ぽこあぽこ12号 掲載テキスト集

 

バイセクシュアルは これまで
どのように言及されてきたか(抄)

日比野 真

 

 何かよく分からないことがあった時、自分の思いがなかなか言葉にならないとき、自分の考えていることが正しいのかどうかよく分からないとき、そんな時にとりあえず本屋に行って関連する本を探してみたりしませんか?一般向けに販売されているものは、それが大手の流通ルートにのったものであれミニコミとして流通するものであれ、少なからぬ影響力を持っています。特に、性指向に関連する書籍は数年前には数えるほどしかありませんでした。そんな時代においては、リベレーションや学問研究上においてなされる、数少ない貴重な発言・論理構成・言葉などが、ダイレクトに受け手の1人1人に入っていくことも多かったのではないかと思います。ここでは、主にリベレーションの中において、「バイセクシュアル」がどのように言及されてきたかを検討してみます。

 

 1984年に浅田彰さんが出した「逃走論」には、ゲイやバイセクシュアルの話が日常生活の中の出来事の一つとして軽快に書かれています。例えばこんな風に。

 現代のゲイ・ピープルだって、パラノ的な性的分業からの逃走を出発点にしていたはずだ。(中略)むろん、道は平坦じゃない。現在のいわゆるゲイ諸君を見ても、逃走の途中で失速し、かえって細分化した性的役割へのパラノ的固着に陥ってることが多いみたいだ。それどころか、バイセクシュアリティさえ不純だといって切り捨てるホモセクシュアル・エリート主義なんてのもある。これほどパラノ的なものってほかにないんじゃなかろうか。固定した性的役割から逃れ続けるからこそゲイなんだ。そのやり方は各人各様、バイが普通だとは思うけど、たまたまへテロだって構うもんか。
(逃走論「逃走する文明」1984)

 また、現在も浅田さんはかなり活発にレズビアン・ゲイの運動について発言されています。その際に、レズビアン・ゲイのアイデンティティー・ポリティクスは必要不可欠だと述べた上で、必ずその危険性にも触れ、自身のカムアウトもした上でしばしばバイセクシュアルの事に言及しています。

 その上で、しかし、アイデンティティ・ポリティクスの隘路にも注意をしておかなければならない。特にアメリカでは、そういう運動が大きく広がる中で、いろんな問題が出てきたわけです。もちろん、「正常」な社会から抑圧されて、自分たちでさえ認めることができずにいたアイデンティティであるだけに、それをあらためて自認し、社会に向かって公表し、それに基づく権利を獲得していくことは非常に重要なんだけれども、そのアイデンティティというのをあまりに狭くしかも固定的なものとして考えてしまうと、それが外に対し、また内に対して、強い縛りになってしまうということがあると思うんです。
 例えば、わかりやすい話で、バイセクシュアル差別というのが起こるわけですね。バイセクシュアルというのはたくさんいるわけで、僕もそうではないかと思うけれども、(笑)「正常」な社会からは、あなたはアイデンティティにおいてはへテロセクシュアルなのに、火遊びでゲイやレズビアンのふりをしていると言われ、ゲイやレズビアンからは、あなたはアイデンティティにおいてはゲイでありレズビアンであるのに、「正常」な社会に媚びてへテロセクシュアルのふりをしていると言われて、どこにも行きようがない。(笑)つまり、へテロセクシュアルとしてのアイデンティティももたない、といってゲイやレズビアンというアイデンティティにも縛られたくないという、バイセクシュアルの人たちの行き場所がなくなってくるということがあるわけです。それで、ゲイ&レズビアン&バイセクシュアルというふうにくっつけたりするわけだけど、そうしていくとまたきりがなくなるんですね。
 他方、今度は内側に向かっていくと、例えばゲイと言いレズビアンと言ったって、そこにいろんな他の差異がインターセクトしてきて、問題が複雑になってくる。経済的な差異、人種的・民族的な差異、あるいはHIVに感染しているかどうか、その他さまざまな差別の軸が入ってくると、単純に性的アイデンティティだけで物事は割り切れなくなって、ある軸においては被差別者であるのが別の軸においては差別者にもなるという錯綜した状態が出てくるわけです。そうすると、例えばハイチ生まれでカラードでHIVポジティヴの貧しいレズビアンのことは、ハイチ生まれでカラードでHIVポジティヴの貧しいレズビアンにしかわからないとか、そういうことになってくるわけで、レズビアン一般とは言えなくなる。それを最終的にぎりぎりまで突き詰めていくと、私のことは私にしかわからないということになりますね。しかし本当は、私のことは私にはわからない。私のアイデンティティは私にとって巨大な謎であって、そのことがコミュニケーション--とりわけ性的コミュニケーションの基本だと言ってもいわけですよ。
 だから、ある段階でアイデンティティを明確にしておくことは必要なんだけど、それが外に対し、また内に対して、あまりに強い縛りになってしまうと、本来的な性の開放性や多様性を考えにくくすることにもなりかねない。その中で、むしろ、「クィア」という言葉が出てきたわけです。「クィア」は「ストレンジ」に近いですから、あえて日本語で言えば「変態」だと思いますね。
(現代思想臨時増刊号収録「レズビアン/ゲイ・スタディーズ」1997)

 浅田さんは自身がバイセクシュアルであることも何回もはっきりと言っています。例えば「6〜7割方ヘテロ、4〜3割方ホモのバイセクシュアルというところじゃないか(「ゲイの11月祭天国!」報告集・プロジェクトP発行・1995)」「僕はしいて言えばバイセクシュアルということになるでしょうから(「実践するセクシュアリティー」アカー発行・1998)」など。私には、こういった浅田さんの態度は、自分の当事者性をちゃんと引き受けた上で、自分の場所で自分の責任と方法で、リスク(メジャーな世界でヘテロでないと言うリスクと、ゲイでないと言うことでゲイコミュニティーから受け得るリスク)も引き受けつつ、性別二元論に基づいて異性愛を強制する社会と対峙しているように思われます。

 ところで、伏見憲明さんは今はなき雑誌「アドン」の対談においてこんな風に発言しています。

 まず、いまは自分自身を問い、そこから言葉を作っていくことからしか始まらないというのが僕の認識です。自分のことを「80パーセントはへテロで、20パーセントはホモなんです」っていいかたをする人が、第三者的な立場で思想や海外の知見とかを披露してゲイを説明してくださるんだけれども、もし、その人が20パーセントのホモセクシヤリテイをかかえているんだとしたら、ホモセクシユアルな欲望自体がこの社会では抑圧されているわけだから、その20パーセントの当事者性の部分で語るってことがないと、なんで、この人は語ってるんだろうという気がしちゃうんです。そのことを素通りしていること自体差別を体現しているんじゃないかと。厳密に100パーセントのゲイじゃなければ、ゲイとして語る資格がないとか、ゲイのことを語っちゃいけないとかはないんですし。僕だって100パーセント自分がゲイかどうかよくわかんないとこもあるわけですし。なんか、自分を棚上げにして、やたらアカデミックに語ってみせたいというのは、ダサイなあ。(中略)まあ、最終的にはそういう人たちと僕の目指していることは一致するんだけども、ただ、戦略論、戦術論の問題としては、性的アイデンティティの解体ばかり先に持ってこられても困る。今は、ゲイっていうところで一度括らない限り、状況は動かない。最近、「アイデンティティをふりかざす運動からマイノリティ内部の差異の政治学へ」みたいなことをいう方がいらっしゃるんだけども、今、ゲイっていうアイデンティティをやっと組みかけてるところなのに、そんなことを安全圏から偉そうに言われちゃうと、今まで積み重ねてきたものが全部、ほどけちゃうじゃないですか。思想として、それが正しくても、当事者性を引き受けてない人がこういう状況においてそれをいうってのは品がないなあと思ってしまう。
(「アドン」1995年12月号)

 私には、この伏見さんの主張は、「同性とされる人」との関係が抑圧されること「だけ」が中心的な問題である人(そういう人はたいていゲイというアイデンティティーを引き受けることができる)の都合のために、それ以外の課題(例えば「ゲイ・アイデンティティー」「ゲイ・イメージ」の確立による新たな規範化の危険性、性別の二元論を中心/前提にして性指向を考えることの弊害など)を問題化するのを後回しにせよと言っているようにしか思えません。バイセクシュアルの存在によって明らかにされる独自の問題領域の存在を認めず、ゲイの問題の下位にバイセクシュアルの存在を位置づけています。
 例えば私の場合は、自分の当事者性を引き受けるからこそ、決して「ゲイ」とは名乗らないし、むしろ「私はゲイではない」と言うのです。

 有名どころで「動くゲイとレズビアンの会(アカー)」はバイセクシュアルをどうみているのでしょうか。
 アカーはご存じの通り「同性愛者のアイデンティティーの確立」に非常にこだわる団体です。そして、バイセクシュアルのことには公式にはほとんど言及しません。そして結論だけ言ってしまえば、バイセクシュアルを公式には肯定も否定もしない、バイセクシュアルに言及しないことで無視する、「(男性)同性愛者のこと」だけをことさら言い続けるというのは、バイセクシュアル男性を「いないこと」として扱うことであり、バイセクシュアル・フォビアの現れだと私は思います。こういったアカーの態度は、残念なことに、強制異性愛社会の中で同性愛者は存在しないものとして扱っているやり方ととても似てしまっています。

 これはとても大切なことなのですが、実際、既に「私たち」が生きている「ゲイコミュニティー」「レズビアンコミュニティー」は決して同性愛者だけで構成されているのではありません。例えば「ゲイ」と名の付く場所、ゲイバー・ゲイのクラブ・ゲイのイベント・ハッテン場・ゲイ雑誌の投稿欄・ゲイサークル・「レズビアン・ゲイ・パレード」そして国際レズビアン・ゲイ連盟(ILGA)などの全ての場所に、昔からバイセクシュアルは存在したし、今もいます。レズビアンと名の付くところも同様です。バイセクシュアルをゲイやレズビアンのコミュニティーが受け入れることが必要なのではありません。バイセクシュアルが既にここにいるという事実を同性愛者が認め、同性愛者を中心にした作風を改めることが必要なのです。同性愛者だけがホモフォビアの被害者ではないのです。  参考までに、アカーがバイセクシュアルに言及した数少ない例を見てみます。

 「性的指向」は人の性的意識(性欲、恋愛感情など)が同性に向かうのか、異性に向かうのか(あるいはその両方に向かうのか)を意味する言葉です。「性的指向」が同性に向かう人を同性愛者、異性に向かう人を異性愛者(両性に向かう人を両性愛者)と言います。(中略)同性愛者(両性愛者)は異性愛者に比べて数は少なくても、どこの社会にも、いつの時代にも、私たちの周りに確実にいるのです。
(「同性愛者と人権教育のための国連10年」1998)

 Aセクシュアルへの言及がないこと、性別二元論を前提にするという誤りを犯していること(本特集「『女?男?いちいちうんざり!』と言い続けていくために必要不可欠な主張」参照)についてはここでは触れません。日本赤十字社の献血時における問診で「同性間性的接触」と「異性間性的接触」との取り扱いの違いにはあれだけ敏感なのにも関わらず、両性愛(バイセクシュアル)のことはカッコ()に入れて補足的にしか言及せず、同性愛と両性愛との間に格差をわざわざ設けるのは何故でしょうか。

 レズビアンの運動のバイブルともなった掛札悠子さんの「『レズビアン』である、ということ」ではバイセクシュアルはどう書かれているでしょうか。

 ただし、今書いたことは「人間は本来バイセクシュアルである」と簡単に言ってしまうこととはまったく違う。私がこれを書いている今の日本の状況において、異性愛者である人が「人間は本来バイセクシュアルである」と言うことと、同性愛者である人がそう言うこととの間に大きなへだたりがある以上、安易にこう言ってしまうことはできない。
 なにより自省をこめて書くのだが、同性愛者が「人間(つまりは自分のこと)は本来バイセクシュアルである」と言うときには、自分のホモセクシュアリティから自分の目(他人の目ではない)を意識的にそらそうとする意図が少なからずあるように思う。それは、同性愛者としての自分が今抱えているさまざまな問題とは異なる次元に目をそらそうとする意図である。そこには次のような意味がある。「自分も異性とだってセックスしようと思えばすることができる(にちがいない)。今はそうしたいとは思わないだけだ」。これは、同性愛者が自分の現実から逃げるために利用するもっとも効果的ないいわけである。
 (中略)
 誤解のないように言っておくが、バイセクシュアリティについて語るな、などと言っているわけではない。バイセクシュアリティは存在しないと言っているわけでもない。現時点では異性愛者と同性愛者の間でこの言葉の意味が大きく違うということと、その違いが映しだしている、両者の間の今のところ無視することのできない立場の優劣が問題なのだということを言いたいのである。この優劣がある以上、簡単に「人間バイセクシュアリティ説」ですべてをかたづけることはできない。
 このことをふまえたうえで、「レズビアンである」ということは、その人が「レズビアンであつつづける」ことを意昧しないと私は考えている。ある人の、あるときの状況を指して「レズビアンである」と言うことができるだけだ。こう定義すれば、生まれてから死ぬまでずっと「レズビアンだった」人は当然のこと、バイセクシュアリティという逃げ口上に頼りながら、結局「レズビアンだった」人も、今はレズビアンだと思うけれども、過去、たしかに男性との間に親密な関係をつくろうとしたことがあるために、今ある「レズビアン」(これは肯定的に自分を名づける意味での「レズビアン」である)というラベルの定義では逆に自分の過去を抑圧し、「男とつきあったのはまちがいだった」と思いこまざるをえない人もふくみいれることができる。もちろん、それでもバイセクシュアルだという人はいるわけだが。
(「『レズビアン』である、ということ」1992)

 ここで主に言及されているのはバイセクシュアルのことではありません。自分の都合でバイセクシュアルを名乗り、バイセクシュアルの看板を利用して自己保身を図ろうとしている、自分で開き直れていない(それが言い過ぎなら、自分を十分に受け入れられていない)レズビアンのことが言及されているに過ぎません。バイセクシュアルのことが「それでもバイセクシュアルだという人はいるわけだが」と補足や付け足し程度しにか取り上げられていないのは、この本が、バイセクシュアル(の女性)のためではなく、レズビアンが自己を確立したり自分に自信を持ったりその権利を主張するために書かれている以上、仕方のないことでしょう。
 一般的な話としてですが、「同性愛者」は実に頻繁に「バイセクシュアルについて」発言します。にも関わらず、たいていはこういった「バイセクシュアルの看板を利用している同性愛者」のことがメインに言及されているので、バイセクシュアルたちは自分たちの在り方に自信を持てなくさせられていると私は思います。「バイセクシュアルについて」言及はするくせに、実際に目の前にいるかもしれないバイセクシュアルの事には興味がなく、ちゃんとバイセクシュアルのことを知ろうとしない態度は、私には不思議です。(特に「レズビアンコミュニティー」においては、バイセクシュアル女性はその場のマジョリティーであるレズビアンに対して何度も何度も話しかけ、説明し、理解させようとしてきた歴史があるということを忘れてはなりません。働きかけもせずに文句を言っているのではないのです。)同性愛者のアイデンティティーの確立のためにバイセクシュアルをだしにし、バイセクシュアルを利用するのはいい加減やめて欲しい。もしバイセクシュアルを引き合いに出すのであれば、「(同性愛者とは別の独自の問題をも持った存在としての)バイセクシュアルが自分に自信を持つには何が必要なのか」についても自分で考えた上で、そのことにも配慮して発言して欲しいなあと切に思います。
 先述のように「レズビアン・コミュニティー」では「バイセクシュアル問題」(実は私から見ればバイセクシュアル・フォビアの問題)はかなり以前から議論されています。バイセクシュアル自身がその場のマジョリティーであるレズビアンに対して自分から声を上げ、かつそれを受けとめる人も居たからこそ、様々な場所が「レズビアンのための○○」ではなくて「レズビアンとバイセクシュアル女性のための○○」という位置づけがされています。掛札さんが編集されていた「ラブリス」も「レズビアンとバイセクシュアル女性のための雑誌」という位置づけが公式にされており、誌面においてもバイセクシュアルによる発言のために紙面が割かれてきました。
 ところで私は、これまで一度も「ゲイとバイセクシュアル男性の○○」というものにお目にかかった事がありません。

 さて最後は、様々なところで常に民族差別と性差別の両方を問題にした文章を書いておられる鄭暎惠さんです。鄭さんは、様々な発言の中でホモフォビアをしばしば問題化しておられます。私にとっては、アイデンティティーや差別の問題を巡る鄭さんの発言は、バイセクシュアルをどう問題化していこうかと迷っている時にとても参考になりました。

  すべての人は混血である。または、すべての人はバイセクシュアルである−−これは、「すべてのクレタ島人は嘘つきであると、あるクレタ島人が言った」という言説のように、矛盾を含んでいる。すべての人が混血であるならば、そもそも純血など存在しないわけであり、純血がないところには、混血もまた存在しようがないからだ。
 しかし、それでもあえて、混血であることを引受ようとすることは、純血でない自分を受け入れること−−自分の中にある不純性、多元性、複合性、混沌性、外部との連続性、つまり無境界性を引き受けることだ。それが、何よりも純血性の神話を打ち破ることであり、純粋なアイデンティティという概念の上に巣くう差別を、虫食うことだ。「日本人」が「朝鮮人」を差別し、「男」が「女」を差別し、「白人」が「黒人」を差別する−−これはいかにして可能となってきたのか。それは、もともと純粋なものとして存在しえなかった、あるアイデンティティ−−「日本人」「男」「白人」等−−を、武力・教育宗教も含めたあらゆる手段をつかって、政治的に収飲・強化させ、(同じくつくり出された)他のあるアイデンティティ−−「朝鮮人」「女」「黒人」−−より、権力を持たせたことから始まる。自らのアイデンティティを、より優位で安定的なものにしようと、差別という方法が駆使されてきたのだ。
 例えば、アメリカ合衆国において、「黒人」とは誰のことか。決して、肌の色だけで分類することは不可能だ。「黒」と「白」の間には、無限のグラデーションがあり、一見「白人」としか見られないため、「白人」を装いパッシングする「黒人」もいる。一言でいってしまえば、「黒人」の定義など、あってないに等しい。一滴でも「黒人の血」が混じれぱ、その人は「黒人」と見なされる、というトートロジーがあり、その対極には、「黒人」ヘの差別と闘うために、「黒人」であることをカムアウトする政治的「自己申告」がある。そして、何者かが、(その人自身をも含めた)ある人々を、「黒人」と呼ぶ〔アイデンティファイする〕行為こそが、そこに何らかの権力の不平等を含んで/示唆している。
 誰が、何(誰)に向かって、誰を、何にアイデンティファイするのか−−これが、差別の発生においてとても重要な点である。アイデンティファイする権力を、いったい誰が行使するのか。私が何者であるかを決定するのは誰か。私をあるカテゴリーに分類したのは、いったい誰なのか。〃他者を一方的に分類・規定する〃という行為は、分類する側に「普遍」「権威」「正当」の位置を与えていき、そこに権力を握らせる。よって、〃他者を一方的に分類。規定する〃行為は、まぎれもなく差別行為である。「誰でも自分自身のことに気がつく以前に『われ』でないもの、他者がいるという根源的な体験をすでに持っている」とオルテガは言った。そして、人は、他者と自己との「不連続」を知ることで、他者の「残余」としての自己を発見すると、社会学では教えられた。ところが、そこには差別的な権力関係が巣くう、大きなクレバスがあった。「他者」の反対は、単に「自己」なのではなく、「普遍」だったのである。オリエンタリズムやプリミティヴィズムがそうであるように、他者に何者であるかのレッテルを貼る/名前を付ける行為、その行為から既に差別は始まっている。他者を分類し、名前を付けていくことで、自己に普遍の位置を与えることが可能となる。自己に普遍の位置を与えるためにこそ、次々と他者を生み出す、つまり〈他者化〉を再生産し続ける必要があったというわけだ。
(岩波講座現代社会学15・差別と共生の社会学「アイデンティティーを越えて」1996)

 混血の問題とバイセクシュアルの問題は基本的には別の問題なのですが(**注/末尾にあり)、鄭さんの文章を読んだ時にその問題の論理構成が実に似通っていることに驚かされました。100%の同性愛者って何なのか?一度でも「異性」に欲情したりセックスした人は本当の同性愛者でないのだろうか?強制異性愛社会と闘うために「同性愛者として」カムアウトする人だっていたりする。
 最近になってやっと、性別も民族も実は実体の存在しないフェイク(虚構の創りもの)でしかないということ、それ故「私の性別は日本人」「私の民族は男というジェンダー」「私の性別は左翼」「私の民族は過激派文化圏」「私の性別/民族は野球部/オタク/サラリーマン/ミュージシャン/障害者/オカマ」という言い方が実に当を得ていることにやっと私は気がつくことができました。今から思えば、だからこそ、混血とバイセクシュアルの問題化の論理構成が似ているのは当然ということになります。法律などの制度的なことを中心に考える立場からはこういった言説は「不謹慎」なのは承知していますが、アイデンティティーやミクロな権力について考える場合には有効な、そして必要な見方だと私は思っています。そしてこれこそが、セクシュアリティー(最大広義)をテーマにする場合の最大の利点ではないかとも思います。

(**注)
 引用した部分は、一般に向けて公的に発表された本の中の文章なので、それをどう利用するかは読み手に完全にゆだねられている。そのことは書き手ももちろん承知の上だし、だからこそ私はちゃんと正規の代金を支払ってこの本を購入し、確信を持って文章を利用している。書き手と読み手との間での商取引としてはこの点には何の問題もない。しかしながら、主として「混血」の話をテーマにして書かれた部分を、書き手である鄭さんが提示・協議しようとしていた「混血」の問題や民族の問題には一切言及せずに、引用者である日比野の関心領域であるバイネタの文脈のみにおいて利用するというこういうやり方を「搾取」とか「消費」という。

 

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このテキストは、「ぽこあぽこ 12号(1999年発行)」に掲載されたテキストをWEB用に掲載したものです。

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