初出収録元

「女?男?いちいちうんざりよ!--性別の二元論を問い直そう」
資料集

発行:変態生活舎

 

発行日:1998年12月5日

価格:非売品・企画参加者に配布

 

以下に収録されている文章は、1998年12月5日に行われた企画「女?男?いちいちうんざりよ!--性別の二元論を問い直そう」において日比野が発言した要旨を、その後の様々な意見を参考に改訂したものです。性自認と性別の二元論の話を分かりやすく分析して書いた、おそらく日本でも数少ない文章です。是非読んでみて下さい。

 目次

母体保護法第28条を削除せよ!

日比野 真

 先日、埼玉医科大学で性再指定手術(性転換手術。**注1)が行われた。
「ああよかったね、これで日本でも手術できるようになったんだね」と無邪気に思っているあなた。あなたはいったいどの立場からそんな無責任な発言ができるのか。

 あなたの性別を決める権利は誰が持っているのか。問題の核心はそこにある。外性器(**注2)の形状や、他人から本人がどの性別にみえるのかとか、性染色体の構造など様々なことをを理由に、本人以外が人の性別を決めつけることは、本人の性別の自己決定権を侵害する暴力である。自分の性別を決めることができるのは本人だけであり、かつ本人がその性別を決定/選択した理由を他者に説明する義務は全くない。人が自分の性別を決定/選択するの当たって周りの人間の納得や社会的な承認は必要でないということは、今日私が肉まんを食べるのかカレーまんを食べるのかということを決める/選択するときに周りの人間の納得や社会的な承認は必要でないということと、全く同じ話である。なぜあなたが納得しないと私は肉まんを食べてはいけないのか!

 従って、どのような条件があれば性再指定手術または性器形成手術を許可するべきであるかといった議論を行うこと自体が、手術を望む人たちに対する最大の侮蔑であり、手術を望む人に対する差別そのものである。手術を希望する全ての人は、その理由の如何を問わず任意に、本人の身体に対する所有権や性別の自己決定権を根拠として、性再指定手術または性器形成手術を受ける権利があることをまず確認しなければならない。手術の際に、性同一性障害や性別違和(**注3)の有無を条件にすることは、許されない。趣味としての手術も本人の権利である。
 同様に、戸籍や外国人登録に記載される性別も、本人の性別の自己決定権を根拠として、任意に変更することが直ちに認められねばならない。その場合に、性同一性障害や性別違和の有無を条件にすることが許されないのは、手術の場合と同じである。戸籍や外国人登録に記載された性別の変更を希望する者にその理由を尋ねてはならない。理由の如何・有無・その合理性などを本人以外があれこれいうことこそが性別の自己決定権に対する侵害である。(但し本来は、性別の記載、もっと言うなら戸籍制度や差別的入管体制そのものは廃止するべきであり、それまでの過渡的措置)

 残念ながら、ここに書いたような性別の自己決定権が今の社会では全く認められていない。そのため、自己の身体の性別に関わる手術を行おうとした場合、不当にも性同一性障害を持っていることが必要な条件にされてしまっている(そしておそらく今後は、戸籍や外国人登録の性別変更を申し立てた場合にも性同一性障害の有無が条件にされてしまうであろう)。これは、母体保護法第28条「何人も、この法律の規定による場合の外、故なく、生殖を不能にすることを目的として手術又はレントゲン照射を行つてはならない。」があるためで、「故なく」行っている手術ではないということをいうために、「性同一性障害」という概念が導入させられているのだ。しかし先に見たように、「故があるかないか」を手術の条件(及び戸籍と外国人登録の変更の条件)にするということは、その身体は本人のものではなく、性別を決定するのは本人ではなく社会(又はその権力装置としての国家)であるということを宣言しているのに等しい。
 もちろん、非常に限定された条件下ではあっても、日本で合法的に性再指定手術ができることはうれしいことだ。しかしまだ今のそれは、性別の自己決定権を理由にしたものではないため、大きな問題もある。現在は性同一性障害がないと性再指定手術や性器形成手術を受けることができず、かつその人が性同一性障害を持っているかどうかを決めるのは本人ではなく医師であるため、例えば、医師の持っているジェンダーイメージに合わせて振る舞うことが「患者」としてみなされる手術希望者に強いられる危険性は極めて大きい。具体的には例えば「性自認(**注4)は男性であるがスカートをはくのも好き」という「女の体」を持ったトランスセクシュアル(**注5)に出会ったときに、医師が自分の性別のイメージを問い直すことがない場合には、その人がスカートを違和感なくはくことをを理由に性同一性障害の認定がなされない可能性がある。従ってその人が性同一性障害を持っていることを医師に認めさせるためには、その医師の前でスカートをはくのをやめてズボンをはき、いかにも男らしい男を日常的に演じて生活しているかのように話したりふるまったりする必要が出てくるということになってしまう。

 理由の如何を問わず任意に性再指定手術または性器形成手術を受ける法的な権利を確立すること(母体保護法第28条の削除)と同時に進めなくてはならないのが、実際に性別違和を持つ者自身が、様々な情報を得た上で自分のことを見つめなおし、自己の問題の解決のための最善の方法を見つけることができるようなサポートを受けることができる支援体制を整備していくことだ。具体的には、性別違和を持つ人が安心して相談できる医師やソーシャルワーカーなどがいること、自助グループで自分以外の人の経験や情報を知ったり話し合ったりすることができるようになることなどは最低限必要だ。
 様々なカウンセリングもあり性再指定手術については進んでいるといわれている合州国においてさえ、術後に手術を後悔し、ひどい場合には自殺してしまう事例も残念ながらある。今の日本では、性別違和の無い人だけでなく性別違和のある人も「性別は性器の形状によって決まる」「性器形成までして完全な男/女にならなければ自分の望む性別で生きていけないし、自分の望む性別として認められない」と思い込まされていることが多い。しかし実際には、性別違和感を持ったトランスジェンダー(**注6)と一口にいっても性の在り方は本当に多様で、性ホルモン投与や体毛の外科的除去、声帯手術、乳房除去(形成)術、戸籍/外国人登録の変更、望む性別で働けることなど、性器形成術を伴わなくても他の条件がそろいさえすれば実は十分だったという人もいることには留意しなくてはならない。「性別違和=完全な性転換手術しか方法がない」と思ってしまうのは、今の社会が強固に性別二元論に固執していて「中性」「第3の性」といった存在を許していないからであり、半陰陽(インターセックス。**注7)が半陰陽者として生きることをを認めず、非典型的な男女の存在が隠蔽されているからだ。手術の内容にも、性別の在り方にも、様々な選択肢があり得るということを具体的に詳しく知ったり考えたりすることができない状況下において、そして典型的な男女以外の存在がまったく尊重されない社会の中において、「性再指定手術をするのかしないのか」「男になるのか、女になるのか」という選択を本人に強いるということは、自己決定権に名を借りた性別二元論イデオロギーの強制に他ならない。言い換えれば、性別の自己決定権を単に形式的に認めて「自己決定の責任」を本人に押しつけ、今の性別二元論強制社会の問題を不問にしてしまうのではなく、「必ずしも典型的な男女とは限らない自分の性別を自分で選択し、決定する権利」を実質的な中身のあるものにすることも必要だということだ。

 いったい誰が、トランスジェンダーに「男らしく」「女らしく」ふるまうことを強いているのか。私たち(というより私)が考えなくてはならないのはまさにこのことなのだ。典型的な男女しかいないとされ認められていない今の社会を自分自身が何の疑いもなく支えておきながら「病気なんだから仕方がない、手術を認めてやろう」と恩恵的に手術を合法化して「日本でも手術できるようになってよかった」などとひと事のように話すことは許されない。
 性別の自己決定権と自己の身体に対する所有権が現在は社会や国家によって侵害されているという事実を明らかにし、それらの権利を社会や国家から奪い返すという視点から母体保護法第28条の削除を求める声を上げるということは、もし性別違和について言及するのであれば最低限必要不可欠な内容になるのではないかと私は考えている。

(付記)
 性別の自己決定権と自己の身体に対する所有権という問題領域に於いては無視することはできない問題が少なくともあと3つはある。
 一つはインターセックス(半陰陽)に対する手術である。例を挙げれば、「正常な(正確には典型的な)」オチンチンを出生時に持っていない赤ちゃんに対して、医師と親が共謀して(場合によっては親さえ知らないところで医師の独断で)勝手に性器形成手術をしてオマンコを作り上げてしまうということが、現実に行われている。この例では「立たない男は男でない」という医師のジェンダーイメージが投影されてしまっている。そういったインターセックスチルドレンが成長して大きくなった時にどういう性自認を持つか、またその性器形成手術やそれによってつくられた自分の体の形状をどう思うのか。出生時の勝手な手術はインターセックス本人に対する身体の所有権の侵害であり、性別二元論を強制する暴力であって、性別の自己決定権の侵害であるということも忘れてはならない。直ちにやめるべきだ。インターセックスの人たちの自助グループである「PESFIS」が主張しているように、本人が成長して自己のことを決定できる年齢になってから、十分な情報を与えられたうえで、手術しないことも含め、自分で自分の体の性別を選択できるようにすることこそが必要だ。出生時や幼少期に勝手に手術されることのなかった「運のいい」インターセックスも含め、その手術の際には、どういう性別の再指定を希望しても本人の意志によって任意にそれが認められなければならないのはこれまで述べてきたとおりだ。
 二つ目は、オチンチンがなくてオマンコやオッパイのある、いわゆる「女の体」を持つ人の権利の問題だ。例えば刑法第29章には堕胎罪が存在する。産むか産まないかは他者の了解や許可などを必要とせずに妊娠した本人だけが決める権利を持っているはずなのに、現在の日本では妊娠中絶(堕胎)は原則として犯罪とされている。これは子宮を持ち妊娠する可能性のある体を持つ者の身体の所有権の侵害以外の何者でもない。他にも、レズビアン・ゲイ・パレードにおいて「女性(正確には乳房を持つ者)が胸を露出すること」が「猥褻だ」として警察だけでなく実行委員会にも禁じられたり、「据え膳食わぬは男の恥」「嫌よ嫌よも好きのうち」といった言葉が存在し実際に多くの人が性的な暴力に日常的にさらされ続けていること、自己の意志で売春労働している売春婦が売春防止法によって「補導処分」「保護更生」の対象にされていること、などのように「女の体」を持つ者は自己の意志を持つ主体とみなされず、国家や社会の「保護の対象」とされて自己決定権が剥奪され続けている。こういった、「女の体」を持つ人に対する蔑視と支配を基底とした今の社会の在り方も問われなくてはならない。
 そして三つ目は、障害児の中絶と、施設などにおける身体障害者に対する不妊手術の強制だ。形の上では「不良な子孫の出生予防」を目的とした「優性保護法」の条文は削除されて「母体保護法」に改正されたようにみえる。しかし実際はほぼ全員の妊娠した人に対して行われている出生前診断(マスクリーニング)によって、胎児が障害児だと分かると中絶するケースが多いのもまた、事実だ。「五体満足」でない身体障害者は「あってはならない・生きる意味がない存在」とされ、今でも殺され続けている。これは、身体障害児に対する殺人である。そしてさらに、出生時に殺されずに生き延びた障害者も、どこにでもいる一人の人間として見られ扱われることは少ない。なぜ障害者用トイレには男女別がないことが多いのか。それは決して障害者が男女の性別にこだわらないからではなく、一人で自力で社会生活を営む力のない障害者は、性別のない存在だとみなされ、性欲やセックスはあり得ないものとされてきたからだ。ひどい場合には、生理・月経時に介護者に「迷惑をかけない」ために子宮を摘出することを障害者施設が障害者に実質的に強制するということが実際に起きている。なんて迷惑な介護者であろうか。こういった事例も、身体の所有権や性的な自己決定権の侵害として考えるべきだ。


性別にこだわっているのは誰か?

日比野 真

 「俺/オレ」「僕/ボク」「私/わたし」という自称にこだわり、「さん」付け「君」付けされることにこだわり、「本来の自分を取り戻すために」性役割をわざわざ意図的に身にまとい、時には体さえどちらかの性別に合わせてしまう。トランスジェンダーっていう人たちは、なんて性別にこだわっている人たちなんだろう!そんな窮屈な生き方をしなくてもいいのに。------------そんなことを思ったことはありませんか?

 人間には「女」「男」という二つの性別があり、たいがいの人はそのどちらかに分けることができる、と考えているのはいったい誰だろう。パブリックな場で「男」「女」に分けるという行為には合理的な意味があって理由のあることだ、と主張しているのはいったい誰だろう。「女同士だったら分かり合える」「男同士だったら話しやすい」というように、「男」や「女」にはそれぞれ何となく共有されているものがある、と考えているのは誰だろう。
 それは、公衆便所で女子便所・男子便所のどっちに入っても落ちつくことができない、ということがが決してない、あなただ。それは、銭湯に行く度に男湯か女湯かを選択させられることに一度も違和感や嫌悪感を抱いたことのない、あなただ。それは「女が好きなの?男が好きなの?」と無邪気に聞くことのできる、あなただ。自分の性別をわざわざ言葉にして他者に説明するということすらしないでも当たり前のように男子便所に、女湯に入っていくことのできる特権的マジョリティーの立場に安住している、あなただ。そしてもちろん、それは私のことでもある。

 なぜパスすること(**注8)を望むトランスジェンダーがいるのか?それは、パスしない限り他人が決してトランスジェンダー本人の性自認を尊重せず、本人の意志を無視して勝手に「女扱い」「男扱い」するからではないのか。あなたは、女湯にオチンチンのある人が入ってきても当たり前のこととして受け入れられるのか。あなたは、男子トイレに長髪のロングスカートをはいたかわいいコが入ってきても驚かないでいられるのか。男の子だと思って服を脱がせてみたらオチンチンがなくオマンコが付いていた時に、あなたは相手を受け入れられるのか。

 女として育てられたということと、その人が女であるということとは別のことだ。女としての性役割を持っているということと、その人が女であるということとは別のことだ。オッパイを持っているということと、その人が女であるということとは別のことだ。スカートをはいているということや女らしい振る舞いをするということと、その人が女であるということとは別のことだ。生理があることや出産できる/したことがあるということと、その人が女であるということとは別のことだ。女装が好きだということと、その人が女であるということとは別のことだ。女湯に入っているということと、その人が女であるということとは別のことだ。その人が女であるということは、その人の性自認が女であるということ以外の何も意味しない。本人以外が、勝手に人の性別を決めてはならない。
 母体保護法第28条の存在を暗黙と無関心という方法を使って支持し、性別の自己決定権と身体の所有権を侵害する社会や国家を支え、自身で日常的に他者の性別の自己決定権を侵害し続けているのは、いったい誰なのか。トランスジェンダーをして、「ボクは男なんだ」というカムアウトを強いているのは、いったい誰なのか。どう呼ばれるかなどということについてまで「さん」付け「君」付けといった具体的な方法をいちいちわざわざ具体的に指摘され教えられない限り、勝手に相手の性別を自分で判断して呼称を押しつけているのはいったい誰なのか。カムアウトされない限り勝手に「男扱い」しているのはいったい誰なのか。オッパイやオマンコがあることを理由に勝手に相手を女扱いしているのはいったい誰なのか。「ボクは生まれつき男なんだ」と言わない限り、本人の性自認を尊重せず、性再指定手術ができない状態にいることを想像もせず、本人の声に耳を傾けてこなかったのはいったい誰なのか。「本来は」「生まれつきは」「脳の形態が」「実は性同一性障害で」などといったそれらしい理由を言わない限り、本人の性自認を尊重せず、性再指定手術ができない状態にいることを想像もせず、本人の声に耳を傾けてこなかったのはいったい誰なのか。
 トランスジェンダーをして、性別にこだわることを強いているのはいったい誰なのか。

 女として扱われる人たちや女として育てられた人たちの間に、現在の現実としてそれなりの「女らしさ」というものがあるようには、私にも思える。今の社会で、「女として」見られ扱われる人が雇用を拒否されたりなめられたりするのは紛れもない事実だ。しかしそのことは、「女が女らしさを持っている」とか「女は雇用されずなめられる」ということとは、別のことだ。ある一つの様式や文化を持った人たち、又は同じような権力構造の中に置かれるものたちで集まること、例えば「女として扱われてきた人たち」で集まることには意味がないわけではない。しかし、それと、「女が、集まる」ということとは、別のことだ。
 性役割について考えるということは、ウーマンリブやフェミニズムの息の長い運動の中で、相当の訓練がなされている。しかし、性自認について考えるということは、これまでほとんどそのような場がなかったため(というより、これまでずっとトランスジェンダーの発言を無視し続けてきたため)、私を含め、まだ不慣れな人の方が多い。性自認と性役割の問題は、まず一度、全く別の問題として切り離して考えてみる必要がある。

 「トランスジェンダーが性別にこだわっている」などと人のことをあれこれ言う前に、まず私のような性別違和のない者がするべきことは、自分自身がいかに性別にこだわって暗黙の前提にしているのかを思い知ることだ。自分自身の無知と無関心を使って、これまでに何人のトランスジェンダーに対して一方的に「男扱い」「女扱い」をしてきたのか、思い起こすことだ。
 そしてそんなことよりも、もっと優先されるべきことが山ほどある。母体保護法第28条の廃止。戸籍と外国人登録の性別変更の任意化(又はそれらの廃止)。性別違和やホルモン・手術などについて話し合える、相談できるカウンセラーの育成や、当事者団体に対する支援。医療現場におけるインフォームドコンセントの徹底。公的な場における性別を理由とした異なる取り扱いの禁止。また公的な書類における性別欄の廃止。ランドセルの色の完全自由化と、男女別に分けられた制服の廃止。生理がある男性に対する生理休暇の付与。公衆便所の全室個室化。銭湯の混浴化と、個室銭湯の設置。
 私が性自認について理解を深めること、社会の多数派が性別違和について理解を深めて納得すること、などよりも先にまず優先して達成されなくてはいけないのは、性別違和を持たない人たちの無知と無関心によってわりを食っている人たちの不便を解消することだ。

 「性別二元論の解体」「ジェンダーフリー」などというたわごとは、そのあとで話し合いたい人たちで話し合えばいい。

(付記)
 「私が性自認について理解を深めること、社会の多数派が性別違和について理解を深めて納得すること、などよりも先にまず優先して達成されなくてはいけないのは、性別違和を持たない人たちの無知と無関心によってわりを食っている人たちの不便を解消することだ。」というのは論理構成上全くの正義であり、実に正しい。差別や抑圧・搾取といった社会的な問題の主要な論点は、「権力の遍在」つまり「ものを決める人と決められてしまう人がいる」というところにあるからだ。だからこそ、多数派による理解や納得の有無に関わらず、多数派の持っている権力は剥奪されねばならない。
 さて、では、どうやって?
 冒頭のような、全く正しい論理を実力でもって実践してきたのが、これまでの様々な革命運動であった。抑圧者を打倒し、政権を取り、新しい憲法と法律を制定して理想の社会をつくろう......。自らが権力を握り、自らが権力の座に登ることによって多数派の持っている特権や権力を奪い、差別や抑圧・搾取といった社会的な問題を解決しようとしてきた運動が、いったいどういうものであったかについては言を待たない。権力構造の解体ではなく、新たな権力構造の再生産でしかない運動が、いかにそれが正しい理想や正しい目的や、やむを得ない事情によるものであったとしても、いかに差別や抑圧・搾取を再生産するものであるか!
 サパティスタ民族解放軍が注目されるのは、サパティスタが権力の奪取を目指さず、自分たちにとっての正義を多数派のメヒコ政府などに力で押しつけることもせず、「対話を開始しよう!」と他ならぬ多数派に対して呼びかけているところにある。私たちの存在や主張を黙殺するのは許さない、でも結論は押しつけない、だから、対話を開始しよう!
 現実に「性別違和を持たない人たちの無知と無関心によってわりを食っている人たちの不便を解消する」ためには、結論(自分にとっての正義)を暴力によって押しつける方法を採らないのであれば、「多数派が性自認について理解を深めること、社会の多数派が性別違和について理解を深めて納得すること」は必要不可欠なことだ。多数派に対して話しかけ、「分かってもらう」のではなく「分からせる」ために少数派が時間をとられ搾取され消費されるのは、現実に「性別違和を持たない人たちの無知と無関心によってわりを食っている人たちの不便を解消する」ためには、避けられない過程でもある。それを嫌がるのであれば、それは権力への指向、2世代前の単純な暴力革命への指向にほかならない。
 搾取され消費され差別されることが悪いのではない。私たちが他者と人間関係を持つということは、お互いで搾取し消費し差別し合う関係の中に自らを放り込むということに他ならない。自らが「多数派」になってしまわないために必要なことは、確信を持って相手を搾取し消費し尽くした上で、ちゃんと相手と向かい合い相手の存在を受けとめることではないだろうか。


たまには独り言を.....

日比野 真

 で、実は私は「性別二元論の解体」とか「ジェンダーフリー」とか言いたいからこそ、ここまで文章を書いてきたのであった。

 ギー・オッカンガムの「ホモセクシュアルな欲望」がわくわくするのは、それが同性愛者のことを社会に「分かってもらう受け入れてもらう」ということを微塵も考えておらず、むしろ逆にホモフォビア(同性関係嫌悪)に気が付いた者たちこそが社会の在り方を根底的に変えていこうと呼びかけているからだと今は思っている。曰く、「問題なのは、ホモセクシュアルな欲望なのではなく、ホセクシュアリティへの不安なのだ。つまり、説明しなければならないのは、ホセクシュアリティというたった一言がそれだけでもうすでに、近づきたくない気持ちや嫌悪感を呼び起こすのはなぜなのかだ。」

 私が他人事をネタに大きめの企画をするのは「レズビアン・トレビアン・笹野みちる」以来のことで久しぶりだ。
 性別違和の問題は、私にとっては基本的に他人事だ。私はこれまで一度も(というより実は正確には昨年までは、なのだが)男子トイレや男湯にはいるときに違和感や戸惑いを覚えたこともなかったし、性別欄には当たり前のように「男」と答え続けていたのだから。だから、GIDネタ(性別違和にまつわる問題領域のことね)は、私にとってはネタの一つでしかない。ネタである以上そこで要求されるのは、当事者を不当に搾取しないこと(又は当事者を搾取していることを確信を持って分かった上でネタにすること)だ。......ところで、当事者って誰のこと?

 私がここ数年優先して取り組んできたことに、バイセクシュアル(**注9)の問題がある。そしてバイセクシュアルの顕在化(正確にはバイセクシュアルというカテゴリーの拒否)を主張する際のスローガンとして私が愛用していたのが、この企画のタイトルにもなった「女!男!いちいちうんざりだ!」というセリフ。これは、「男が好きなのか、女が好きなのか」ということだけにしか目が行かず、性別二元論をこそ強化し続けているゲイ(やレズビアン)の運動と強制異性愛社会に対してのアピールだった。つまり、性指向(性的指向。**注10)を考える際に、常に「男女」という性別を中心にしてしまうことへの批判を目的として使っていたものだ(付言すると、このスローガンの元ネタはフランスの「革命的ホモセクシュアル行動戦線(FHAR)」のスローガンだよ)。で、実はこのスローガン、私の意図を離れて、一部のトランスジェンダーの間で受けがよかったようなのだ。なるほど、確かにゲイやレズビアン、そしてヘテロの人たちにとっては、男女の性別を軸としない性指向の在り方といういのはショッキングなものであったし、とても意味のある主張だと思う。しかし、このスローガン、性自認の話としても考えることができるのだ。性自認の話としても考えると、私は怖くてこんなおそれ多い言葉はとても口にできない、ということも最近は痛感している。こんなこと、性自認の問題なんて、これまで考えたこともなかったのだから。
 今回私が性別の自己決定権などという主張を発表するのは、今後も私が「女!男!いちいちうんざりだ!」と言い続けていくためにはどうしても必要不可欠なことだと思ったからだ。これが、公式な理由。

 私の個人的な時間の流れで言えば、別の言い方もできる。実は「バイセクシュアルとしての」私の置かれる問題については、京都の左翼仲間も、プロジェクトP(及びその前身)やゲイ・フロント関西で知り合ったどんな人も、当事者以外はなかなか興味を示してくれなかったし、始めはあまり相手にされなかったという歴史を私は感じている(別に非難しているわけではないよ、世の中そんなものです。やっぱりバイネタはほとんどの人には他人事だしね)。だからこそあえて意固地になって一人で踏ん張ることにもなったのだ。でもそれが、孤立した闘いであった(ある)ことは、私にとってはとても残念なことだった(逆に言うと、その間に一緒に行動してくれた人には強い連帯感を感じていた)。
 GIDネタ(**注11)は、民族ネタ、パンパンネタと並んで、そのうちちゃんと考えようとここ数年間思っていた事項の一つだった。「そのうち」で済まなくなりいきなり優先順位が上がったのは、どっかほかの団体や人脈ではなく他ならぬ私に対して性別違和の話(というより自分のこと)を向こうから話しかけ、時間を共有して言語化しようとし、どっかほかの団体や人脈ではなく他ならぬ私と一緒に問題化しようと働きかけてくる人が現れたからだ。で、実はこれには困った。いきなり来られても、GIDネタはよく分からないのだ。とはいえ、「相手にされなかった」という自分の経験と同じ思いを相手にさせるというのは、あまりに情けない。私自身がいろいろ考えるのにとっても時間が必要だったし、そのテンポが遅すぎたために(それだけが理由でもないが)結局一緒に表現することはあまりできなかったけれど、だからこそ今日のイベントは私にとっての宿題の発表会なのです。何点ぐらいもらえるだろう。
 付言するなら、ことここに及んで、セクシュアリティー系の左翼活動屋という私のアイデンティティーを維持するためには、GIDネタを自分の言葉と立場から問題化できないということには耐えられないと感じていただけなんだけどね。だいたい日本の左翼や知識人は、やるべき仕事を全くやってこなかった。最低限の言語化さえ当事者にやらせて「男の自助グループ(但しその自覚無し)」をいつの間にか形成していたこれまでの(主に男の)左翼(新旧問わず)に変わる、新しい左翼運動(つまりよりましなファシズム運動)ができるといいなあと、私は思うのであった(ひと事のような言い方・私の趣味)。

 私にも(そしてあなたにも)時間や余裕の限界というものがあるわけで、今後ずっとGIDネタを中心にして生きていくというわけでは、私の場合はやはりなさそうだ。次は何をネタにするのだろう、ってことは、誰と付き合おうかなっていうことと同じなんだけどね。私の持ちネタは、(決してアートではなく、暴力の行使を引き受けたファシストとしての自覚のある)左翼の再建、あなたの持ちネタは何ですか?

**注「左翼」という少数民族  左翼というと実は悪いイメージしかない人が多いかもしれない。私がイメージしているこれからの左翼というのは、セクシュアリティー(最大広義。性別・性役割・性自認・性指向・性暴力・性労働・その他いろいろ)やレイシズムを問題化していくような人のことです。ヨーロッパ圏の左翼や、南アのANC、フィリピンの活動家、メヒコのサパティスタ民族解放軍、など、よその国の運動は、セクシズムとレイシズムは中心的課題の一つです。以下参考までに、南アで数年前に制定された憲法の抜粋をリンクします。日本で誰かが革命を起こしたとしても、こんな憲法を作れる人はいるのかな?

 

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