第15回関西クィア映画祭2022で「ノンバイナリー・ミニ特集」を開催しました。
それにあわせて小冊子(ジン)を映画祭で作成しました。
そのジンに掲載した私のテキストです。
将来の「ノンバイナリー特集」のために
ひびの まこと
今回「ノンバイナリー特集」ではなく「ミニ特集」になっているのには、理由がある。それは、ノンバイナリーについて、その取り上げ方について、充分に映画祭内部で話し合って「これだ!」という感じでちゃんと出せていないからだ。
これから私たちが「ノンバイナリー」を扱っていうくえで、何を踏まえてどんなことを考えていけばいいのか。その参考になればと、いくつかの観点から考えてみる。
【1】歴史的な流れの中の「ノンバイナリー」
いま「ノンバイナリー」という言葉に出会って、「知らなかった!こんな考え方があったなんて!」と心が動かされた人は、是非そのまま前に進んで欲しい。あなたは、とてもいい考え方に出会ったのだから。
でも実は、「ノンバイナリーな生き方をする人」「ノンバイナリーな考え方」は、そんなに新しくもないし、そこまで珍しいわけでもない。
1990年代からクィア系の活動をして来て、つまりLGBTという言葉もなかった時代においても、【「男として生きる」「女として生きる」】以外の生き方をしている人がたくさん居た。その中には、外見が男性風だったり女性っぽかったり、声が高かったり低かったり、口調が男らしかったり女らしかったり、自称が「ぼく」「おれ」「うち」「わたし」「自分」だったり…。人によっては手術を受けている人も、受けていない人も、胸オペだけしていたり、脱毛していたり、髭ぼうぼうだったり、ホルモンしていたりしていなかったり。「ノンバイナリーだ」と名乗ったりはしていなくても、バイナリーな(つまり性別二元主義に沿った)あり方を選択しないで生きている人たちは、たくさんいた。
また私の生活の中でも、「あなたは男なの?女なの?」と聞かれると、やたら長い答えが返ってくる人たちがいた(いまでは、私自身がそうである)。要するに、「男なのか、女なのか」という問いに安易に答えない、答えられない、という事こそが、回答だった人たちだ。確かに、厳しい時代状況の中でその様な『言い方』を強いられていた人も居たことだろう。しかし同時に、全部分かった上で、そういう言い方をしていた人も居たように思う。
例えば、映画祭で2018年に上映した『私の居場所〜新世界物語』(武田倫和 監督)には、「生まれ変わっても、オカマでいい」という人が出てくる(もちろん「生まれ変わったら女がいい」というバイナリーなことを言う人も映画には出ている)。主演のひろこママも上映後のトークで「『男か女か』ではなく、真ん中」と語ってくれた。
こういう言い方をする人たちの存在は比較的知られているにもかかわらず、特に(バイナリーな言説が幅をきかす)セクマイ系の運動の中では、時代の最先端の人たちだとみなされることは少ない。むしろ逆に、「明確に言語化できていない、遅れた人たち」などと扱われることも、多かった。
90年代、「男が好きなの?女が好きなの?はっきりして!」と、バイセクシュアルの本人に対して公然と言うゲイの活動家(伏見憲明)がいた。アカーのメンバーには、「バイセクシュアルは存在しない」と言う人さえいた。「男か、女か」こそが大事なのは、マジョリティー社会だけではなかった。性別二元主義はセクマイ運動の中にも蔓延しており、「バイセクシュアル」を「遅れた人、未分化な人、未熟な人」とみなす人たちがいた。
そして同様のことが、ずっと、ノンバイナリーな人たちにも行われ続けてきた。そんな、バイナリーな、性別二元主義の価値観は、いまを生きる私たちにも影響を与えている。これまでもずっと存在していた「ノンバイナリーな生き方をした人たち」の存在を無視したり軽視する、という形で、私たち自身も「バイナリーな世界観」に加担してしまいかねないことには、強く留意しておきたい。
【2】様々なラベル:「Xジェンダー」「中性」と「ノンバイナリー」
「男か女か」の二者択一を強いてくる社会の中で、なんとか自分のことを説明しようと頑張ってきた人たちがいた。分かり易く「一言で」説明することを拒否し、「いちいち丁寧に長い時間をかけて」説明する、というのが、まず1つのあり方だった。しかしそれでは、「遅れている」「言語化されていない」と未熟もの扱いされることも多かった。バイナリーな世界観の人に分かってもらう/分からせるために、そして自身でも「これでいいんだ」と自信を持つために、「オカマ」「オナベ」「Xジェンダー」「中性」「無性」「Ft系」「ジェンダークィア」などといった言葉がつくられ、使われてきた。それらは完全に同じ内容を指す訳ではないが、それぞれの立場から性別二元主義に抵抗する言葉でもあった。そしていまここに、「ノンバイナリー」が加わった。
分かり易いラベルは、とても強力だ。しかし言葉がラベルになった途端に、「★という人がいる」というふうに属性化(人種化)してしまう危険性が生じる。つまり、「★らしさ」が生まれ、「真の★」を巡る定義の争いが起き、仲間内でのパワーゲームが始まる。歴史的に何度も繰り返されてきたことの、再現だ。こういった争いを避けるために「やっぱり分かり易いラベルを使わない」という選択がある。もしくは、どんどん新しい言葉とラベルを作り出し続けていくという選択も出てくる。なにより、新しい言葉を使うとメディアや社会の注目も得られるしね!
結局こうやって、バイナリーなメディア関係者にも目につくキャッチーな言葉が、社会に流通していく。1人1人の当事者が、自身の生活を改善していくという観点からは、そういうやり方も別にあっても構わない。ただ同時に、多数派によって分かり易い言葉で語られていないものが、また忘れられ、(意図したことではないとしても)ないことに、いないことにされていく。私たちは、そんな現場にいる。
自分の人生のことだけを考えたいのなら、それでもいいのかもしれない。しかし、本当にバイナリーな社会に抵抗したいのなら、自分とは異なる方法やラベルで抵抗しようとしている人たちのことにも、目を向けていきたい。
【3】トランスジェンダーとノンバイナリー
「ひっぴぃ♪、『Xジェンダー』ってどう思う?MtFじゃなくてMtX。」
90年代、ゲイフロント関西の代表職であり、ゲイフロント関西トランスジェンダーブランチをつくった森田真一(森田MILK)が、いつものように話してきた。ゲイ男性が多数派であるゲイフロント関西について「庇を借りて母屋を乗っ取る」作戦で行くの、と言っていた森田は、自身の私的なメルアドに「gid」を使っていた。
恋愛営業上の理由から男装をしていた森田は、しかし自分のことを男だとは思っていなかった。かといって女性になりたい訳でもなかった。そんな森田が自分のことを説明するのに言い出したのが『Xジェンダー』だった。当時関西のコミュニティーには、「女は女らしく(トランス女性も女らしく)」「男は男らしく(トランス男性も男らしく)」することを強いる/当然視することへの忌避感が一定あり、トランスする先として「男か女か」を選ばない(選ばなくてもいいじゃん)というあり方は、一定の共感を持って受け入れられた。もちろんバイナリーなトランスジェンダーもいたけれど、同時にノンバイナリーなトランスジェンダーだって居てもいいじゃない、ということだ。
まずなにより、「性別とは生物学的な性別のことである」という思い込みをひっくり返したのが、トランスジェンダーの運動だった。まずは性別二元主義を前提とする社会の多数派に「理解してもらう」ためにも、分かり易い「生まれつきの」バイナリーなトランスジェンダーの人たちの話が多用された。コミュニティーをつくり、機関誌を発行し、メディアで訴え、裁判をし、様々な取組をした結果として、2003年に「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(GID特例法)」が日本でもつくられた。当初は「生まれつきだから」「障害だから」という言い方ではあったが、トランスジェンダー権利運動の基本としては「自分の性別を決める権利は、自分にある」「自分の性別は自分で決める」ということだ。バイナリー/ノンバイナリーを問わず、この根本部分が否定されてしまうと、トランスジェンダーのいかなる権利も守られなくなってしまう。
ただ現在でも、GID特例法やGID医療には、性別二元主義が残っている。
●性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第4版)
「(身体的性別と)反対の性別になりたいと強く望み,反対の性別として通用する服装や言動をする」
https://www.jspn.or.jp/modules/advocacy/index.php?content_id=23
●GID特例法
「その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること」
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0100000111_20220401_430AC0000000059
こういった社会状況があるからこそ、医療を受けようとしたり法的な性別変更を望む場合には、性別二元主義的な選択をせざるを得ない場合がある。もちろん、自ら望んでバイナリーな選択をする人もいるけれど、それを強いられている人もいる、という事だ。
だからこそ、私たちは、バイナリーな(性別二元主義的な)選択をする人たちをも含めて「私たち」と捉える視座を手放してはならない。
もちろん先に述べたとおり、性別二元主義の押しつけは多数派社会からだけではなく、セクマイコミュニティー内部にもあり、多くのノンバイナリーな人たちがそれによって苦しめられてきた。「真のTS論争」をはじめとするコミュニティー内部の攻撃や抑圧も、決して半端なものではない。そういった、性別二元主義の押しつけや自明視については、事ある毎に正面から抗議し、抵抗し続ける必要がある。しかし、個人1人1人が、自分の人生のためにバイナリーな選択をすること自体を否定しないこともまた、「自分の性別は自分で決める」を実現するためには大切なことだと思う。
【4】性に関わる様々な課題の中での「ノンバイナリー」の位置
・性役割のノンバイナリー
・性指向のノンバイナリー
・性自認のノンバイナリー
・「男らしさ/女らしさ」「男であること/女であること」の意味は、民族や障害によっても異なっている
(文字数が足らないので本稿では省略)
【5】「私たち」は何と闘うのか
マイノリティーのことをちゃんと説明しようとすればするほど、必ず漏れが出てくる。というか「漏れなく説明する」ということが不可能であることが、よりはっきりする。「私たちは何者か」を説明しようとすると、必ず誰かを置き去りにすることになる。
だからこそ、私たちは、権力構造を名指さなくてはならない。
(「ノンバイナリー」というのは、単なるラベルなのに、そこに構造への「ノー」が書き込まれているところが秀逸だ。ただしそれが英語だというところが、英語覇権/米国帝国主義の反映と実践になり、最悪だ。)
ありきたりだけど、「ノンバイナリー」と掲げる時は、性別二元主義に反対する、「男女という制度」に反対する、そういった目標で集まることが、大切なのではないか。それは「ノンバイナリー」と自認する人たちのことだけを指すのではなく、広くバイナリーなあり方を強いたり自明視したりする世界観に抵抗する人たちを包摂するような、そんな「ノンバイナリー」でありたいと私は思う。(その点で、この小冊子はよく出来ていると思う)
そしてその大前提として、「自分の性別は自分で決める」という根本を実現する、そういうところを引き受ける「ノンバイナリー」でありたい。そういった意味では、「ノンバイナリー」も、アンブレラタームとしての「トランスジェンダー」の一部を担っている。バイナリー/ノンバイナリーを問わずトランスジェンダーの権利を実現しよう。そして、GID特例法やGID医療において性別二元主義が強いられている現在の状況を変えていくために、私たちも出来ることをしていこう。
希望への加担を忘れる事なかれ。
●参考資料
- 母体保護法第28条を削除せよ!
http://barairo.net/works/?p=19 - 女?男?いちいちうんざり?ホントに?
http://barairo.net/works/index.php?p=35 - あなたもトランスジェンダーになれる–もし望むのなら。
性別の自己決定権を確立しよう。
http://barairo.net/special/hippie-special/day6.html
ひびの まこと
90年代に「バイセクシュアル」として同性愛中心主義や性別二元論に異を唱え、今はMtXトランスジェンダーやジェンダークィアを、時にはノンバイナリーを、名乗ったりする。アナーキスト系左派活動家として「クィアとは、性の領域におけるアナキズムのことだ」と主張する。コミュニティー内部の権威主義(学者の特権とか)や、女性差別、日本の民族差別をなんとかしないと、もう未来はないと思っている。
煮干しで出汁をとって盛田の赤味噌を使った味噌汁があればご機嫌。猫と暮らす毎日。
1967年生まれの55歳。
http://barairo.net/
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