ゲイフロント関西主催「いったいゲイってなんやねん97」において上演されたお芝居「帝国の落日」の公式パンフレットに寄稿した文章「帝国への夢」を掲載します。「帝国の落日」は社会の中で差別されているゲイたちが「ゲイの帝国」をつくるという内容の(おお、なんと乱雑なまとめ方!)お芝居でした。
(初出「帝国の落日」公式パンフレット 97年11月2日)
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帝國的落日 「帝国の落日」公式パンフレット
発 行:ゲイフロント関西 発行日:1997年11月2日 価 格:300円 |
帝国への夢
ヒッピー こと 日比野 真
帝国の落日………私はまず、現代史上の大きな帝国の1つであった大日本帝国のことについて書いてみたい。
近年のファシズム研究によって明らかにされたことの一つに、敗戦前の帝国主義の時代は必ずしも徹底的に抑圧された暗い時代と言うわけではなく、むしろ逆に少なからぬ数の帝国の民衆にとっては生きる希望を感じることのできた時代でもあったという事実がある。例えば「満蒙開拓青少年義勇軍」として満州に渡った8万人以上の少年たち。多くは零細農家や小作農の息子であった彼らは、現実に自分の生まれ育った村で食べていくことができなくなったものたちであった。それまでは単なる「ごくつぶし」でしかなかった彼らは、帝国の国策である満州への移民、大東亜共栄圏の確立という大任務、民族協和という理想などを自分のものにすることによって初めて、社会的に肯定された自分の生き方を見つけることができたという側面がある。また各地に数多く創られた「国防婦人会」。イエに囲い込まれ戸主の所有物として扱われた女性たちにとって、「主体的に」社会に出て活動をすることが「帝国のため」という理由であれば可能になったのだ。「この非常時に!」などといって中学生に説教する国防婦人会のおばさんはたしかに生き生きしていたという。実際、社会的に孤立し、人間扱いされず、ずっとないがしろにされてきた多くの人々、まさにそういう人たちによってこそ帝国は支えられていたのではないか。なぜなら、「帝国」はそこに同化しさえすれば、みな同じ日本人・帝国臣民として平等に扱ってくれる!仲間とともにするべきこともたくさんある!そう、「満州は帝国の生命線」なのだ。これは私の私的利害ではなく、みんなの、帝国のための闘いなんだ!!みんながんばろう!
こんな大日本帝国が、そこで必死に生き延びようとし自己実現をかけた民衆の1人1人こそが、朝鮮を占領し、中国で、フィリピンで、強姦し、強制連行し、強奪し、焼き払ってきたということを私たちは知っている。だからこそ、問題なのだ。帝国を「悪」であると簡単に決めつけてしまえば済む問題ではないからこそ。
大日本帝国だけではない。ナチスドイツの民衆はユダヤ人をスケープゴート(生け贄)にすることで自らの失業の憂さをはらそうとしてきたし、イギリスの失業者が生き延びるために創った新天地アメリカ合州国は、アメリカ先住民たちに対する侵略以外の何者でもなかった。そしてこれは何も「帝国」に限らない。世界中にあまたある「革命政権」による粛正・強制収容所を観よ。やむを得ない、では済まされない問題がここにはある。
だからこそ、今回のお芝居「帝国の落日」は、まず、「ゲイの帝国を創ってみたい」と思わず冗談であるとはいえ思ってしまいかねない人がいる状況下に私たちが生きている、という点からこそ観られるべきだと私は考えます。「ゲイの帝国」を避けるためにこそ、「ゲイリブにも不十分なところがあるからそれを何とかしよう」ではなく、いかにして今の状況を、男性優位を前提とした強制異性愛社会を変えていくのか、こそが「(1人1人が異なるセクシュアリティーを持つ)私たち」の間で考えられ、話し合われる必要があると私は思います。もしこの社会を変えるための試みを「男性同性愛者」だけに押しつけたままであるなら、あなたはいったいどういう立場から「ゲイの帝国」を批判することができるのでしょうか。
あなたはどんなビジョンを持つの?教えてください。
さて、私の正直な感想としては、「やっとここまで」「さて、これから」。
ここ数年間、私は私なりに「バイセクシュアル男性」としての主張をし続けてきました。それに対するゲイによる一つの回答がこのお芝居だと私は感じることができました。なんだかんだ言いながら、バイセクシュアルやトランスジェンダーのゲイコミュニティーからの排除が不当であると思うということを、ある程度はっきりとゲイが自分の方から表明するのは、ゲイ・フロント関西の中ではこのお芝居が始めてではないでしょうか。おもてだって非難はしないけれど、言及しないことで無視するという手口は、異性愛社会もコミュニティーも大して違いはありません。悪意があって排除しようとしているわけではないところまでそっくりです。私自身、バイセクシュアルの話をし続けていたらいつかゲイ・フロント関西を追い出されるのではないかという不安を払拭するのは非常に困難なことでした。個人的には私との関係を大切にしてくれる人はいても、サークルの意向としては「ゲイのサークルだからしかたない」と言われてしまえばそれまでです。私が主張したらバイセクシュアルの話が盛り込まれるということと、ゲイが自分で何かやろうというときに私が何も言わなくても始めからバイセクシュアルという言葉がおり込まれているということとの間には、1つの質的な転換があります。最近は私に対しても「男できた?」ではなく「男はできた?女はどう?」といってくれる人が増えてきたし、はじめてのサークル参加者に対しても自分で「ゲイだ」と言わない限りゲイだとは決めつけない、ちゃんといちいち本人に聞いてみるということがなされつつあるようです。これは簡単なように見えて、結構大変なことだということは、これだけゲイ(を始めとするセクシュアルマイノリティー)の存在が明らかになってきているのに、人のことを勝手に異性愛者であると決めてかかっているもの言いがちっとも無くならないということと同じです。だからこそ、やっとここまで!来れたのだ、と感慨深いものがあります。
さて、これからが本番です。私たちは皆同じゲイなんだ、とお気楽に信じていられる時代は終わりました。これからはもっともっと様々な1人1人の違いがどんどん明らかになって行くでしょう。私がちゃんとあなたの話を聞けるかどうか、が、シビヤに問われることになります。東京高裁の矢崎裁判長もアカーの府中裁判で「無関心であったり知識がないということは許されない」と述べています。話は何も同性愛だけには限らないのです。
ところで、実は今回の芝居は、運営会議に提案された2つの台本のうちの1つです。採用されなかった台本は障害者のゲイのお話でした。何か1つを行うということは、逆に言うと何かを行わないということでもあります。そして今回の「帝国の落日」にははっきりとした障害者は1人も出てきません。また、「帝国の落日」には女性がほとんど出てきません。さて、あなたはどう考えますか?
ゲイ・フロント関西ではともに活動する仲間を求めています。なお入会に際しては、性別・性的指向を一切問いません。来年はあなたと一緒にお芝居ができるかもしれませんね。
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