タイ旅行中は「私はしょせん旅行者。争っても無駄。お上のいうこと、多数派の意向に、従いますよ」という感じで、毎日を送っていたんですが、関西空港で飛行機を降りて税関で争っているときには、結構言葉が出てきました。「あなたがやろうとしていることは、日本国憲法に違反する」「私は、あなたの処分を違憲、違法だと考える」「そもそも、法律が間違っている。法改正しなければならない」「あなたは公務員なんだから、私の人権を制限する権利はない」などなど。旅行中の波風を立てない姿勢から、一気にいつものモードになったのでした。
もちろん日本語が通じるというのもあるけど、それだけではない感じ。何を思ったかというと、日本は私が生きる場所、何が正しいかを決める権利は公務員が持っているのではなく私が持っている。公務員は私(たち)の決めたことに従う「全体の奉仕者」なのであって、私の行動を制限するなんてお門違いも甚だしいってこと。これは「日本では私が主権者・有権者だ」っていう認識が大前提になっている訳。そして確かに、いくら私が無政府主義者だと言ったところで、選挙に参加しようと思えばできる位置に、私はいる。
在日朝鮮韓国人などの定住外国人は、仮にその人が日本で生まれ日本で育ち第一言語が日本語であっても、日本国籍を持たず、選挙での投票権も被投票権もない。地方参政権を求める動きはあるようだが、日本社会であまり熱心に取り上げられてはいない。(それに比して、海外にいる日本国籍保持者の投票権を守る法律はあっという間に成立した。)有権者になるということは日本政府の政策に形式上責任を持つ(持たされる)ことでもあるのは確かで、その意味で「勝手に選挙権を付与しないでくれ」という主張は分かる。でももう一方で、定住外国人から参政権を奪い続けることは、「あなたはお客さん、何も決める権利はないよ」と言い続けているのと同じ事だ、と、思い知らされた一日でもあったのでした。