“みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その4)

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コメント

““みんな”で、“対等なかたち”で、パレードを!(その4)” への14件のフィードバック

  1. ひびの まことのアバター

    永易至文さん【(その3)コメント11】へのレスです。

    ●パレードの作り方について

    >委員長がいて、その人が方針を決めて、その方針に従って人が集まり、パレードが成立するというようなイメージ自体が、トップダウンの、まさに実行委員長が場を私物化するような、よくないあり方だと思います。

    というのは、呼びかけ方式として、ぜんぜんありでしょうし、ともかく参加者がそこへ自発的に集まってきて成立するものであれば、どこがトップダウンなのでしょう(強制的動員があるわけでもなく、日当が出るわけでもないのに)。 (後略)

     この部分は、ちょっと説明不足だったかもしれません。順を追って、書いてみます。

     セクシュアルマイノリティーの社会運動の現場で、一番大切なことは、「少数派の権利を擁護すること」だと私は思っています。これは、例えば「異性愛者」が数の上で多数派であるというということは(当面)将来も変わらないという前提の上で、つまり「自分たちが多数派になること」は不可能であることを踏まえ、「自分たちが多数派になること」によって自分たちの権利を守るのではなく、少数派が少数派のままで権利が尊重されるような社会や文化、少数派と多数派とが対等に共存する社会や文化を創ることを目指すということです。言い換えると、その場所における多数派のワガママを許さない、多数派による場所の私物化に反対するということです。
     わたしは、この考え方は、強制異性愛社会を告発する時に「だけ」に持ち出されるべきではなく、「私たち」自身が場所や運動やコミュニティーをつくる時にも、同じように適用されるべき考え方だと思っています。言い換えると、私たちが場を創る時には、その「私たち」の内部での少数派の権利が大切にされるべきだ、多数派のワガママを許してはならない、ということです。
     結局「覚え書き」が教訓として確認されることになった2000年の関西での「レズビアン&ゲイ・パレード」問題は、「私たち」が大切にするべきこういった考え方に反するもでした。一部の人達が、自分たちとは意見が違う人には意図的に情報を隠して、「レズビアン&ゲイ・パレード」をしようとしました。これは意見の違う人を「仲間はずれ」にするものであることがあまりに明らかだったため、その案は撤回を余儀なくされました。「私たち」の内部には、レズビアンでもゲイでもない人達がいるにもかかわらず、あえて「レズビアン&ゲイ・パレード」を呼びかけるということは、「私たち」の内部の少数派をないがしろにすることです。またコミュニティーの中で、特定の個人を排除しておいて、そして「みんなで」パレードをしようと言い出すことは、ひんしゅくを買うのはある意味当然のことです。なぜなら、それが人々のつながりと協力を創り出すものではなく、むしろ逆に、いま既にある豊かなつながりを破壊するものだったからです。

     どのような企画でも、始めに呼びかける人がいるというのは事実ですし、何かを呼びかける時に呼びかけ人としての案を持っているのはある意味当然でしょう。しかしそれはあくまで「案」なのです。その「案」について、当然様々な意見の人がいるでしょう。
     もしあえて「レズビアン&ゲイ・パレード」をしたいというのであれば、なぜ「バイセクシュアル」を対等な仲間として扱うパレードをしないのか、まずその理由を呼びかけた側が説明する必要があります。そしてその「理由」は、上に書いたように「『私たち』の内部での少数派の権利が大切にされるべき」という観点からみて、妥当であるかどうかを検討されるべきだと私は思います。
     もちろんどのような内容のパレードであっても、やりたいパレードを呼びかける権利というのはあります。しかしその内容によっては、これまた当然のことながら批判を受けることになります。「批判されない権利」は、ないのです。もし内容についての具体的な批判があった時には、その批判内容についての話し合いをするべきです。
     その話し合いの過程で、「レズビアン&ゲイ・パレード」という名称の是非を直接話し合うのではなく、「名称は主催者が決めること」といって議論自体を拒否するのであれば、それは「話し合いの拒否」「結論の一方的な押しつけ」「トップダウン」と言われても仕方ないでしょう。
     さらに実は「レズビアン・ゲイ・パレード」というネーミングの問題点は、既に以前のパレードが問題になった時にも公式に指摘されています。札幌のパレードの名称の変遷をみても、「レズビアン・ゲイ・パレード」の名前に問題があることは既にコミュニティー内では明らかなことです。
     こういった歴史的状況が実際にある中で、「私は『レズビアン&ゲイ・パレード』をやります。この名前の是非についての議論は受け付けません」という態度をとることは、繰り返しになりますが、「話し合いの拒否」「結論の一方的な押しつけ」「トップダウン」と言われても仕方ないでしょう。

     パレードがこれだけ問題になるのは、それが個人的なパーティーとか、特殊な趣味の人たちのクローズドな集会、もしくは特定の組織に属する人達の集会ではないからです。実際にパレードをする場合には、各地に散らばって存在する、場合によっては孤立している、様々なセクシュアリティーの個人に、広範に参加を呼びかけることになります。
     そして更に、いま「パレード」として想定されているのは、そういった参加者一人一人がパレードを通して自己表現をするような、参加者一人一人が主体的な主人公になるようなパレードです。パレード参加者は、パレード主催者に一方的に何かを提供してもらうような「お客さん」ではないのです。
     その意味で、例えばお芝居のように「主催者が表現をし、お客さんがそれを見に来る」というような企画とは、基本的に企画の趣旨が違います。

     このようにパレードについて考えるのであれば、呼びかけ人や主催者であるからといって、無条件に好きなことをできるのではありません。また実行委員会を批判すること自体を、「それ主催者が決めること」という理屈で批判することは筋違いです。「みんなのパレード」としてパレードが発展していきたいのであれば、「『私たち』の内部での少数派の権利が大切にされるべき」という観点を踏まえた上で、どんなパレードや名前がいいのかを、開かれた形で話し合うことは不可欠です。

    たとえば関西で、Gフロントとかあなたとか、90年代以来のロートル活動家とはぜんぜんべつのところ–あなたのネットワークにも引っかからないようなところとか—から(たとえばクラブノリの若い人が)パレードを呼びかける動きが始まったらどうされるんでしょう。実行委員会へ押し掛けてピケでも張りますか? 関心のあるものはみんな入れろ! 2000年の「覚え書き」を見ろ! と。(そんな「覚え書き」なんか知りまへんがな、と若い人に言われるかもしれませんが。)

     例えば昨年、立命館大学の「ジェンダー・セクシュアリティー・プロジェクト」というグループ(http://www.geocities.jp/rits_gsp/)が、「レインボーパレード」というのを呼びかけて、実際に開催されました。これまで私とは直接の面識がなかった人達が主催したパレードでしたが、わたしも、自作の看板を持って行って、参加しました。(今年もあるみたいです!)
     わたしが何か批判をしたり、意見を言ったりするのは、そうする必要がある時です。わたしだって時間が限られていますので、全ての会議に参加することなどできるはずがありません。特に批判的なアプローチをする必要のない時に、わざわざ「押し掛けてピケを」張るなんてことはしません。
     しかし、なんでいきなり「実行委員会へ押し掛けてピケでも張りますか?」となるんですか?永易さんって、よっぽど現場での争議が好きなんですか?わたしは直接行動を否定しませんが、何がなんでも暴れる事を自己目的化するほど暇ではありません。
     「覚え書き」は、実際にいろんな人の参加を呼びかける企画をする時に、とても参考になるものだと思います。言い換えると、どんなに小さな試みであっても、いつももめるんですよ、それがどこであれ、何かする時は。セクシュアリティーを扱う運動とか場を創るというのは、それだけ大変なことなんだと思います。だからこそ、いろんな失敗をしてきた世代の人達(私たちの世代の事ね)が到達した「教訓」として、どうすれば不必要なもめ事を減らせるかということを考えた時に、「覚え書き」は参考になると思います。
     「覚え書き」に賛成できない人ももちろんいるでしょう。でも、そういう時には、必要なら、またお互いで1から話し合えばいい訳です。もちろん実際にはお話をしてみないとわかりませんが、「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前は時代遅れですよね、「レズビアン&ゲイ」以外のセクシュアルマイノリティーの仲間もたくさんいることを踏まえた名前の方がいいよね、「少数派を大切にする」ということをまず自分たちのパレードの名前で実践した方がかっこいいよ、などということを丁寧にお話すれば、たいていは「それはそうだね」ということになるとわたしは思います。

  2. ひびの まことのアバター

    永易至文さん【(その3)コメント14】へのレスです。

    ●ゲイはマジョリティーか?

    「永易さんのような特権を享受している側の人」と言われてもなあ、で、まあそれを言うと、セクハラオヤジの言い訳だ、と言われちゃうんでしょうから、さきに自分がマイノリティだと言ったもん勝ちという気もする。まあ、しょせんゲイは鈍感なんでしょう。

     人々が集まった時に、その場にどのような社会的な力関係があるのかを、丁寧にみることが必要だと思います。そしてその時、社会的な力関係は1種類しかないのではなく、何種類もの力関係が「同時に」その場にあることを忘れてはいけないと思います。たった1つの枠組みや基準からだけみようとすると、話が混乱します。
     例えばレズビアンとゲイの関係をみてみると、同性関係嫌悪(ホモフォビア)や異性愛中心主義という観点からはどちらもマイノリティー(抑圧される側)ですが、女性差別という観点からはゲイ男性はマジョリティー(社会的に権力を持った側)、レズビアンはマイノリティー側になります。
     異性愛女性とゲイ男性との関係で考えた場合は、女性差別という観点から考えると異性愛女性の方がマイノリティーで、ゲイ男性がマジョリティー。しかし同性関係嫌悪という観点からは、マジョリティー/マイノリティーが逆になります。
     更に例えば国籍や民族、障害の有無、学歴などを考えれば、例えばゲイの中にもマジョリティー/マイノリティーの力関係があります。日本国籍を持つゲイは、日本国籍を持たないゲイに対して、日本国内では社会的に権力を持った側にいます。
     このように、人はある側面では抑圧を受ける側であっても、別の側面からは権力を持った側であることがあります。人は同時にいろんな側面を持っているので、「マジョリティー/マイノリティー」の関係をたった1つの観点からだけ考えようとすると、現実が見えなくなります。
     「バイセクシュアルはマイノリティー、ゲイ男性はマジョリティーだ」と私がいう時、それはバイ差別(バイフォビア)や「性別二元主義を強いる社会」という観点からみています。同性関係嫌悪という観点からだけみると、ゲイもバイセクシュアルもどちらもそれぞれ異性愛中心主義によって損をしているマイノリティーですが、バイ差別や性別二元主義という観点からは、同性愛者は異性愛者と同様にマジョリティー側になります。
     私を含め人間というのは自分勝手なものですので、自分がマイノリティーである部分には敏感でも、自分がマジョリティーである部分には鈍感であることが多いです。また、たくさんある社会的な力関係のうち、自分が損している(マイノリティーである)部分にだけ話題を集中させようとする人は多いですが、そういうことをすると不毛な争いになります(笑)
     「レズビアン&ゲイ・パレード」というネーミングの是非が「バイセクシュアルに対する2級市民扱い」という観点などから問題になっている時に、その問題についてゲイである永易さんが「特権を享受している側の人」であることは疑いようがないですよね。「鈍感」ということですが、実際に私のようにその名称に公然と異議を唱える人がおり、このサイトでも【(その2)コメント8】においてnyunnyuiさんが「ゲイレズ以外のセクシュアリティのパレードボランティアの人がどんな思いでいるのかを察したら、胸がきゅんと痛みます」とわざわざ書いて頂いている中で、単にパレードにたくさんの人が集まっている事実だけをもって「この名称を(略)大衆的にそれにイエスを与えている」と言ってしまえるのは、やはり「鈍感」としか言いようがないと思います。
     さらに、永易さんの一番はじめの書き込み【(その2)コメント4】において、パレードの名称を批判する私に対して「さんざんにごねたあげくに足を引っ張って、あまつさえつぶして回るだけ」「日比野さんの活動は、結局、議論の場を求めるとかなんとか口で言うほど崇高なものというよりは、『ボクもいっしょに遊んでよ~』とダダをこねているだけの、児戯に類する甘え」と事実に反する罵倒をし、「あらためて向き合おうという気にならない」と平気で書いてしまえる態度は、人をなめていない限り決してできないことです。こういう永易さんの態度は、「鈍感(もしくは傲慢/ごうまん)」と言われても仕方がない態度だと思います。

    (ちなみに「ゲイは鈍感」ということですが、私は、バイ差別だけではなく、女性差別という問題に鈍感な男性は多い、と思っています。同様に、例えば憲法24条の評価をめぐるやりとりからもわかるように、異性愛中心主義に鈍感なヘテロのフェミニストもこれまた多いのではありますが。 http://weblog.barairo.net/index.php?id=1110545024)

    でも、どっかで、バイはどこにもいます、バイのほうが多いぐらいです、みたいなこと書いてなかったけ。その方々はみんな声のでかいゲイおやじに恐れをなして、黙らされてるの? セクマイコミュニティは、一部のゲイおやじが多数のバイその他のセクマイを圧制支配する、古代先制王朝みたいなもんですか。ピラミッドが立ちますわ。

    ●「マイノリティー/マジョリティー」の問題は、人数の問題ではなく、社会的な力関係の問題です。
    ●一般的にですが、マイノリティーがマジョリティーに対して公然と声を挙げることは希ではないですか?フェミニストとして活動している人の数は、女性全体からしたらごく少数ですよ。ゲイとして公然と声を挙げている人も、クローゼットでいる人から比べたらごくわずかでしょう。実際に社会的な力関係がある状況の中で、マイノリティー側が公然と声を挙げていない、カムアウトをしていないことをもって、現在の状況には問題がない、もしくは現状が維持されてもいいと主張するのは、権力者の発想です。
    ●実際にそこには同性愛者がいるにもかかわらず、いないことにされる(異性愛者中心の場の運営になる)ことは多いですよね。それが可能になるのは、異性愛中心主義という力関係が社会的にあるからですし、異性愛とそれ以外との関係が「マジョリティー/マイノリティー」の関係にあるからです。
     実際そこに「バイセクシュアル」がいるにもかかわらず、いないことにされる(同性愛者中心の場の運営になる)ことも多いです。それが可能になるのは、同性愛中心主義とでもという力関係がコミュニティー内にあるからですし、同性愛者と「バイセクシュアル」とが「マジョリティー/マイノリティー」の関係にあるからです。

    ●逆説的ですが、単に1人のパレード参加者が、「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」「Aセクシュアル」など様々な性的少数者が参加しているのに、なぜパレードの名称は「東京レズビアン&ゲイパレード」なのですか?とパレード実行委員会に質問し、チラシをまいただけで、ネット上で攻撃的な対応を受けるという事実こそが、いま「私たち」のコミュニティーの中にどのような力関係があるのかを分かりやすく証明してしまっています。
     パレードについていろいろな意見を持つ人がいるのは、当たり前のことです。そして私の質問や意見表明は、平和的で礼儀にかなったやり方で行われています。にもかかわらず、直接批判をされた訳ですらない人達が、私との話し合いを通じて合意を形成しようとつとめるのではなく、例えば永易さんのように「さんざんにごねたあげくに足を引っ張って、あまつさえつぶして回るだけ」と人格非難をし、「あらためて向き合おうという気にならない」と対話の拒否を公然と言い切ることができてしまうことが可能になるのか、その鈍感さや傲慢(ごうまん)さが何に由来しているのかを、考え直して頂けませんか?

    ●しかしそれにしても「圧制支配・古代先制王朝」ですか。社会的権力というものを、国家権力といった大きなものだけを中心に考えるクセは、いい加減に止めて頂けませんか。

    あと、パレードが外国人の参加を断るというタトエは、今回の名前問題とはぜんぜん次元の違うことで、譬えになってないでしょう。東京パレードはだれも断ってないし。

     パレード実行委員会を外部から公然と批判することが、まるで何かよくないことであるかのような書き方をする人がいるので、そういう人達の心の動きを検証するための例としてあげています。
     パレード実行委員会に対する批判があったとして、その批判の内容が正しいと思った時には、「外野から口だけ出すな」「文句があるなら自分でパレードしろ」といったような言葉は出てきません。それらの言葉の本当の目的が、実は実行委員会への批判自体を封殺しようとする意図から来ていることを説明するための例として、あげています。

    たとえばゲイレズビアンパレードは、ゲイレズビアンが呼びかけて、ゲイレズビアンの人だけ参加してください、というのなら、なんら問題ないのかな。ゲイレズビアンがなにかするとき、なんでほかのセクマイの人といっしょにやることを前提とすることになってるんですか。

    ●少なくとも市民権という点では、例えば誰でも「同性愛は病気だ!家族の価値を守れ!パレード」というパレードをする権利がある(国家はそれを禁止できない)というのと同じ意味では、いかなる名前のパレードも、いかなる内容のパレードも、誰でも自分のやりたいパレードを行う権利があります。しかしもちろん、そういうパレードがあった時、たくさんの批判が寄せられるということもまたあるでしょう。さらに、現場での直接行動などの抗議にあうことも当然覚悟すべきでしょう。
    ●もし誰かが「レズビアン&ゲイ・パレード」をしたいというのであれば、誰でもそれをする権利があります。私がパレード実行委員会(砂川さん)に宛てたメールにも、「もし本当は『レズビアン・ゲイのパレード』をしたいのであれば、どのような批判を受けようとも『レズビアン・ゲイ・パレード』という名称(と目的)は維持すべきでしょう」と明記しています。
    ●しかし、好きなパレードをする市民権があるということと、それが批判されるべきか、正当性があるかどうかということとは全く別のことです。いま議論になっているのは、こちらの方(「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前の是非/正当性について)です。

    ゲイレズビアンパレードは、ゲイレズビアンが呼びかけて、ゲイレズビアンの人だけ参加してください、というのなら、なんら問題ないのかな。

    ●この場合は、看板と実態とのずれがなくなり、少なくとも「嘘をついていない」という点ではよくなると思います。
    ●しかし何度も書いていますが、「バイセクシュアル」の存在しない場所は、「ゲイコミュニティー」には存在しません。少なくとも社会的な場としての「ゲイのコミュニティー」には、バーや雑誌、クラブ・ハッテン場からリブ団体まで、カムアウトした「バイセクシュアル」の存在の有無とは無関係に、必ず「バイセクシュアル」がいると考えるべきです。従って、「バイセクシュアルを仲間に入れるかどうか」という議論は、実は「いま隣にいるバイセクシュアルを追い出すかどうか」という議論をしていることになります。
    ●実はそういった議論をする事自体が、「バイセクシュアル」を二級市民扱いすることですし、バイ差別の実践です。「一緒にいるかどうか」を選べると思っているところがゲイの傲慢さですし、そのことにすら気が付いていないところは、鈍感な異性愛者とうり二つです。
    ●あえて「ゲイレズビアンの人だけ参加してください」と呼びかけるというのであれば、つまり今すでに隣にいる「バイセクシュアル」を追い出そうするのであれば、なぜわざわざそういうことをしようとするのか、理由の説明をすべきです。
    ●その時に合理的な説明をできる人がいれば、私も納得はします。しかし、少なくともこれまで、「ゲイレズビアンの人だけの参加」を求めて「バイセクシュアル」を追い出すことの正当性や合理性を説得力を持って主張できた人はいません。そして将来もいないとは思いますが。

    ゲイレズビアンがなにかするとき、なんでほかのセクマイの人といっしょにやることを前提とすることになってるんですか。

    ですから、これは話が逆です。「ゲイ」と看板が付いている場所の全てには、これまでも、いまも、「バイセクシュアル」がいます。今いる人をあえて追い出して、わざわざ「レズビアン・ゲイ」という枠組みで何かをしようとする理由はなんですか?これもパレード実行委員会宛のメールを再度引用しますと、こうなります。

      >●したがって私の問いは、「バイセクシュアル
      >を仲間に入れて欲しい」というお願いではあり
      >ません。そうではなく、そこにいることが既に
      >明確に分かっているにもかかわらず、「バイセ
      >クシュアル」を「レズビアン・ゲイ」とは異な
      >る取り扱いをするのはなぜか、(分かっていた
      >にもかかわらず、そうしてきたのはなぜか)と
      >いうことです。

    ゲイやレズビアンというものがそおもそも周縁があいまいなもので、ゲイレズビアンだけ、というのがそもそも成り立たないからですか?

    はい、上記の通り、現実的に考えて「ゲイレズビアンだけ、というのがそもそも成り立たない」と私は考えています。
    (それに、安易に「レズビアン・ゲイ」という枠組みが成立すると思っている一部のゲイの方の認識には、自身が男性として持っている特権を全く理解していないのではないかという疑念がぬぐい切れません)

    それとも数を集めたいだけの無節操な幅広イズムですか?

    いいえ。

    ゲイレズビアンパレードを呼びかける人がいれば、LGBTIパレードを呼びかける人がいてもいい、それはコンセプトの違いだけだろうに、すべからく開かれたパレードにせなあかん、と言われるのはなんでやろう。

     ですから、「ゲイレズビアンパレードを呼びかける」というそのコンセプトの内容自体に対して、質問を発し、批判をしているのです。
     どのような内容のパレードを呼びかける人がいてもいいでしょう。しかし、その呼びかけた内容に対して、批判が寄せられることは当たり前ですし、呼びかけをしたものはそれに応答するべきです。
     「意見の違いを認める」「意見の多様性を認める」というのは、文脈によっては少数派の権利を擁護するための言葉になりますが、文脈によっては多数派のワガママの開き直りの言葉になります。「ゲイレズビアンパレードを呼びかける」という行為自体の問題点が、批判を受けているのです。その批判が筋違いだと思えば正面から反論すればいいのであって、反論できない時に「意見の違いを認めて」と言うことは、間違いを開き直っていると言われても仕方がありません。
     繰り返しますが、「ゲイレズビアンパレードを呼びかける」ということ自体が、コミュニティーの中にいま既にいる「バイセクシュアル」の存在を一層不可視化します。実際にいるのに「いないことにされる」という実践ですので、典型的なバイ差別の事例になります。「ゲイレズビアンパレードを呼びかける」というそのコンセプト自体が、バイ差別に基いていますし、「バイセクシュアル」への二級市民扱いの実践だからこそ、批判を受けるのです。

    クラブのゲイナイトもダメですか。ゲイバーというのもダメですか。ゲイ雑誌もあきませんか。パレードだけ別ですか?

     もちろんいずれも問題になることはありうるとは思いますが、また人によって様々な線引きをするとは思うのですが、対社会的な政治的な表現としての側面を強く併せ持つ「パレード」については、私は特に重要視します。
     例えば1000人以上の客を集めるゲイナイトは既にいくつもありますが、それがテレビのニュースで取り上げられることはありません。パレードは、対社会的な人権運動という側面を必ず併せ持ちますので、公的な政治的な企画として、その責任が特に大きくなります。

  3. ひびの まことのアバター

    永易至文さん【(その3)コメント2】へのレスです。

     ちなみに、東京レズビアン&ゲイパレードという名称が、同性愛者だけを特権的に優遇する名称として批判する日比野さんが、「同性愛ってなに」といった本をお書きになることには、矛盾はないのでしょうか。

     実際に本を読んで頂ければ、この本が「同性愛者だけを特権的に優遇する」内容ではないということがお分かり頂けると思います。「同性愛」という言葉でイメージされる問題領域を、まるであたかも「同性愛者の問題」であるかのように考えるゲイの活動家は多いのですが、そういった同性愛者中心のものの見方に抵抗するオルタナティブとして、貴重な内容だと思っています。
     この本にももちろんたくさんの不十分な点がありますが、それについては「本書の限界」や本文中でも明示的に言及しています。更に、いまの私の基準からみれば、少なくともAセクシュアルについてはもっと紙面を割くべきだったと思います。

     「同性愛ってなに 一問一答」は、内容としては「同性を好きになること」をテーマとして扱った本です。例えばトランスジェンダーの提起する問題についてはほとんどページが割かれていませんので、この本のタイトルを「LGBT」などとするのは不適切です。
     「レズビアン&ゲイ・パレード」の名前が問題なのは、実際にパレード参加者に様々なセクシュアリティーの人がいるのに、同性愛者だけを特権的に優遇する名前になっているからです。例えば実際にパレードにはバイセクシュアル、トランスジェンダー、Aセクシュアルの人が参加しているにもかかわらず、その人たちの存在を不可視化するというよくない実害があるから、問題になっているのです。なぜ「レズビアン&ゲイ・パレード」が批判を受けているのか、ちゃんとその理由を考えて下さいね。
    (実は私は、パレードのようなことをする時には、そもそもアイデンティティー語を使わない方がいいと考えています。)

    ●知っていますか? 同性愛ってなに 一問一答
    http://barairo.net/douseiai/

     この本では、タイトル通り、主に性愛者の性指向について焦点をあてることで、「男女という制度」が支配的な今の「私たち」の社会について解説しています。「同性愛」の解説をするのではなく、「同性愛」を取り巻く環境や社会の仕組みの解説を試みています。
     企画の骨格自体がたてられたのが数年前なので、その当時の状況や問題認識を引きずっている面も確かにあります。
    とはいえ、「同性を好きになる」ということについて、「同性愛者中心主義」をある程度相対化する形で書かれた入門書としては、他にはない貴重な本なのではないかと思っています。
      是非、お友達にもご紹介下さい。

  4. 永易至文のアバター
    永易至文

     るるご展開、ありがとうございました。

     市民には、「同性愛は病気だ! 家族の価値を守れ!パレード」というパレードをする権利がある、同時にそういうパレードがあった時、たくさんの批判、さらに、現場での直接行動などの抗議にあうことも当然覚悟すべきでしょう—-それとおなじように、「レズビアンゲイパレード」というパレードをする権利があるが、同時にそれへの批判が寄せられることも覚悟すべきでしょう、というご趣旨は、よくわかります。両者が思想的に等価なものではない、とは、私は言いませんので。思想的等価のまえに、ゲイパレードはよいパレード、「家族の価値」パレードは悪いパレード、という党派的判断はすべきでないと思います。
     実際、たとえば「(教科書を)つくる会」がなにかパレードを呼びかけても3千ぐらいは集まるでしょうから、東京パレードと似たようなもんでしょう(笑)。ちょっとずれますが、つくる会が教科書をはじめ著作を刊行することは、当然の市民的権利で、それを図書館司書がその思想が気に入らないからといって、廃棄処分などにしていいわけがない(そういうエキセントリックな正義派がいるから、反つくる会がわの運動も支持が高まらないのでしょう)。

     私は、日比野さんが書くように、パレードへの批判そのものが許されない、というのだとしたら、よろしくないと思っています。ですので、まあ、いましばらくは、あなたのご主張のような「ノイズ」(褒め言葉ですよ。笑)を同伴しながらパレードが進んでいけばいいと思います。他人事な言い方ですんませんが。

     なお、現パレードに不満ならば、違うパレードをやればいいのに、という意見へのご反論も、理屈のうえでは理解いたしますが、それをるる説得するエネルギーは、やはりオルターナティブなパレードを実現するほうへ向けられて、事実でもって頑迷固陋なゲイの目を覚まさせるほうが、より「生産」的ではないでしょうか。そのほうが、アンチばっかり言っている日比野さんも、やるときゃやるんじゃん、と、私どもの見る目も変わるというものです。

     もっとも、名称がレインボーパレードであっても、札幌で拝見いたしましたが、日比野さんは沿道からゲイたちに向かって「お前たちだけが差別されているんじゃない」と嫌味プラカード(笑)をかざして回るのではないですか?
     まあ、それが「コミュニティ」のなかでのゲイの特権化の解体とバイをはじめとする他のセクマイのビジビリティ向上のための日比野さんの闘いなのでしょうが……。私としては、それを同伴者としてパレードを歩くぐらいの覚悟はしております。

     今回、日比野さんのご主張をまとめていろいろ読ませていただいて、理屈的にはなるほどそうですね、と思うことができても、なぜ、この思想に触れて元気が湧いてきたり、いっしょに動きだしたり、新しい世界が開かれていくような感じにならないのだろう(私が)、ということがありました。まえも書いたように、原理主義的で、観念的な「真の対等」をふりかざしているだけのように思われる。
     私のミクシー日記である関西のかたが、「彼(日比野さん)は政治的に振舞う一方で、ゲイの(バイも) セクシュアリティそれ自体(HIVとかのことも含め要するに下々のリアリティ)--に実は関心がないんだろう」という意見を書いていましたが、この「下々のリアリティ」というところが、生きていく人間としては気になるところで、議論をつうじて、日比野さんはどこへ行きたいんだろう、ということが見えず、議論を読んだり書いたりしたあと、疲ればかりが残るんです(ほかの活動や文章に接すれば、違うかもしれませんが、今回のこの板でのやりとりに限定しておきましょうか)。
     そりゃ、自分(ゲイ/永易)を批判されている意見だからおもしろくないんでしょうよ、と言われればそれまでですが、ほかのかたで、日比野さんの意見にこんなに救われている、勇気づけられている、未来を見いだしている、というご意見があれば、読んでみたいです。そうすれば、私の認識も変わるかもしれません。
     しかし、人をしてそういう思いにさせちゃうというのは、少なくとも議論で評価してくれという「思想者」としての日比野さんの限界を物語っているのでしょうか。

     最後に、私個人はしばらくは同性愛者、というかゲイ男性というところにこだわって、なにかしていくと思います。『にじ』を出していたときも、同性愛者のライフスタイル雑誌、としました。ポルノ雑誌ではないライフスタイルの同性愛者表現がない、ない、と既存のゲイ雑誌に働きかけたり批判するより、自分でともかく作ってみよう、実物でわかってもらおう、と思ったからです(それをパレードについてやんなさいよ、と言ってるわけです)。同時に、それは「同性愛者」ではない人を切り捨てていることも、自覚していました。切り捨てるというほど、同性愛者のほうもご立派なものじゃない、まだまだ自己肯定、受容が必要、先ず内を固めて、それから後に外へつながって行こう、という先内後外の路線でした(ゲイだってまだまだバルネラブルなんだと言うと、おたがいの不幸比べになるから、消耗でしょうが)。
     『にじ』を止めたいま、書く場所はゲイ雑誌に移ったりしましたが、自分のなかの路線はこのままです。「おまえの書くものが、ゲイ雑誌の読者のうちの「ゲイ」ではないものを抑圧しているぞ」というご指摘があるとすれば、もの書く者として、胸に刻んでおきましょう。

     お元気で。
     

  5. 永易至文のアバター
    永易至文

     >実際に本を読んで頂ければ、この本が「同性愛者だけを特権的に優遇する」内容ではないということがお分かり頂けると思います。「同性愛」という言葉でイメージされる問題領域を、まるであたかも「同性愛者の問題」であるかのように考えるゲイの活動家は多いのですが、そういった同性愛者中心のものの見方に抵抗するオルタナティブとして、貴重な内容だと思っています。

     実際にパレードを歩いていただければ、このパレードが「同性愛者だけを特権的に優遇する」パレードではないということがお分かり頂けると思います。「同性愛」という言葉でイメージされる問題領域は、「同性愛者の問題」であるかのように考えるゲイの活動家などどこにもいなくて、さまざまな存在をつきつけ、異性愛者中心のものの見方に抵抗するオルタナティブとして、貴重なパレードだと思っています—-とは言えないのでしょうか。

     ご著書のタイトルが、既存社会のなかで届けたい当事者により効率的に本を届けるための戦略的な選択だとすれば、レズビアンゲイパレードの名称におなじことが言えないはずはないと思いますが。

  6. ひびの まことのアバター

    永易至文さん
    さっそくありがとうございます。
    取り急ぎ、こちらをまず。

    実際にパレードを歩いていただければ、このパレードが「同性愛者だけを特権的に優遇する」パレードではないということがお分かり頂けると思います。「同性愛」という言葉でイメージされる問題領域は、「同性愛者の問題」であるかのように考えるゲイの活動家などどこにもいなくて、さまざまな存在をつきつけ、異性愛者中心のものの見方に抵抗するオルタナティブとして、貴重なパレードだと思っています―-とは言えないのでしょうか。

     残念ながら、言えないと思います。
     というのも、まず何よりそう言われる永易さんご自身が、「同性愛」という言葉でイメージされる問題領域を「同性愛者の問題」として扱うゲイの活動家の典型例のようなものだからです。同性愛者中心主義をパレードやコミュニティーからなくしていくという作業は、本来なら同性愛者がするべき仕事なのですが、パレード(や永易さん)には、残念ながらまだそういった認識や取り組みがみられません。
     実際にパレードに参加し、チラシを配布してわかったことは、確かに「さまざまな存在をつきつけ、異性愛者中心のものの見方に抵抗するオルタナティブとして、貴重なパレード」だという事実と、しかし同時に、その「さまざまな存在」の内部における差別には敏感ではない、同性愛者中心のものの見方を実践するという問題点も併せ持ったパレードだったという事実でした。

    ご著書のタイトルが、既存社会のなかで届けたい当事者により効率的に本を届けるための戦略的な選択だとすれば、レズビアンゲイパレードの名称におなじことが言えないはずはないと思いますが。

     ここでも、永易さんが、「同性愛」という言葉でイメージされる問題領域と、「同性愛者の問題」とを区別して考えておられないことを示しているように私には思えます。
     話を分かりやすくするために、「異性愛中心主義を問うという課題/テーマについての取り組み」に話を限定して考えてみます。
     異性愛中心主義を問うという課題は、全てのアイデンティティーの人に対して、アイデンティティーに関わりなく対等に開かれています。そして例えばパレードの名前が「異性愛中心主義に反対するパレード」であるのなら、少なくともそのパレードに参加している人達を、そのアイデンティティーによって差別化することはありません。「異性愛中心主義に反対する人」であれば誰でも参加できますし、それぞれの関係もとりあえずは対等ですし、また特定のアイデンティティーを持つ人が参加を躊躇することもありません。
     しかし「異性愛中心主義に反対するという目的で開催されるパレード」を、「レズビアン&ゲイ・パレード」と名付けるのであれば、それはことさら同性愛者だけを特権的に扱う間違ったアプローチですし、レズビアン&ゲイによる運動課題の私物化につながる可能性が高い。私が問題にしている部分は、ここです。
     仮にテーマを「異性愛中心主義に反対する」ということに絞ったとしても、「同性愛ってなに?(もしくは、異性愛中心主義ってなに?)」と問うことと、「レズビアン&ゲイ」というアイデンティティー語を掲げることとは、全く違うことだと思います。
    (レズビアン&ゲイには同じような事かもしれないが、それ以外にとっては大いに違う)

  7. 行動する主体とは『東京レズビアン&ゲイパレード(TLGP)』をめぐって、
    京都在住の日比野真さんが
    「レズビアン&ゲイパレードという名称は
    あらためるべきだ」という意見を展開されています。

  8. M-タクのアバター
    M-タク

    はじめまして、M-タクと申します。ひびのさんの主張から外れてしまうとは思いますが、ひとつ質問をさせてください。

    ひびのさんが主体となっての「性的少数者」のパレードを開くために、何か具体的な行動はおこされていますか。おこされていないなら、それはなぜですか。

    10行以内でお答えいただければありがたいです。長文となると何が何だかわからなくなってしまいますので。宜しくお願いいたします。

  9. Pのアバター

    現代の公衆浴場は男女別、これは対等ではない!
    (昔、これ日比野さん本人が言ってたの覚えてますか?)
    公衆浴場は完全個室化。「対等」になるんだ!と主張。
    (昔、これも日比野さん本人が言ってたの覚えてますか?)
    銭湯は完全個室化に向けてコストが生じる。
    そのコストいったい誰が出すんでしょうか?

  10. masatomoのアバター
    masatomo

     日比野さんは、「数が多いモノは常に意識無意識の抑圧者であり、その誤りを正されるべき存在」、逆に「少数者は非抑圧者であり解放され尊重されるべき」というシンプルな原理原則の方だと思うのですが(これまでの永易さんに対する膨大な返答は全てその論理原則に拠っていらっしゃるようです。違うとおっしゃるかも知れませんが、日比野さんが永易さんなどに反論される時には、常にその理論を切り札として使っておられます)、しかし日比野さんの説では「バイ」は、いわゆるゲイ史の初めより広く遍くこれまでもこの先も常にゲイ・レズビアンと一緒に存在しているのですよね?(だからその決して少なくない声を無視する事は許されないのだ、と日比野さんご自身が、「その2」のページの冒頭コメントで力強く主張されてます)。

     そんなふうにバイは実は多い、のならば、あなたが言うところの特権階級の「ゲイ、レズビアン」と同様に、すなわち「その他」の存在への抑圧者ということになるのではないのでしょうか。今現在あなたがゲイを「攻撃」するのと同じ理屈で、自分自身の属性も抑圧的で支配的な「多数派」と転じることは考慮されていないのですか。それとも自分のひとつ手前に居座っている「ゲイとレズビアン」をとりあえずとっちめることが出来たら、その後の序列や軋轢などの全体像の問題はどうでもいいのでしょうか?(日比野さんの意見からはそうしたビジョンがほとんど見えない、と言う批判は複数の方から既に指摘されてるはずです)。

     この件については日比野さん本人も一応、「それぞれが多数派を目指さず少数派尊重の場を作ろう」と言っています。しかしそうした数字の理論を出発点とする以上、集団の数字の「差」というものはかならずいつまでも存在しますよ。バイも必ず「何か」よりは多数派になりますし、その「何か」も「更に別の何か」よりは多数派になります。その事実は日比野さんの頭に入ってますか?日比野さんはこうした現実をどういう理論を使って解決するビジョンをお持ちなのでしょうか?
     あるいは、もし「少数者」が他の存在を侵害するような理の通っていない主張を始めた時、日比野さんはどうするのでしょうか。まさか解決法もないのに「少数者を常に大事にすることが大切だよね」と欺瞞を述べ続けているのではありませんか?

     そもそも、それ以前の大前提として、そういうふうに無限に縮小(または拡大)していっても、果てしなく相似構造でスライドしていく「解放理論」のおかしさには、ご自身では気が付いておられますか?

     私ははっきり申し上げて、日比野さんが主張される理論構造内での「バイ差別」は、日比野さん自身のバックグラウンドである社会運動から派生したルーティンな幻想であり、平たく言えばただの被害妄想クレームであると考えています。
     集団の構成数の多さ、少なさには最初から貴賎はありません(当たり前のことですが。しかし日比野さんの理論は、出発点からして一貫して、逆転した「数の理論」に拠っています。本人にその自覚があるのか無いのかは分りませんが)。
     ゲイ・ビアン業界の中におけるバイセクシャル独自の葛藤、悩み、抑圧感、不安定感は本当に実在しているでしょう。しかし、それが日比野さんが持論で応用するような、「少数者や弱者であるほど利権を要求してもいい論」とは全く別物だと私は今後は考えたいです。そもそも多数のバイセクシャルの男女は、こういう自尊心を捻じ曲げるような卑屈な『弱者の理論』を武器に、ゲイ・レズビアン社会や一般の社会と戦いたいと思っているのでしょうか。

     日比野さんのそうした理論の基礎や骨格は、市民運動等のフィールドの中では割とよく見かける、際限なく小さな利権を主張し追求し続けるタイプのクレーマーパターンですが、それは結局、運動論や思考の基礎からして、おそらく本当のバイセクシャルプライドのアピールにはなってないのです。バイセクシャルリブとしての行動や発言の「文法」がどこかで本質的に違っていると言い換えてもいいでしょう。いわゆる市民運動と、性的少数者のリベレーション活動やプライド活動は似ているところもありますが、違うところも厳然としてあります。日比野さんの場合は本人も含めてその違いや混同した取替えにこれまで気付いてなかった、または違ってることが今まで周囲にバレていなかった、ということなのではありませんか。

     以上のことは、これまでのこのブログの議論の経緯が簡単に証明していると思います。
     (私には本当にnyunnyuiさんという方がバイその他のサイドの方なのかは分りませんが)、このおそらく「一般に近い」彼女の言葉が全てを表していると思います。

     >日比野一派と思われたくないから黙っているだけです。

     最後にあと一つ質問をさせて下さい。

     日比野さんが「一番大きな多数派=抑圧者」のへテロ~ヘテロ社会と戦うよりも、常に「ゲイとレズビアン」との戦いを優先させているのはなぜですか?

     この質問も出来れば15行以内程度で答えていただけると有り難いです。
     これも日比野さんはいろんな「業績」を持ち出して違うと言うかもしれませんが、誰の目から見ても、日比野さんの情念とエネルギーの使われ方は偏ってます(ブログコメントを4ページ使った論争の中で語られているのは「特権階級者」のゲイへの非難と恨み言ばかりで他のビジョンは示されていないようです)。

     「仮想敵」をいつも「身近の小さな多数派」であるゲイとレズビアンに設定する日比野さんは、本当にクィアな人々(全ての多様なセクシャルマイノリティー)の解放を目指す者なのですか?
     非常に小さな専門分野担当の職業的権益クレーマーにしか見えないのですが。(クレーマーが悪いとも言い切れませんが、問題は日比野さんにその自覚があるのかないのか、という点です)。

     以上で質問は終わりましたが、もう一つ。
     日比野さんの以下の発言について。

     > パレードについていろいろな意見を持つ人がいるのは、当たり前のことです。そして私の質問や意見表明は、平和的で礼儀にかなったやり方で行われています。にもかかわらず、直接批判をされた訳ですらない人達が、(中略) 人格非難をし、「あらためて向き合おうという気にならない」と対話の拒否を公然と言い切ることができてしまうことが可能になるのか、その鈍感さや傲慢(ごうまん)さが何に由来しているのかを、考え直して頂けませんか?

     それは単純に、日比野さんの示す意見内容に、論理の整合性と、他人への説得力が無い所為だと思います…。
     ネット上の発言や対話で、提示される理論内容と発言者の手腕が問われるのは当然のことです…。

     それに、直接パレード運営に参加していない者の意見も取り入れるべき、と主張する日比野さんが、直接面識の無い相手からの少々厳しい批判反論を恨みがましく愚痴るのは少し奇妙ですね。こういう部分のように、日比野さんの文章には理屈の不整合が非常に多いのです。

     >その批判が筋違いだと思えば正面から反論すればいいのであって、反論できない時に「意見の違いを認めて」と言うことは、間違いを開き直っていると言われても 仕方がありません。

     全てその通りです。

  11. 青山直樹のアバター
    青山直樹

    わたしはバイですが、あなたのおっしゃっていることにまったく賛同できません。毎回ゲイ&レズビアンパレードに
    参加していますが、特段差別された、という意識もないですし、言葉の定義上、男性のバイはゲイという言葉に、
    女性のバイはレズという言葉に、広義では集約されていると思います。それは、男という言葉に、ヘテロとゲイが含まれる
    場合があるのと同様に、です。
    おそらくあなたが、では、なぜ男パレードではなく、ゲイパレードなのか、そしてまた、ゲイというアイデンティティ
    を確立させるために、このようなパレードが存在するのか、レインボーパレードという名称への変更を求める日比野さん
    自身の活動と何が違うのか、というテーマが生じますが、わたしはそもそも問題とは考えません。
    なぜなら、ゲイパレードは、男パレードというものが仮にあったとして、それを批判する趣旨ではないからです。まさに、
    男という言葉はゲイもバイも含むからです。(性同一障害の方は、自分が女だと思うならば、女という言葉に統括される
    でしょう)
    そこで、あえて別にゲイパレードを行うのは、ゲイ・レズというアイデンティファイを行いたい人々がいて、PRを
    したいからです。他の批判ではなく、他を認めつつ、自分の主張を行う大人の態度です。もちろん、ゲイ内部にも批判の
    声はあります。しかし、いやな人は参加しなければよいし、その人たちだけで、別なパレードだってひらけます。
    日比野さんの論旨だと、電車の女性専用車両だって致命的な差別になると思います。ヘテロもゲイも、バイも、差別がある
    のが世の中ですし、差によって区別する、というのは必要なことです。ネガティブに差別という言葉や概念をうけとめて
    はいけません。過剰にそういった概念を持たれることは、同じバイとしても、いえ同じ人間として遺憾です。
    個人的な偏執によって、バイの意見を代表されるような発言をなされるのは迷惑ですし、内心やめていただきたいのです。
    が、残念ながら発言は自由の国ですし、それはそれでよいでしょう。ただ、日比野さん個人の問題や価値観、ご意見をバイ全

    体の
    もののように発言なさることは、まさにそのこと自体が多層で構成される他のバイへの蔑視・差別ですし、多くのバイは
    必ずしも日比野さんと同じ価値観を有してはいないでしょう。だって、わたし何も差別されてると感じてませんもん。多少
    あったとしても、ゲイの方と共有、あるいは包括していただける問題ですし、ヘテロだって、さまざまな差別、というものは

    先の
    女性車両の件にしても受けています。許容できるものか、できないものか、という程度の差によって、問題ある差別か、社会

    的に
    妥当性のある差別か、という区分にわけることは必要ではないでしょうか。日比野さんの主張は、いろんなレベルのものを
    ミソくそ一緒にしているように感じざるをえません。
    日比野さんの主張は、結局、ゲイ・レズという言葉の意味をどのようにとらえるか、という議論に集約されると思います。
    ゲイという言葉は、決して100%、男だけしか愛さない男、を意味するのではなく、50%男、50%女を愛する男も、
    !00%男、100%女を愛する男も、10%男、90%女を愛する男も、全て意味として含まれていると思います。
    であれば、バイが阻害されているという感情は、日比野さんの個人的な受け取り方の問題になってしまわないでしょうか。
    レインボーパレードにしてもよいけれど、別にいまのままでよい、ということになると思います。
    以上、長文失礼いたしました。

  12. ひびの まことのアバター

    M-タクさん
     こんにちは。
     それではとびきり短くいきます!
     わたしは、M-タクさんの言い方でいうなら「『性的少数者』のパレード」の実現を主体的に担うために、東京の「レズビアン&ゲイ・パレード」の問題点を指摘したり、実際に実行委員会に意見を届けたりしています。またコミュニティーの中でも実際に議論をし、わたしのサイトで様々に意見交換をしたりもしています。
     そうやって、特に一部のゲイにある鈍感な考えを改めてもらい、コミュニティーの意見分布を変えるために行動するという方法で、同性愛者だけを特権的に扱わないパレードの実現のためには必要不可欠な作業を、いま実際に、主体的かつ具体的に担っています。

  13. ひびの まことのアバター

    masatomoさん、コメント10番へのお返事

    masatomoさん、お願いですから文章をちゃんと読んで下さい。
    例えば第1行目

    日比野さんは、「数が多いモノは常に意識無意識の抑圧者であり

    わたしは【(その4)コメント2】で既にこう明記しています。
    ●「マイノリティー/マジョリティー」の問題は、人数の問題ではなく、社会的な力関係の問題です。

    しかしそうした数字の理論を出発点とする以上、集団の数字の「差」というものはかならずいつまでも存在しますよ。バイも必ず「何か」よりは多数派になりますし、その「何か」も「更に別の何か」よりは多数派になります。その事実は日比野さんの頭に入ってますか?日比野さんはこうした現実をどういう理論を使って解決するビジョンをお持ちなのでしょうか?

    (1)繰り返しますが、「数字の理論を出発点とする以上」というのは事実に反します。数字は関係はありますが、数字だけを根拠にしているのではありません。

    (2)「バイセクシュアル」が多数派側になる事例(抑圧側の言葉になる事例)としては、まず「バイ」という言葉が「2」を意味することから、そもそもその言葉自体が性別二元主義を強化することに加担する危険性があります。同様の問題は「同性愛者」「異性愛者」にもありますが、「レズビアン&ゲイ」がコミュニティー内でマジョリティーであるということすらもめるような状況ですので、特にここの一連の流れでは触れていません。
     もう少し議論の前提が共有されているところでは、こういった話も既に展開しています。
    例:
    ●「バイセクシュアルマーチ」だったら? のわたしの記事の末尾
     http://weblog.barairo.net/index.php?id=1124524610
    ●【米国便り15-2】バイコンの基調講演(日本語訳)
     http://barairo.net/UStour2004/archives/000041.html

     さらに、性愛強制という観点からは「バイセクシュアル」(並びに「レズビアン&ゲイ」「異性愛者」)は「Aセクシュアル」に対してマジョリティーの位置にいます。また、トランスジェンダーでないということは、トランスジェンダーに対してマジョリティーの位置にいます(参照:トランスジェンダーが提起する問題とは何か http://barairo.net/special/transgender/)。

     更に、永易さんの時にも書いたことを「バイセクシュアル」で言い直しますと、例えば国籍や民族、障害の有無、学歴などを考えれば、例えば「バイセクシュアル」の中にもマジョリティー/マイノリティーの力関係があります。日本国籍を持つ「バイセクシュアル」は、日本国籍を持たない「バイセクシュアル」に対して、日本国内では社会的に権力を持った側にいます。

    あるいは、もし「少数者」が他の存在を侵害するような理の通っていない主張を始めた時、日比野さんはどうするのでしょうか。まさか解決法もないのに「少数者を常に大事にすることが大切だよね」と欺瞞を述べ続けているのではありませんか?

    わたしの意見は「それが筋が通っているかどうか」に拠っていますので、「他の存在を侵害するような理の通っていない主張」であれば、それは誰が言ったことでも関係なく、反論したり、無視したりするでしょう。

    そもそも、それ以前の大前提として、そういうふうに無限に縮小(または拡大)していっても、果てしなく相似構造でスライドしていく「解放理論」のおかしさには、ご自身では気が付いておられますか?

    これでは、なんのことはわかりません。ちゃんと説明して下さい。

    私ははっきり申し上げて、日比野さんが主張される理論構造内での「バイ差別」は、日比野さん自身のバックグラウンドである社会運動から派生したルーティンな幻想であり、平たく言えばただの被害妄想クレームであると考えています。

    そういった決めつけをされる根拠を示して下さい。
    わたしのように「直接的にはっきりと」ものを言う人は確かに少ないですが、少なくともレズビアン・ゲイのコミュニティーの内部において、「バイセクシュアル」が差別されている事自体は間違いないです。
    というかですね、「レズビアン&ゲイ・パレード」というネーミング自体が、既に分かりやすい「バイセクシュアル」への2級市民扱いです。私の方ははじめから具体例を挙げております。

    ゲイ・ビアン業界の中におけるバイセクシャル独自の葛藤、悩み、抑圧感、不安定感は本当に実在しているでしょう。しかし、それが日比野さんが持論で応用するような、「少数者や弱者であるほど利権を要求してもいい論」とは全く別物だと私は今後は考えたいです。そもそも多数のバイセクシャルの男女は、こういう自尊心を捻じ曲げるような卑屈な『弱者の理論』を武器に、ゲイ・レズビアン社会や一般の社会と戦いたいと思っているのでしょうか。

    ●わたしは一度も「利権」の話はしておりません。「権利」の話はしていますが。
    ●ゲイのほとんどが異性愛社会に対して特に公然と異論の声を挙げていないのと同様に、「バイセクシュアル」の人の多くは、特に公然と異論の声を挙げていないのだとわたしは理解しています。

    日比野さんのそうした理論の基礎や骨格は、(中略)、おそらく本当のバイセクシャルプライドのアピールにはなってないのです。バイセクシャルリブとしての行動や発言の「文法」がどこかで本質的に違っていると言い換えてもいいでしょう。

    ●「バイセクシュアル」の運動をする人の中にも、さまざまな路線があります。masatomoさんが「バイセクシュアル」の運動(最大広義)を自分の位置から担うと名乗りを上げられるのであれば路線についての議論を是非したいとは思いますが、もしそうでないとするなら、この一文は「余計なお世話です」と言っておきましょう。

     >日比野一派と思われたくないから黙っているだけです。

     白黒をはっきりさせ、マジョリティーにきっちり責任をとらせるような行動様式は日本では必ず浮きますし、いわゆるマイノリティー当事者の中でもそういうことをする人は少ないです。そういう意味ではわたしのやっていることは一般的なやり方ではありませんし、「日比野一派と思われたくない」人がいるのは、当たり前のことです。
     【(その1)コメント9】でも以下のように書いています。

    >別に私は「バイセクシュアル」の代表でもありませ
    >んし、私とは違う意見の「バイセクシュアル」の人
    >がいるのも、当然です。ゲイの中にも間違った意見
    >を言うゲイもいますし、「バイセクシュアル」だっ
    >て同じです。マイノリティー当事者だからといって、
    >必ずしも正当なことを言うとは限りません。
    >つまり「主張の正当性」は、その人の属性ではなく、
    >その主張の内容に依拠すると私は思います。

     それになにより、nyunnyuiさんの意見の中心は、わたしの主張に対する批判ではなく、ゲイの鈍感さへの批判です。ちゃんと文章を読んでください。

    >ゲイの鈍感さには本当に頭が下がります。
    >ゲイレズ以外のセクシュアリティのパレードボラン
    >ティアの人がどんな思いでいるのかを察したら、胸
    >がきゅんと痛みます。
    【(その2)コメント8】

     日比野さんが「一番大きな多数派=抑圧者」のへテロ~ヘテロ社会と戦うよりも、常に「ゲイとレズビアン」との戦いを優先させているのはなぜですか?(中略)誰の目から見ても、日比野さんの情念とエネルギーの使われ方は偏ってます(ブログコメントを4ページ使った論争の中で語られているのは「特権階級者」のゲイへの非難と恨み言ばかりで他のビジョンは示されていないようです)。

     この一連の議論は、「レズビアン&ゲイ・パレード」という名前をめぐるものです。ですので、コミュニティー内の同性愛者中心主義が主たる論点になっています。というだけのことなんですが。
     これは改めて書けるといいかなとは思っているのですが、わたしは、これからのクイアの運動やその他の社会運動が広がっていって、本当に社会を変えるためには、これまでの運動の体質を変える必要があると考えています。まず運動内部の「一致団結型」を完全に放棄し、運動内部における異論の提示がもっと自由になることが必要です。それから、単一の視点からだけ差別や社会を考えるのではなく、常に複数のアプローチを努力することが必要だと思っています。言い換えると、マイノリティーとしての権利を主張すると同時にマジョリティーとしての責任も引き受ける、というようなことです。運動の内部にもある差別に目をつぶらないことが、致命的に重要になります。
     このあたりの話に近いことは、以下を参照下さい。

    ●私はテロリスト a.______ 。
    http://barairo.net/works/TEXT/terolist/
    ●たとえそこがどこであっても
    http://barairo.net/works/TEXT/Wherever/Wherever-j.html

    それに、直接パレード運営に参加していない者の意見も取り入れるべき、と主張する日比野さんが、直接面識の無い相手からの少々厳しい批判反論を恨みがましく愚痴るのは少し奇妙ですね。こういう部分のように、日比野さんの文章には理屈の不整合が非常に多いのです。

    「直接パレード運営に参加していない者の意見も(その内容が正当であれば)取り入れるべき」というのは、ごく当たり前の誰でも同意できる意見です。そういうわたしの主張と、「さんざんにごねたあげくに足を引っ張って、あまつさえつぶして回るだけ」という事実に反するレッテル貼りや、「あらためて向き合おうという気にならない」という傲慢(ごうまん)な書き込みとを同列に扱い、そのあげく「日比野さんの文章には理屈の不整合が非常に多い」と結論されるのでは、masatomoさんは単にひびのの悪口を言うために書き込みをしているようにしか思えないのですが。

  14. ひびの まことのアバター

    皆さま、いろいろとコメントありがとうございます。
    長くなってきたので、(その5)をつくります。
    青山さんへのレスも、そちらに書きこみます:lol:
    (その5)http://barairo.net/works/index.php?p=56