強い者が勝つ。勝った者は正しい。
--これが世界の歴史であった。
正史−−教科書に書かれた歴史はみごとに首尾一貫している。強い者が勝つ。この当然の力学が説明されるために、数字がならべたてられ、条文や宣言が熱心に盛りこまれる。感情移入を排除したかのとく見せかける技術がフル回転せられ、無味乾燥な体をなす歴史記述の中で、単純な力学はいつのまにかねばねばした法則にすりかわる。勝った者は正しい。 これが今日、歴史体系といわれているものであり、近代以降、この体系の内奥にはつねに巧妙な倫理主義か秘められているのである.正史の編纂者とはまさにこういう歴史体系のたゆまざる創造者であり補足修正の技術者にほかならない。彼らの努力によって、人は、俗にいう歴史--正史を読めば読むほど、力学の縦軸、倫理主義の横軸によって固定化された一つの座標軸の中での発想を余儀なくされる。この座標軸から自由になろうとすれば容赦なき報復が待ち受けているという恫喝が伏文字として機能しているからだ。呪縛。これが正史の出発から究極までの一貫した狙いである。 (「叛アメリカ史」豊浦志朗/ちくま文庫)

 先住民族に対する虐殺・抹殺の方針は、なにも北アメリカ・ラテンアメリカに限ったことではありません。また、決して過去の出来事でもありません。

 日本政府は未だに「日本は単一民族国家である。日本国内に少数民族は存在しない」という立場をとっています。また、アイヌの聖地であり、現存する数少ないアイヌ部落密集地であった「二風谷」は、昨年、わざわざ不必要なダムのために川底に沈められてしまいました。(現在、北海道で裁判係争中。)「初めからなにもなかった」ことにしてしまうという抹殺方針は、世界中に共通しています。

 私は、現在の日本政府の方針の多くに賛成しません。「旧土人保護法」や「外国人登録済証の常時携帯義務」「外登法」などは直ちに廃止するべきであり、また、日本の単一民族国家幻想の要の一つである天皇制も完全に廃止するべきだと考えています。しかし「私が日本人だから」という理由で日本政府の政策に責任を負う意志はありません。それは、逆の立場から、日本の「国民国家」「民主主義国家」幻想を強化することになると思うからです。わたしは、「私が日本人である」ということ以前の問題として、私が日本人であろうとなかろうと、「おかしいものは、おかしい」という当たり前のことを実現するよう、私の友人達との相互関係の中でできる範囲で何かしていきたいと考えています。  とはいえ、私の生活の中や周りに蔓延している「みんな同じ日本人」幻想にはほとほと困惑します。私が「日本人である」とカムアウトしたわけでもないのに、また民族文化の話をちゃんとしたわけでもないのに、勝手に私のことを「日本人である」と決めつけて扱わないで下さい。この「にぶさ」は、人のことを勝手に異性愛者だと決めてかかり「男の人が相手なら女の話をすれば意気投合できる」などと信じているオヤジの鈍感さと全く同じですよ!

(日比野 真)

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アイヌ関連情報のリンク

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参考資料

 すべての人は混血である。または、すべての人はバイセクシュアルである−−これは、「すべてのクレタ島人は嘘つきであると、あるクレタ島人が言った」という言説のように、矛盾を含んでいる。すべての人が混血であるならば、そもそも純血など存在しないわけであり、純血がないところには、混血もまた存在しようがないからだ。
 しかし、それでもあえて、混血であることを引受ようとすることは、純血でない自分を受け入れること−−自分の中にある不純性、多元性、複合性、混沌性、外部との連続性、つまり無境界性を引き受けることだ。それが、何よりも純血性の神話を打ち破ることであり、純粋なアイデンティティという概念の上に巣くう差別を、虫食うことだ。「日本人」が「朝鮮人」を差別し、「男」が「女」を差別し、「白人」が「黒人」を差別する−−これはいかにして可能となってきたのか。それは、もともと純粋なものとして存在しえなかった、あるアイデンティティー−「日本人」「男」「白人」等−−を、武力・教育宗教も含めたあらゆる手段をつかって、政治的に収飲・強化させ、(同じくつくり出された)他のあるアイデンティティー−「朝鮮人」「女」「黒人」−−より、権力を持たせたことから始まる。自らのアイデンティティを、より優位で安定的なものにしようと、差別という方法が駆使されてきたのだ。
 例えば、アメリカ合衆国において、「黒人」とは誰のことか。決して、肌の色だけで分類することは不可能だ。「黒」と「白」の間には、無限のグラデーションがあり、一見「白人」としか見られないため、「白人」を装いパッシングする「黒人」もいる。一言でいってしまえば、「黒人」の定義など、あってないに等しい。一滴でも「黒人の血」が混じれぱ、その人は「黒人」と見なされる、というトートロジーがあり、その対極には、「黒人」ヘの差別と闘うために、「黒人」であることをカムアウトする政治的「自己申告」がある。そして、何者かが、(その人自身をも含めた)ある人々を、「黒人」と呼ぶ〔アイデンティファイする〕行為こそが、そこに何らかの権力の不平等を含んで/示唆している。
 誰が、何(誰)に向かって、誰を、何にアイデンティファイするのか−−これが、差別の発生においてとても重要な点である。アイデンティファイする権力を、いったい誰が行使するのか。私が何者であるかを決定するのは誰か。私をあるカテゴリーに分類したのは、いったい誰なのか。〃他者を一方的に分類・規定する〃という行為は、分類する側に「普遍」「権威」「正当」の位置を与えていき、そこに権力を握らせる。よって、〃他者を一方的に分類。規定する〃行為は、まぎれもなく差別行為である。「誰でも自分自身のことに気がつく以前に『われ』でないもの、他者がいるという根源的な体験をすでに持っている」とオルテガは言った。そして、人は、他者と自己との「不連続」を知ることで、他者の「残余」としての自己を発見すると、社会学では教えられた。ところが、そこには差別的な権力関係が巣くう、大きなクレバスがあった。「他者」の反対は、単に「自己」なのではなく、「普遍」だったのである。オリエンタリズムやプリミティヴィズムがそうであるように、他者に何者であるかのレッテルを貼る/名前を付ける行為、その行為から既に差別は始まっている。他者を分類し、名前を付けていくことで、自己に普遍の位置を与えることが可能となる。自己し普遍の位置を与えるためにこそ、次々と他者を生み出す、つまり〈他者化〉を再生産し続ける必要があったというわけだ。
(「アイデンティティーを越えて」鄭暎惠/岩波講座現代社会学15・差別と共生の社会学)

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