5:私の思い

●なぜ私がこの企画にこだわるのか

 よく考えて、私は思い出します。
 以前私が西部講堂(アングラ系の表現者たちが、自由な表現を実現するために占拠・自主管理していた建物)にいた時、何を考えていたか。  行政のやることなんか、絶対にかっこよくない。大企業や行政の枠組みでできることは、絶対に社会のマジョリティーにとって毒にも害にもならないことでしかない。かっこいい表現、自由な表現、ラディカルな表現、マジョリティーのあり方を「本当に」うつ表現、今の社会を「本当に」脅かす表現は、そういった場所からは「必ず」排除される。だから、もし表現をしたいのなら、「私たち」は闘うしかない。ほんとに自由な表現を求めるのであれば、イベントの会場を自分たちで奪取/創出することからはじめるしかない。覚悟せよ。そして闘え。

 ## えっと、本当に雑に説明すると、例えば火をふんだんに使う芝居をしようと思ったら、一般の芝居小屋ではできなかった。こういう時にでてくるのが「消防法の規制」。あと例えば、「天皇制に反対」「日の丸を燃やす」「東郷健の演説を芝居の中で使う」「寄せ場の日雇い労働者の運動を盛り込む」などといった「過激」な内容の芝居だったのもあり、一般の芝居小屋から排除されるから、自分たちでテントを担いで舞台をつくらないといけなくなる。で、実際、河川敷で勝手に芝居をやろうとしてテント立てたら、機動隊に囲まれ、そんな中で芝居をした、あとで逮捕者がたくさんでた、なんて話も以前はよく聞いた。また、パンクロックがでてきた時は、京都のライブハウスからは排除されてた。だからパンクの人たちは西部講堂に来るしかなかったらしい。 ##

 まぁ、こう書くと青臭いですし、確かに一面的です。今になって思えば、どんな世界にいても、やれることや、がんばれることもある。また、何をやったって所詮、帝国主義本国における現在のファシズム状況下でお遊びしていることにしかならないという側面もある。
 なんだけど、やっぱり思い出すの。「やっぱり私は、私の主張は、マジョリティー社会から『ちゃんと』はみ出しちゃってるなぁ」ってね。  だったらそんな企画、始めから気にしなければいいじゃん、とも思えるのですが、そこには実際の利害関係が絡んでいます。実害があるの。だから気になる。

●実害

 昨年のことです。パレスチナ関係で知り合ったある活動家と話をしていて、嫌な思いをしました。その活動家は、様々な人権問題についても総合的な取り組みをたくさんしている、その筋ではとても人望のある人です。レズビアン・ゲイの課題もおそらく考えたことがあるのでしょう。当然本を読んだりもしているのでしょう。もしかすると、有名なゲイやレズビアンの活動家を呼んで、講演会などを主催したことがあってもおかしくはありません。その人に、ある飲み会の席で、軽く「レズビアン・ゲイ・パレード」には問題がある、と言ったら、全く耳を傾けてもらえなかったのです。セクシュアルマイノリティの人権にも配慮しているという感じで、その人は、「レズビアン・ゲイ・パレード」がいかに大切か、私に説こうとしたのでした。
 そしてこういった現象は、実は珍しくないのです。目の前にいる私の話を聞こうとはしないくせに、有名人のゲイの活動家が書いた本に書いてあることや、著名な団体の講演会での発言などはうのみにする人が、なんて多いことか。「同性愛者」中心、男性中心にしたセクシュアリティー系のメジャー運動はこうやって力を付け、『社会的権力』の網の目が、こうやって私の周りにも張り巡らされつつあります。
 そういったコミュニティー内におけるマジョリティーたちの路線(具体的には、「同性愛者」を中心にし、また男性中心のあり方。「女」「男」といった性別そのものを決して問い直さない。)を精力的に批判してきた私からすると、これは、社会のウルトラマジョリティーが、コミュニティー内のマジョリティーと結託しているように見えるのです。
 一部のゲイの活動家たちは、自分たちの持っている特権を振り返るかわりに、社会のマジョリティと共犯関係を持とうとしているように、私には思えてなりません。コミュニティにおける様々な意見の違いと向き合って「私たち」の合意を形成するために努力することを放棄しています。そのかわり、ウルトラマジョリティにことさら「同性愛者の権利」を単純化して訴えます。分かりやすく単純化し、要するに嘘である部分があることが分かっていても、「マジョリティー向け」の雑な論理構成で説明してしまいます。そしてまた、社会の多数派も、こういった「分かりやすい」「単純な」言説を歓迎するのです。
 そして実際、「同性愛者」が世間の多数派や「リベラルな左翼活動家」に認められる存在になることで、今度はコミュニティにおける同性愛者の権力が強化されます。また逆に「リベラルな左翼活動家」や多数派は、人権を尊重するふりをして一部のゲイ活動家の発言を無責任に持ち上げ、とどのつまり隠れ蓑にすることで、自分がこれまで持っていた特権を手放さなくても済むのです。
 そういう、自分ではちゃんと考えるつもりのない、でも「反差別」とか言いたい、でも自分の特権は全く捨てる気のない、そういういい加減な「左翼」(実はほとんどがそう)にとってね、リバティ大阪の企画はいい判断材料になります。セクシュアルマイノリティー関連以外のテーマでは、リバティ大阪はとても良い企画をしているでしょ。だからこそ、そこで行われる企画は、内容を含め信用される。1つのスタンダードになると思うのです。ほっとくと、今度はこの企画展の打ち出し方や内容が、「性的少数者についての現時点でのそれなりに妥当な内容」だという誤解が広まりかねない。だから、困るのです。
 それからもう一つ。これも昨年、東京で、あるゲイ男性の活動家と話をしていて、「バイセクシュアルはセクシュアルマイノリティーではない」とか私に向かって平然と言う人がいました。あらら。なんとまぁ。
 それで、実はここ数年は「バイセクシュアル」って言う出し方はわざとしていなかったんだけど、それではまずいって判断を今はしています。なので、今年は「ひっぴぃ ♪♪スペシャル」でもハッキリと「バイセクシュアル」を肯定的に打ち出して、間違ったことを言っているゲイ男性の活動家の典型としての伏見憲明さんを名指しで批判することにしました。
 マイノリティー内のマジョリティーのやることを放置しておくと、実害があることが身に染みて分かってきたので、これはちゃんと公然と批判していかないと、と最近は思っているのです。

 だから、たかが私にパネルのスペースが与えられたからって、それくらいのことで喜んではいけないわけ。

 

6:今後の方針→

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