TRanS (Team Respect and Solidarity)が主催する映画『最も危険な年』オンライン上映会の、最初の10月の会に参加した。その感想です。
『最も危険な年』(原題:The Most Dangerous Year)—実はこの作品のタイトルが、どうしても私には、強い躊躇と警戒感を抱かせた。「自分たちにとって」の都合しか考えていない映画なのではないか、と。自分たちとは異なる形での差別や抑圧を受ける人たちのことを無視していたり、自身がある面では抑圧する側でもあることへの想像力を欠いた映画なのではないか、と。
セクマイ運動が今ほど社会的に注目されていなかった時代、私(たち)が講演などで話をする時は、たいてい誰でも、一番はじめにこう言っていたものだ。
今から私がお話しすることは、一人の当事者である私の話や意見なのであって、全ての【カテゴリー名】がそう言っているとか、【カテゴリー】全体の意見だとか、思わないでください。
もちろんそれは、セクマイ課題が社会的に低く見られ扱われている現実に対する防衛という側面もあった。しかし、今、長らく日本のセクマイ運動を担ってきた者として、つまり、少数派(マイノリティー)の運動やその当事者の活動家がいかに自分たち以外の少数派に対して無知で無関心でひどいことをしかねないのかを実感している者として、最近の状況には懸念を覚えることも多い。特にそういった「少数派が『やってしまう』間違い」は、「自分たち『だけ』が被害者だ」というような言説や、「自分たちが『一番』差別されている」というようなもの言いが、容認されている時に、起こりやすい。
せめて主語を立てて欲しかった。作品名が「私にとって、最も危険だった年」とかだったら、そこまで私が警戒することもなかったのかもしれない。
そして、その懸念は、残念ながら的中した。
個人としての感想:よかったところ
まず前提として、映画『最も危険な年』について、それがいかに素晴らしい映画か、なぜ今それが必要な映画であるか、いろんな人が書いたり言ったりしていることでしょう。おそらく私は、それらの多くに共感すると思います。つまり、まず、この映画には、いいところがたくさんあります。
私は、個人的には特に、以下の点がいいと思いました。
- 「同性婚が米国最高裁で決着したので、反対派が次のターゲットとしてトランスジェンダーの権利を攻撃している」という、今の米国におけるこの課題の状況や背景を明確に示している。そして米国のこういった反対派による「反トランス言説」と同じ主張が、いま日本のSNSでも頻繁にみられるようになった。日本におけるこうした「反トランス」の言説が、日本の保守派の運動、日本でフェミニズムへのバックラッシュを担ってきた人たちと結びついている事実を、日本国内だけの現象として捉えるではなく、少なくとも米国の保守派の運動との共通点を知った上で分析・批判する視座を与えてくれる映画だ。
- 「反トランス言説」には、実はちゃんと検討すると正当な根拠がないこと。逆に、例えば映画でシアトルの警官が証言しているように「トランスジェンダーがトイレで暴行の加害者になった、という例は、働いてきた36年間、一度もない」など、正確な事実で反論していく必要がある、というのが、よく分かること。
- 映画の中で、「『男性として不十分だから、男性トイレを使うな』と誰かに向かって言うことは、つまり、トランスジェンダーは人間として不十分だ、と言っていることになる」との発言があり、性別二元主義にもおもねらずとても良い言い方だし、的確な指摘だと思った。
- 個人的には、「自分は男の子だ」と言い続ける自分の子どもに「混乱している」と言うようにカウンセラーからアドバイスを受けた親が、1年間子どもに対してそう言い続けたあとで「やっぱりおかしい、子どもの言っていることをちゃんと聞いてみよう」と考えを変えた—というのが、一番よかった。知識や専門家の意見ではなく、目の前の人の話に耳を傾けるという姿勢。こういう態度こそが必要だし、またこの映画の主張の最も力強い点だと思った。そして望むべくは、こういった態度が、一般に流布している「トランス擁護言説」や、「性同一性障害」という知識、GID専門家に対しても向けられたらいいな、向けられるべきだ、というのが、この文章で私が言いたいことの核になる部分でもある。というのも、性別二元主義それ自体に反対する立場からみると、一般的な「トランス擁護言説」やGID関係の主張は、性別二元主義の維持と再生産に加担するものでしかない場合も、つまりトランスジェンダーの一部分しか想定していないような場合も、実は結構あるからだ。
個人としての感想:正直なところ
私の知る限り、この映画の舞台となったワシントン州というのは、シアトルがある州で、お隣のオレゴン州(ポートランドがある)やカリフォルニア州と並んで、クィア系の活動が盛んなところ、という印象がある(ここで「クィア系」とは、主流LGBT運動に対して批判的な流れのこと)。映画『R/EVOLVE-結婚と平等とピンクマネー』も、シアトルが舞台だった。つまり、女性でも男性でもない人、ジェンダークィア、ノンバイナリー、日本で言うところの「Xジェンダー」、もしくは最近はやりの英語では「Gender Non Conforming(典型的なジェンダーに当てはまらない)」、そういった人たちが、米国でも特に活発に活動している地域、という印象だ。それにも関わらず、この映画には、明示的には、ジェンダークィアもノンバイナリーも「Gender Non Conforming」も、1人も出てこない。私の正直な感覚からは、「無視されている」「消されている」ように感じられる。
この映画では、LGBT主流派とは異なるクィア系の路線が無視されているように感じる。言い換えると、主流派や多数派に媚びすぎではないか。つまり論点は、ジェンダークィアやノンバイナリーが出てこない、ということに留まらない。例えば映画の中では、「ジェンダーは3歳くらいの子どもの頃に分かるが、性指向は小学生高学年か中学生にならないと分からない」などと説明されている。でも、大人になってからトランスしたり、大人になってから性指向が変わることだって、実はそれなりにある、というのが、私たちの常識だ。トランスジェンダーの存在と権利を確立するという目的のために、現実に存在する人や事をないことにするのは、やめて欲しい。また、「生まれつきだから」「解剖学的に根拠があるから」「自分の意志では変えられないから」「選んだ訳ではないから」ということを、トランスジェンダーの権利と存在を主張するための根拠として持ち出すのも、本当は不適切だ。「性指向の理由は分からないし、そもそも『性指向の理由を問うこと』自体が異性愛主義の罠だ」という構造と同様、トランスジェンダーの理由なんて分からないし、トランスジェンダーの正当化のために何らかの理由が必要だという事実こそが、トランス差別の現れに他ならない。「トランスジェンダーとして生きることを選択した」「自分で選んでトランスした」という主張に同意できないのなら、それはトランスジェンダーの存在と権利を擁護していることにはならないという事実に、気がついて欲しい。
逆の言い方をするなら、所詮この映画は、性別二元主義の枠内で生きようとするトランスジェンダーのことしか描いていないし、そもそもそれしか想定していない。「投票で多数派をとろうとしたら、そうなるしかない」と言われそうだけど、まさにそういう理由で、LGBT運動の中でトランスジェンダーの権利が後回しにされてきた歴史を、また繰り返すつもりだろうか。(参考 トランスジェンダーを含まない「性的少数者雇用差別禁止法案」は撤回せよ http://macska.org/article/36/)
性別二元主義から外れるトランスジェンダーの権利は、この映画では守られない。それどころか、トランスジェンダーの中で、性別二元主義に特に反対しない人たちだけを取り上げることで、ジェンダークィアやノンバイナリーを無視してもいいというメッセージを与え、トランスジェンダーのコミュニティーに分断をもたらし、性別二元主義を強化する効果もあるのではないか。とすら、感じてしまう。
これが、なんの力もない映画だったらここまでは思わない。そうではなく、(マジョリティーの)人々の心を揺さぶる、タイムリーな映画であるからこそ、トランスジェンダーの存在と権利を、性別二元主義の枠内に留めようとするこの映画には、正直「まいったな…」という感想を、私は持ちます。
人種差別、障害者差別
映画『ジェンダー・マリアージュ 〜全米を揺るがした同性婚裁判〜』(原題 The Case Against 8)もひどかったけど、この『最も危険な年』も、出てきたのは白人ばっかりだった(※コメントで欄で指摘を頂きました)。以前の黒人の闘いについては何度も言及があり、「『分離するけど平等』が論外だと今は分かっている、今それがトランスジェンダーに向けられている」とか言っておきながら、黒人のトランスジェンダー自身の発言を直接インタビューしたシーンは映画にはなかったように思う(映画の中で黒人が一番ちゃんと話していたのは、ヘイト集会でのヘイト発言者としてだった(>_<))。同様に、ADA法(障害を持つアメリカ人法、Americans with Disabilities Act of 1990)にも言及されているのに、障害を持つトランスジェンダーの立場からの主張がどういうものであるか、この映画では全く分からない。
確かに、日本で在日朝鮮人のセクマイを描いた映画がほとんど無い、というような観点からはそれはやむ得ない/やはり難しい、のかも知れない。でも、米国には、黒人のトランスジェンダーを描いた映画(例えば『メジャーさん!』)、黒人のトランスジェンダーが作った映画(例えば『HappyBirthdayマーシャ!』)だってある訳だし、BLM運動だって黒人クィアたちが始めた運動だったりもする訳で、そういう米国の状況下で作られた映画だ、という観点からは、「どうして白人ばっかりなんですか?」「どうして黒人の/障害者のトランスジェンダーの意見が映画にはたくさん出てこないんですか?」という問いは、やっぱり出てくる。
★参考「トランスジェンダー追悼イベントの不愉快」
★ちなみに、米国における黒人のトランスジェンダーについては、Normal Screenの記事「トルマリン短編映画『大西洋は骨の海』+ 解説」が詳しい。
いつもは映画祭を主催しているひびの、の立場からの感想
肯定的な部分はちゃんと評価し、不十分な点にも蓋をせず、映画を活かすにはどうしたらいいだろう。長く映画祭を続けてきた立場から、いつも私が考えていることだ。
私が関わっている関西クィア映画祭、まず映画祭を始めた2005年当時「どうしてこんなにトランス映画が少ないんだろう」と思って、自分たちでトランス映画を探してみたら、実は世界には結構あることが分かった。当時オランダでは「トランスジェンダー映画祭」さえ開催されていたことを見つけた。つまり「トランス映画は世界には存在するのに、日本で公開されていたのはごくわずかでしかなかった」という事実が分かった。その後は積極的にトランス映画を上映し続け、2019年にはトランス男性のジュールズ・ロスカム監督の特集も組んだ。つまり、関西クィア映画祭は、日本で最も多くのトランス映画を上映してきた映画祭になった。
そして「映画祭を主催する」という立場からは、この文章のはじめの方に書いた個人的な感想とは異なる視点や基準、も導入することになる。
監督や製作者自身がトランスジェンダーである場合は、出来ることなら応援したい、という基準が加わる。まず何よりも必要なのは当事者のエンパワメントであり、当事者の発表の機会を増やすことで観客と出会い、キャリアアップにも繋げて、映画を作り続けて欲しい、それこそがトランスライツを支持する映画祭のあるべき姿だ、という面が、確実にある。
また、トランスジェンダーを描いていたり、トランスジェンダーを扱っている映画も、出来れば上映したいな、と思って試写を始めることが多い。判断基準としては、映画そのものの評価に加えて、その映画を上映することでトランスジェンダーについての認識を深めたり、トランスジェンダーの状況をよりよくすることに寄与できるのであれば、上映できる可能性が高まる。
とはいえ実際には、この映画『最も危険な年』がそうであるように、肯定的な部分と不十分な部分の両方を持っている、と私には感じられる映画がほとんどで、「この映画は本当にお薦め!」と手放しで推せるようなトランス映画には、実はなかなか出会えない(※)。
(※)『トランス物語に抗して』は、ワタシ的には本当にお薦め。『メジャーさん!』を、『個人的なこと』と併せてみるのもいいかもしれない。
そこで、映画祭で上映する時は工夫を凝らしてきた。それは、ただ単に映画を上映するだけではなく、上映後に映画について率直に意見交換する場を設けるなどして、映画に足りない部分を補ったり、映画の置かれている背景を知ったり、することだ。「正しいことを伝えている!素晴らしい映画だ!」などと単に持ち上げて盛り上げるような単純な見方ではなく、様々な意見やアプローチが可能な中で監督が選択した路線はこうだった(だから他のやり方や他の選択肢も実はあり得た)、など、「この映画は、様々な意見の中の一つ」という位置づけで映画を見ることができれば、それは仮に私とは意見が異なる部分があっても、「私たちの内部の多様性」を可視化させ、「私たち」のコミュニティーを更に豊かにする上映にすることが出来る。また監督なども、現状に甘んじるのではなく更に前に進むために、貴重なフィードバックを得る機会になるはずだ。
例えば2019年には『女は女である』(孫明希監督)上映後に、より幅の広いトランスコミュニティーについての理解を深めるために、簡単な問題提起(https://kansai-qff.org/2019/film/F_hibino_comment.pdf)を行った。論点が今回の映画『最も危険な年』とも近いので、よければ読んでみてほしい。
映画→資料→資料の邦訳
そういった形で沢山の映画を上映をしてきた者として、今回の映画『最も危険な年』の上映後に、映画についての資料(ここからダウンロード可能)を読むことを主催者から勧められたこと、その資料が映画よりはより幅の広い視点を持ったものであったこと、更にその資料を邦訳した人たちが付けた注釈が、その英文の資料には足りない点を更に付け足す内容になっていたこと、がとても面白かったし、よかった。
具体的には、例えば、「ガイドブックの使い方と上映会について(P.3)」において、地の文に「あなたがトランスジェンダーまたは典型的なジェンダーに当てはまらない(GNC)である場合」という記述がある。「GNC」とは、「Gender Non-Conforming」のこと。映画では存在が無視されていた「典型的なジェンダーに当てはまらない人」が、いきなり明示的に登場している!しかも、この資料テキストでは、基本的に「トランスジェンダー」と「GNC」が並列併記される形にまでなっている。映画にはなかった扱い、いきなり主役級の扱いだ。
そして、本文中の1枚目の写真も、白人ではなく、黒人だったりする(P.5)。
こういうのをみると、映画を作って、上映して、という作業を進めていく中で、この人たち(映画を作った人たち)もいろいろな指摘を受けて、学んで、成長して視野を広げているんだな、と感じる。私が米国の運動でいいなと思うのは、社会運動が批判を受けて成長していく、その過程が見られることだ。(日本だと、運動批判は、運動攻撃だとみなされて、運動内少数派が黙らされることが多い。LGBT運動もそうだし、クィア系も多かったクィア学会ですら、そうだった。)
そして更に、映画でも言われていて不快だったし、英語の元資料でも以下のように書かれている「性自認」について。
●性自認☆ 脳によって決定される、人の生まれつきの性感覚。小児発達研究によれば、2~3歳の早期にす べての小児(シスジェンダーとトランスジェンダーの両者)に性自認が発現します。(P.9)
こういう生物学的決定論には、私は全く賛成できない、というか明確に反対です。こんなデマを流されては困る。と思っていたら、邦訳者による注釈がついていた。
☆ガイドブックの翻訳にあたっては原文に沿って翻訳していますが、「性自認」の解釈には様々な意見があります。「性自認とは「社会的に構築された性別の個人の感覚」であって「脳」によって決定されるわけでは無い」という意見もあります。
出来ることなら、主語と邦訳者名を立てて、「邦訳者である私は、この映画のこの主張には反対です」と書いて欲しかったけど、書いてなかったのでいま私がそれをしている訳です。
映画を見たら分かるし、資料にも書いてあるように、この映画は、自身の子どもがトランスジェンダーだった親が、自身の経験を綴った映画です。トランスジェンダーの活動家でもない、言ってみればこの問題の「素人」が頑張って作った映画だというのは、すぐ分かる。それが、「普通の人」にも分かる訴求力のある映画になった理由でもあるかもしれない。
でも、映画は表現であり、表現として社会に出された以上、意図に対する責任だけではなく、表現の結果に対する責任も、発生する。提供される資料では、映画にはなかったGNCが明示的に触れられるなど、明らかな(肯定的な)変化がある。あぁ、おそらく、いろんな人にいろいろ言われたんだろうな、いろいろ言われて、ちゃんと受け止めようとしたんだろうな、ということが、想像できる。
だから私は思う。そういうところまで、この映画で、見てほしい。映像を見て「分かったつもり」になって、盛り上がるのは、やめて欲しい。「この映画では、何が描かれていないか」「この映画では何が無視されているのか」というところまで、想像をめぐらすためのきっかけとしてもこの映画が見られるのであれば、本当にいい上映会になると、私は思います。
補足説明
★典型的なジェンダーに当てはまらない人(GNC)を、それとして明確に描いた映画は、実はそんなにない。例えば以下の作品は、オーストラリアのテレビ番組からですが、AmazonPrimeで日本語字幕付きで見れます。
『私は男でも女でもありません (Not a Boy, Not a Girl)』
親が出産を発表するとすぐに聞かれます。『男の子?それとも女の子?』という質問。しかし皆が皆、性別を明確に分けられる訳ではありません。自分は男でも女でもないと主張するオーストラリア人の子供達。そんな子達はどんな思いや考えで生きているのか?その物語を聞いてみましょう。
(監督Janine Cohen/45分/2020/オーストラリア)
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B087HYGF6Q/
★日本の性分化疾患の運動からは、資料の「ジェンダーと性別スペクトラムのいくつかの重要な要素(P.12)」のように、男女に左右に分けてグラデーションで説明する形で「解剖学」について触れることには、批判が出ています。
- 日本性分化疾患患者家族会連絡会 ネクスDSDジャパン
- 「体の性のグラデーションモデルは、DSDsを持つ多くの子どもたち・人々・家族の皆さんに二次的なトラウマを与えてしまいます」
- これを踏まえてなのかは分かりませんが、例えば京都市の資料では「身体の性」では(一応)グラデーションモデルが外されています。
「多様な性に関する職員ハンドブック〜職員が理解を深めるために〜」(京都市)
本当にトランスジェンダーに対する差別に反対する気があるのなら、せめてこれくらいは読んでおいて欲しい本
心に性別はあるのか?―性同一性障害のよりよい理解とケアのために
誰かの理想を生きられはしない: とり残された者のためのトランスジェンダー史
関西クィア映画祭での取り組み
2011年に『女として生きる』(江畠香希監督)を上映した時は、映画を試写して「この映画の中には私がいないんですよ」と言う実行委員がいたので、監督とその実行委員にも壇上に上がってもらって、トークをした。監督は「トランスジェンダーの多様性を描きたい」という意図があったのだけど、その映画を見て「無視されている」と感じたトランス当事者に、直接対面で対話をしてもらった。
『SRS♂ありきたりなふたり♀』(犬童一利監督)を2012年に上映した時は、映画の内容についての批判点を事前に具体的に制作者側に伝えた上で、そのメールのやり取りも公開して、上映後に意見交換をする時間をつくる条件下での上映となった。
翌2013年には、実行委員会内で上映の賛否が分かれた『ラブリー・マン』を、上映後に賛否を各実行委員が述べる場を設けて上映。その後も、『私の居場所〜新世界物語〜』(武田倫和監督)、『イッショウガイ』(若林佑麻企画・脚本)、『僕らの未来』(飯塚花笑監督)なども、監督や関係者に来場頂いて上映後にトークで意見交換の機会を設けての上映。監督の来場がかなわなかった『女は女である』(孫明希監督)は、上映後に、より幅の広いトランスコミュニティーについての理解を深めるために、実行委員のひびのから簡単な問題提起を実施。
ただ、なかなか思いは伝わらない、というのも実感でもあります(>_<)
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