敗北宣言

この「敗北宣言」は1999年のレズビアン&ゲイ映画祭 in 関西京都会場(ウィングス京都)で配布したものです。映画祭実行委員会のあり方を問う内容になっています。
(「敗北宣言」 1999年7月31日)




変態左翼活動屋コミュニケ

敗北宣言

レズビアン&ゲイ映画祭 in 関西

(主催:QFF 1999年7月31日-8月1日)

京都会場(ウィングス京都)

にて、


変態左翼活動屋の名前で

配布しました。

以降いくつかの場で配布したため複数のバージョンがありますが、ここには初版を掲載します。

説明(2000年8月7日)

この「敗北宣言」は1999年のレズビアン&ゲイ映画祭 in 関西の京都会場(ウィングス京都)で配布したものです。しかし、それ以降本日(2000年7月5日)まで、QFFから私に対しては、何のコンタクトも反応もありません。(QFFに参加する1人の個人からの個人文責のメールはいただきましたが、この件に関しては組織としての公式な意志表明でない限り受け入れられない旨をすでにお返事してあります。またその後たまたまお話しする機会があったQFFのメンバーには、このことを丁寧に説明済です。)私は、QFFとしての、つまり映画祭という公的な企画を主催する組織としてのQFF(なにしろQFFは対外的にはNPOを名乗っているのですから、組織としての意志決定の機構を持っている公的な団体であるはずなのです)としての態度表明が必要だと考えていますが、そういったことは一切なされていません。残念なことです。
しかし実は私の批判をきっかけに、QFFホームページからは「QFFが『あーすけ(日比野注・「アートスケープ」のこと)』コミュニティに存在することに変わりはありません。」という記述は現在は削除されています。また、「アートスケープ事務局通信」にも、QFF関連の情報は現在は掲載されていません。直ちになされるべきことが、私の批判を受けてやっとなされたに過ぎません。当然のことです。
しかしそのことについても、実はQFFから私に対しては、何の報告連絡もされていません。問題は何ら解決していません。QFFに対する具体的な批判者であった私には何のレスポンスも返してきておらず、QFFは過去に自分達が行ってきた過ちに対して何の反省も、謝罪も、していないからです。それどころか、昨年はわたし宛に依頼してきたブース出典の以来も今年は全くなされず、批判者である私から完全に逃亡する方針を取っているようです。
自己に対する批判にまともに応えず、批判者と向き合う努力さえせず、批判を無視して自分の好きなことだけをするというQFFの行動の様式は、まさに「私たち」が、異性愛社会のマジョリティーの暴力として批判してきたあり方に他なりません。残念ながら、現在のQFFは、「レズビアン&ゲイ映画祭」という看板を利用して、マジョリティー権力者としての暴力を確信犯で振るう団体であると判断せざるを得ません。恥を知るべきです。

(2000年8月7日  日比野 真)

(注:このページに言う「QFF」は、2005年現在に存在する「関西QueerFilmFestival」のことではありません。お間違いなきよう)

変態左翼活動屋コミュニケ

敗北宣言


日比野はいったい何に敗北しているのか?

——–「ファシズムに抵抗するということは、日々の生活をともにする
最も身近な隣人たちに抵抗するということでさえあるのだ。」
(池田浩士「抵抗者たち」より)

多数派であるという事は、楽ができるということ。自分の考えていることをわざわざ言葉にするためにエネルギーを使わなくても良いし、一緒に笑ってくれる人、「そうそう!」と話の合う人を簡単に見つけることができるということだ。
残念ながら、いまだに、私の考えていることや感じ方は、多くの仲間を獲得することはできていない。私が私の考えや感じたことを人と共有するためには、まだまだ膨大な言葉と時間と、そしてエネルギーと愛が必要なようだ。そしてそれは、たった今ここで多数決をとれば事実として私が少数派であるということを意味する。それはすなわち、今この場においては私にとって当たり前のことが通用せず、場合によっては沈黙を強いられ、力を奪われ、排除され、暴力を振るわれ、そして結果的に敗北を強いられかねないということに他ならない。だからこそ、私は考える。私はいったい、何に対して、敗北しているのか?

見かけが女性に見えるというだけで実際に物理的な暴力が振るわれ、なめて掛かられることが少なくない現実を見てみぬ振りをし、せっかく声を上げても無視し続けている人たちが私の周りにもまだまだたくさんいる、そんな現実の中で私がのほほんと生きていられることか? それとも、私のバイト先でいまだに女子の雇用を拒否していることを問題化する労働組合を組織できていないことか?
同性を好きになる人がどういう状況におかれるのか、これだけ色々表現したにも関わらずいまだに知ろうとも考えようともしない人たちを許している私の運動の不十分さか?
一部のゲイやレズビアンが自分たち「だけ」をマイノリティーだと信じ込み、自分が権力を持った多数派としての側面を持っていることについて考えさせるだけの表現をわたしができていないことか? まだまだ孤立しているレズビアン・ゲイ・バイセクシュアルなどの性的少数者が各地にたくさんいるということを忘れ、たかだか、自分がかつていた大学で「性的指向による不当な差別や人権侵害のない環境を作ってゆかねばなりません」と当局側のセクハラ防止パンフレットに記載されたこと(**注1)で状況が良くなったと喜んでいることか。「同性愛者として」カムアウトした人の発言を鵜呑みにして分かったつもりになっている(**注2)、自分の頭で考えることを放棄している自称リベラル派に対して、その思考の枠組みを壊すだけの表現を日比野ができていないことか。ゲイコミュニティーにおいて、「バイセクシュアル」の存在がまだなかなか正当に認識されておらず、性別の在り方自体を問題にしていこうという私の主張が大多数の理解を得られるには至っていないということか。(**注3)
5%の消費税を始め各種税金の支払いを拒否しないことで現在の日本政府を財政的に支え、米軍のイラク空爆の戦費や自衛隊の海外派兵の費用を日比野が負担し続けていることか。
各種申込書にある性別欄について、いちいち性別欄の存在の不当性を説明することを面度臭がって安易に「男性」に○を付けている日比野の日和見のことか。それとも、トイレや銭湯に入るとき、それが「男女別」に分けられていることについてその設置者に対して抗議をしたりせず、何の問題もないかのように当たり前のように男子トイレや男湯に入る私の生活の在り方か(**注4)
各種公的書類の申込書を書くとき、日付や生年月日の記入欄の元号(平成・昭和、など)を二重線で消して「1999年」などと西暦でいつも記入する(**注5)だけで何か闘っているような気になり、天皇制と元号制度の廃止や国旗国歌の制定を阻止する運動をつくるために時間をまるで使っていないということか?
性労働者(セックスワーカー)が「公序良俗」を口実に国家権力によって逮捕され拘禁され、また性的な暴力を受けていること(**注6)に対して、無関心でいられる「善意の多数派」に対して有効な働きかけを私ができていないことか。それとも私が性労働の合法化のために運動を組織しようとしないことか。
私が過去に何回も何回も自分の思いを伝え語りかけたにも関わらず、それを無視し、私の問いには決して応答しようせず、それどころかたまたま会ったときには笑顔で接しようとする人たち、決して私と向き合おうとせず自分の都合のいいところだけ私から奪っていこうとする人たちに対して、私が疲れてしまい、私が語りかけることをやめてしまったことか?
南アフリカでウラン採掘の際に被爆している銅山労働者や、敦賀原発の補修のために被爆労働を強いられている下請けの下請けの日雇い労働者が、毎日大量の放射能を浴びて体を壊し続けている。そういう人たちの命と健康を札束で買いたたいて発電された電気を大量に使用したクーラーの効いた部屋で私がこのビラをつくっていることか。
「社会運動にもいろんな在り方があるはずだ」という言い訳で、自分のつくっている運動団体(その実際は、単なる自分たちの仲良しグループ)が権力を獲得することと、社会的な権力関係や差別を改めていくこととを(無自覚に)混同している「誤ったファシズム運動」に対抗する運動を組織できていないことか。(**注7)
いくら髪を色で染めて「日本人に見えない」いでたちをしていたとしても、私は日本国籍を持っているので、外国人登録証を持っていないといって罪にされてしまうこともないし、警官の嫌がらせの職務質問で時間を無駄にさせられることもない。私の今住んでいる家の上を米軍機が毎時間通過してうるさい思いをすることもないし、親や家族が持っている文化や習慣が「見せ物」として展示され、「研究」「収集」される目にも遭わないで済んできた。日本国籍を持つ本土に住む日本人としての特権をフルに活用して、楽をして暮らしているという事か?
物事を特に「勝ちか負けか」で考える習慣から脱し切れていないことか。

「アートスケープの活動の延長線上にQFFは誕生した」という旨の事実に反する歴史認識をオリエンテーションパンフレットに掲載して誤った認識を広めようとしている(**注8)、現在のQFFの在り方を改めさせるためのエネルギーを使うことを無駄だと感じてしまったことか? 映画祭パンフレットのスタッフおよび協力者リストの名前表示は「ローマ字表記」で行うことが東京のパンフレット作成者によって一貫して強いられてきた。この、名前の自己決定権を奪う強権的な行為と、それに何の違和感も感じないQFFスタッフをちゃんと批判して態度を改めさせることがいまだにできていない私の非力さのことか。(**注9)「レズビアン・ゲイ映画祭」という「みんなのお祭り」という趣旨のイベント名をもつ企画を主催するQFFが、公的団体としての体をなしておらず一部の古参メンバーが私物化するのを端でみながら許してしまっている私の在り方か? (**注12)

私はまぎれもない多数派だ。トイレが男女別になっていても生活には困らない。空爆で殺されるのは私ではなくイラクの住民だ。「男だ」という理由で解雇されることはないし、自分の仕事を理由に警察に逮捕されることもない。自分は被爆しないでビラが書けるし、好きな同性がいるとばれたからって、もう何も動揺しない。闘わないでいられるし、知らないでもいられる。見て見ぬ振りをしていても、何も困らない。そして実際、ほとんど何もしていない。アリバイのようにビラに数行書くだけで何か運動や表現しているように見えるとしたら、それはいかに現実がお粗末なのか、いかにほとんどの人がマジョリティーとして開き直って何もせず、権力者として安寧と暮らしているかを現わしているのに過ぎない。
そして、私はいまだに少数派だ。日本社会においても、レズビアン・ゲイのコミュニティーにおいても、バイト先においても、京都のセクシュアリティー関連のネットワーク中でも、男社会の中においても、女社会の中においても、そして今ここ「レズビアン・ゲイ映画祭」の会場においても。「大したことはない」とほとんどの人が感じるようなこと、多くの人が「仕方がない」「やむを得ない」といって諦めたり投げたり、つまりは無視して考えないでいようとしていることをしつこく言い続けるから。その場にいるほとんどの人たちにとっては考えたくない、その場を支える前提になっていることに、注意を向けようとするから。その場の中に、実は不当な権力関係が潜んでいることをはっきりさせ、多数派に多数派としての責任をとらせようとするから。
でも、思い出して欲しい。同性愛の話は「とるに足らないこと」と言われ続けてこなかったか? 女性が被る性暴力は「ささいなこと」とされていつも後回しにされてこなかったか? 安易に「彼女/彼氏できた?」「いつ結婚するの?」という話題で盛り上がってる場所で丁寧に自分の話をすることがどれだけ大変だったか?
諦めてはならない。いくらそれが「ささいなこと」であったとしても、あなたは自分の感じたことや気持ちを絶対に放棄してはならない。そして、表に出て、表現しよう。まだまだ、今ならできることがある。今からだって遅くはない!

もう既にファシズムは始まっている。今を生きる一人一人が、自分自身で闘うことができるか? 国家や、社会や、会社や、世間や、そしてあなたが参加するグループのなかで、あなたは自分を表現しているか? その場の多数派に対して、ちゃんと異議申し立てをすることができるか? 親や兄弟姉妹、先輩や恩師、友人や恋人に対して、「仕方がない」で済ますのではなく、ちゃんと「NO!」を言って批判することができるのか? あなたはあなたの隣人に対して、今ここで、抵抗できるのか?

「少数派であること」が敗北なのではない。「多数決で負けること」が敗北なのではない。少数派が自己を裏切って闘うことを放棄したとき、自分にできる精いっぱいのことをしなかったとき、それが私にとっての敗北だ。そしてまた、多数派が、せめて少なくとも自分が直接行使している権力に責任を持つことから逃げたら、それは自分自身に対する敗北だ。

とはいえねえ、時間も限られてるし、全部はできないんだけどね。その意味で、「上手に敗北する」コツも見つけないとこの先やっていけそうもないみたい。
ということで、焦らず着実に、どんなにつらくても諦めずに、できれば共に、無理せず楽しく闘かわん!


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