ぽこあぽこ12号 掲載テキスト集 |
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最近はときどきセクシュアリティー関連の話をするために講演の講師に呼んでいただけることがある。話していると、聴衆は私の言っていることを、「学習」しているような感じを受けて、なんともやりきれない思いがする。講師である私の発言は正しいことであり、その正しいことを理解し、納得しようとされるのは、非常に気持ち悪い。「私の言っていることなんて、私個人の考えにすぎないんだよ、『バイセクシュアル』で、過激派で、コミュニティーでも異端である私が全てじゃないんだよ」とは必ずいつも冒頭に言うのだけれど、みんな私の言うことを信じる(ような素振りを見せる)んだなあ、これが。
この力関係がどうして生じるのか、ということを考えてみた。セクシュアリティーに関連する話を考え、人と話す機会が本当に少ない(と本人は思っている)ということが、大きいのかもしれない。ホモに会ったのは初めて(!)、性指向や性自認・性別違和の話を聞くのも初めて、こんなに明け透けに性の話をする人に会うのも初めて、と、本人が感じるかもしれないということ、聞いたこともない、考えたこともない話で、言葉の定義からして教えてもらわないと話が理解できない、だから、「教えてもらう」という権力関係が生じるんだ、差別をなくしていくための過程としては仕方ないよ。
というのは、本当か?逆ではないのか。「教えてもらわないと分からない」というのは、自分では考える気はありませんよ、あなたと向かい合うつもりはありませんよ、という宣言ではないのか?自分では考える気がなく、マイノリティーが自分の生活と時間をかけて、膨大なコストを支払って、やっと獲得した財産(考え方や言葉、知識など)を横取りしたいだけではないのか?
なるほど、とハタと気付いたのだ。だから私はお金をもらえるんだ。私の話を一方的に消費するその代金として私の講師料は支払われているんだ。
しかし考えてみればみるほど「この構図」への嫌悪感がわいてくる。
思い出すのは10年以上も前のこと。ある社会問題と取り組む運動団体の内部で起きた女性差別を巡る話し合いを数カ月に渡って続けていた時のことだ。その話し合いの場では、何人かの女性の人が非常に激しくその場にいる男性たちを批判し、参加した何人かの男達が自分の差別性についての「自己切開」を始めていた。その時にぼくが一番こたえたのは、「女性差別をなくそうとお互いがしている、今、この話し合いの場所こそが、もっとも激しく女性差別が行われている場所だ」という指摘だった。わざわざ男性の参加者に対して、いちいち丁寧に「何が差別か」ということを懇切丁寧に説明し、説明されても分からない人に対しては怒ったり別の方法を考え、男性の参加者の発言にもいちいちちゃんと応対をし、などと、女性の参加者は自分の膨大な時間とエネルギーを費やしていた。もちろん男性の参加者一人一人も自分の感じたことを言葉にしようとし、話し合いの場の設定自体も双方の合意の元で行われていたのも事実だ。しかし、当たり前のことが当たり前でない状況を変えるために被差別者が自分の時間を使うことを強いられる、これそのものが差別でなくてなんであろう。まさに、そういう関係の在り方の中で一人一人の女性参加者は消費されていた、つまり、その場こそが極めて激しい女性差別の場そのものであった。
もう一つ。昨98年の12月5日に変態生活舎が行ったイベント「女?男?いちいちうんざりよ!--性別の二元論を問い直そう!」において、トランスジェンダーとトランスセクシュアルの人の当事者のお話しとしてトランスジェンダーブランチの山本君・森沢さん・井上君を招いて発言していただいた。お話しの内容は、とても激しいもので、自分が受けてきた様々な経験を、本当に一生懸命お話しして頂けた(本号のぽこあぽこに「逃避と怨嗟、展望と受認。」というタイトルで森沢さち子さんの発言内容が掲載されています)。で、私は本当にやるせなかった。何が、どのような状況と社会構造が、彼ら彼女らに、ここまで激しく自己を語ることを強いているのか。「これまで話を聞いてもらえる場なんてなかった、こういう場をつくってくれたヒッピーありがとう」。「これまで話を聞いてもらえる場なんてなかった」!!!!!という状況を創り出しているものは何か、それは、彼ら彼女らの話をちゃんと聞かずちゃんと向き合ってこなかった彼ら彼女らの友人達の在り方であり、自分の生活の中で、横に、目の前に、いる人の話をちゃんと聞かずちゃんと向き合ってこなかった「私たち」の在り方ではないのか。
マイノリティーが話さざるを得ない状況をつくっておいて、「さあ、お話し下さい」「話したいのなら聞いてあげる」ではないでしょう。
自分の日常で、人の話をちゃんと聞くこと、他者とちゃんと向き合うこと、自分が行使している権力にちゃんと責任を持つこと、そういうことをしないでも済むのがマジョリティーであり、差別者だ。女性に見える人の発言を無視し、女性の雇用を拒否し、男女別の制服を強い、戸籍上の異性間のみを法的に保護し、などといった問題をみてみぬ振りし、それらの構造自体を変えるために努力しないで、「今日はいいお話しが聞けてよかった」「トランスジェンダーってたいへんなんだなあ」などといいながら帰っていくとしたら、それこそが差別の構造、マイノリティーの搾取でなくてなんだろう。
マイノリティーがカムアウトを強いられることこそが差別であり、マイノリティーはカムアウトをさせられることによって常に消費・搾取され続ける。だからこそ、カムアウトするかしないかは本人の自己決定であり、「差別と闘うこと」をマイノリティーに強いてはならないし、「差別と闘うため」にカムアウトすることを強いてはならない。
マイノリティーの差別や消費とは、まず最初にこういうところから始まっている。
京都大学の同和・人権問題委員会が今春に発行する「セクシュアル・ハラスメントの防止のために」と題したパンフレットに、「わたしたちは性的指向による不当な差別や人権侵害のない環境を作ってゆかねばなりません」という文章が明記されることになった。自分がかつていた場所で、たいていいつもは無視される性指向の話が入ったことは、とてもうれしかった。確かに京大ではゲイの企画やレズビアンの企画もしたし、一昨年の総長団交では発言もした。もちろんそれだけでなく、周りの友人知人にはいっぱい話しもしたし、一人でビラも撒いたし、ライブではオカマの唄も歌ったし、考えてみたらかなりの労力を、私は京都の生活圏でホモフォビアの問題化のために支払ってきた。その成果として、少なくとも私の周りではホモフォビア的な発言はもうほとんど聞かれなくなった。京大の中で性的な暴力を問題にし続けてきた人たちも、機会がある度にちゃんと性指向の話を自分なりにしようとして(くれて)いた。私がいろんな人にホモネタを話す時というのもある意味では私は消費されているのだが、いや確実に私の話は消費されているのだが、その私を消費した色々な人が私がいなくてもホモフォビアを自分で問題化しようとし、そういういろんな人の小さな努力が積み重なって大学当局の発行するパンフレットにまで書かれるようになったというのは、わたしがし払った労力に対する報酬としても、うれしいなあ、と思う。
「マイノリティーがマジョリティーに対して話すことを強いられるのが差別であり、マイノリティーに対する消費と搾取である」というのは、全く正しい。しかしこれを、身の周りの生活圏の話にすると、全く別の話になってくる。私が、私の周りの人たちに話さないと自分の居場所がないような気がして、話すようになった、話すことを状況に強いられた、労力と時間を割かざるを得なか
った(そのためにわざわざサークルまでつくったのだよ)、ということは、私が自分のことを振り返れば私が被った紛れもない差別であり、搾取であり、消費である。にもかかわらず、やはりそうしなければ具体的な私の現実は変わりようがないのだよね。ある現実を「嫌だ」と思うものが自分で声を上げない限り、何も変わるはずはない、と書いてもあまりに当たり前すぎて。ホモフォビアは全ての人に刷り込まれているのであって、そのことに気がつくきっかけがなかった人がホモフォビアの存在に気がつかないのはある意味仕方がない。つまりこれはどういうことかというと、「話さざるを得ないこと」「話さないと分からないこと」は私たちが他者との関係の中で生きる現実なのであって、もし私がどこかで、もしくは「今、ここで」誰かと人間関係を持って生活しようとした場合には、避けられないということだ。「搾取されない」「消費されない」ということはすなわち人間関係を持たないこととイコールになってしまう。自分の生活圏をどこに持ってくるかという問いと、自分が誰に話しかけるかということは全く同じ問いだ。だからこそ、「話さざるを得ない」「話さないと分からない」ということが主要な問題なのではなく、こちらが話しかけても「ちゃんと聞こうとしない」「自分で分かろうとしない」ということの方が問題になるのだ。(もしくは、誰に話しかけ、誰と友達になろうとするのか、という選択の問題だと言ってもいい。)
誰かと人間関係を持つということは、消費し消費され、搾取し搾取され、差別し差別される関係を持つということに他ならない。人は自分のこと以外はなかなか分からないものだし、絶対的なマイノリティーなんてそう居ないんだから、相手のことを搾取しないと(わざわざ言ってもらわないと)分からないようなネタなんて、たいがいお互いにいくつか持っているもんだ。
差別とは、なくすものではなく、付き合うものだ。ちゃんと相手を消費し搾取することが必要だ。ちゃんと消費し搾取して相手の経験を骨の髄まで吸い取って自分のものにすることが大切だ。
裏返して考えてみる。「自分から話さなくても済む」ことを指向するということは、権力への指向ではないか。わざわざ自分のことを話して相手に分からせるということをしなくても済むのは、権力者だからだ。そしてそういういわば「『マイノリティーであること』を逃げ口上にした、マジョリティー指向」の最たるものが、嫌いな奴には決して直接話しかけず、上部の・外部・国家などの権力によって「正義」を暴力的に強制(例えば法律)することによって、自分の周りの状況を変えようとする運動だ。あなたの生活圏の中にいる「オヤジ」に、つまり、自分にとってうっとうしくて苦手で嫌いな人に対して、あなたは自分の思いを直接伝えることができるか?それができないことの悔しさと怨念を、権力を獲得する運動をすることではらそうとしていないか?苦手な人と向き合わないで済むようにするために政治運動をしていないか?あなたの職場の、クラスの、バンドの、必ずしも特定の問題の活動をする気はないが関心は持ってくれる友達に対して、ちゃんと自分から話しかけているのか?自分の生活圏の中の友人や仲間と向き合おうとせず、被害者意識に凝り固まってタカビーになっていないか?確かに、自分が周りの人に消費され搾取されることを嫌がり、絶対に差別されないでかつ居心地のよい世界を獲得しようと考えたときに、決して自分の周りには話しかけたり働きかけたりしないことは大正解だ。しかしその結果として、相手からも相手にされなくなり、自分の居場所がなくなるのは自業自得だ。
直接自分で相手に対して話しかけ、合意をつくろうとすることが必要なのは、自分の主張内容を絶対化してはいけないからだ。自分の結論を説明も抜きに相手に押しつけようとしてそれが可能であるなら、それこそが権力であり、差別そのものだ。自分から相手に誠意を持って働きかけたにもかかわらず、相手が取り合わなかったり無視したり拒絶されたりしたなら、思う存分非難してもいいだろう。しかし、そういう場合に初めて相手を非難することができるのであり、ちゃんと自分で表現することすらしないで「分かっていない」などというのは、まさに権力者を指向する思い上がり以外の何者でもない。
もしあなたが、今いる場所で、またはどこか違う場所で、誰かとちゃんと向き合って人間関係を持とうと思うのなら、あなたは口を開き、カムアウトし、説明しなければならない。大切な人、友達や、恋人や、同志である(またはそうなりたい)人との関係の中に違和感があるのなら、自分から話しかけて消費され搾取され差別されなければならない。それは「差別と闘うため」ではない。あなたが、他者と関係をつくるためにそれは必要なのだ。
被害者は、運動の中では最大の権力者だ。被害者が「被害者意識」の補完のために運動をする場合、支援者を、運動に心を寄せる友人を、周りにいる人たちを、自分の運動のために「手足のように」利用し搾取するのが当たり前だと思い込みかねない。自分の被害の救済のために支援者や周りの友人が時間とエネルギーを割くのは当然で、自分のために時間を割かない人は加害者と同じだと切ってしまいかねない。しかし、あなたの周りにいる鈍感な(ように思える)マジョリティーでさえ、例えば強制異性愛社会の中でホモフォビアを刷り込まれた被害者でもあり、自分の問題を抱え生きることに精いっぱいの人たちなのだ。あなたの問題にかかずりあわないといけない義務は、存在しない。それともあなたは、周りの友人が抱える問題の「全て」にちゃんと向き合い自分の時間を割いてきたのであろうか。
実際に何か一つでも現実の力関係・権力関係を変えようとすれば、膨大な時間とエネルギーが必要になることが多い。説明をし、仲間を増やし、交渉をし、ビラを書き、場合によっては集会やデモを開き、などということを本当に行って、本当に何かを少しでも変えようとしたら、自分のただでさえ貴重な時間をその運動のために割かなくてはならなくなり、自分の時間が削られ、場合によっては自分が金を稼ぐ時間や生活する、睡眠するといった時間にまで影響してくることは、ほぼ確実だ。マスコミへの抗議にしろ、性暴力を問う裁判にしろ、ホモフォビアを問題にする人たちが集まれる場所をつくることにしろ、何らかの意味のある活動には当然それ相応のコストがかかる。では誰がそのコストを支払わねばならないのか?
沖縄に米軍基地が集中しているのは私のせいではない。ある職場で戸籍上の女性の雇用が拒否されるのは私のせいではない。日本政府が元「従軍慰安婦」に対してちゃんと謝罪と補償をしないのは私のせいではない。日本で生まれ日本語を第一言語として日常生活を送る日本国籍を持たない人が外国人登録証を常時携帯しないと違法になるのは私のせいではない。トイレが男女別に分かれているのは私のせいではない。セックスワーカーが逮捕されるのは私のせいではない。あなたが性的な暴力を受けたのは私のせいではない。ホモやレズがバカにされるのは私のせいではない。どっかの国の内戦でたくさんの人が死ぬのは私のせいではない。合州国がイラクを空爆してたくさんの市民が死ぬのは私のせいではない。
私は、「男としての責任」を取る意志はありません。私が男としてパスしており、戸籍の記載も「長男」となっていることによる大きなメリットを受けながら生活していることはよく分かっています。一部の人がそのメリットを受けられないということも、紛れもない事実です。わたしは、そのような社会的な権力関係は間違っていると考えていますので、場合によってはその変革のために自分の時間を使うこともあります。しかしそれは、私が男であるからでは決してありません。わたしは「自分が性別違和を持っていないこと」でメリットを受けているという事実を理由として、自分の時間を使って性別二元論の社会と闘う運動を組織しなくてはならないとは思いません。私は、わたしが直接の加害者であった可能性がある性暴力以外の性的な暴力の責任をとるつもりはありません。私は日本政府の方針に責任をとるつもりはありません。(**注1)
そのかわり、私は、自分のしたこと、やらなかったこと、そしてやりたいこと、つまりは自分の人生に責任をとる意志があります。私は、私が直接の加害者である可能性があったり、私が自分で行ったことにはちゃんと責任をとるつもりです。自分が直接行った権力行使の内容と結果には責任をとります(**注2)。私が任意で参加しその意志決定に関与している組織・団体の活動には、もしその団体に参加し続けて活動をし続けるのであれば、運営の仕方から主張内容、その他各種批判に対して責任をとります(**注3)。私がいる場所で起きたことには、できる限り責任を持って関わっていきたいと思っています。
「男だから」「日本国籍を持っているから」という理由で自分が運動を「しなければならない」とは思いません。しかし、沖縄に米軍基地が集中しているのはおかしいと思うし、女性の雇用拒否も不当だし、日本政府は元「従軍慰安婦」に対して国家として謝罪と補償をするべきだと私は思います。外登証の常時携帯義務は不当だと思うし、男女別のトイレは再考すべきだし、セックスワーカーが逮捕されるのは間違っているし、性的な暴力はなくしたいし、ホモやレズがバカにされるのはよくないと思います。内戦で無意味に多くの人が殺されていくのはなくしたいし、合州国のイラク空爆はやめるべきだと考えています。でも、私には時間が限られています。ここにたまたま例示したいくつかのうちのたった一つですら、本当に取り組もうと思ったら一生かかるかもしれません。ましてや全てを自分で取り組むには時間がありません。だから私は、自分にとって感心があったり切実だったり「やりたい」と思うことに時間を割きます。私の個人的な人生にとって大切な人、たまたまもしくは意図的に自分の横に周りにいる人との関係の中でもし必要なのであれば、まずそのために自分の時間を使います。私が誰かと人間関係を持つということは、その人を搾取消費差別するということです。確信犯として差別しちゃんと消費した上で、もし必要なのであれば「一緒に」運動を組織することは、もしその人と人間関係を維持したいのであれば、必要とされる条件だと私は思っています。私は、「あなたの問題」にはちゃんと向き合いたいと思っていますが、そして場合によっては自ら表現したり運動を呼びかけることもないわけではありません。私にはしたいこととするべきことがありますが、「男」「日本国籍保有者」つまりは「マジョリティー一般」「差別者一般」としてしなければならないことがあるとは思いません。
![]() では、「マイノリティ」はいっさい、誰に向かっても語るべきではないのか。表現すべきではないのか。いや、そうではない。「マイノリティ」は、「マイノリティ」に向かってこそ、おおいに語るべきなのだ。語り合い、「マイノリティ」として括られた者どうし間にもある〈差異〉を浮き彫りにしていくこと。そして、その〈差異〉をてことして、差別によって埋もれた〈自己〉を発掘していくこと、それこそが今、必要なことなのだ。 (鄭暎惠・「アイデンティティーを越えて」・岩波講座現代社会学15「差別と共生の社会学」に収録・1996) |
私にとっては、語りかけるべき「マイノリティー」というのは、ゲイでもバイでもレズビアンでもない。私が語りかけたいと思うのは、お互いがお互いの問題に共に取り組もうとする人のことだ。その人のステイタス・属性・アイデンティティーがどうであるかということは、あまり関係がない。「私たち」が共にいることの困難さを承知の上で、自分でコストを支払う人のことだ。現在の自分の生活や生き方を守ることに熱中するのではなく、逆に問い直し改めることをいとわない人、自分の関心領域ややりたいことの内容・優先順位を変えることもいとわず、自分も当事者として問題に関わろうという意志のある人にこそ、話しかけたいと思う。プロジェクトPが正式名称を「レズビアン?ゲイ?バイ?ヘテロ?......?生と性はなんでもありよ!の会 プロジェクトP」として「ヘテロ」を明示的に記述するのは(場を、オープン・ミックス・パブリックな形にして特定に人の私物化を許さないようにすることと並んで)私にとっては絶対にゆずれない一線だった。ただ問題は、そういう形でこちらがコストを支払っているということに気付き応えてくれる人がどれくらいいるかということだ。
自分の周りにいる人が、色々話しかけた人が、自分にちゃんと向かい合ってくれないと感じている時、話が大きくなって「マイノリティーだ」「マジョリティーだ」とか「差別だ消費だ搾取だ」とか「当事者主義がどうだ」とか、目の前にいる相手のことではなく、一般的な言い方が出てきてしまうことが、私の場合は時々ある。鄭暎惠さんのこの文章には、実は強く共感する。と同時にすごく怖い感じがするというのは、たとえば私がこの文章の様な考え方を、目の前にいる人に対して勝手に「マジョリティー」というレッテルを(口に出さずともいつのまにか)張り付けて向き合ったり話しかけたりすることをしないで済む口実として利用しかねない、私自身の中にもそんな弱さがあるなあということも知っているからだ。
(**注1)
「日本」という国家も確かに一つの組織です。しかし私は「日本国籍を持つ日本国民」としての責任をとるつもりはありません。私は「その組織」に参加するかどうかを尋ねられたことはないのです。実際「私が意志決定に関与している」というには、あまりに規模が大きすぎます。万が一私が国会議員にでもなったり、ベストセラー作家だったり、日本有数の会社の社長だったり、政党の役員だったりしたら話は別でしょうが、実際に私の意志を国家・政府の方針に反映させるための手段を現在は十分に持っているとは思えないからです。だから、「日本国籍を持つ日本国民だから」という理由で国家の方針に責任をとるつもりはありません。(しかもそれは国民国家意識を強化してしまう!)
(**注2 )
学校の教師なら自分の授業の内容に責任があるし、公務員は自分が行った決裁に責任があります。また、各種社会運動団体での活動や表現活動なども、その人の行う権力行使です。
(**注3)
私は私が任意に自分の意志で参加している団体(現在なら例えばゲイ・フロント関西やプロジェクトPの活動、過去においては例えば吉田寮自治会や釜ヶ先越冬闘争支援京大学生実・西部講堂連絡協議会など)には、そこに参加しているものの一人として責任をとる意志があり、かつそうしてきたと思っています。これらの団体の活動に対する批判があったときに、それを黙殺したり、後回しにしたり、自分の都合のいいところだけ採用したりしたことはない(つもりだ)し、最低限必要な対応ができるまでは活動をとめることもしてきました。特定の人脈によって誰かの参加が妨げられたり、また常に一方的に特定の人脈に他の人を付き合わせるといったような会内の階級の存在を許すつもりはありません。そういった内部の権力関係があるような団体が、いかに大きな、重要な運動を展開したとしても、そんなものはなんの意味もないからです。会の内部に権力的な上下関係があったり、誰かの人脈に付き合わされる、誰かの場にまぜてもらうような力関係を強いられる、そういうことこそが第一の、そして最終的な解決されるべき問題だと私は思っています。もし、平等とか人権とかいった「社会的な言語」を使って運動するのであれば、まず会内で、そして会の周りの人たちとの間で、そういう権力への欲望を問題にしていくことが全ての前提として必要なことです。会の在り方を巡る問題が解決しないまま、対外的な活動をすることは原則としてはあり得ません。もしそうでないようならば、そんな運動は単に仲良しグループが自分たちの権力奪取のための成り上がりを目指しているにすぎないからです。
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このテキストは、「ぽこあぽこ 12号(1999年発行)」に掲載されたテキストをWEB用に掲載したものです。
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