動くゲイとレズビアンの会が第2審でも勝訴したのを受けて、京都大学新聞に投稿した文章。「男女別室ルール」についての批判が詳しい。
(京都大学新聞 第2022号 1997年9月)
京都大学新聞
第2202号
(1997.9.1)
2-3面に見開きで掲載
1部100円
注文は京都大学新聞社(Tel 075-761-2054)または、直接日比野まで。
「府中青年の家裁判」第2審判決をめぐって
日比野 真
まず第一に、うれしい!
「府中青年の家裁判」で、動くゲイとレズビアンの会(アカー)が主張し争っていた事項は、本当に基本中の基本、当たり前のことに過ぎない。既に私の生活の中では、「同性愛者の権利を認めるかどうか」などといった話は、話題にも議論にもならない。これはアカーのメンバーとて同じかもしれません。私たちは、97年のいま、日本のここで、周りの多くの人たちとの関係を保ちながら、既に生きているのだから。にもかかわらず、同性愛者の権利を認めるかどうか、などといったことを大真面目に争わなくてはならない、そんな社会の中に私たちが生きているのもまた、一つの事実でもあった。(注1)
もうぼくはそんなことで争うなんてばからしいことをやめにしたい。だからこそ、一審よりもさらに同性愛者の人権に踏み込んだ内容の東京高裁判決には、素直に、喜びを感じます。この新聞が出る頃には、東京都が上告したかどうかが分かっているとは思いますが、願わくば、青島さんが賢明な判断をされんことを!
(9月30日、都側は上告をせず、アカー勝訴の判決は確定した。)
日本での典型的なホモフォビアの事例としての府中裁判
この裁判で問われた東京都の対応は、日本においてホモフォビア(注2)がどのように現れ、どのように事態が進展するのかを典型的にあらわしているように思います。
まずはっきりしているのは、特にだれも、意図的・意識的に同性愛者を差別しようとしたわけではおそらくないということです。東京都側の初期の主張でも言われていたようですが、「同性愛者団体だから拒否したのではない、ただ、既存の男女別室ルールを平等に適用しただけだ(注3)」という主張は、ある意味で正直な東京都側の認識だったのではないでしょうか。しかしまず問題になるは、もしその既存の「ルール」が適用されたら社会から排除される人たちがいるということです。「男女別室ルールを適用するから同性愛者は泊まれない」という主張が通るのなら、レズビアン・ゲイだけでなくバイセクシュアル(注4)やトランスジェンダー・インターセックス(注5)も、男女が分けられているところからはすべて排除される可能性が出てきます。例えば銭湯の入口に「同性に性的指向が向くものの入浴お断り」という張り紙をすること、男女が分けられたトイレにおいて「同性に性的指向が向かない人だけ利用できます」などといった看板を出すことなどが、「男女別室ルール」と同じ論理ですべて正当化されます。「同性愛者なんかが隣にいたら、何をされるか分からない!」。カムアウトしたゲイやレズビアンなどに対して「襲わないでくれよ」などという勘違いな反応する人がいるのですから、これはあながち杞憂ではありません。何も話は府中青年の家だけではないのです。東京都の主張は、その悪意のない素直さにも関わらず、もし認められれば相当広範な場所から多くの非異性愛者を実質的に排除することを正当化することになってしまうのです。(トランスジェンダーやインターセックスの場合は、生物学的性別/sexとジェンダー/genderとの一致を前提として男女の性別を明確に分ける行為自体が、その場からの排除を導きます。ただ本稿では、裁判にあわせ性的指向の話に焦点を絞るので詳細には触れません。)
しかしこの危機感は、異性愛者の友人にはなかなか分かってもらえなかったという経験が私にはあります。東京都の主張の危険さには、鈍感な人が多かった。そして、またこれが非常に説明しにくいのです。なぜでしょうか。
おそらくこれは、異性愛者にとっては、異性愛者以外の人の置かれる状況をわざわざ想像するという作業が必要だからでしょう。「男女別室ルール」によって異性愛者が泊まれなくなることはないのです。自分の利害には直接は関係のない他者の都合を知るために、わざわざ自分の時間とエネルギーを割いて想像力をはたらかすことをしようとしない限り、危機感も問題意識も生まれようがないのです。
確かに日本には、アメリカ合州国やヨーロッパのいくつかの国の話として伝えられているような、キリスト教の伝統による、確信犯的な同性愛に対するあからさまな攻撃・非難・抹殺は顕著ではありません。それ故をもって「日本には同性愛差別はない」などという人もいます。しかしこの「府中裁判」でみられたのは、同性愛者の置かれる状況に思いを馳せようと試みないこと、知ろうとしないこと、つまりは無関心と無知が何を引き起こすかということです。ホモフォビアをもったままの社会が、同性愛者のおかれる状況に無関心なままで「いつものように」「自然に」ふるまうとどうなるのか。同性愛者の置かれる状況に対して無関心なまま「男女別室ルール」を適用することによる結果が、「同性愛者団体」を名乗るアカーの府中青年の家からの締め出しという、同性愛者に対する不利益の強要でした。
今回の第2審判決では、「男女別室ルール」の適用については、「性的行為が行われることにのみ着眼し、同性愛者について判断をした場合、同性愛者は実質的に青年の家を宿泊利用できなくなること」を問題であるとちゃんと認めて、東京都の主張をきっぱりと退けました。また、それだけでなく「行政当局としては、その職務を行うについて、少数者である同性愛者をも視野に入れた、肌理の細かな配慮が必要であり、同性愛の権利、利益を十分に擁護することが要請されているものというべきであって、無関心であったり知識がないということは公権力の行使に当たる者として許されないことである。」とまで言及しています。
ちゃんと書いた判決だと思います。えらい!
何のための「男女別室ルール」?
裁判では、最低限の市民権運動、まず勝つことが必要でした。何しろ公的機関が同性愛者に対する不利益取り扱いを行って堂々と開き直っていたのですから。それにある意味、提訴当時は、主張内容よりも、堂々とオープンにカムアウトしているゲイの姿を見ることだけで貴重なことでした。当時はオープンな形で顔と名前を出して活動していた団体はまだほとんどなく、テレビなどで裁判についてしゃべっているアカーのメンバーたちをみて、勇気づけられた人は少なくないはずです。
しかし、直接の裁判当事者ではない私(たち)が1997年の今、「府中青年の家の使用拒否」という事件について考えるとき、そのレベルで思考をストップするのは怠慢でもあるでしょう。アカーは「男女別室ルール」の適用を問題にし、裁判でもそれが争われました。しかし、そもそも問われているのは、「男女別室ルール」というのは何なのか、なぜそんなものが存在するのか、その本当の意図は何か、本当にそれは必要なのか、ということではないでしょうか。
「抑えられない男たち」のための「男女別室ルール」
現実問題として「男女別室ルール」を直ちに廃止して明日からすべての部屋をミックスにするのは、問題があります。それは、実際に男女を一緒の部屋にすると男性による女性に対する性暴力が起きかねない、また、そのために安心して眠れない女性がいる、という危惧が現実にあるからです。「据え膳食わぬは男の恥」というような言葉に象徴される現実が、残念ながら少なくない異性愛男性の性の在り方に刷り込まれています。性別の男女の明確な二分法を大前提とし、「むらむらしてやりたくなったら、抑えられない」「犯れなければ男じゃない」などといった神話(この神話こそが、カムアウトしたレズビアンやゲイなどに対して「襲わないでくれよ!」などと言わせる元凶)自身を問うことなく、その神話をもった人たちの間でのルールをつくるとするならば、なるほど「男女別室ルール」という発想も分からないではありません。男女同室にしたら何をするか分からない、だから分けるのだ!しかし、例えば多くのゲイやバイセクシュアル男性は、これまでもずっと、「欲望の対象となる」「ムラムラくる」男性の裸を間近にみて育ってきました。体育・水泳の着替え、銭湯など、全裸でのつき合いさえ希ではありません。私(たち)は、ずっとそういう環境の中で育ってきたのです。男女を分けても性的なものをなしにすることはできないし、性的指向が向いていても別に必ず襲うわけではないのです。だいたい、個人がどういう欲望や妄想を持つかということと、それを他者に押しつけることとの間には何の関連もなく、そこをごっちゃにしてしまうからややこしいのです。異性愛の男女を同室にしたときに起こる危惧を想定して勝手に「男女別室ルール」をつくっておいて、それを非異性愛者に適用してこと足れりとすることは、男の性欲は抑えられない、性的指向が向いていたら襲っても仕方がない、などという単なる男のわがままを不問にして温存したいという策動に他なりません。従ってこの府中事件は、同性愛者の問題という以上に、異性愛男性の性のあり方の問題なのです。
例えばセックスをしたい男達が相手の男を捜しに集まってくるハッテン旅館のことを考えてみてください。そこには、視線から始まって多くの欲望が渦巻いていますが、別に男性による強かんが頻発しているわけではありません。(注6)相手にアプローチをしてOKならする、NOならあきらめて他をあたる、という、ごく当たり前のコミュニケーションが、セックスを巡っても行われています。やれば、練習すれば、そういう文化に慣れさえすれば、「男の性欲は抑えられない」という神話から(ある程度?)自由なコミュニケーションは可能なのです。そしてこのハッテン旅館のようなコミュニケーション方法は、セックスや欲望を隠すのではなく、逆にあけっぴろげに肯定する事によってこそ、獲得されるのではないでしょうか。「嫌よ嫌よも好きのうち」という迷信が有効なのは、セックスや欲望を巡ることがらを神秘化し隠蔽し、当事者間でオープンに肯定的に扱われていないからです。「男女別室ルール」などによって性別の男女の明確な二分法を大前提とする男のわがままを保護し続け、男女間のセックスについての具体的な会話さえを当事者の男女間で行うことを避け続けている(青少年は性的に未熟なので、とか、性的なことを教えると混乱するだけだ、とか)からこそ、勝手な思い込みが力を持つのです。「嫌だと言ってもよい」「NO MEANS NO ! (嫌といったらそれは本当に嫌という意味なの)」「自分のしたいことやして欲しいことを相手に伝えてもいい」などのことを確信し自分に自信がもてるように、もっともっとセックスについて欲望について、猥談だけではなくあけっぴろげに肯定的にコミュニケーションする事が必要なのではないでしょうか。
「男女別室ルール」に換わるものは何か?
だから本当は、「男女別室ルール」を同性愛者に適用しないことが大事なのではありません。同性愛者を適用除外にするだけであれば、それもまた性別の男女の明確な二分法を大前提とした男のわがままの延命のためのあがきでしかありません。同性愛者の同室宿泊が提起している問題は、異性愛社会の中で当然とされているルールの在り方や文化こそが根本的に変革されるべきものだということです。やや無理に図式化して言い換えるなら、「性別の男女の明確な二分法を大前提としたうえで男女別室ルールによって性行為などの性的なものを排除していこう(とどのつまりはそうやって男のわがままを温存しよう)」というやり方で守られてきた、これまでの強制異性愛・ホモフォビア男性優位の文化やコミュニケーションの在り方と、「男だからこう」「女だからこう」などといった神話を疑い「セックスなどの性的なものを隠すよりも、それを含めてちゃんとお互い一人一人でていねいに具体的にコミュニケーションして折り合いをつけていく」という文化・コミュニケーションの方法との間の争いがこの裁判だったのです。
確かに「性」は、一人一人のタブーや感情・欲望の深い部分との関わりが大きいことが多く、お互いの勝手な思い込みによって知らないうちに相手を傷つけたり抑圧していたりすることも多いということは、同性愛者に限らず、わたし(たち)が日々身にしみていることです。しかし、性別の男女の明確な二分法を大前提としておしつけ、実際にある一人一人のそれぞれ異なった性の在り方をコミュニケーションの中で顕在化するのではなく隠蔽すること、それこそが本当に様々な「性的少数者」をつくりだし、無関心によって一層それらを苦しめているという事実をも私(たち)は知ってしまいました。とするならば、むしろ逆に、その困難さと危険を承知の上で、性を積極的に話題にし、すれ違いをも含めた多様な性の在り方を楽しみとすることのできる新しい文化・コミュニケーションの方法を模索し創っていこうと務めるしか、もう道はないのではないでしょうか。
この「意識のシフト・チェンジ(古橋悌二)」ができるかどうかこそが、レズビアン・ゲイ・バイ・ヘテロその他を問わず、今後私たちが「私たち」として共にあるためには必要不可欠なものだと、私は考えます。
「少数者」は同性愛者だけではない!
今回の判決で東京高裁は、少数者に対する無関心や無知は許されない、と指摘しています。
この精神にのっとれば、この裁判に関心を寄せ、利害にも直接関わるのは何も同性愛者だけではないことにも注意を払う必要があるでしょう。例えばレズビアン・ゲイのコミュニティーやサークルの中にも、多数者/少数者の問題はあります。特に同性愛者以外のセクシュアリティーの人はコミュニティーでは少数者であるという事実を考えればなおさらです。この判決は例えば、「サークルの役員などが、バイセクシュアルやトランスジェンダー・インターセックスなどに対して無関心であったり知識がないということは許されない」などのように読み換えられることにも留意すべきです。実際すでに、バイセクシュアルやトランスジェンダー、インターセックスなどが声をあげ始めているのです。同性愛者のことだけ考えて同性愛者の都合を常に優先していこうとすることは、東京都が行ってきたことと大差ありません。思わず自分の方が多数派の側になってしまいコミュニティー内の更なる少数者のことについて鈍感になってしまいかねない、そんな自分に対する戒めとしても、この判決を活かしていきたいと思いました。(注7)
裁判に即して言えば、同性愛者が同室宿泊ができないのと同様にバイセクシュアルや相手の性別がどうでもいい人なども同室宿泊ができません。同性愛者の場合は例えば異性愛の異性となら同室宿泊できますが、バイセクシュアルの場合は個室しか泊まれないことになります(あとは犬とかイルカとか)。例えばFTM(Female to Male)のトランスジェンダーは、男性としての自覚があるのに戸籍上は女性なので「男女別室ルール」によって男性と同室になれないことになります(MTFTGはこの逆)。インターセックスはいったい「男部屋」「女部屋」のどちらに泊まればいいのでしょうか。などなど。今回の裁判は同性愛者によって担われましたが、「男女別室ルール」を巡る闘いは、何も同性愛者だけの問題ではないのです。
やればできるんだ!
「『動くホモとレズの会』が裁判を起こした」(「ホモ」や「レズ」は一般的には蔑称で、アカーはこの蔑称使用を重要な問題と考える団体であるのに!)などと無意識のうちに言ってしまうテレビ報道が平気で行われた時代に、この裁判は始まりました。同性愛が人権の問題であると認識する人が増えてきたのは、本当にここ最近のことです。そんな中を、周りからの支援もほとんどない中、地道に裁判を闘ってこられたアカーの方々に対して、心から敬意を表します。いったん確定した判決は判例として後々まで影響を与えることを考えると、「無関心・無知は許されない」とまで裁判所に言わせたアカーの人たちのがんばりによって、これから本当に多くの人たちが救われることでしょう。本当にお疲れさまでした。アカーのメンバーの多くは20代30代のぼくと同世代の人たちであることを考えると、「やればできるんだ!」というポジティブな教訓をアカーの人たちは残してくれました。全国のゲイやレズビアン、男女のバイセクシュアル、トランスジェンダー、インターセックスなど様々な少数派の皆さん、そして今の強制異性愛社会に違和感を感じているすべての皆さん、お互いそれぞれ、無理せず楽しくがんばろう!
注釈
(注1)と、ここではわざと楽天的かつ強気に書いてみました。実際にわたし日比野は、「差別に打ちひしがれかわいそうで力のない弱者でもうどうしようもなくまいっている」訳では全然ありません。私自身すでに友人達との生活を楽しんで、生きています。しかしです。残念ながらまだコミュニティーに出会えず、周りの無関心に囲まれて1人で孤立している人もたくさんいると思います。このギャップは本当に大きい!こんな状況を変えるためにこそ、アカーの勝訴には大きな意義があります。
(注2) ホモフォビアとは、「同性愛または同性どうしで親密な関係や行為をすること、に対する嫌悪感・恐怖感」のこと。
(注3) 1990年4月26日、東京都教育委員会がアカーの利用拒否を決定した際に出された、東京都教育長のコメント
東京都教育委員会はこの団体の目的や活動について問題にしているのではないので一般的に公の施設の利用を拒むものではない。
しかし、施設にはそれぞれの設置目的があり、又使用上のルールがある。青年の家は「青少年の健全な育成を図る」目的で設置されている施設であることから、男女間の規律は厳格に守られるべきである。
この点から、青年の家では、いかなる場合にも男女が同室で宿泊をすることを認めていない。このルールは異性愛に基づく性意識を前提としたものであるが、同性愛の場合異性愛者が異性に対して抱く感情・感覚が同性に向けられるのであるから異性愛の場合と同様、複数の同性愛者が同室に宿泊することを認めるわけにはいかない。
浴室についても同様である。
(注4)現在では「性的指向が男性にも女性にも向く人」と「性的指向に男女の性別が関係ないかまたはその優先順位が低い人」の両者が、自らのことを「バイセクシュアル」と呼ぶことが多い。(あと、例えば「異性ともセックスしたことがあるし結婚もできるから自分は正常だ」などと思いたがっている人がホモフォビアに負けてバイセクシュアルを名乗ることもある。この件については注7を参照)。レズビアン・ゲイのコミュニティーやヘテロ社会の中で置かれる状況は似ているので、話もよく合うことが多い。とはいえ、この両者には違いもある。「男女のどちらの性別を指向するか、が性的指向である」という誤った考え方が広く流布しているため(先の定義は本当は「性別指向」とでも言うべきもの)、「性的指向に男女の性別が関係ないかまたはその優先順位が低い人」の話は「それは性的嗜好の話でしょ」といって軽視されてしまうことすらある。しかし、性別指向(どの性別を指向するか)は本来は性的指向や性的嗜好の中の一つの項目に過ぎない。それを過大に重視しそこにだけ関心を集中することは、性別の男女の二分法を逆に強化し、インターセックスやトランスジェンダーの一部(クイア派、MtXなど)、そして「性的指向に男女の性別が関係ないかまたはその優先順位が低い人」などを抑圧してしまうことにも注意が必要だと日比野は考えている。ゲイもレズビアンもヘテロ(異性愛者)も、性別指向にこそこだわっているという点では同じだ。
(注5)インターセックスとは半陰陽者のこと。くわしくは、「インターセクシュアルの叫び・性のボーダーレス時代に生きる(小田切明徳・橋本秀雄著、かもがわ出版、千六百円)を参考に。
(注6)この「強姦」の姦の字に注目!強姦とは第一義的にはジェンダー間の問題だ。被害者加害者の性別を無視して、単にセックスをするしないを巡るすれ違いや誤解の問題(単なる暴力の問題)として強姦を考えることができないのは、それが男女のジェンダー間の社会的な力関係を背景にしているからだ。加害者の男性を守り被害者の女性を一層責めたてるという、ジェンダー間の社会的な力関係のおかげで、強姦は一層たちが悪い。もちろん男性間でも本人の意志に反した性行為が押しつけられること(強かん)がない訳ではない。しかし、年齢差が大きい場合や職場での上司であるような場合などを除けば、力関係の差が男女の間にあるようにはあからさまには大きくないので、単にセックスをするしないを巡るすれ違いや誤解の問題として考えることができる可能性が高い。もちろんいかなる場合であれ、本人の意志に反した性行為を強要することが誤りであることは前提とした上でのことである。
(注7)レズビアン・ゲイのコミュニティーの中における「バイセクシュアル・フォビア」について 現状においてバイフォビアには三つの理由が考えられる。
まず一つ。レズビアンやゲイの中には、異性を好きになって当然!という社会の強烈な刷り込みのせいで、何とかして自分をそのように作り替えようとして無理に異性と付き合ってみる人もいる。付き合うだけではなく、以前では、(偽装)結婚をして(させられて)しまうことも希ではなかった。そういう状態の人たちが、「自分は結婚のできないホモやレズとは違ってまだましな、正常に近い存在なんだ」ということを言うために自分のことを「私は同性愛者ではない。バイセクシュアルである」と名乗ることも多かった。現在では一見平気そうにレズビアンやゲイを名乗っている人の中にも、始めのうちは自分のことを「レズビアン」「ゲイ」などと名乗ることができず、便宜的に「バイセクシュアル」を名乗っていた場合もある。「バイセクシュアルって、本当は同性の方が好きなのに、勇気やプライドがなくてレズビアン・ゲイと名乗れない人たち」「バイセクシュアルは結局最後は異性と結婚してしまう」「バイセクシュアルとは同性愛者を名乗ることができるようになるための過程」というイメージができあがったのはそういう理由だ。レズビアン・ゲイの一部には、このようなバイセクシュアルに対する否定的イメージを絶対化・一般化し、「同性愛者ではないが同性にも好きな人がいる」というなバイセクシュアルに実際に出会っても、「性別が関係ないとかごちゃごちゃ言って自分が同性愛者であることを認めたくないだけに違いない」という過去の自分の実感を根拠にした決めつけで、それを認めることができない場合がある。しかしこれは、同性愛に対して「大人になればいずれは直る」と思っている一部の異性愛者と全く同じ過ちを行っている。
二つ目。一部のレズビアン・ゲイの中には、「同性を好きになる」という自分の在り方に自信を持ちたいがために性別や性別指向にのみ関心を集中させ常に優先したがり、性的指向に男女の性別が関係ないかまたはその優先順位が低い人の存在と主張をかえりみない(それどころか時には弾圧する)ことがある。特に性的指向に男女の性別が関係ないかまたはその優先順位が低い人の場合、レズビアン・ゲイ・同性愛者・バイセクシュアル、などといった分かり易い(ということはつまり嘘の多い)アイデンティティーを引き受けること自体を拒否し、「若専」とか「贅肉愛者」などという趣味としてのカムアウトしか意図的にしないこともある。そして又こういうあり方こそが、性別指向にこだわりすべてを性別指向で語ろうという人を刺激するようだ。しかし「相手の性別こそが重要」という人は世の中の全体ではなく、たしかに多数派ではあるがしかし一部分でしかない。同性を指向する人の存在に対し無関心な異性愛者も、性別が性的指向に関係ないかあまり重要ではない人の存在に無関心で敬意を払わない同性愛者も、他者の存在に関心を示すことが難しいという点では一緒だ。 いずれのバイフォビアも、もとをたどれば強制異性愛があまりに強烈であるということが原因の一つであることを考えれば、本当は同性愛者とバイセクシュアルとの共闘の可能性があるのにねえ。
そして最後に、特にゲイのコミュニティーにおけるバイセクシュアル嫌悪は、性的指向を問わずに多くの男性が抱えている女性蔑視(ミソジニー)の反映であることがある。「女なんかうっとうしい」というマッチョなゲイのわがままは、常にミックスの場を創ろうとするバイセクシュアルや、オネエのゲイなどに対するコミュニティー内の抑圧を創り出すことがある。そして、この構図の裏返しとして、「男の影を引きずる」バイセクシュアル女性に対するレズビアンのコミュニティーにおける抑圧もまた、ある。
そう、敵は何も強制異性愛だけではないのよ。
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