95年11月26日に行われたプロジェクトPの企画である「レズビアン・トレビアン・笹野みちる」には400人以上の参加があり、会場との質疑応答も大変充実したものとなった。この文章は、当日の参加者に配布したパンフレットに書いたもの。笹野さんを含め、出演者・プロジェクトPのメンバーなどがそれぞれ自分の思いを書いたうちの一つです。
(「レズビアン・トレビアン・笹野みちる」企画当日パンフレット 1995年11月26日)
不一致の実り豊かさを認めよう!
ヒッピーこと日比野真
(「レズビアン・トレビアン・笹野みちる」企画当日パンフレット)
レズビアンはもちろんのこと、男性に依存せずに生きている異性愛の女性にも、「レズビアン」という罵倒の言葉が投げつけられる。女から女を引き離すために。この言葉がもたされているタプー性が、「女と女」の関係が深化することそのものへの恐怖を女性に思いださせる。女性はこの「レズビアン」というタブーゆえに「女と女」の関係をおそれ、自分が抱えている恐怖もふくめて、ほかの女性との間につくられようとしている関係の現実に直面することを避けようとする。(中略)「レズビアン」というラベルは、そのなかにいる女性だけでなく、女性との間になんらかの関係をつくりあげようとするすべての女性を縛っているのだから。
掛札悠子さんの『「レズビアン」である、ということ』(p.142)
男の場合でも「えっ、あんたらホモちゃう」みたいな言葉は、(同性愛者・異性愛者などセクシュアリティーを問わず)男同士の親密な関係・または抱き合ったりスキンシップをしたりすることなどに対する弾圧でもあるんだけど、男の間ではこういう風に問題にされることはぼくはあんまりしらない。やっぱり多くの男は男と仲良くなりたくないのかなあ?
ぼくは、ゲイやバイがヘテロ並みに社会的に認知されることこそが大事だとは思わない。
皆と同じでありたい・多数派として社会の中心にいたいという思いがふっ切れていないから、また自分が開き直っていない・少数派として開き直るのが怖いからといって、「同性愛を認めて欲しい!」と社会に、周りの人に媚びをうるのはやめよう。「名誉白人」になろうとするのではなく、ちゃんと制度や規範に闘いを挑もう。制度や規範に価値を置く考え方をバカにしよう。少数派や異端者、普通・ノーマルではない人はこの社会では損をさせられるということが事実だからといって、自分を多数派・正常・普通の側に身を置こうとするのはあまりに醜い。特に性の領域では、マイノリティーの枠組みは人の数ほどある。同性愛が「正常」とみなされるようになってもまた次のマイノリティーが創られるのは自明じゃない?逆に、コミュニティーにある多様性は人それぞれという考え方を(例えばセックスと言えばペニスのヴァギナへの挿入だと決めて掛かっている)へテロ社会に押し拡げていこう。「えっ、私は違うわ!」という一人一人の発言を大切にする作風を広めていこう。不一致の実り豊かさを認めよう!
だからこそ、闘おう。まず自分自身の成り上がり願望と。(「僕はあいつらと違ってまともなんだ」「立派な社会人として貢献している」……)そして自分のことにしか興味が無くなってしまう自分自身と。
男の場合、女の人や家族を扶養することが前提で社会制度が作られているため、職もあるし給料も高い。だから本人が開き直ってしまえば社会的にそれなりの位置をしめられるしとりあえずは何とかなる。しかし女の人の場合、男と結婚して扶養されるという生き方を選ばないとかなり大変。だから男が得して女が損する社会を変えることは、レズビアンにとっては必要なこと。これはゲイや・男のバイが自分の地位向上を訴える文脈からは絶対にでてこない問題。さて男はこれをどう受けとめる?
すでに性差の確実さが疑問に付されている。僕自身も自分のことを「バイセクシュアル(両性愛者)」と呼ぶことは、性的な対象についての多くの情報のうち相手の性差が重要である人たちの物差しにわざわざあわせた説明の仕方であるという点で、ゲイ・レズビアンやヘテロに媚びていて嫌だ。「性差こそが重要だ」という思いこみは、「相手が異性でないといけない」という思いこみと同じくらい、自分では相対化しにくいのでは?それに性差って何?性器があること?男らしい/女らしい声のこと?服装?それとも本人のジェンダーアイデンティティーのこと?誰がどうやって性別を決めるの?
ヘテロセクシズムの社会に対する異議申し立ては必要だ。そして、自分が精いっぱい頑張って獲得してきたセクシュアルアイデンティティーに閉じこもらずに、他者に対して自分を開いていくことも、それと同じくらい必要だと思います。
この企画を作る過程で、友達になるには性別もセクシュアリティーも関係ないのよ!っていうくらい元気なレズビアンに何人も出会えたのは楽しかった。これからもよろしく!
コメントを残す