1999年12月2日
大蔵大臣 宮沢喜一 様
(住所が変わったので記述を削除しました)
日比野 真(32歳)
私がタイ旅行中に街頭の一般書店で購入したゲイ雑誌(又は男性雑誌)である「MALE」の国内持ち込みを、1999年6月19日、関西空港税関によって不当にも実力阻止されました。この件について大阪税関長に対して1999年8月18日付で「厳重抗議・処分内容の確定と取り消し/謝罪の要求、および異議通告」を行いましたが、1999年11月5日付で不当にも棄却されました。ここに再度、以下の通り、責任者である貴職に対して厳重に抗議すると共に、まず処分の内容を明確に確定することを要求し、さらに処分の取り消しおよび謝罪を要求し、並びにそれに加えて審査請求を行います。内容に踏み込んだ誠実なお返事を強く希望いたします。
記
1:厳重抗議、処分内容の確定と取り消し、謝罪の要求、および審査請求されている税関当局による処分
1999年6月19日付で関西空港税関支署長宮崎徳好の名で行われた「輸入禁制品 わいせつ雑誌 MALE 1冊」に対する輸入禁止処分。該当通知書番号第N-033号。
2:上記1の税関当局による処分があったことを知った年月日
1999年6月19日
3:本書の趣旨
上記1の処分に厳重に抗議し、まず処分の内容を少なくとも下記4に示す3点について明確に確定することを要求します。そして、最後的にはその処分の取り消しを求めると共に、責任者による謝罪を要求するものです。
4:明確に確定されるべき処分の内容
ア:まず、貴職の「わいせつ」の定義を明らかにするよう求めます。また、「風俗を害する」とはいったいどういう意味であるかをお答え下さい。
イ:次に、ゲイ雑誌「MALE」の何頁のどの写真のどの範囲が貴職にとって「わいせつ」であり「風俗を害すべき物品と認められる」のかを、具体的に現物のコピーを添付して確定し、私に対して明らかにすることを要求します。
ウ:さらに、貴職がそれらを「わいせつ」「風俗を害すべき物品と認められる」と判断した理由を具体的にその一つ一つに即して説明することを要求します。
5:本書を送付した理由
別紙記載の通り。
6:処分庁の教示の有無及びその内容
「この決定を経た後の処分になお不服があるときは、この決定があったことを知った日の翌日から起算して1月以内に、大蔵大臣に対して審査請求をすることができます。」との記述が、1999年11月4日付大阪税関長花角和男名の決定書に記載されていました。
日比野 真
1999年11月4日付大阪税関長花角和男名の決定書は、私の提起している問題について完全に無視し、一切応えていません。決定書で花角税関長が引用している最高裁判決等については、そもそもその判決等こそが誤りであることを、私は1999年8月18日付の「厳重抗議・処分内容の確定と取り消し/謝罪の要求、および異議通告書」(以下「通告書」)において内容的に述べています。もし処分庁が、個別本件雑誌に関して、今日においても、旧来の最高裁判決等を根拠とした処分を行おうとするのであれば、私の主張ではなく最高裁判決等の方が今日においても正しいと判断した理由を明らかにする義務があります。後述されている内容の繰り返しになりますが、「わいせつ物が風俗を害する」という主張の意味がそもそも私には不明であり、かつ仮に「わいせつ物が風俗を害する」としてもそのことが悪いことだとは私は考えておりません。そのような趣旨の私の提起に対して過去の判決等を引用するだけでは何も応えていないのと同じです。
また、決定書には「本件雑誌には、男性の性器を鮮明に表現した写真が多数収録されており、わいせつ性を有するものと認められる」と書かれているだけで、何頁のどの写真のどの部分を「わいせつ」だと決めつけているのか、そういう写真は何カ所あるのか、個別になぜその写真が花角税関長の主張する「わいせつ物」「風俗を害すべき物品」に該当するのか、などが一切述べられていません。これでは、私はその処分に対して何も反論ができないも同じ事です。具体的な事例が示されて初めて、それがどういう内容のものであるか、税関の判断と処分は正しいのかどうか、などといった判断が可能になるのです。
また、花角税関長は、決定書の記3で税関検査が検閲ではないと強弁し、その根拠として最高裁判決を持ち出しています。しかしながら、これらの論理はまさに「普通人の正常な」感覚で考えるなら単なる詭弁であり、税関検査を合法化することを第一の目的として創り出された言い逃れの論理に他なりません。花角税関長は、恥を知り、悔い改めるべきです。
以上のように、大阪税関長花角和男名の決定書は私の「通告書」に何ら応えていません。よって、本書においても、「通告書」と同内容の理由を再度付して、「抗議・要求および審査請求」を行います。
以下は、「通告書」における「理由」であり、かつ本「抗議・要求および審査請求書」の理由にもなるものです。
輸入禁制品該当通知書においてはこの雑誌は「わいせつ雑誌」とされ、処分の理由として「風俗を害すべき物品と認められる」と書かれています。また当日責任担当官となった當銘直昭さん(大阪税関統括監視官)は「陰部が露出している」ということを問題点としてあげていました。
現在現物が手元にないので詳細は記憶に頼るしかありませんが、確かに「MALE」には、筋肉が美しい男の子とおぼしき人が、服を一切まとわずに股間を広げ、おちんちんと2つの金玉を見せていた写真が何枚も掲載されていたように思います。ちん毛が何色であったか、へそのあたりから逆三角形に生い茂っていたのかどうか、それとも体毛はうっすらとしか生えておらずすべすべお肌であったかどうか、ということは残念ながら記憶にありません。おちんちんが皮をどの程度かぶっていたか、おちんちんにほくろがあったかどうか、左右への曲がり具合がどの程度であったか、なども忘れてしまいました。もしかしたら、きれいなピンク色をしたケツの穴が毛の間から顔を出していたかもしれませんし、ケツ毛にはウンコがこびりついていたかもしれません。よく見たらそのおちんちんはコンピューターグラフィックであった可能性も否定できません。また、おちんちんを肛門の中に出し入れするアナルセックスの写真があったかもしれませんし、肛門に入れられていたものはおちんちんではなく右手の人差し指だったかも、バイブレーターや、ピンクや黒色のローターだったかもしれません。アナルセックスをしている人が恍惚の顔をしている写真や、顔をゆがめていた写真があったかもしれませんが、いずれにせよ、今それは私の手元にありませんので、私がその内容について詳しく検討することはできません。そして、そのどの部分をもって、なぜ、「わいせつ雑誌」「風俗を害する」と貴職が判断したのかは、全く明らかではありません。貴職は国家権力の暴力を背景にして雑誌「MALE」の所有者である私から同雑誌を強制的に取り上げて国内への持ち込みを禁止したのですから、その行政権力の行使の根拠を明らかにする義務があります。万が一貴職が本件違憲違法の処分を撤回せず、今後も私と争おうと考えるのであればなおさら、処分の内容を具体的かつ詳細に明確に確定し説明することが必要です。まず処分の内容の確定を要求した理由は以上の通りです。
さて、以下に、なぜ私が本件処分に厳重に抗議し、処分の撤回と責任者の謝罪を要求するのかを説明します。
今の日本の社会の中で、例えばおちんちんが露骨に写っている写真を見て嫌悪感を覚え動揺する人がいることは想像に難くありません。そしてそれらは「わいせつ物」であるというレッテルが貼られ、「性的秩序、最小限度の性道徳、健全な性風俗を維持・確保するため(東郷健さんが争った裁判での東京高検検事長・藤永幸治の主張)」にその流通を規制するのを当然とする考え方も存在します。何が「わいせつ」とされるかは時代によって変わるのも確かですが、ある時代において、一定の特定の物が社会的に「わいせつである」とみなされるという事実には変わりありません。しかし私は、一般に「わいせつ」だと言われているもの(例えば今の日本ではおちんちん・おまんこ・その他の性器を描写した無修正のポルノ。それは時代によって異なっている)を見ることは市民の基本的人権であり、またそのための出版物を所持し、発行し、販売し、贈与し、上映し又はその被写体となることも市民の基本的な権利だと考えています。その立場から、本件の処分は不当なものであると考え、異議を通告するに至りました。従って、私は、雑誌「MALE」がわいせつではないと主張する気はありませんし、「個人的に楽しむものであるから、販売はしないから」輸入禁止は不当であると主張するつもりもありません。私の主張の核心は、仮に社会的に「わいせつである」とされ、「公序良俗を乱す」とされるものであっても、市民はそれを見て、所持し、販売し、贈与し、上映し又はその被写体となる権利があると主張し、その流通を国家が規制すること自体の不当性を問題とするものです。仮に雑誌「MALE」が「わいせつ物」であり、かつ私がそれを販売目的で持ち込もうとしていても、私にはその権利がある、と私は主張します。
まず第一に重要なのは、「わいせつ物」が社会的に自由に流通すること(自由に鑑賞し、所持し、販売し、贈与し、上映しまたは被写体となること)は、それを見たくない人に強制的に見せたり、誰かに何らかの強制をするということとは異なるということです。被写体になりたい人が被写体となり、撮影したい人が撮影し、製本したい人が製本し、販売したい人が販売し、購入したい人が購入し、贈与したい人が贈与し、欲しい人がもらい、上映したい人が上映し、見たい人が見ているだけであって、作成から流通・消費のどの過程をとってみても、そこにはなんの強制も暴力もありません。つまり、「わいせつ物」には被害者がいないのです。ある写真等を「わいせつだ」と感じたり「見たくない、考えたくない」という人は、買わなければ、見なければ、流通に関わらなければいいだけのことです。あるものを見て「わいせつだ」と思ったり嫌悪感を感じるのはその人の価値観でしかありません。ある人にとっては嫌悪感をいだくものであっても、別の人にとっては「とってもわくわくするもの」であるかもしれません。それほどまでに多様な価値観が今の社会にあるという事を認めることが、まず大切です。自分が「わいせつだ」と思うものの流通を社会的に国家権力を背景にして禁止することは、それを見て「わくわくする」人の個人的な楽しみを、単にそれが多数派の価値観とは違うというだけで、奪う暴力行為です。大切なのは自分の価値観を他者に押しつけないことであって、自分の価値観に反するものを社会から排除したりしてはいけません。社会は、自分とは異なる価値観を持つ人と共に生きる場のことなのであって、自分とは異なる価値観の在り方を許さないことは、民主主義に反します。繰り返しますが、「わいせつ物」の社会的な流通は、誰かに何かを強いる暴力ではないのです。従って例え国家といえども、その存在や流通を規制する権利はありません。法的にも、そういった行為は憲法第21条の検閲に該当し、違憲です。
もし「わいせつ物」とレッテルを貼られている各種の出版物の作成から販売・消費の過程に何らかの強制や暴力があれば、それは性的な暴力やセクハラ、その他通常の刑法違反等に該当します。例えば、職場などで上司の年上の男性がアルバイトの若い女性に職場の力関係を背景にして無理矢理ポルノを(性器の露出の有無には関係なく)見せる行為などがセクハラにあたるのはそういう訳です。また本人の事前の同意のない写真撮影はプライバシー権を侵害する性的な暴力です。もちろん、裏ビデオとして販売することを目的にして強かんを行うこと等は許されるべきではありません。しかし残念ながら、今の日本ではこういった性的な暴力やセクハラ、強かんは重要な問題であるとあまり認識されておらず、私たちが生きる日常生活の中で、通勤電車の中で、教室で、家庭の中で、職場で、暴力が放置されているという現実があります。性的な暴力の被害者が加害者を告発してもセカンドレイプにさらされる危険性がまだまだ高く、現実には多くの被害者が裁判を諦めざるを得ません。もし「わいせつ物」の作成・販売・消費の過程になにか強制的・暴力的なものを感じるとすれば、それは日常生活において性的な暴力やセクハラが問題化されずに放置されていること、今の日本には強かん文化があるということを、「わいせつ物」の存在がきっかけとなって明らかにしてしまうからに他なりません。性的なものが「ないこと」にされている場所での方が矛盾は隠蔽しやすいのですから。残念ながら実際に今流通している性的な写真等のほとんどが性役割のステレオタイプにのっとっているのは事実です。そしてこれは今の社会の性についての意識を確かに反映しています。しかし注意するべきなのは、「わいせつ物」自体が性的な暴力やセクハラなのではないということです。「わいせつ物」は性的なものを顕在化し、その結果として私たちの生きる日常生活の中に隠れている性的な暴力や抑圧や差別的な力関係の存在を見えるようにしてしまっているのです。
次に考えるべきことは、では「わいせつ物」とは何か、ということです。結論からいえば、それは「社会的な多数派の価値観と異なるもの」「少数派の価値観によるもの」という程度の意味しかありません。社会の中で権力を持つ多数派が、自分の趣味に合わないものを非難するために「わいせつ」という言葉を創り出し、レッテルを貼り、その言葉を使うことによって罵倒しているに過ぎません。同様のことは「性倒錯」「変態」「異常」「逸脱」「キチガイ」「淫乱」「淫売」という言葉を使っても、行われてきました。ではその「多数派の価値観」の内容はどのようなものなのでしょうか。
それは社会には性の在り方についての「お手本」があり、皆が目指すべき共通の「正常な在り方がある」と信じていることではないでしょうか。そしてこれは「パラノイア(偏執症)」でしかありません。自分と違う人がいることを肯定的に認めることは、勇気がいることです。「正しい、当然の、性の在り方」が存在しないとなれば、自分の性的な在り方や欲望の形を自分自身で引き受けなくてはいけなくなりますし、必要に応じて自分で自分の在り方を人にいちいち説明をしなくてはいけなくなるということです。しかし事実として「正常な性の在り方」など存在しないし、まして「性的秩序、最小限度の性道徳、健全な性風俗」などというものは多数派の妄想にしか過ぎません。少なくとも私は、そんな価値観を全く共有していません。
そういう価値観の背景には、性的なものを公的には隠すべきもの/よくないもの/恥ずかしいものなどと考えること、セックスを嫌悪する考え方があるのではなのではないかと思われます。だいたい性器を隠しさえすれば「わいせつ物」ではないということになるのですから、これは税関の役人自身が性器にことさら欲情するか何らかの過剰な意味を感じる「性器フェチ」であることを白状しているに過ぎません。どうせ権力者が自分の都合を市民に強いるのですから、だったら始めから「性器を見ると私は動揺してしまう」とでも言えばいいものを、「風俗を害するから」などともったいぶって言うのは、自分の性欲を恥じているか認めることができないからとしか考えられません。私を含む多くの人は、女性蔑視や同性関係嫌悪(ホモフォビア)、セックスに対する恐怖感を持っているのは事実であり、だからこそ、そういった偏見から自由になり、性的な暴力を防ぎ、権力的でない形で性のコミュニケーションをしセックスを楽しむためにこそ、性についてたくさん、様々な方法で、直にコミュニケーションすることが必要だと私は考えています。本件雑誌に限らず、「わいせつ物である」(と社会からレッテルを貼られることがまれではない)写真は、私たちにセックスの楽しさを教え、私が性欲を肯定するのに有効で、新しいファンタジーを教えてくれ、セックスについてお互いに話し合うきっかけとすることが可能で、「女性には性欲がない」という嘘を暴き、オナニーの役に立ち、様々なセックスのやり方を知る教科書にもなりうるのです。だいたい、セックスをするときには性器を直接目にすることが多い(それどころか口に含んだり舐めたり触ったりする/されることもまれではない)のですから、それを「わいせつだ」といって隠蔽することに、何の意味があるのでしょうか。
考えるべき3点目は、なぜ被害者がいないにも関わらず、誰も何も強制しないにも関わらず、「わいせつ物」とのレッテルを貼られる物の流通の禁止がこれまで当然とされてきたのかということです。なぜ多数派による価値観の押しつけでしかないことが、不当な暴力だとはみなされてこなかったのでしょうか。それが「公共の福祉」「健全な性風俗を守る」という理由で行われてきたことも重要です。
「わいせつ物」の流通を規制する考え方は、性やセックスを、社会(多数派権力者・この場合は国家)が一元管理しようとするものです。性やセックスに関わることについて、自分で考えて判断する事を放棄し、その判断基準を国家に預けてしまう考え方です。社会に認められたもの、「わいせつでないもの」だけが許されるという形で特定の在り方だけが国家によって優遇され、つまりそれ以外の在り方が弾圧され、個人が自分のものとして性やセックスを管理し自由に使うことを禁じる考え方です。これは、誰にも迷惑をかけず何の強制もないにも関わらずレズビアン・ゲイ・バイセクシュアルなどの性的少数者が非難され、売春者やストリッパーなどの性労働者(セックスワーカー)の仕事を違法とし、任意の性再指定手術を禁じ、それらを社会的に非難・忌避・排除しようとする考え方と同じです。社会的多数派が少数派の存在を許さず、多数派の個人的な趣味・価値観でしかないものがさも社会的な正義であるかのような装いをし、それが社会全体の合意事項である振りをし、それを社会の構成員全体に押しつける時の口実が「わいせつ」なのです。
「わいせつ物」の流通を禁止する際に持ち出される「公共の福祉」「健全な性風俗」とはつまり、一人一人の性の自己決定権を奪う、多数派による性の独裁のことです。「正常なセックス」として国家に認められたありかた(結婚した男女間の膣ペニス性交)だけが許され、結婚外の、同性間の、野外での、道具を使った、アナルを使った、複数の人と行う、金銭の支払いや受け取りを伴った、セックスを否定的に見る考え方のことです。それは同時に、「男の性欲は押さえられない」といった迷信を根拠に性的な暴力や強かんを黙認し、セクハラを放置する今の社会の在り方であり、セックスをするか/しないかを自分で決める権利を認めない社会の在り方に他なりません。
セックスの自己決定権を確立するために、つまり、セックスをするのか/しないのかを自分で実際に決めることができ、する場合でもその条件(いつ、誰と、どんな性別の人と、何人の人と、どこで、いくら受け取って、いくら支払って、どんな道具を使って、どんなやり方で、など)を自分で決めることができるようにするためにこそ、性についての情報はどんな少数派のものであれ流通する権利があるし、国家による選別と検閲を許してはなりません。様々な情報に直接接して、判断し決めることができるのは、国家ではなく、私たち一人一人なのです。
法制度の観点からいえば、私の立場は、日本国憲法第13条の個人の幸福追求権と第21条の表現の自由、及び国際人権規約第19条第2項などを根拠に、「わいせつ物」の流通を禁止する全ての法律(刑法第175条「わいせつ文書頒布等」・関税定率法第21条第1項第4号「輸入禁制品」など)を違憲・違法・無効とするものです。社会の中の多数派の価値観とは異なる、少数派の価値観を尊重するということこそが重要なのであって、「公共の福祉」を理由に多数派の価値観を少数派に押しつける事を正当化しようとする憲法の解釈は、誤りだと言わざるを得ません。むしろ逆に本当は、市民一人一人の性的自己決定権・セックスの自己決定権を守り、確立することこそが「公共の福祉」なのであり、「公共の福祉」のためにこそ、「わいせつ物」の流通を禁止する全ての法律は直ちに撤廃されねばなりません。
以上の理由により、私は本件処分が私の権利を侵害するものであり、憲法や国際法にも違反し、社会的多数派の価値観を少数派に強いる不当な暴力であると考えます。性的少数者や売春者などの権利を確立しようとする私の立場からも、それはとうてい容認できないものです。ここに厳重に抗議すると共に、処分の撤回と責任者による謝罪を要求します。また、ただちに雑誌「MALE」を私に返還することを求めます。
以上