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クィア・スタディーズ '96
  • 編集:クィア・スタディーズ 編集委員会
  • 発行:七つ森書館
  • 定価:2060円


目次(抄)
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書評「ゲイ・リポート」 日比野 真

 この本が出版されたのが1992年、今から4年も前の話だ。まだそのころは、ぼくはゲイバーやサークルにも顔を出してもいなかった。もちろん男(!/ところで男って誰のこと?)とのセックスもまだ、周りの友人にはすでに「バイ」としてカムアウトしていたけど、オープンなバイ・ゲイの友達はほとんどいなかった。そんな頃にぼくは「ゲイ・リポート」を購入した。
 この書評のために久しぶりに「ゲイ・リポート」を手に取ったときには、なつかしさと、そして「男性同性愛者が書いたこの本は、たぶん今読むとかなりうっとうしい本なんじゃないだろうか」という危惧が頭をかすめた。というのも、最近は「ゲイ」による自己中心的な無神経な文章(例えばゲイリブに名を借りた無自覚なバイバッシング、)に結構腹を立てていて、「ゲイなんてセクシュアルマイノリティーの中のマジョリティーでしかないのに、その自覚が足りない。いつまでも被害者面するのはやめて欲しいものだ」などと思っていたからだ。
 ここでちょっと説明しておくと、ぼくの現在の性的指向=嗜好=志向=試行は今のところは「綺麗な肌フェチの若専」ということにしています。ぼくの性的欲望のコードにはほとんど性別や性器の有る/無しが関係なく、「綺麗な肌フェチの若専」なのです。(でももうこのレッテルも飽きたわ。次はどんな看板を掲げようかしら。) 自分のことは「オカマ」だとは思っているけれど「男性同性愛者」では絶対にない。しかも「バイ」という言い方は、男女の性別二分法を自明のものと考えそれを特別の関心事とする「ゲイ/ヘテロ」という社会の圧倒的多数派のものさしにに媚びていてどうもしっくりこない。「あなたとは違う」ということを言うために「ゲイ」と政治的に名乗ることはあるけど。(おっと違った、イケるゲイの男の子にはあんまり面倒なことは言わずに「ゲイ」と言ったりもすることもあるのよね!)
 確かに「以前は異性を好きになったことがあると思っていたけれど、それは、異性を好きになる事を当然とし同性愛に対する否定的イメージを持つ社会や周りの雰囲気によっていわば強制されたものかもしれない」--と、言うこともできる。とするならばそれと同様に「現在は同性しか好きにならないと思っているけれど、それは、ゲイのコミュニティーやヘテロ社会の双方に広範に存在する雰囲気(男女のどちらか一方だけを好きになる事を当然とすること。また例えば「ゲイ・アイデンティティーをしっかり持てていないからバイだと言ってごまかしている」のようなバイに対する否定的イメージ、など)によっていわば強制されたものかもしれない--と、言うこともできるはず。実際にゲイフロント関西とかで人と出会ったときには、「バイなの」「あっそう」って感じで普通に人間関係がつくれたんだけど、ゲイ・リベレーションの文脈になるとどうもバイは居心地が悪い。ゲイとしての自分、もしくは自分のセクシュアリティーについて、自信がないからといってバイを攻撃してゲイ・アイデンティティーを獲得しようとするのははっきり言って迷惑だ。だいたい「自分は本当は(一貫して)**だ」などという幻想を無理やりつくろうとするから無理がでてくる。セクシュアリティーなんて同じ人でも年代によって・その時の気分によって変わるかもしれないものだし、とりあえず今は同性が好きだから「ゲイ」と名乗っておこうか、くらいに考えておけばいいのに。それに看板なんて相手によって変えればいいのよ。
 それで「ゲイ・リポート」の話に戻るけど、やっぱり何人かの人が、幼少期の異性に対して抱いた感情を書いていて、そしてそれを性的な感情とは別のものだと捉えようとわざわざしているように、ぼくには思えた。
 しかし実は、予想していたほどの不快感はなかった。どの文章も基本的には「自分のこと」について限定的に書かれていたし、ぼくと彼らは少しアプローチが違うとは思ったけれど、例えば「ゲイ」というレッテルを引き受けないことを「当事者性を引き受けていない」などと言ってしまうような傲慢さやゲイ中心主義、攻撃的な言い方がほとんどみられなっかたのはとてもよかった。
 さて、この、ものいいの丁寧さこそは、「ゲイ・リポート」を読み返してみて一番楽しかったことです。ぼくも、ゲイ・コミュニティーにデビューしたての頃は、自分を常に相対化して、人との距離を意識しながら「ぼくはこう思うけど、あなたはどうなの?」という感じで、すごく丁寧に話をしていたような気がする。他者を求めるということ、人と出会っていくときの自分との違いと共通点とを探っていくときの、丁寧なコミュニケーションの、楽しさ。それが今では、セクシュアリティーのことコミュニティーのことはたいがい知っているつもりになって、自分のそんなフィルターを通して人を見ていることにさえなかなか自覚的でいられなかったりする。話はセクシュアル・オリエンテーションのことだけじゃない。例えば、コミュニティーに長くいると「ゲイはハウス・テクノが好き」「オカマはスポーツが苦手」などといった、自分の身の周りがそうだということでしかないことを「ゲイは……である」「ゲイ・テイスト」などと言ってしまうとか。自分を中心にして世界を見てしまう悪い癖を持っているのは、何もヘテヘテなノンケだけじゃない。その点「ゲイ・リポート」では、例えば「1番好きなテレビ番組は?」「あなたが寝てみたい有名人は?」などと言った設問の、ゲイを対象としたアンケートの結果を載せるときにも、「テレビは見ない」「そういうことに関心の無い人もいる」ということが自然に触れられていたりもする。「ゲイ」という言葉をキーワードに集まってくる人たちには、仲良しグループとかとは違って特にこれといった共通点はない。その分自分の普通の生活環境では出会えないような人とお話することもある。現実に既に存在する、コミュニティーのそういう側面をぼくは大切にしたいし、またそういう出会いのなかでセクシュアリティーの問題に限らず私たち一人一人が豊かに変わっていくことこそがコミュニティーの楽しみだと思う。これを、「同じ同性愛者に会えてよかった」という話だけで満足してしまうのはもったいない。
 あと、セックスワークについて気になった文章があった。売春(ウリ専)のことを「ひとりよがりのセックス」とし、「金を払った側のしたい放題になる」(いずれもp.252)と書いてある。もちろんしたくない人はセックスワークをする必要はないのだけれど、こういう(ゲイ・ヘテロを問わず存在する)ステレオタイプなセックスワークへの嫌悪観(セックスワークフォビア)を安易に載せるのは、コミュニティーの中で「私たち」を分断する行為だし、ぼくはとても嫌だ。
 というわけで、初めはかなりの危惧を持って「ゲイ・リポート」を読み返したのだけど、思ったほどではなかった。もちろん、いくらかでもオープンなゲイコミュニティーやゲイサークルには必ず一定数のバイがいるし、例えば淫乱にハッテンしまくる人やオネエや障害者やその他いろいろな人たちがいるし、だからこそそこで扱われるテーマは多岐にわたる、ということをぼくなら積極的に肯定的に打ち出すであろうけど、べつにアカーにそのことを求めなくてはいけないわけではない。むしろ、まだ確固としたものができていないゲイリブ初期の本だからなのか、「自分とは違うかも知れない他者との出会い」を丁寧に求める楽しみを再び感じることができたのはよかった。
 思うに、「同性愛者でもないのに、同性愛者の気持ちはわからない(p.379)」などといった甘えた予定調和の愚かさや、いつまでも自分達を「被害者」としてのみ位置づけて何でも「ヘテロ社会」のせいにしてしまいかねない自分の弱さを認めることこそが、ゲイ・プライドやゲイ・アイデンティティーの獲得には本当は必要なのではないか。本質的には「少数派」でしかないすべての人たちのひとりとして、レズビアン・ゲイ・バイ・ヘテロ・その他などといった枠組みからはみ出しながら、立場も生活環境も考え方も違う1人1人が予想外に出会っていくことを楽しむこそが「クイアーな出会い」であり「ゲイになろうとすること」なのかも知れない。

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特集 :「クイア」ーについて考えてみよう!
よければここも覗いてみて下さい。

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