個人が自身のことを「同性愛者」だと認識したり名乗ったりすること。個人のレベルでの政治です。二つ目は、「同性愛者」というラベルや「同性愛者」と名乗る人たちに社会的な注目/ヘゲモニー/社会的資源を集めるようにすること。こちらは、社会的なレベルでの問題です。実際には両者は密接な関係があると思いますが、取りあえず分けてみます。
 このような分け方をするのには、理由があります。私はよく「同性愛者のアイデンティティーの政治」の中に含まれる「同性愛者中心主義」を批判しますが、その私の意見を曲解したり、混乱して理解される方が結構おられるので、その辺を整理するのに有効かなと思うからです。

赤杉康伸さんも二つを混乱させて発言していたので、以前まとめて説明をしたことがあります。
NOVさんは、個人とグループ、個人とパレードとを分けて考えていないから、混乱している

 

個人のレベルでの「同性愛者のアイデンティティーの政治」

 今の社会の特徴の一つは強制異性愛ですので、その社会の中で、ある個人が「同性愛者」という名乗りを獲得することは、単に個人的なことではなく政治的なことですし、そういった意味でこれを「同性愛者のアイデンティティーの政治」と言うのには合理性があると思います。現実の社会の中では黙っているだけで勝手に異性愛者扱いされることが多々ありますし、十分な発言の機会が与えられない中で簡潔に「あなたとは違う」ということを示さなくてはいけないことも多いです。そういう時に、「私は同性愛者である」という言い方をする必要性を感じる人がいる、ということも事実です。厳密には「バイセクシュアル」と同様に「同性愛者」も定義できない、というのは本当ですが、私のように「アイデンティティーの政治」それ自体をどちらかというと嫌う立場であっても、暫定的に「同性愛者」(や「バイセクシュアル」)などの名乗りを個人が行う必要性は十分理解します。ですので、少なくとも個人の名乗りのレベルでの「同性愛者のアイデンティティーの政治」を全面的に否定するのは間違いだと思います。そしてこの場合には「同性愛者のアイデンティティーの政治」は、原理的に「バイセクシュアル」を不可視化するとは言えません
 tummygirlさんのところではコメント欄なのでやや雑に不正確に書いてしまいました(と言い訳)。ご容赦下さいませ。

 ただ個人レベルであっても、例えば「同性とセックスしたから同性愛者だ」という決めつけが起こったり、「異性愛者か、さもなければ同性愛者」という二者択一が強いられたり、「バイセクシュアルとしての自己認識」を強制異性愛社会と同性愛者運動の双方から否定されたりすることもあります。こういった「同性愛者中心主義」や「モノセクシズム(単一性別指向の強制)」「バイセクシュアル嫌悪」は実際に頻繁にあることですので、注意も必要ですが。
 とりあえず、個人のアイデンティティーのレベルでは、「他人に押しつけない」という礼儀をわきまえれば最低限の弊害は防げるので、短く触れるだけにしておきます(と、ここは軽く流してみる)。

 

社会的なレベルでの「同性愛者のアイデンティティーの政治」

 今の社会は異性愛中心主義の社会である、そういう状況に抵抗するために「同性愛者」というラベルや「同性愛者」と名乗る人たちに社会的な注目/ヘゲモニー/社会的資源を集めるようにする必要がある。こういった考え方は、一見したところ正しく適切に思えます。
 しかし強制異性愛によって周縁化されているのは同性愛者だけではありません。強制異性愛によって周縁化されている様々な人たちの中で、同性愛者「だけ」を優先するということは、同性愛者による同性愛者以外の性的少数者への差別構造を一つ新設することにもなります。
 「同性愛者のアイデンティティーの政治」は、原理的に「バイセクシュアル」を不可視化すると書いたのは、こういう意味での「同性愛者のアイデンティティーの政治」を想定してのことでした。
 そしてそれは、現実に「同性愛者のアイデンティティーの政治」として登場してきた実際の動きを想定しての書き方でした。具体的には、以前ではOCCUR(動くゲイとレズビアンの会)や伏見憲明さん、最近では永易さんや赤杉さんの運動や表現、そして「レズビアン&ゲイ・パレード」などを主に意識して書いていました。主に東京の男性同性愛者たちによる「同性愛者のアイデンティティーの政治」は、現実の問題として「バイセクシュアル」の不可視化を推進し、コミュニティー内の「バイセクシュアル」への抑圧をつくり出してきた/つくり出している大きな原因の一つだからです。
 難しい理屈の話として考えなくても、実際にゲイバーやクラブに行ってみれば、そこには必ず「同性愛者」以外の人がいますし、多くの場合「バイセクシュアル」を名乗る人もいます。教室や職場など日本の社会の中のほぼ全ての場所に「同性愛者」がいるハズだと想定されるべきであるのと全く同様の理屈によって、教室や職場だけではなくゲイバーにもゲイのサークルにもレズビアン&ゲイ・パレードにも、「同性愛者」以外の性的少数者や「バイセクシュアル」がいるということを前提として考えるべきなのです。「同性愛者だけ」のコミュニティーや運動は(ごく一部の例外を除き)一般的には存在しません。
 まずもって、歴史的に形成されてきたコミュニティーやサークル、社会運動自体が、事実として「同性愛者」だけのものではありませんでした。これをまるで「同性愛者のコミュニティー/サークル」「同性愛者の運動」であるかのように偽り、ことさら「同性愛者」を優遇しようとし、「同性愛者」以外の性的少数者に対する抑圧をつくり出してきたのがこの手の「同性愛者のアイデンティティーの政治」です。

 

では「LGBT」は?

たとえば、「LGBT」を常に明確に表記したとして、それはやはり「同性愛者のアイデンティティーの政治」の一環ですよね。それが「トランスのアイデンティティーの政治」や「バイセクシュアルのアイデンティティーの政治」と連合したものだということではないかと思うのですが、どうでしょうか。それでもこの場合、「バイセクシュアル」は一応可視化されています。(tummygirlさん)

 確かに「LGBT」と書くのも「同性愛者のアイデンティティーの政治」だと言えないことはありません。しかし現実に、今の日本の活動家で、常に「LGBT」というような書き方をする人は、自身の書き方を「同性愛者のアイデンティティーの政治に基くものである」と積極的に言っているでしょうか。言っていないです。現実には、「まず同性愛者のことを優先して扱う」ということをしたい人たちが「同性愛者のアイデンティティーの政治」であり、それに対する抵抗する立場から、もしくは「もう一つの選択/オルタナティブ」として、「LGBT」という言い方が出されています。
 ですから実は「LGBT」というような書き方は、「同性愛者のアイデンティティーの政治」というよりは、「LGBTのアイデンティティーの政治」と言った方がいいのではないでしょうか。(そしてだからこそ「LGBT」というような書き方は「LGBT」を「LGBT」以外よりも優先するという路線であり、「LGBT」以外のあり方への抑圧を新たに創り出します。従って当然、Aセクシュアルや、ヘンタイ、オカマなどの「LGBT」に収まりきらない性のあり方を持つ人々からの批判の声も上がってくるわけです)

 それでも敢えて「LGBT」を「同性愛者/バイセクシュアル/トランスジェンダーのアイデンティティーの政治(の連合)」と言うことも可能でしょう。その場合それは、個人としてのアイデンティティーを単に列記したもの(個人のレベルでの「アイデンティティーの政治」の連合ーというより現実には「野合」)であるか、もしくは、「同性愛者のアイデンティティーの政治」の弊害部分を取り除くための試みだと言うこともできるかもしれません。
 コメント欄だったので(と言い訳)ちゃんとは書きませんでしたが、私が100%完全に「同性愛者のアイデンティティーの政治」を否定しきるのではなく、

「同性愛者のアイデンティティーの政治」を解体/一掃すること、もしくはその弊害部分についての責任をとるように同性愛者に課していくことが必要

と書いていたのは、こういう事情を想定してのことでした。
 


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