関西では、例えば「2001年 夏だ!ストップ性暴力キャンペーン」や、「「みんな」にとって、楽しい映画祭にするために」など、「私たち」の内部・運動内部における暴力や差別の問題への取り組みが、少しずつ行われてきました。
2008年に北海道の洞爺湖でG8サミットが行われました。このサミットに反対する行動が日本でも取り組まれましたが、この時の反G8サミットのキャンプの場(及び、それにいたる準備の過程)でも、同種の取り組みが行われたようです。
このネットワークの人たちが「セイファースペースについての冊子」を創るということで、2年前にお話を頂いて2つほどテキストを書きました。以下はそのPDF版です。
このページでは、【「自分が安全を感じること」と「公平で、不当な暴力や権力がないこと」とは必ずしも同じではありません】のテキストを掲載しています。
「自分が安全を感じること」と「公平で、不当な暴力や権力がないこと」とは必ずしも同じではありません
ひびの まこと(http://barairo.net/)
「社会運動の内部における暴力/権力」と言うと、何を思い浮かべますか?
自分が他のメンバーからされた嫌なことを皆に話したら「それは気にしすぎ」「個人的なことを持ち込まないで」と取り合われなかった時に感じた感覚ですか。それとも、その場に「居させてもらう」ために、いつの間にか「その場のノリ」に合わせてしまっている自分に気付いた時ですか。「やっぱり女はなめられる」と思い知らされた時ですか。自分が暴力を振るわれている時に「面倒なことには関わりたくない」という顔を友達にされた時ですか?「この問題に関わるとヤバイ」と直感的に気が付いて、友人から相談されても聞かなかったフリをした自分がいる時ですか。
女子の話が軽視され無視され続けてきたことの裏返しとして、今度は女子が「私が傷ついた」と言えば誰もそれに反論できないような雰囲気を創ることができた時のことですか?いつもは無視されている自分の意見が採用された時ですか?自分の嫌いなアイツが場に来なくなった時ですか?
自分がクレームを言ってもあっさり無視されたのに、「有力者」やその友人が同じ事を言ったら、急にみんなが「そうだ、そうだ」と言い始めた時ですか。
「この問題」について扱うのが難しく、そして面白いのは、「この問題」が、「私たちが今いるこの場所」の権力(ヘゲモニー)の配置の問題に直接関わるから―言い換えると「この場が誰の場所か(誰にとっての安全か)」という問題だからです。その場で何が暗黙の了解とされているか、を暴いてしまうからです。それは、「ワタシ」と「あなた」とが、どういう力関係の元で人間関係を持つのか、という話にもなります。そして更に、その「場」が誰の労力と支払いによって成立しているのか、という問題にも、直接繋がります。
はっきり言うと、その場の多数派にとってメリットのある告発は、聞き入れられます。その場を創ることに労力を払っている人や、居なくなっては困るような人からのクレームも、もちろん聞き入れやすい。だって、その人たちが居ないとみんなが場からメリットを受け取れないから。
しかし、その場の多くの人にとって面倒な告発は、忌避されがち。何よりその場の中心メンバーに対する批判は、言いにくいし、他のメンバーに言っても聞き流されやすい。それは何故なのか?「その中心メンバーに権力があるから」と答えるのは簡単だ。しかし実際に問題を表面化させてみた時に気が付くことは「その権力を支えているのは自分自身だ」ということ。自分とその中心メンバーとは確かに権力において対等ではない。しかし同時に、場を維持するために引き受けているコストとリスクも、対等でない場合が多い。だからこそ批判の声を上げると「では誰が場を維持するのか」と言われるし、誰もそのコストを引き受けたくないからこそ中心メンバーへの批判は聞き流される。
よりましな場を創るために、「ガイドラインを作る」ということも、私も何度かしてきました(*注)。しかしそれも結局、その場にいる多数派の利害に反しない方向で告発がされている時には有効に機能する(当たり前です)のですが、その場の多数派や場の有力者の利害に反する告発があった場合は、結構簡単に忘れ去られます。
そうなることがほとんどだからこそ、結局多くの場合は、自分がその場での多数派の側になることによって、もしくはその場の有力者と個人的に親しくなることで、自分の身を守ろうとしがち。しかしそれでは、自分は安全でも、ハラスメントが起きる仕組みは何一つ変わっていません。
あなたは、いま誰かに対して「この人の話をちゃんと取り合う必要はない」というような態度をとっていませんか?特に、場のみんなが「その人の話は聞く必要がない」という雰囲気になっている時が、一番要注意です。自分とは意見が正反対の人に対して、自分の意見を直接伝え、話し合おうとしていますか?自分を弱者に相手を強者に一方的に仕立て上げ、それを口実にして話し合いを拒否したり、誰かを排除したりしていませんか?
実際には、自分がどこかに居心地良くいることが出来たり、安全だと感じていたり、自分が面倒だと思う話に付き合わないで済んでいたら、おそらくあなたはその場の「鈍感なマジョリティー」の側、無自覚にハラスメントをする側にいる可能性が高いです。
「自分が安全を感じることが出来ること」と、「その場が皆に公平で、不当な暴力や権力がないこと」とは必ずしも同じではありません。前者を追求するのであれば、自分以外の人がその場でハラスメントや暴力を受けうる構造自体は温存されてしまいかねません。後者を求めるのであれば、私たちは、「みんなにとって、より安全な場所」を創るために、一生コストを支払い続けないといけません。「みんなの場」を維持するためのコストも「みんな」で負担する必要があります。それはおそらく「世間の中でただフツウに暮らすこと」よりは大変なことでしょう。
どちらを選ぶかは、あなた次第です。
(*注)ガイドラインの例
・ストップ性暴力キャンペーン
http://barairo.net/special/sexual-violence/2003-5/
・「みんな」にとって、楽しい映画祭にするために
http://kansai-qff.org/public_comment/minna/
【参考資料】
●プロジェクトPが主催したカフェパーティー「へなへないと」において、1998年に性的な暴力があったことについて
https://barairo.net/special/sexual-violence/henahena.pdf
●「セックスワークの非犯罪化を要求するグループ UNIDOS」の構成員であったブブさんを、京都★ヘンナニジイロ祭のゲストとして迎えることについて
http://barairo.net/works/?p=61
●たとえそこがどこであっても
http://barairo.net/works/?p=30
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